「どういう、こと」

色々聞きたいことはあったが、口から出たのはそれだけだった。
自分でも情けなく思うほどに、掠れた声だった。

「………本当に、悪いな」

一兄は眉を寄せて、苦い顔で謝罪を口にする。
どうして、そんなことになったんだ。
何がなんだか、分からない。

「供給の安定を図るためには、サブとして俺も入った方がいいと判断した」
「………サブって」
「四天だけでも問題ないとは思うんだが、四天に何かかあった時のためにな」

四天に何かあったら、俺にも影響があるかもしれないということは、話していた。
でもそんなの、父さんや一兄には最初から分かっていたはずだ。
それなら、最初から言ってくれればよかったんだ。
二人と、儀式をしなければいけないって。

「………じゃあ、俺がここ最近悩んでたのって、なんの意味があったの?」
「それに関しては、本当に悪かったと思っている」

悩んで悩んで、眠れなくなるほど悩んで、その上で決断した。
それが全部無駄だったのだと思うと、全身から力が抜けていく。
疲労感で座り込んでしまいそうだ。

「儀式がうまくいって安定しているようだし、供給者を増やしても問題ないと判断したこともある。お前の器が耐えられない可能性もあったからな」

でも、それでも、それなら、安定したらもう一人とも儀式をすると言ってくれればよかったんだ。
そうしたら、こんな気持ちにならなくて、済んだ。

「………先に言ってくれれば、悩まなくてよかったのに」
「ああ。すまなかった」

いや、違う。
一兄が悪いんじゃない。
何を八つ当たりしてるんだ。
全ては俺のこの貧弱な体が悪いんだ。
一兄も天も、俺のためにやってくれてることなんだ。
大きく息を吐きだして、首を横に振る。

「謝らなくて、いいよ。一兄が悪いんじゃないし」
「そう怒るな」
「………怒って、ないよ」

ただ、疲れただけだ。
虚脱感で、何も考えたくない。

「お前がどれだけ不安に思い、悩み、踏み切ったかを知っている。お前の決断を無碍にするようなことをしてしまって、本当にすまない」
「………ううん」
「だが、お前の体のためだ。耐えて欲しい」

分かってる。
全部俺のためだ。
それに、俺が被害者なんじゃない。
被害者は、一兄であり、天だ。

「一兄が、耐えるんでしょ。俺のなんかのために、あんなことして」
「なんか、なんて言うな」

一兄の手が俺の頬を包み込み、顔を覗き込む。
困ったように笑うその表情は、どこまでも優しい。

「お前は俺の大事な弟だ。そんな卑下するようなことを言うな」
「だって、あんなこと、兄弟で、一兄も天も、する必要ないのに」

あんな、汚くて、恥ずかしいこと、二人だってしたくないはずだ。
俺は、いい。
だって、俺のためだ。
でも、二人は違う。
けれど一兄は頬を優しく撫でてくれる。

「俺は、お前が大事だ。負担に思うことも、嫌だと思うこともない」

一兄も天も、優しい。
嫌だなんて、言わない。

「むしろお前の嫌悪感の方が重要だな」
「あ………」

親指がするりと唇に触れて、背筋にぞくりと寒気が走る。
その怖気に似た感覚を、俺は知っている。
その先にあるものも知っている。
怖くなって逃げ出そうとすると、そっと肩を引き寄せられた。

「そうビクビクするな」
「………だ、だって」
「触れられて、気持ち悪いか?」

それは、ない。
一兄の手は優しい。
気持ち悪いなんてことはない。
ただ怖い。
一兄の手の中はどこよりも落ち着く場所なのに、今は少し怖い。

「気持ち悪く、ない」

少し笑って、一兄が顔を近づけてくる。
ぎゅっと目を瞑ると、額に柔らかな感触がした。

「っ」

ふわりとそこが温かくなって、ざわざわと全身の産毛が逆立つ気がする。

「吐き気とかは?」
「ない、けど」

嫌じゃない。
気持ち悪さもない。
吐き気もない。
違和感と、恐怖があるだけだ。

「そんな泣きそうな顔するな」

一兄が笑って、そっと体を離す。
そしてポンと大きな手で俺の頭を撫でた。

「儀式は明後日の夜になる。明日から潔斎に入って準備を済ませ、明後日は学校は休んでくれ」

明後日で、明日には準備。
随分急な話だ。

「そんな、早く?」
「悪いな」

一兄が謝ることはない。
全部俺のためだ。

「どうしても嫌だったら、出来るだけお前の負担を減らすようにはする」

それは、天が持ってきたあの瓶のことを言っているのだろうか。
あれを使われるのは、嫌だ。

「………ううん、平気」

一度はしたことだ。
我慢できないはずがない。
大丈夫だ。

でも、どこまでもずぶずぶと、泥の中に沈み込んでいく気がする。


***





「またため息。どうしたの?」
「あ、誠司」

机に向かいながらついため息をついてしまうと、藤吉が苦笑しながら話しかけてきた。
こんな風に周りに心配をかけるのはやめようって思ってるのにな。
これ見よがしに心配してってアピールするのは悪質だ。

