「………」

志藤さんの手の平が、冷たく、けれどじわりと湿っている。
どうやら、汗を掻いているようだ。

「縁、おいでなさいな」

清潔感のある女性は、穏やかに笑いながらゆっくりとこっちに近づいてくる。
どうしたらいいのか分からず、志藤さんを見上げる。
志藤さんの普段から白い顔は、完全に血の気を失いまるで作り物のようだった。

「縁、お母さんの言うことが聞けないの?悪い子ね」

穏やかな声に急に険が籠る。
細い眉をきゅっと持ち上げて、その清楚な顔立ちが不快そうに歪む。
志藤さんの手が、痛いくらいに俺の手に喰い込む。
どうしよう、天のように志藤さんのお母さんを追い払った方がいいのだろうか。
けれど仮にも志藤さんのお母さんの姿をしたものに、そんなことをしていいのだろうか。

「どうして、お母さんの言うことを聞いてくれないの?お兄ちゃんはいい子なのに。どうして?」
「ちが、違う………。お母さん」

志藤さんが、緩く首を横に振って、一歩後ずさる。
けれど手は相変わらず握られたまま。
まるで縋るようだと思った。
女性はまだゆっくりと近づいてくる。
その表情は先ほどとは違い、すっかり笑顔を失っていた。

「また嘘をつくの?そうやってまた周りの気を引こうとするの?」
「違います、違います違います違います」

志藤さんが首を横に振りながら、また一歩下がって、お母さんから距離を取る。
俺もつられて、一歩下がる。

「悪い子ね。どうしてそんなに悪い子なの。どうして嘘ばっかりつくの。どうして?どうしてお母さんを困らせるの。またそんな嘘ばかりついて」
「違いますっ!」

志藤さんの顔は、今にも倒れてしまいそうなほどに青ざめている。
女性の顔が急に、変わる。
眉間に皺を寄せ、唇を歪め、まるで虫でも見るように嫌悪を全面に押し出す。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌な子!嘘ばっかりついて!お兄ちゃんはいい子なのに!どうしてそんな嘘ばっかりつくの!」
「………嘘じゃ、ないんですっ」

志藤さんの悲痛な叫び声。
聞いているこっちの、胸が痛くなる。
けれど、女性の表情はさらに険しくなり、嫌悪とともに憎悪を滲ませる。
憎々しげに志藤さんが親の敵だというように、睨みつける。

「怖い子。恐ろしい子。ああ、化け物なのね。化け物なんだわ!」
「………っ」

穏やかだった声は憎しみに満ちて、志藤さんを弾劾する。
志藤さんの震えが、手から伝わってくる。
俺は慌てて、ポケットから自分の鈷を取り出して、精神を集中させる。

「この化け物!あんたは私のかわいい縁を食べちゃったんだわ。私の縁を返して。私の縁を返して。かわいい縁を返して!あんたなんて縁じゃない!」

呪を唱えて、鈷に力を纏わりつかせる。
さっきの天は軽く力で祓っただけで追い払えた。
そこまで強い力はいらない。
ただ、素早く力を込めろ。

「化け物化け物化け物、化け物化け物化け物化け物!」
「ちが、ちがう、違う違う、お母さん、違う!」

志藤さんの声は、けれどお母さんには届かない。
こんなに哀しい声に、なんで答えてくれないんだ。
どうして、そんな酷いことを言うんだ。

「この化け物!あんたなんか私の子じゃない!縁を返して!返してよ!」
「あ………」

女性の顔は、まるで、般若の面のようだと、思った。
女性の嫉妬や恨みを象徴する面。
完全に志藤さんのことを化け物として、排除しようとしている。

「我が力、清めとなりて、闇を祓え!」

俺は腕を振りかぶり、鈷に込めた力を女性に向けて放つ。
天ほどの力はないが、それなりの力が女性を襲う。

ざくり。

その瞬間、布が裂けるような音がした。
驚いて、女性をまじまじと見ると、女性の左肩からお腹にかけて斜めに赤く染まっている。
じわりじわりと、そのまま赤が薄いベージュのブラウスが染めていく。
ゆっくりとシャツが裂けたと思ったら、そのままだらりと腕の位置が下に落ちる。
シャツだけではなく、傷口から肉が裂けて、肩と腕が離れていく。
断面からは血が溢れ、赤い肉と白い脂肪と骨が見えている。

