少女の背中は、熱を持って、じくじくと痛む。
施術が終わって間もない背は、どうやら血が滲んできているようで、脂汗と混じって、べったりとした感触がする。
最近、傷の治りが、遅くなってきているなと、ふと思う。
力の調整もうまくいかなくなってきている。
体の限界が、近づいている。

「大丈夫、栞?」

蹲る少女をそっと腕に抱き締めている少年が、心配そうに顔を覗き込む。
少女はその背にしがみつき、堅くしなやかな筋肉に爪を立てる。
強く強く、爪を立てる。

「しいちゃん」
「うん。栞」

その少年の背中にも、無数に傷があるのを少女は知っている。
年若い少年が、沢山の痛みを背負っているのを知っている。
知っていながら、傷だらけの皮膚に更に傷をつけるように、少女はその小さな爪を立てる。
少年は穏やかに笑いすらして、ただ少女を抱きしめる。

「しいちゃん、痛い、痛いの。しいちゃんが痛いの。痛い」
「うん。痛いね。しいちゃんが、痛い」
「痛い痛い痛い痛い」

じくじくじくじく。
背中が痛い。
体が熱い。
血が流れている。
少女が幼い頃から繰り返し繰り返し、一針一針、丹念に丹念に、刻みつけられる呪い。
成長し、皮膚が伸びる度に、それに合わせ、更に抉り返される傷。

「痛い、よ、しいちゃん」
「うん。うん、栞。しいちゃんが、痛いね」
「うん、痛いの、しいちゃん、痛い」

痛い。
でも、少女は少年に縋りつきながら思う。
これは、私の痛みじゃない。
私が痛いんじゃない。
痛いのは、しいちゃん。
栞は痛くない。
痛いのは、全部全部、しいちゃんが、持ってくれる。

「しいちゃんが、痛いの」

痛いのは、しいちゃん。
痛いのと哀しいのは、全部しいちゃん。

少女は、胸の中で、繰り返す。

私は栞。
私は、笑って、遊んで、たまにふざけて、恋をする、女子高生。

痛いのは、しいちゃん。
栞は、明るく楽しく恋に勉強に励み悩む、幸せな、一般的女子高生。



***




栞は、その部屋の片隅で、座っていた。
肩で切りそろえられた髪と小さな白い顔に浴衣を身に着け、まるで人形のように愛らしい。
その表情も硬質で冷たく、それもまた、人形のように見えた。

「………しいちゃん?」

施術の後に熱を出し、宮守本家の片隅で休まされていた栞は、幼く高い声に少しだけ顔をあげる。
月明かりだけが照らす部屋の入り口の襖から、恐る恐ると、少年が顔をのぞかせている。

「………」

部屋の隅で座っていた栞は、少年、四天に無感情に視線を向けてから、また宙を向く。
熱を持つ背中からじわりと何かが滲み、浴衣の裾から流れ落ちる。

「しいちゃん………、大丈夫?血が、出てる」

四天が驚いたように目を開き、部屋の中に入ってくる。
その言葉に、自分が血を流していることに気づき、腕を上げる。
着せられていた浴衣の裾が赤く染まっている。
どうやら、止血が十分じゃなかったらしい。
ぼんやりと、ただ栞はそれを眺める。

「大丈夫?痛い?」

聞かれて、栞は小作りな顔を少し傾げる。
不思議そうに、瞬きして、四天の言葉を繰り返す。

「………痛い、のかな。痛い、うん、痛い」
「大丈夫?どうしたの?怪我したの?」
「…………」

栞はただ、自分の手を伝う血を、見ている。
自分の血は赤いのだと、そんな当たり前のことを、靄がかった頭の片隅で思う。
返事をするのも、億劫だった。
最近、『これ』が始まってから、何をするにも、面倒になっていた。
話すのも、笑うのも、考えるのも、何もかもが、面倒だった。

