「まぶし………」

外の世界は、眩しくて目が眩む。
暗い宮守の家の中とは大違いだ。
あの家の中に閉じこもっていたから、久々の太陽が酷く眩しくて、居心地が悪い。
世界は明るくて全部照らされていて、俺の居場所がなくなってしまうような気がする。

学校までの短い道のり。
いつもと同じ道。
いつもと同じ顔触れ。

なのに、なんだか踏みしめるアスファルトがぐにゃぐにゃと不確かな感触がする。
まったく今までと変わらないのに、一枚ベールを挟んだように世界が遠く感じる。
非現実感、浮遊感、違和感。
同じ世界なのに、違う世界に来てしまったようだ。

学校に着いても変わらない。
まるで自分がテレビの中のいるように、周りが非現実的に感じる。
授業を聞きながら機械的に手を動かしてノートを取り、内容は頭に入ってくるのに、違和感がある。

「三薙、大丈夫か?」

藤吉が心配そうに、何度か声をかけてくれる。
変わってしまった世界に、けれど友人たちは変わらない。
優しい笑顔を見ると胸が温かくなってきて、ようやく温もりと現実感が戻ってくる。

「うん、大丈夫。ありがとな」
「無理するなよ。お前、すぐ無理するんだから」

眼鏡の奥の目は、気遣いに満ち溢れている。
その優しさに、目頭が熱くなってくる。
大事なものが、ここにはある。

「え、泣くなよ!?これで泣く!?」
「泣かねーよ!」

じわりとつい目が潤むと、藤吉が目を見開いて焦って身をひく。
俺も慌ててて首を振って、言い返す。
こんなところで、泣いてたらダメだ。
本当に、気が弱くなっている。

「無理はすんなよ、ほんと」

藤吉は俺の気を軽くするように茶化し、それでも最後にそんな風に心配してくれる。
大事な友達。
大切な、ようやく出来た、一緒にいれる友達。

「うん、ありがとな、誠司」

失いたくない。
離れたくない。



***




人気のなくなった校舎を一人歩く。
結構年季が入っていて、壁は煤けて茶色くなっている。
掃除をしているのは生徒だし、窓もそこまで綺麗じゃない。
でも、その汚さも心地いい。

時折教室からは笑い声や椅子を引くような音が聞こえてくる。
外からは笛や、叫び声、掛け声、金属音。
吹奏楽部か軽音学部だろうか、楽器の音もする。

校舎は音に満ちている。
人の気配に満ちている。

それを感じるだけで、懐かしくて、切なくて、嬉しくて、胸がいっぱいになる。
人の気配を感じているのは、好きだ。

一年目は、この場所を好ましく思いながら、どこかよそよそしく感じた。
自分の居場所はないと感じていた。
近くて、遠い場所だった。

二年目になって、この場所がもっと好きになった。
一緒に過ごして、話して笑う人が出来て、学校がとても好きになった。
友達と会える場所は、特別な場所になった。

今までずっと学校という場所は、属していながら憧れの場所だった。
溶け込めない、疎外感を感じる場所だった。

そういえば、あの夜だ。
文化祭の前夜、皆とここを走り回った。
いい思い出、なんてとても言えないけれど、皆とはあれから仲良くなることが出来た。
この学校で、皆と過ごした。
思い返せばあの頃から、少しづつ成長していけた気がする。

守りたいものが出来た。
大事なものが出来た。
だからもっと強くなりたいと思った。
自分の弱さを受け止めて、その上でみんなを守りたいと思った。

俺は、強く、なれたのかな。
なれていたのだろうか。
守りたい。
大事な皆に笑っていてほしい。

そう、思ったんだ。
だから、強くなりたかった。

「強く、なれたのかなあ」

独り言をつい漏らしてしまうと、前からきた女の子たちが不思議そうにこちらを見た。
恥ずかしくなって、駆け足で通り過ぎる。
ふらふらと彷徨ってる内に、日が暮れてきたようだ。
辺りがオレンジ色に染まってきた。

「………帰ろ」

あの場所に帰るのは、嫌だ。
でも、帰るのは、あそこしかない。
俺はどこにもいけない。

暗くなる思考を頭を振って振り払い、教室に戻る。
誰もいないと思っていた教室には、一人だけ、人が残っていた。

「あ」

窓が開け放たれていて、春の風にカーテンがひらひらと舞っている。
電気のついていないオレンジ色の教室の中で、窓辺に一人の女の子がいる。
長い髪を風に任せながら、窓際の机に腰かけて外を見ていた。
後姿でも、誰だかすぐにわかる。