「な………」

グロテスクな光景に、自分でやったことなのに吐き気がこみ上げる。
さっき天がやった時はこんなことはなかったのに。
なぜ、肉と血を持っているんだ。
女性は血まみれになり肩から腕が離れようとしても、痛みは感じていないようだった。
憎しみに満ちた声が、更に呪詛を吐く。

「化け物。化け物ね。こうして私を殺すのね。縁を食べて、私も食べるのね。化け物。消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ、この化け物!」

そして目を見開き、口が裂けるのではないかというぐらいに開く。
志藤さんを化け物だと言うその女性こそ、人ならざるものであるようだ。
真実、あれは人ならざるものなのだろうけれど。

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

志藤さんが泣きながら、謝っている。
その悲痛な声で、ようやく我に返る。
最初は事態が把握できなくて呆然としていて、その後は恐怖を感じて、そしてその次にやってきたのは怒りだった。
女性の言葉に、ようやく怒りが沸いてくる。
腹の中がふつふつと熱くなるような、怒りを感じる。

ここに志藤さんを、置いておくわけにはいかない。
これ以上、この優しい人を傷つけるのは許せない。

「志藤さん、行きましょう!」

握ったままの手を引いて、女性が来る方向とは別に走り始める。
志藤さんは引っ張られるがままにされるが、動こうとはしない。
おぼつかない足取りでふらりと傾いて、倒れそうになる。

「志藤さん!」

一旦志藤さんに近づいて、高い位置にあるその顔を両手で掴む。
涙で濡れた頬は冷たくて、潤んだ目も充血して何も見ていない。
それがとても、心が痛む。
しっかりと固定して、俺と目が合うように下げさせる。
その間にも呪詛を吐きながら、女性は近づいてくる。

「志藤さん、分かりますか」
「あ………みな、ぎさん」

志藤さんの焦点のあっていなかった目が、俺の姿を映す。
呆然とした声で、俺の名前を呼ぶ。
そのことにほっとして、焦る心を抑えつけて、なるべくゆっくりと話す。

「志藤さん、あれはお母さんじゃないです。この世界は、現実じゃない。囚われないで」
「………あ、でも」
「この世界にいる人間は、俺と志藤さんと天だけです。今ここにいるのは俺と、志藤さんだけ。あれは、お母さんでもなんでもないです」

志藤さんの目に、少しだけ光が戻る。
血の気を失い冷たくなった頬が、俺の体温を吸って少しだけ温かくなる。
俺のこんな薄っぺらい説得力のない言葉が、志藤さんに届くだろうか。
お願いだから、届いてほしい。
あんな言葉で、傷つく必要なんてない。

「俺は、志藤さんがいてくれてよかった。志藤さんは、志藤さんです。志藤さんは優しい人です。いい人です。俺は、あなたが大好きです」
「み、なぎさん」
「あなたは、優しい、人です!」

胸が熱くなって、声が震える。
堪え切れずに、涙で視界が滲む。
例えお母さんだったとしても、この優しい人をあんな風に言うのは許せない。

「三薙、さん」
「一緒に、ここから出ましょう。あんな言葉に、耳を傾けないで。俺の言葉だけ聞いてください」
「………は、い」

志藤さんが微かに頷いたから、なんとか笑いかける。
すると志藤さんも、ぎこちなく表情を緩めた。
なんとか、俺の言葉は届いたらしい。
頬から手を離して、その手を取った。

「とりあえず、ここから離れましょう。走れますか?」
「はい」

左手では強く志藤さんの手を握り、右手では鈷を握りしめる。
この人を守り通して、天と三人で、元の世界に戻る。
考えれなければいけないことは、それだけ。
余計なことは、考えない。
そんなこと考えているような余裕は、俺にはない。

「じゃあ、行きましょう!」

そのまま走り出すと、志藤さんも今度こそ一緒についてきた。
女性がゆっくりと後ろから追いかけてくるのが、分かる。

「化け物!化け物!化け物!」

一瞬躊躇ったが、走りながらまた呪を唱えて鈷に力を込める。
精神集中が上手く出来ないから、さっきよりはうまく込められない。
けれど、出来る限り素早く、けれど多く、力を込める。

「我が力、清めとなりて、闇を祓え!」

そして振り向きざま、今度は足元を狙って力を放つ。
ざくりと、肉が裂ける嫌な音が耳に響く。
志藤さんの手が、俺の手を強く握る。

俺はもう一度女性を見ることなく、ただ前だけを向いて走った。





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