少女の背中は、熱を持って、じくじくと痛む。 施術が終わって間もない背は、どうやら血が滲んできているようで、脂汗と混じって、べったりとした感触がする。 最近、傷の治りが、遅くなってきているなと、ふと思う。 力の調整もうまくいかなくなってきている。 体の限界が、近づいている。 「大丈夫、栞?」 蹲る少女をそっと腕に抱き締めている少年が、心配そうに顔を覗き込む。 少女はその背にしがみつき、堅くしなやかな筋肉に爪を立てる。 強く強く、爪を立てる。 「しいちゃん」 「うん。栞」 その少年の背中にも、無数に傷があるのを少女は知っている。 年若い少年が、沢山の痛みを背負っているのを知っている。 知っていながら、傷だらけの皮膚に更に傷をつけるように、少女はその小さな爪を立てる。 少年は穏やかに笑いすらして、ただ少女を抱きしめる。 「しいちゃん、痛い、痛いの。しいちゃんが痛いの。痛い」 「うん。痛いね。しいちゃんが、痛い」 「痛い痛い痛い痛い」 じくじくじくじく。 背中が痛い。 体が熱い。 血が流れている。 少女が幼い頃から繰り返し繰り返し、一針一針、丹念に丹念に、刻みつけられる呪い。 成長し、皮膚が伸びる度に、それに合わせ、更に抉り返される傷。 「痛い、よ、しいちゃん」 「うん。うん、栞。しいちゃんが、痛いね」 「うん、痛いの、しいちゃん、痛い」 痛い。 でも、少女は少年に縋りつきながら思う。 これは、私の痛みじゃない。 私が痛いんじゃない。 痛いのは、しいちゃん。 栞は痛くない。 痛いのは、全部全部、しいちゃんが、持ってくれる。 「しいちゃんが、痛いの」 痛いのは、しいちゃん。 痛いのと哀しいのは、全部しいちゃん。 少女は、胸の中で、繰り返す。 私は栞。 私は、笑って、遊んで、たまにふざけて、恋をする、女子高生。 痛いのは、しいちゃん。 栞は、明るく楽しく恋に勉強に励み悩む、幸せな、一般的女子高生。 栞は、その部屋の片隅で、座っていた。 肩で切りそろえられた髪と小さな白い顔に浴衣を身に着け、まるで人形のように愛らしい。 その表情も硬質で冷たく、それもまた、人形のように見えた。 「………しいちゃん?」 施術の後に熱を出し、宮守本家の片隅で休まされていた栞は、幼く高い声に少しだけ顔をあげる。 月明かりだけが照らす部屋の入り口の襖から、恐る恐ると、少年が顔をのぞかせている。 「………」 部屋の隅で座っていた栞は、少年、四天に無感情に視線を向けてから、また宙を向く。 熱を持つ背中からじわりと何かが滲み、浴衣の裾から流れ落ちる。 「しいちゃん………、大丈夫?血が、出てる」 四天が驚いたように目を開き、部屋の中に入ってくる。 その言葉に、自分が血を流していることに気づき、腕を上げる。 着せられていた浴衣の裾が赤く染まっている。 どうやら、止血が十分じゃなかったらしい。 ぼんやりと、ただ栞はそれを眺める。 「大丈夫?痛い?」 聞かれて、栞は小作りな顔を少し傾げる。 不思議そうに、瞬きして、四天の言葉を繰り返す。 「………痛い、のかな。痛い、うん、痛い」 「大丈夫?どうしたの?怪我したの?」 「…………」 栞はただ、自分の手を伝う血を、見ている。 自分の血は赤いのだと、そんな当たり前のことを、靄がかった頭の片隅で思う。 返事をするのも、億劫だった。 最近、『これ』が始まってから、何をするにも、面倒になっていた。 話すのも、笑うのも、考えるのも、何もかもが、面倒だった。 「痛い?誰か、呼んでくるよ」 四天は返事をしない栞に怒ることなく、心配そうに部屋を出ていこうとする。 それは、駄目だった。 