「痛い?誰か、呼んでくるよ」

四天は返事をしない栞に怒ることなく、心配そうに部屋を出ていこうとする。
それは、駄目だった。
それをすると、余計に面倒な事態になるのを、栞は知っていた。
だから、面倒だったが、自分より一つ年下の男の子を呼び止める。

「待って」
「え?」
「いらない。呼ばないで」
「………でも」
「いいから」

少し苛立ちを感じて、強い口調になる。
四天はそれで足を止めて、部屋の中に戻ってくる。

「しいちゃん、どうしたの?」

女の子にも見える綺麗な顔に、不安を浮かべて近寄ってくる。、
前はこの子と、遊んだ覚えもある。
たまに本家に連れてこられた時、この子と、この子のすぐ上の兄と、遊んだ覚えがある。
犬の仔のように無邪気にじゃれ合い笑い転げあう兄弟に混じり、一緒に笑った覚えがある。
自分の弟は、隔てて育てられているため、遊んだ記憶がない。
だから、兄と弟が出来たようで、楽しかった。
遠い遠い、昔のように、感じる。

「しいちゃん………?」
「………」

面倒だった。
言うなと言われていた。
自分がされていることは、誰にも言うなと、命じられていた。
でも、ただ、ひたすら面倒だった。
ただ、この自分に構ってくる少年が煩わしくて、仕方なかった。

「あのね、私は、『スペア』なんだって」

だから、つい言ってしまった。
訴えたかったのか、追い払いたかったのか、傷つけたかったのか、栞自身、どうしたかったのか、分からない。

「え?」

四天は呆けたように、声を出す。
栞はその顔を見て、少しだけ楽しくなってしまう。
久々に、楽しいという感情を感じていた。

「私はね、三薙さんと、五十鈴さんの、『スペア』なの」

一緒に転げて遊んだ、栞の一つ年上の少年。
『本物』の彼を、最初は、恨み、嫌いもした。
だが、すぐに何も感じなくなった。

「すぺあ?」

言葉の意味が知らないのか、思い至らないのか、四天は首を傾げる。
だから栞は、丁寧に説明する。

自分が言われたことを。
自分がいないと思って話していた両親の言葉を。
宮守の使用人たちの言葉を。

「代わりのもの、なんだって。お皿、割れたら、代わりの使うでしょう?それなんだって。私は、三薙さんと五十鈴さんが、壊れた時の、代わりのお皿なの」
「………」

四天の顔がさっと、白くなったように見えた。
月明かりの暗がりなので、気のせいだったかもしれないが。

「私は、代わりのもの、スペアで、それで、スペアにならなかったら、すぐに壊れちゃうんだって。出来そこないの、代わり、なんだって」
「しい、ちゃん………」
「私は、ものなの。代わりのものなの」

ものはものでも、かわり。
道具の、代わり。
出来そこないの、もの。

「私は、スペア、なの」

思えば、父も母も、栞への接し方は、弟と違っていた。
必要なものは、全て与えられた。
望むことは叶えてもらえた。
教育も施された。

だが、名前を呼ばれた記憶もそうない。
頭を撫でられた記憶もない。
抱きしめられた記憶もない。
遊びに連れて行ってもらった記憶はない。
それはすべて、ベビーシッターに与えてもらった。
弟にそれが与えられているのに自分は与えられていないのを、心のどこかで羨ましく不思議に思いながら、ただ、見ていた。