「大丈夫、なんでもない」
「なんでもない訳ないと思うけど。別に迷惑じゃないから言ってみれば?聞くぐらいしか出来ないけど」

首を横にふっても、藤吉にはすぐ見破られてしまう。
知り合いになったのは中学生の頃から、本当に友達になったのはここ一年。
藤吉が鋭いのか、俺が単純なのか。
きっと、両方なのだろう。

「………この前さ、相談してた件」
「どれだろう」
「そんないっぱいあるか?」
「そんなにはないよ」

藤吉は否定してくれたが、色々愚痴愚痴言ってたかも。
まずいな、本当に反省だ。

「えっと、一兄と天のどちらかに力を借りなきゃいけないって奴」
「ああ、どうしたの?解決したんだろ」

解決したと思ってた。
してほしかった。

「天に借りることにしたのに、結局、一兄にも借りることになっちゃって」
「なんだ、それ。悩んだの無駄だったな」
「………うん」

本当にそれだ。
無駄だった。
俺の悩んだ時間を返してくれ、なんて思うのは恩知らずだろうか。
二人とも俺のために動いてくれてるのに。

「それで迷惑かけるのが嫌だって話?」
「………うん」
「一矢さんは気にしないって」

藤吉が困ったように笑って諭してくれる。
それは、そうなのだろう。
一兄はきっと気にしない。
気にしてても、それを俺に感じさせることはしないだろう。
それは、分かっている。

「………うん、分かってるんだけどさ」
「一矢さん、お前を本当に大事にしてるし、お前の力になれるなら本望だろ」

一兄は、俺を大事にしてくれている。
厳しいこともあるけれど、間違ったことは言わない。
幼い頃から優しく厳しく、俺を正しく導いてくれる人だ。
俺の憧れの人。
でも、ちょっとの付き合いの藤吉でもこんな風に見破られてしまうぐらいなのか。

「………俺ってそんな一兄に依存してるかな?」
「へ、依存?そうなの?」
「いや、言われたから」
「え、俺は単に一矢さんが三薙を大切にしてるって話だけど」
「あ、藤吉じゃなくて」
「そうなの?誰に?」
「………双兄」

藤吉が、双馬さんかあといって首を傾げる。
甘え過ぎないようにと自制しているつもりだが、やっぱり依存が激しいだろうか。
もっと、自立しないといけない。
友達にも兄に依存しているなんて見られていたら、恥ずかしい。

「うーん。俺が見たところ別に依存って感じはしないけど。まあ仲いいなってのと、尊敬してるんだなってのは話聞いてると分かるけど」
「それぐらい?」
「俺が見たところではな。あんま接点ないから分かんないけど」
「………そっか」

双兄は、俺が小さい頃から見ているからだろうか。
少なくとも、友達に見られていないなら、いいんだけど。

「まあ、一矢さんなら甘えちゃえよ。気にすんな」
「………うん」

一兄は俺をとても大切にしてくれている。
甘えても、嫌がらないだろう。
それは分かってる。

でも、もやもやした気持ちは、晴れない。



***




「今日はまた悩み顔。顔色はいいけど」
「…………槇」

下駄箱で、今度は槇に顔を覗きこまれる。
藤吉も鋭いけど、槇も鋭い。
いや、やっぱり俺が分かりやす過ぎるのだろうか。

「どうしたの?」

歩きだした槇が自然と俺の隣に来て、可愛らしく首を傾げる。
柔らかく微笑む槇を見ていると、ほわりと心が穏やかになる気がする。

「………」
「言いたくなければいいよ」

言いたくない訳ではない。
どう言えばいいのか、分からないだけだ。

「………一兄と、ちょっと喧嘩したっていうか」
「え、喧嘩?」
「いや、喧嘩じゃないかな」

喧嘩ではない。
別に一兄も怒ってないし、俺だって怒ってない。
いやちょっと怒ってるだろうか。
でもそれ以上にただ、困惑が大きい。
自分でも苛立っているのか、困惑しているのか、もやもやしているのか、分からない。
何に、何を、何で。