それをすると、余計に面倒な事態になるのを、栞は知っていた。 だから、面倒だったが、自分より一つ年下の男の子を呼び止める。 「待って」 「え?」 「いらない。呼ばないで」 「………でも」 「いいから」 少し苛立ちを感じて、強い口調になる。 四天はそれで足を止めて、部屋の中に戻ってくる。 「しいちゃん、どうしたの?」 女の子にも見える綺麗な顔に、不安を浮かべて近寄ってくる。、 前はこの子と、遊んだ覚えもある。 たまに本家に連れてこられた時、この子と、この子のすぐ上の兄と、遊んだ覚えがある。 犬の仔のように無邪気にじゃれ合い笑い転げあう兄弟に混じり、一緒に笑った覚えがある。 自分の弟は、隔てて育てられているため、遊んだ記憶がない。 だから、兄と弟が出来たようで、楽しかった。 遠い遠い、昔のように、感じる。 「しいちゃん………?」 「………」 面倒だった。 言うなと言われていた。 自分がされていることは、誰にも言うなと、命じられていた。 でも、ただ、ひたすら面倒だった。 ただ、この自分に構ってくる少年が煩わしくて、仕方なかった。 「あのね、私は、『スペア』なんだって」 だから、つい言ってしまった。 訴えたかったのか、追い払いたかったのか、傷つけたかったのか、栞自身、どうしたかったのか、分からない。 「え?」 四天は呆けたように、声を出す。 栞はその顔を見て、少しだけ楽しくなってしまう。 久々に、楽しいという感情を感じていた。 「私はね、三薙さんと、五十鈴さんの、『スペア』なの」 一緒に転げて遊んだ、栞の一つ年上の少年。 『本物』の彼を、最初は、恨み、嫌いもした。 だが、すぐに何も感じなくなった。 「すぺあ?」 言葉の意味が知らないのか、思い至らないのか、四天は首を傾げる。 だから栞は、丁寧に説明する。 自分が言われたことを。 自分がいないと思って話していた両親の言葉を。 宮守の使用人たちの言葉を。 「代わりのもの、なんだって。お皿、割れたら、代わりの使うでしょう?それなんだって。私は、三薙さんと五十鈴さんが、壊れた時の、代わりのお皿なの」 「………」 四天の顔がさっと、白くなったように見えた。 月明かりの暗がりなので、気のせいだったかもしれないが。 「私は、代わりのもの、スペアで、それで、スペアにならなかったら、すぐに壊れちゃうんだって。出来そこないの、代わり、なんだって」 「しい、ちゃん………」 「私は、ものなの。代わりのものなの」 ものはものでも、かわり。 道具の、代わり。 出来そこないの、もの。 「私は、スペア、なの」 思えば、父も母も、栞への接し方は、弟と違っていた。 必要なものは、全て与えられた。 望むことは叶えてもらえた。 教育も施された。 だが、名前を呼ばれた記憶もそうない。 頭を撫でられた記憶もない。 抱きしめられた記憶もない。 遊びに連れて行ってもらった記憶はない。 それはすべて、ベビーシッターに与えてもらった。 弟にそれが与えられているのに自分は与えられていないのを、心のどこかで羨ましく不思議に思いながら、ただ、見ていた。 当然だ。 栞は、ものだったのだ。 ものに、愛情を注ぐ必要は、ない。 「しいちゃん」 四天が幼い顔を痛みにこらえるように歪め、栞を呼ぶ。 栞はぼんやりと首を傾げる。 「しいちゃんって、誰。しいちゃんって、何。私は、なに。私は、誰。私は、なに。なに、私は、なに」 すべてが遠かった。 痛みも喜びも自分という存在も、ぼんやりとしていて、実感がなかった。 「しいちゃんって、誰」 栞をしいちゃんと、呼んだのは、この少年だけ。 栞と呼べずに、舌足らずに、しいちゃんと、呼んだ。 