辺りは静まり返っている。 玄関を叩く音も、焦りの滲んだ叫び声も、聞こえない。 僅かに聞こえるのは、双兄と志藤さんの規則正しい呼吸。 「………誰も、いなくなった?」 玄関からゆっくり離れて、室内に戻ろうと振り返る。 その瞬間、何かが目の端に入った。 さっきまではなかった、黒い影。 「………っ」 咄嗟に視界に入った何かの方に、向きなおる。 玄関の隣にある障子で隠された大きな窓。 障子の向こう、さっきまではなかった黒い人影がある。 それは人影とは言っても、2メートル近くはありそうなひょろ長い影だった。 手足がある様子はなく丸っぽいシルエットだ。 「な、誰」 コツン。 障子の向こうから、窓を軽く叩く音がする。 「………っ」 「返してもらいにきました」 しゃがれた低い耳障りな声で、それは言った。 声と言うよりも、金属が擦れ会うような、不快な音。 コツンと、もう一度窓が叩かれる。 「返してもらいにきました」 繰り返し、それは言う。 先ほどと違って、大きな声ではない。 淡々とした、一定のトーンだ。 コツン、また、窓が叩かれる。 一瞬障子を開けたくなる衝動に駆られる。 向こうにいるものは、なんなのだろう。 「返してもらいにきました」 影は動くことはない。 聞く耳を持たなくていいということは分かっていた。 「返してもらいにきました」 「な、何を?」 でも、繰り返される言葉に、つい、聞き返してしまう。 恐怖に黙っていられなくなった、というのもあった。 「返してください」 「だから、な、何を」 「返してください」 繰り返し問いを投げかけても、同じ言葉を繰り返すばかり。 何を、返してほしいんだ。 こいつらに狙われてるのは、順子ちゃん、だっけ。 返せと言ってるのは、順子ちゃんのことなのか? 分からない。 でも、開ける訳にはいかないから、どっちにしろ返すことは出来ない。 「………返せない。帰れ」 「返してください」 「帰れ」 コツン、コツン、コツン、コツン。 「返してください。返してください。返してください。返してください」 決して大きく叩く訳ではない。 淡々と窓を叩きながら、繰り返す。 けれど感情を表さないそれが、逆に一層不気味に感じる。 コツ、コツ、コツ、コツ。 「返して、返して、返して、返して」 コツコツコツコツコツコツコツ。 「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ」 「………いやだっ」 小さく叫んでも、繰り返す言葉も、窓を叩く音も消えない。 「………みなぎ、さん?」 「ひっ」 その瞬間後ろで聞こえた声に、叫びそうになったのを必死に堪える。 声は、すぐ後ろから聞こえた。 後ろを振り向くと、志藤さんが顔を顰めながら半身を起こしていた。 「志藤さん!」 ひとまず窓から離れて、志藤さんに駆け寄る。 志藤さんは痛みを堪えるように眉を寄せ、頭を抑えていた。 「大丈夫ですか?」 「わ、たしは………」 「俺にもよく分かりません。外の結界が破られた、と」 「………そう、か。ここは度会の………」 状況をようやく理解できたのか、周りをゆっくりと見渡す。 ふらつく志藤さんの背中を支えて、なんとか座らせる。 「ここは、離れ?あの音は?」 「………さっきから、続いていて」 コツコツコツコツコッ。 「………」 急に音が止まる。 返してと執拗に繰り返していた声も消える。 「な、に」 ザ、ザ、ザ。 すると、外の砂利を踏みしめる音が僅かに聞こえてきた。 障子から黒い影が右に移動していく。 「………移動、してる?」 ザ、ザ、ザ。 その音は離れの横に周ろうとしているようだった。 部屋の右にあった窓に、一瞬黒い影がすーっと流れていく。 そのまま黒い影は先へ進んでいく。 そっちの方向に、あるのものは。 「双兄!」 黒い影が進む方向は、隣の部屋だ。 隣の部屋にも、窓がある。 「………っ」 隣の部屋に慌てて移ると、部屋の壁にある窓は僅かに障子が開いていた。 障子には大きな影が映っている。 隙間からは、何か黒いものが見える。 部屋の中を、覗きこんでいるようだ。 コツン。 コツン、コツン、コツン。 「返して、返して、返して」 「………」 黒い影を見ないようにして、窓の横に周り込み、障子を閉める。 障子越しにまだ黒い影は見えるが、姿が見えるよりはいい。 「………」 音が止む。 声が、聞こえなくなる。 辺りが、静まり返る。 黒い影が、今度は来た道を戻るように動き出す。 また、玄関に周るのだろうか。 あの声と対峙するのは嫌だなと思った瞬間。 ドン! 「うわっ」 俺が背を預けていた壁が、叩かれた。 まるでどこにいるかが分かっているかのように。 慌てて壁から背を離して、双兄が眠っている部屋の真ん中に駆け寄る。 