「んっと、一兄と天に、どっちかに力を貸してもらわなきゃいけないことがあって」
「うん」
「それで、天に貸してもらうことに決まって、貸してもらったんだけど」

悩んで悩んで、その末に決断した。
力を借りることを、天を犠牲にすることを。
でも、その決断はあっさりと覆された。

「でも、結局一兄にも借りることになっちゃって」

そして俺は、一兄も、犠牲にすることになった。
俺は二人の力を借りて、生きていかなきゃいけない。

「それで、気が重くて」
「重いの?」
「………重い」

それは、ただ、重い。
天だけでも、重くて、押しつぶされそうだったのに、二人もなんて、考えたくない。
二人の犠牲の上に生きて、罪悪感を背負って生きていく。
それでも生きていたいから、俺は罪悪感に酔いながら、二人を引きずりまわす。
そんな自分も、嫌いだ。

「それは、力を借りるのが、相手の負担になるのが嫌なの?」
「それもあるけど、なんていうか」
「うん」

相手の負担になるのが、いやだ。
そして、やっぱり慣れることのできない方法も、嫌だ。

「力を借りる方法も嫌って言うか………」

負担になるのは嫌、方法も嫌、でも、口だけで謝罪しておきながら、それを受け入れてのうのうと生きる自分が嫌だ。
何もかも、嫌だ。

「うーんと」

槇が困ったように首を傾げている。
なんて言えばいいんだろう。
詳細なんて、言えやしない。
儀式の内容も、目的も、全て、軽蔑されるような内容だ。
家の外の人間に言えるはずがない。
なら、悩みを相談なんて、出来るはずもない。

「………ごめん、槇、変なこと言って」

話を打ち切ろう。
藤吉にも槇にも、甘え過ぎだ。
しかし槇は緩く首を振った。

「そうだな、宮守君は一矢さんは気にしないよって言うだけじゃ駄目なんだね」
「………うん」
「相手の負担だけじゃなくて、宮守君自身が気にすることがあるんだね」

そう、だ。
俺は一兄や天のことだけではなく、自分の浅ましさやまたあの儀式をすることへの抵抗を気にしている。
全部俺のためなのに。

「………そう」

頷くと、槇もうんうんと頷く。

「それは困ったね。力借りない訳にもいかないんでしょう?」
「うん」
「断る訳にもいかない」
「………うん」

それは、結局断れない。
俺の体のためだと言われたら、死にたくない俺は二人に頼むしかない。
文句なんて言える立場じゃない。

「そっか。じゃあ、諦めるしかないねえ」
「………だな」

槇がにっこりと笑って断言した。
俺もつられて苦笑してしまう。
その通りだ。
諦め、受け入れるしかない。
そもそも全部、俺のためだ。

「そんなに嫌?じゃあ逃げ出しちゃえば?」
「え」
「嫌なのに踏みとどまる理由ってなくない?」

槇がにこにこと笑いながら、あっさりと言う。
逃げ出すことを考えたことはあるが、すぐに現実的じゃないと打ち消した。
何か、槇の言葉が新鮮に響く。

「逃げてもいいんじゃないかな。何もかも投げ出して逃げても、結構なんとかなるもんだよ。本当に嫌なら、苦しいなら、そんなものいらない。責任とか義務とか、潰されそうになってまで背負うものじゃない」