それは誰。 それは何。 「お父さんもお母さんも、私は、いらない。いるのは、スペア」 「………」 「私は、いない。私は、いらない。私は、代わり、なの。私は、私は、いらない、もの」 自分から流れる血を見ながら、栞は繰り返す。 ああ、でも、血は赤い。 なら、きっと、自分はまだ人間なのだと、そう思う。 まだ、ものに、なりきってはいないのだ。 「痛かったの。でも、誰も止めてくれないの。嫌だって言ったら、怒られた。叩かれた。針を刺されるの。何回も刺された。嫌だった。痛かった」 父と母から離され、怖い大人たちに囲まれた。 意味が分からず怯えて泣いても、誰も躊躇はしなかった。 服を剥がれ、押さえつけられ、背中に何度も針を穿たれた。 痛いと泣いても、やめてと訴えても、栞を取り囲む大人たちは、誰も聞いてくれなかった。 あの時間違いなく栞はものだった。 「でも、どんどん、痛くなくなったの」 家に帰った後、熱と痛みは更に増し、布団に突っ伏して、恐怖と痛みに啜り泣いた。 そして傷が癒えて、記憶も薄れたころに、もう一度それをするために宮守家に連れて行かれた。 我儘を言うことのない栞が、もういやだ、どうしてこんなことをするのだと泣いて喚いて逃げ出そうとした。 そして、父に叩かれた。 衝撃に泣くことも忘れて呆然としていると、腕を掴まれ引きずられ、むりやり、もう一度、針を刺された。 今度は、針を刺される痛みよりも、別のどこかが張り裂けそうに痛かった。 「痛くないの。怖くないの。もう、痛くないの。分からないの。痛いの、分からないの。私は、スペアだから、痛くないの。スペアだから、痛いのは、分からないの」 何度かそれを繰り返すうちに、痛みは消えていった。 恐怖も消えていった。 わずかにあった両親への思慕も、消えていった。 笑うことも、泣くことも、なくなっていった。 「私は、なに」 「しいちゃん」 「私は、しいちゃん、じゃない」 自分という存在が、なくなっていた。 「栞、ちゃん」 「………」 栞という名前も、誰か、意味を持って、呼んでくれただろうか。 それは、誰の名前だろうか。 モノの、名前だろうか。 「栞ちゃん、だよ」 四天は、少し目を伏せて、ちょっとだけ考える様子を見せる。 そして顔を上げて、告げた。 「君は、栞ちゃん」 「………四天君?」 「栞ちゃん」 もう一度、確かめるように、繰り返す。 「痛いのは、しいちゃん」 「え」 「痛いのは、全部、しいちゃんだ」 四天が何を言っているのか分からず、栞が目を瞬かせる。 その顔を見て、四天は少しだけ得意げに笑う。 「僕が、しいちゃんになる」 「なに、言ってるの?」 「痛いのはしいちゃんで、痛くないのは栞ちゃん」 四天は栞の前に座り込むと、血にまみれた手に触れる。 そしてきゅっと小さな手で、握りしめる。 「だから、栞ちゃんが痛くなくても、平気。大丈夫。痛いのは全部しいちゃんだから」 自分の手が血にまみれることを厭わず、四天は笑う。 暗い部屋の中、二人の手が、赤く染まる。 「痛いのは、全部全部、僕が持っていくから」 「四天、くん」 そういえば、と栞は思う。 以前見た少年と、なんだか雰囲気が違う。 幼く無邪気だった少年は、なんだか急に大きくなったように見えた。 どこかは分からないが、何かが違うように見える。 「だから、栞ちゃんは、平気」 四天は、それだけは変わらない無邪気な笑顔を見せる。 「栞ちゃんは、笑うの。笑って、楽しい、皆が、大好きな、栞ちゃん」 笑う。 確かに前は、笑うこともあった。 この家で、この少年とその兄とわずかに遊び、笑いあったこともあった。 