「………岡野」

岡野が俺の声に、ゆっくりと振り返る。
強そうな指輪が一杯ついた指で、髪をそっとおさえる。

「よお」

そしてつまらなそうな顔で、それだけ言った。
不機嫌そうだけど、たぶん怒ってはいない。
それぐらいは分かるようになった。
どちらにせよ、どんな表情をしていても、岡野を見るだけで、心が騒いで浮き立つ。

「まだ、残ってたのか?」
「うん」
「なんで?」
「………別に」

岡野はまたふいっと窓の外に視線を向ける。
また風が吹き込んできて、カーテンと岡野の髪を巻き上げる。
気持ちよさそうに目を伏せて風を受けて、その横顔がオレンジ色に照らされる。

「………」

目の前の光景に、目を奪われ、言葉が詰まって、胸が痛くなった。
放課後の教室の中にいる岡野が、酷く尊く感じた。

「何?」

岡野が黙り込んだ俺をもう一度振り返る。

「綺麗だなって思って」

オレンジ色の教室の中、はためくカーテンの中にいる岡野は、とても綺麗だった。
愛しくて、切なくて、苦しくて、懐かしくて、胸がつまる。

「はあ!?」

岡野が目を丸くして驚いた顔で声をあげる。
そこで、自分が何を言ってしまったのか、ようやく認識する。
認識した瞬間、恥ずかしくて顔が赤くなる。

「あ、へ、変な意味じゃなくて!」
「………」
「なんか、その、教室にいる岡野がいいなって、えっと」

ああ、うまく言葉が出てこない。
岡野といるといつもこうだ。
一番うまく話したいのに、一番うまく話せない。
教室がオレンジ色でよかった。
きっと俺の顔の色も隠してくれるだろう。

「もういい。しゃべるな」
「ご、ごめん」

岡野が不機嫌な顔でそっぽを向いて、吐き捨てるようにいった。
ああ、呆れさせてしまった。

「………」
「………」

沈黙が痛い。
何か、話を変えなければ。

「その、えっと放課後の教室って、寂しいけど、なんか懐かしい気持ちになるよな」

いつも賑やかな教室が静かなのも、校庭から遠く聞こえる声も、寂しくて、けれど苦しくなるような郷愁も感じる。

「それ、ちょっと分かる」

岡野は俺の言葉に、小さく笑った。
ようやく笑ってくれた。
そんな些細な笑顔だけで、心がざわめいてくすぐったくなる。

「だろ?」
「うん。後、少しだしね、ここいられるの。そう思うと余計寂しい」

そうだ。
俺たちは、後1年しかここにいられない。
こんなに大切で、ずっと一緒にいたい場所なのに、後1年しか、いられないのだ。
もう少しで、俺たちは、バラバラになってしまう。
岡野と、離れてしまう。

「………岡野は、卒業したら、どこいくの?」
「看護大」

あっさりと岡野はそう言った。
そういえば、進路の話とかしたことなかった。
予想外の言葉に、思わず少し驚いてしまう。

「え、じゃあ、看護師になるの?」
「助産師の資格、ほしいの」
「じょさんし?」

言葉の意味が分からなくて首を傾げると、岡野が視線を逸らしてちょっと俯く。

「赤ちゃんを産む、手伝いする人」
「へえ」

産婦人科医とは、違うのだろうか。
どちらにせよ、すごい。
将来の夢を持っている、岡野がすごい。
岡野はいつもしっかりとしているが、やっぱり、すごい。

「すごいな。岡野、すごい」
「別にすごくない。まだなれるか分からないし。難しいし、私あんまり頭よくないし」

岡野は照れたように、なんだか言い訳のように言う。
だか、そんな言葉は、耳に入ってこない。

「赤ちゃんを産む手伝いするって、すごいな。俺、そんな仕事、考えたこともなかった。いいな。すごい」

赤ちゃんを産む手伝い。
それは、なんて尊いのだろう。
生まれてくる命を手助けする、仕事。
それは、柔らかく温かく生命力にあふれている。

「いいな。素敵な夢だな」

俺は、死と痛みにばかり触れてきたから、とても眩しく感じる。
強くて生命力に溢れた岡野に、ぴったりだ。

「………」

岡野が机から立ち上がって、閃いていたカーテンをつかみ、その後ろに隠れる。
まるで影絵のように、逆光に照らされた岡野がカーテンのスクリーンに映し出される。

「岡野?」

俺から隠れてしまった岡野に、不安を覚える。
茶化したように聞こえただろうか。
怒らせてしまっただろうか。
そんなつもりは、まったくなかったのに。
本当に、岡野の夢が、眩しく尊く、素敵に思えたんだ。

