「三薙さん、下がって!」
「………っ」

志藤さんが懐から懐剣を取り出し、身構える。
開いた玄関から何かが入ってくる。

「かえせええええ!!」

地を揺らすような低い声と共に入ってきたそれは真っ黒い、二メートルほどの何かだった。
体中を黒い毛に覆われ獣のようにも見えるが、手足はなく巨体を横にして這うように動く。
ただ、頭らしい場所でぎょろりと二つの金色の目が光る。

「来るなっ」

志藤さんが力を纏わせた剣を振う。
すると少しだけ怯んだように動きを止める。
けれどここにいるだけで分かる、強大な力持つものを止めるには至らない。
すぐにまた黒い獣は動き始める。

「早く、三薙さん、逃げて!」

切羽詰まった志藤さんの声に、ようやく我に返る。
扉が開けられてしまったことで、結界は大分弱まっている。
物理的な隔たりでも、それは結界として有効だ。
内と外、人の住む場所と、闇の者が住む場所。
切り分けるための境界線。
扉が開いたということは、その境界線が曖昧になってしまったということ。
闇を招き入れてしまうということ。
けれどまだ、結界は残っている。

「三薙さん!」

必死に力を振いながら牽制する志藤さん。
まだ、獣の動きは鈍い。
志藤さんの力もそうだが、結界も残っているからだ。
それなら、防ぐことはできる。

「宮守の血において命ずる、闇から来たりしもの、我が領域に入ることを禁ずる!」

母さんの札を使い、いまだに僅かに残る結界を補強するために力を乗せる。
黒い獣はその力に弾かれ、玄関先に跳ね返って苦しげな呻き声を上げる。

「ぐぅっ」

なんとか弾き返すことは出来たが、簡易の結界だ。
すぐに破られることだろう。

「志藤さん、次の部屋まで、いきましょう!」
「は、はい」

ひとまず双兄が眠っている部屋まで戻り、襖を閉めて物理的に遮断する。
扉を閉めるという行為だけで、一種の結界だ。
志藤さんと二人、息を弾ませながら座り込む。

「なんで、結界があるから、入れるはず、ないのに」
「鍵が、なんで」

あいつらは結界があるから、玄関を開くことなんてできるはずはなかった。
結界はぴっちりとこの離れ全体を包んでいたずだ。

「な、なんで、どうして、どうしたら、いいんだ」

隣を見ると志藤さんが青い顔で懐剣を握りしめていた。
何度もどうして、と繰り返す志藤さんを見ていたら少しだけ落ち着いてきた。
そうだ、俺もここで取り乱していたら、どうする。
俺は宮守宗家の人間だ。
双兄を、志藤さんを、守らないと。
大きく息を吸って、吐く。
落ち着け。

「志藤さん」
「三薙、さん」

志藤さんの小刻みに震えている手に、そっと触れる。
すると震えがぴたりと止まった。
まだ青い顔で、俺を見下ろす。

「落ち着いて、まだ大丈夫です」

そう、まだ大丈夫。
落ち着け落ち着け落ち着け。
大丈夫。
自分の出来ることを考えろ。
俺に出来ることはそう多くはない。
その中で最善を選べ。

「………とりあえずあちらの結界が破られる前に、こっちにも張りましょう。順子ちゃんがいる部屋はより厳重なものが張ってあるから大丈夫です。俺達は双兄を守らないと」

そうだ。
夜明けまでは後3時間ほど。
それまで耐えきれば、大丈夫。
朝になって双兄が目覚めれば、終わりだ。

「………そう、ですね」
「はい、手伝ってください」
「分かりました。すいません、取り乱して」

志藤さんの目には、落ち着きが戻っていた。
恥ずかしそうに目を伏せて、息を吐く。

「いえ。さっきは守ってくれて、ありがとうございました」
「………三薙さん」
「さあ、結界を張ってしまいましょう」

志藤さんがかすかに笑って、頷く。
俺も緊張が少しとけて、頬が緩む。
志藤さんがいてくれて、よかった。
俺一人だったらきっと混乱してひどいことになっていただろう。

二人で協力して、双兄が眠っている部屋を包み込むように結界を張る。
結界は球体。
壁だけに張ったら、他の場所から突破される可能性がある。
それも以前、学んだことだ。

パン!

張り終わって一息ついた途端、体を貫いた衝撃。
先ほど張った結界が破れられて、家の中に闇の気配が満ちる。
力を跳ね返された衝撃で、その場に座りこんでしまう。

「三薙さん!」
「………くそっ、破られた」

何かがうごめく気配が、襖の向こうから伝わってくる。
それは、すぐに襖に張り付く。

ガタガタガタガタ。

「開けろ開けろ開けろ開けろ!」
「くっ」

黒い獣が、襖を揺らす。
耳障りな声が繰り返し開けろと繰り返す。

カタカタガタカタカタ。。

襖が、何度も何度も揺らされる。
開けられることはないはずだが、それでも薄い壁一枚向こうにはあいつがいつと思うと身が竦む。
つっと背筋に汗が伝って気持ち悪かった。

「三薙さん、下がっていてください」

志藤さんが静かな声で、俺と襖の間に入る。
その顔は落ち着いてはいるものの青く、強張っていた。

「………志藤、さん?」

志藤さんは懐剣を握り締め、立ちつくす。
何度も何度も深呼吸して、自分を落ち着けているようだった。

「三薙さん、あいつらには、鍵は開けられませんよね?」
「………そのはず、です」
「では、開けたのは、あいつらじゃない」

そう、あいつらは強力な結界を破ることは出来なかった。
力で破ったのかもしれないが、そんな気配もなかった。
さすがにそこまで強い力が振るわれたら分かるはずだ。
ただ普通に、ただ自然に、扉は開いた。

「それでは」

志藤さんがもう一度深呼吸をする。
そして襖を見据えたまま、言った。

「それでは、開けたのは人間ですよね?」
「………それ、は」

俺が息を飲んだのが分かったのか、ちらりとこちらを振り返る。
そしてまた前を向いた。

「私は、結界が破れる前に、倒れました」

そう、志藤さんは、結界が破られる前に、倒れた。

「では、私を襲ったのは、結界内の人間です」

ずしりと空気が重さを持つように、部屋の中の濃厚な闇の気配が更に増して行く。
全身の汗が、冷えて指先が冷たくなっていく。

「三薙さんも、気づいてらっしゃいましたよね」
「………」

気付きたく、なかった。
気付きたくなんて、なかったんだ。

結界が破られる前に倒れた志藤さん。
けれど、被害は少なかった。
なぜ、食われ切る前に、助けられることが出来たのか。
ある程度、三つ目神を制御できるのは誰か。
考えれば考えるほど、嫌な考えしか、浮かばなかった。

「………来ます」

カタッ。
スルスルスルスル。

襖が、開く。
人の手によって。





BACK   TOP   NEXT