「痛くて、哀しくて、すぺあなのが、しいちゃん」 四天が、血まみれの栞の手をごとひきよせ、自分の胸に当てる。 とくんと、鼓動の音が栞の手に伝わった気がした。 「僕が、栞ちゃんの痛いの、全部、持っていくよ」 自分の血がついた四天の手は冷たいが、栞には温かく感じた。 とくんとくんと、鼓動が伝わって、自分の鼓動の音も耳に響く。 「だから、大丈夫」 馬鹿馬鹿しいと、心の片隅では思っていた。 そんなこと言っても、痛いのは栞だ。 四天が、傷を負ってくれるわけじゃない。 でも、それでも、栞の胸には、熱が戻ってくる。 音が、色が、痛みが、熱が、戻ってくる。 「全部、四天君が、しいちゃんが、持って行ってくれるの?」 「うん、栞ちゃんは、大丈夫」 痛い。 体の痛みが、戻ってくる。 この痛みを、四天が、持っていくのか。 そう考えると、ちょっとためらってしまう。 だって、四天にも痛みを与えたいわけじゃない。 「でも、それじゃあ、四天君が、痛いよ?」 栞の言葉に、四天は、得意げに笑う。 「大丈夫。僕は、強いから。誰よりも、強いから」 「………っ」 その笑顔が、言葉が、栞の霞がかった世界を、切り裂いていった。 痛みが、戻ってくる。 血の匂いが鼻をつく。 生きている。 ここにいる。 「………栞は、痛くない、スペアじゃない、女の子?」 「そう。栞ちゃんは、笑っている、可愛い、女の子」 きゅっと、四天が栞の手を、両手で包み込む。 「僕が、しいちゃん、だよ」 栞の胸に、熱が溢れていく。 痛みが、じくじくと、身を蝕む。 でもその痛みすら、今は、心地いい。 だって、これは、しいちゃんの、痛み。 しいちゃんと私は、つながっている。 これは一人だけの痛みじゃない。 「………しいちゃん」 栞は、そっと、大事な宝物のように、その名前を呟く。 四天は、大きく頷く。 頼もしく笑って。 「なあに、栞ちゃん」 それは救い。 それは呪い。 それは鎖。 それは解放 この痛みは、しいちゃんのもの。 「ふう」 自室で本を読んでいた四天が、大きくため息をつく。 その顔には疲労が滲んでいた。 この前仕事から帰ってきたばかりだ。 それに、『儀式』の件も進んでいるらしい。 やることは山積。 けれど、その手はいまだ多くを掴めない。 才溢れ、未来豊かな少年。 けれどまだまだ、年若い、力のない少年。 「大丈夫?」 「うん、平気。でもちょっと、膝貸して」 持ち主の許可を取る前に、座る栞の膝に頭を預ける。 自分の前でしか見せない甘えに、栞は小さく苦笑する。 本当に疲れているのだろう。 「どうぞ、四天君。ゆっくり休んで」 だからその頭を撫でて、労わる。 愛しい少年の痛みも疲労もすべて引き受ける。 痛みも哀しみも、今だけはすべて栞のもの。 「ありがとう、しいちゃん」 四天は栞を見上げて、穏やかに笑う。 その笑顔は幼いあの日に見た、頼もしい笑顔そのままだ。 あの時すでに四天は、兄と自分の未来を、知っていた。 そして、苦しみ、もがいていた。 兄を人一倍慕い愛していた少年は、運命に、家に、何もかもに絶望を抱いていた。 だから、あの時から二人で一緒に育ててきた。 痛みも苦しみも悲しみも喜びも恋も愛も憎しみも復讐も。 「痛くないよ、大丈夫、大丈夫だからね、四天君。全部、大丈夫だから、四天君は、痛くない。大丈夫。痛いのは全部、しいちゃんが持ってるよ」 「うん、しいちゃん、ありがとう」 痛いのも、哀しいのも、全部しいちゃんが持っている。 痛いのも、哀しいのも、全ては二人で分かち合う。 それは救い。 それは呪い。 それは鎖。 それは解放 それは二人の、約束。 それは二人の、ささやかな祈り。 |