警戒していたが、それきり音が聞こえることはなかった。 そして、また静寂が戻る。 「今の、は………」 「分かりません。多分、順子ちゃんを狙ってきたものだと、思うんですけど」 隣の部屋でこちらを窺っていた志藤さんが、聞いてくる。 逆隣りの部屋にいる順子ちゃんが気になったが、奥の部屋は開くなと言われている。 奥はより厳重な結界が張ってあるので、襖を開くのはよくないらしい。 この状況でもそれは適用されるのが謎だが、とりあえず結界に変わりはないから余計なことはしない方がいいだろう。 「………すいません、私も」 志藤さんがふらふらと立ち上がって、こちらの部屋に来ようとする。 そして部屋の仕切りの襖のところまで来て、足をもつれさせてよろめく。 「あっ」 慌てて駆け寄って、その体を支えたので倒れ込むことはなかった。 俺が言うのもなんだが、志藤さんも線が細いので俺でもなんとか支えられたのが幸いだ。 「無理しないでください。大丈夫です。多分、俺でもなんとかなります」 「………三薙さん」 志藤さんが申し訳なさそうに眉をひそめる。 多分、この調子なら、なんとか行けるのではないだろうか。 精神力がガリガリ削られるが、力はそう使うものではない。 コンコン。 コンコン。 コンコン。 そう考えていた時に、また玄関の横から、窓を叩く音がした。 咄嗟にそちらに目を向けると、今度は小さな影がいくつもあった。 さっきとは打って変わって、俺の腰ほどの大きさの影が、5つか6つか、それ以上映っている。 「開けてください」 「ねえ、開けて」 「開けて、開けてよ」 「開けて」 「開けて開けて開けて」 そして声も、それに合わせているのかとても幼かった。 子供のようなあどけない声が、笑い交じりに開けてと繰り返す。 志藤さんが俺の腕を掴んでいた手に力を込めた。 「これ、は」 絞り出すような、掠れた声。 俺も志藤さんを支えながら、背筋に冷たい汗が伝う。 休ませてくれる気はないらしい。 「三薙さん?」 「三薙」 「みなぎみなぎみなぎ」 「あけて、三薙」 「みなぎ、いるんでしょう。あけて」 男とも女ともつかない幼い声は、くすくすと笑いながら俺の名前を呼ぶ。 小さい子の声なのに、それは酷く不快に感じた。 「みなぎ、開けてよ」 「開けろ開けろ開けろ」 「返せ!」 「三薙三薙三薙」 「返してください」 混ざり合う声は、不協和音のように気持ち悪い。 目を瞑って、辺りに意識を配ると、綺麗に編み込まれた結界の端が僅かに解かれているのを感じた。 ほんのわずかだが、じわりじわりと結界を解こうとしているようだ。 「結界に、綻びが出ているみたいなので、力を足します」 志藤さんが頷いて、手を離す。 俺は双兄が寝ている部屋に戻って、鞄から札を取り出した。 その一枚を手にして、玄関先に戻る。 「宮守の名において誓う、度会の家を囲う古き守りに我が力を………」 名前を呼ぶ幼い声は不愉快だが、気にしない。 意識から遮断しろ。 落ち着け落ち着け落ち着け。 青い青い海。 透き通る、美しい水。 青い空を映して青く輝く、美しい水。 呪を唱えながら、自分の力を研ぎ澄ます。 札の力を借りて、より大きな力と為す。 そしてたっぷりと札に自分の青い力をため込み、玄関と窓の間の壁に貼り付ける。 「我が力、闇をはじく賽となれ」 綺麗に編み込まれた力に乗せるようにして、自分の力を流し込む。 綻びかけていた場所に意識を向かわせる。 結界を解こうとしていた何かの力が、パシン、とはじかれるのを感じた。 その瞬間、うるさかった声がピタリと止む。 「………」 障子の前にあった影も、消えてる。 僅かにはずむ息を抑えながら、腕時計に目を落とす。 「………後、四時間半」 それでも一時間は経っていたのだ。 長いようにも、短いようにも感じる。 どちらにせよ、夜明けまでは、まだまだだ。 「長いですね」 「すいません、こんな時に、私は………」 思わず漏らしてしまった言葉に、志藤さんが顔を歪める。 唇を噛みしめ、沈痛な面持ちで俯く。 「あ、いえ、気にしないでください!」 咄嗟に声をかけるが、納得してくれる訳はない。 志藤さんは暗い顔のままだ。 何もできない時の悔しさやもどかしさは、よく分かる。 だからこそ、気にしないでほしかった。 志藤さんは、悪くないのだから。 「一緒にいてくれるだけでも、心強いんです。俺が途中でもし力が途絶えたら、その時はお願いします。それまで力を温存しておいてもらえますか?」 なんとか笑顔を作って言うが、志藤さんはやっぱり暗い顔のまま。 気持ちは分かるから、重ねてただ言った。 「頼みますね」 志藤さんは眉をしかめたままだったが、それでも一応頷いてくれた。 「………はい」 でも、本当にいてくれるだけでもありがたい。 夜はまだまだ、長い。 |