槇はおっとりと笑いながら、それでも言葉ははっきりとしている。
無責任でいい加減ともとれる発言だ。
でも、槇の言葉は、力強さを感じる。

「私は、どうしても我慢できないなら投げ出しても逃げ出してもいいと思ってる。まあ、一応最後まで頑張ってからね」

悪戯っぽく笑って、柔らかい声で言う。

「それ以上どうにもできないことを耐える理由はないと思ってる。死ぬほど嫌ならそんなものいらない」

槇の微笑みはどこまでも優しくて、柔らかい。
それから俺を見上げて、問う。

「どうしても我慢できない?逃げたい?死ぬほど嫌?」

少しだけ考えて、首を横に振る。
逃げ出したいとは、ちょっとだけ思う。
でも、どうしてもどうしても我慢できない訳じゃない。
現に俺は一回受け入れている。

「………ううん」
「そっか。じゃあ頑張れるの?」
「………そうだな、うん。逃げ出すことでもないし、死ぬほど嫌って訳でも、ないんだ。うん」

そう、だ。
死ぬほど嫌なんてことはない。
死ぬ方が嫌だ。
なら、逃げ出す必要もない。
なら、悩んでも無駄だ。
何度もそう結論づけているのに、つい悩んでしまう。

「なら、あまり気にしないで、ギリギリまで頑張ってみれば?」
「そう、だな」

考えても、得られるのは疲労感だけ。
その通りだ。
それしか、俺には道がない。
本当に俺は、考えすぎだ。

「でも、我慢できなかったら投げちゃえ。いらないよ」
「………そうだな」

槇が投げる仕草をして、軽く言う。
俺の問題を知らないから言っている言葉ではあるが、それでも気が楽になってくる。
そうだ。
本当に嫌なら逃げ出せばいいんだ。
死ぬ方が嫌だ。
それ以上に嫌なことなんて、ない。
今回のことだって、嫌な訳じゃないんだ。

ただちょっと、拗ねてただけだ。
思い通りにいかなかったことに、フェイントを食らったことに、もう一度覚悟をし直さなきゃいけないことに。
その全部に疲れて、ちょっと拗ねて、駄々をこねたくなったのだ。
本当に嫌なら、投げ出してしまえ。
そう思えば、少し気が楽になってくる。

「うん、そうだな。それでいっか」
「うん。いいよ」
「うん、ありがと、槇。いざとなったら、逃げ出す」
「そうしなよ」

槇がにっこりと笑う。
可愛くて綺麗な子達なのに芯の強さを感じる。
俺なんかよりずっとずっと強い。
岡野も佐藤も、強い。
女の子って強い。
ああ、でも藤吉も強い。
ひょっとして、俺が弱いだけだろうか。

「一兄の方が大変だし、俺が文句なんて言ってちゃいけないよな」
「どっちが大変なんて、考えなくてもいいと思うよ。自分が嫌なら嫌。人と比較するもんじゃない」
「う、ん」
「感謝の気持ちは忘れちゃいけないけど、嫌な気持ちを人と比較して我慢する必要は、ないんじゃないかなあ」
「うん」

嫌な気持ちは、我慢することない。
でも、本当に俺より嫌なのは、一兄であり、天だ。
槇は曖昧な言葉を返す俺に、小さく苦笑する。

「まあ、一歩間違えたらすごく自己中心的な考え方だけど、宮守君はいつも人のことを想って嫌な人にはならないから少しくらいいいと思うよ?」
「俺はすっごく自己中心的だよ」

我儘ばかりだし、人に迷惑かけてばかりだし、ちっとも周りのことなんて考えられない。
感情的になって、癇癪を起して、勝手な行動をして、いつも皆を困らせる。

「………一兄の方が、凄く周りの人のことを想ってる」

一兄は、今回のことだって、嫌だって気配なんてすら見せない。
駄々をこねる俺を、優しく宥めるだけだ。

「宮守君は、一矢さんの事が大好きだね」
「……それ、双兄にも藤吉にも言われた」
「だって、丸わかりだもん」

やっぱり、少し控えた方がいい気がする。
いい年した高校生男子が、兄にべったりっていうのは客観的に見てまずいと思う。
槇が顔を顰めた俺に、くすくすと笑う。

「私は四天君の方が好きだな」
「………まあ、あいつモテるし。でも一兄だってすごいモテるよ」
「それは分かる。二人ともすごいかっこいい」

それは、どうせそうだ。
天だって俺と違って冷静で賢くて、周りをよく見ている。
栞ちゃん以外の人間には冷たいが、それもコミュニケーションに支障をきたすほどもでない。

「でも一矢さんはやっぱり大人過ぎてちょっと近寄り難い。少し幼いところがある四天君がかわいく思えるかな」

幼いところ、か。
あったっけ。
まあ、年相応にはしゃぐところもあったかもしれない。
でもあれをかわいいって言える槇ってすごいな。

「勿論、宮守君もすごくかっこいいよ」
「フォローありがとう」
「フォローじゃないよ」

いや、どう考えてもフォローだろう。
いいけどさ。

「宮守君は、かっこいいよ。もう少し考え込まなきゃもっといいかな」
「………そうだな、確かに」

もう少し軽く考えよう。
考えたって仕方ないことばかりだ。
考えても得られるのは、疲労感ばかり。

そういえば毎回、悩んだら気を軽くしてくれるのは友人達だ。
やっぱり、誰かと話すって、凄い。
悩みなんて、どうでもよく感じてきてしまう。






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