当然だ。

栞は、ものだったのだ。
ものに、愛情を注ぐ必要は、ない。

「しいちゃん」

四天が幼い顔を痛みにこらえるように歪め、栞を呼ぶ。
栞はぼんやりと首を傾げる。

「しいちゃんって、誰。しいちゃんって、何。私は、なに。私は、誰。私は、なに。なに、私は、なに」

すべてが遠かった。
痛みも喜びも自分という存在も、ぼんやりとしていて、実感がなかった。

「しいちゃんって、誰」

栞をしいちゃんと、呼んだのは、この少年だけ。
栞と呼べずに、舌足らずに、しいちゃんと、呼んだ。
それは誰。
それは何。

「お父さんもお母さんも、私は、いらない。いるのは、スペア」
「………」
「私は、いない。私は、いらない。私は、代わり、なの。私は、私は、いらない、もの」

自分から流れる血を見ながら、栞は繰り返す。
ああ、でも、血は赤い。
なら、きっと、自分はまだ人間なのだと、そう思う。
まだ、ものに、なりきってはいないのだ。

「痛かったの。でも、誰も止めてくれないの。嫌だって言ったら、怒られた。叩かれた。針を刺されるの。何回も刺された。嫌だった。痛かった」

父と母から離され、怖い大人たちに囲まれた。
意味が分からず怯えて泣いても、誰も躊躇はしなかった。
服を剥がれ、押さえつけられ、背中に何度も針を穿たれた。
痛いと泣いても、やめてと訴えても、栞を取り囲む大人たちは、誰も聞いてくれなかった。
あの時間違いなく栞はものだった。

「でも、どんどん、痛くなくなったの」

家に帰った後、熱と痛みは更に増し、布団に突っ伏して、恐怖と痛みに啜り泣いた。
そして傷が癒えて、記憶も薄れたころに、もう一度それをするために宮守家に連れて行かれた。
我儘を言うことのない栞が、もういやだ、どうしてこんなことをするのだと泣いて喚いて逃げ出そうとした。
そして、父に叩かれた。
衝撃に泣くことも忘れて呆然としていると、腕を掴まれ引きずられ、むりやり、もう一度、針を刺された。
今度は、針を刺される痛みよりも、別のどこかが張り裂けそうに痛かった。

「痛くないの。怖くないの。もう、痛くないの。分からないの。痛いの、分からないの。私は、スペアだから、痛くないの。スペアだから、痛いのは、分からないの」

何度かそれを繰り返すうちに、痛みは消えていった。
恐怖も消えていった。
わずかにあった両親への思慕も、消えていった。
笑うことも、泣くことも、なくなっていった。

「私は、なに」
「しいちゃん」
「私は、しいちゃん、じゃない」

自分という存在が、なくなっていた。

「栞、ちゃん」
「………」

栞という名前も、誰か、意味を持って、呼んでくれただろうか。
それは、誰の名前だろうか。
モノの、名前だろうか。

「栞ちゃん、だよ」

四天は、少し目を伏せて、ちょっとだけ考える様子を見せる。
そして顔を上げて、告げた。

「君は、栞ちゃん」
「………四天君?」
「栞ちゃん」

もう一度、確かめるように、繰り返す。

「痛いのは、しいちゃん」
「え」
「痛いのは、全部、しいちゃんだ」

四天が何を言っているのか分からず、栞が目を瞬かせる。
その顔を見て、四天は少しだけ得意げに笑う。

「僕が、しいちゃんになる」
「なに、言ってるの?」
「痛いのはしいちゃんで、痛くないのは栞ちゃん」

四天は栞の前に座り込むと、血にまみれた手に触れる。
そしてきゅっと小さな手で、握りしめる。

「だから、栞ちゃんが痛くなくても、平気。大丈夫。痛いのは全部しいちゃんだから」

自分の手が血にまみれることを厭わず、四天は笑う。
暗い部屋の中、二人の手が、赤く染まる。

「痛いのは、全部全部、僕が持っていくから」
「四天、くん」

そういえば、と栞は思う。
以前見た少年と、なんだか雰囲気が違う。
幼く無邪気だった少年は、なんだか急に大きくなったように見えた。
どこかは分からないが、何かが違うように見える。

「だから、栞ちゃんは、平気」

四天は、それだけは変わらない無邪気な笑顔を見せる。

「栞ちゃんは、笑うの。笑って、楽しい、皆が、大好きな、栞ちゃん」

笑う。
確かに前は、笑うこともあった。
この家で、この少年とその兄とわずかに遊び、笑いあったこともあった。

「痛くて、哀しくて、すぺあなのが、しいちゃん」

四天が、血まみれの栞の手をごとひきよせ、自分の胸に当てる。
とくんと、鼓動の音が栞の手に伝わった気がした。

「僕が、栞ちゃんの痛いの、全部、持っていくよ」

自分の血がついた四天の手は冷たいが、栞には温かく感じた。
とくんとくんと、鼓動が伝わって、自分の鼓動の音も耳に響く。

「だから、大丈夫」

馬鹿馬鹿しいと、心の片隅では思っていた。
そんなこと言っても、痛いのは栞だ。
四天が、傷を負ってくれるわけじゃない。
でも、それでも、栞の胸には、熱が戻ってくる。
音が、色が、痛みが、熱が、戻ってくる。

「全部、四天君が、しいちゃんが、持って行ってくれるの?」
「うん、栞ちゃんは、大丈夫」

痛い。
体の痛みが、戻ってくる。
この痛みを、四天が、持っていくのか。
そう考えると、ちょっとためらってしまう。
だって、四天にも痛みを与えたいわけじゃない。

「でも、それじゃあ、四天君が、痛いよ?」

栞の言葉に、四天は、得意げに笑う。

「大丈夫。僕は、強いから。誰よりも、強いから」
「………っ」

その笑顔が、言葉が、栞の霞がかった世界を、切り裂いていった。
痛みが、戻ってくる。
血の匂いが鼻をつく。
生きている。
ここにいる。

「………栞は、痛くない、スペアじゃない、女の子?」
「そう。栞ちゃんは、笑っている、可愛い、女の子」

きゅっと、四天が栞の手を、両手で包み込む。

「僕が、しいちゃん、だよ」

栞の胸に、熱が溢れていく。
痛みが、じくじくと、身を蝕む。
でもその痛みすら、今は、心地いい。
だって、これは、しいちゃんの、痛み。
しいちゃんと私は、つながっている。
これは一人だけの痛みじゃない。

「………しいちゃん」

栞は、そっと、大事な宝物のように、その名前を呟く。
四天は、大きく頷く。
頼もしく笑って。

「なあに、栞ちゃん」

それは救い。
それは呪い。
それは鎖。
それは解放

この痛みは、しいちゃんのもの。



***




「ふう」

自室で本を読んでいた四天が、大きくため息をつく。
その顔には疲労が滲んでいた。
この前仕事から帰ってきたばかりだ。
それに、『儀式』の件も進んでいるらしい。
やることは山積。
けれど、その手はいまだ多くを掴めない。

才溢れ、未来豊かな少年。
けれどまだまだ、年若い、力のない少年。

「大丈夫?」
「うん、平気。でもちょっと、膝貸して」

持ち主の許可を取る前に、座る栞の膝に頭を預ける。
自分の前でしか見せない甘えに、栞は小さく苦笑する。
本当に疲れているのだろう。

「どうぞ、四天君。ゆっくり休んで」

だからその頭を撫でて、労わる。
愛しい少年の痛みも疲労もすべて引き受ける。
痛みも哀しみも、今だけはすべて栞のもの。

「ありがとう、しいちゃん」

四天は栞を見上げて、穏やかに笑う。
その笑顔は幼いあの日に見た、頼もしい笑顔そのままだ。
あの時すでに四天は、兄と自分の未来を、知っていた。
そして、苦しみ、もがいていた。
兄を人一倍慕い愛していた少年は、運命に、家に、何もかもに絶望を抱いていた。

だから、あの時から二人で一緒に育ててきた。
痛みも苦しみも悲しみも喜びも恋も愛も憎しみも復讐も。

「痛くないよ、大丈夫、大丈夫だからね、四天君。全部、大丈夫だから、四天君は、痛くない。大丈夫。痛いのは全部、しいちゃんが持ってるよ」
「うん、しいちゃん、ありがとう」

痛いのも、哀しいのも、全部しいちゃんが持っている。
痛いのも、哀しいのも、全ては二人で分かち合う。

それは救い。
それは呪い。
それは鎖。
それは解放

それは二人の、約束。
それは二人の、ささやかな祈り。






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