「弟が」
「え」

でも、岡野は、すぐに話し始めてくれた。
カーテンの後ろに隠れたまま。

「弟生まれた時の助産師さんが、すごくいい人だったの。お母さん、難産で、怖かった。でも、あの人が無事に取り上げてくれた。それで、なりたかったの」
「そっか」

心がじわりじわりと温かくて柔らかいものでいっぱいになってくる。
なんて、眩しんだろう。
岡野は、いつだって、強くて優しくて、眩しい。

「なれると、いいな。岡野なら、すごく努力家だし、根性あるし、きっと出来る」
「根性あるって、女への褒め言葉じゃないからな」
「う、ご、ごめん」

でも、岡野は本当に俺よりずっと根性あるし、強いし、憧れている。
岡野みたいにまっすぐに、自分を持って、立ちたい。
尊敬していると、伝えたいのに。

「あんたは?」
「え」
「あんたは、何になるの」

どこへ行くの、ではなくて、何になるのと聞くのが、岡野らしいと思った。
将来をすでに見据えている岡野の強さを表している。
でも、俺には、ちょっと強すぎて、痛い。

「………まだ、分からない」

ちょっと前まで、大学に行けるかも分からなくて、何も考えられなかった。
大学に行けるかもしれないと希望が見えて、行きたいところややりたいことがたくさん出てきた。
そして、今、また何も考えられなくなっている。

「そ。まあ、早く決めなよ。社会人なんてすぐなんだから」
「うん、そうだな」

社会人に、俺はなれるのだろうか。
俺は、何になれるのだろうか。
何を夢見ることができるのだろうか。

「あんた、のんびりしてるんだから」
「はは、岡野、お姉さんみたい。本当にしっかりしてるよな」
「だからそれ褒め言葉じゃねーからな」
「ご、ごめん!」

でも、岡野。
そんな岡野に憧れるんだ。
眩しい岡野を、ずっと見ていたいと思うんだ。

「………あんたを待ってた」
「え」

岡野が、トーンを下げた小さな声で、ぼそりと言う。
相変わらずカーテンの向こうなので、表情は分からない。

「鞄あったから、あんたと話したくて、待ってた」
「えっと、話?」
「あんた、なんか、元気なさそうだったから」

俺って、本当にダメなやつだ。
皆に心配をかけてしまっている。
もっと、しっかりしなきゃ。

「………」
「だから、待ってた」

強くなりたいと思う。
しっかりしたいと思う。
なのに、岡野がそんな風に言うから、また涙が出てくる。
胸がいっぱいになって苦しくて、それを吐き出すように涙が出てくる。

「………ありがとう。俺も、岡野と、話せて嬉しい」

涙声になったのを気付かれていないだろうか。
岡野と一緒にいられて嬉しい。
岡野が心配してくれて嬉しい。
岡野の夢を知ることが出来て嬉しい。

「………私、つい、きついこと言うけど、あんたのこと嫌いじゃないから」
「………うん、知ってる」
「ばーか」

ちょっと調子に乗っていうと、岡野の声にも笑い声が混じった。

「尊敬するところあるし、頼りにしてるところだってある。一緒にいて楽しい」
「………」
「あんたは自分を馬鹿にする必要なんて、ないんだからね」
「うん」

どうして岡野は、いつもこんな風に俺を喜ばすんだろう。
俺の胸を熱くするんだろう。

「その、私は………」

岡野の声が消え入りそうなほどに小さくなる。
外の部活の声に掻き消されて、聞こえない。

「………」
「岡野?」
「………」

何かを言ってるけど、やっぱり聞こえない。
岡野が何を言っているかを知りたくて、近づいてカーテンの前までくる。

「岡野、何?」
「うるさい、来るな!」
「え、ご、ごめん!」

岡野の焦った声に、一歩後ろに下がる。
その時一際大きな風が吹いて、岡野の手から離れたカーテンが翻る。
そして、その姿があらわになる。

「あっ」
「………っ」

岡野は顔を、真っ赤にして、大きな目を更に大きく丸くしていた。
夕日の赤だけではないのは、この距離なら分かる。
どこか潤んだ目に、心臓が跳ね上がる。

「う、あ、み、見るな!!」

岡野が焦ったように慌ててカーテンをつかみ、その中に包まる。
蓑虫のようにすっぱりと丸まってしまう。

「お、岡野」
「うっさい!見るな触るな近寄るな!」

そう言われても、感情のままに体は動いていた。
蓑虫になった岡野をカーテンごと抱きしめる。

「わああ!」
「ごめん」

愛しい愛しい愛しい。
好きだ好きだ好きだ。
岡野が、好きだ。

「ありがとう、岡野。………っ」

好きだと叫びたい。
このまま抱きしめて、何度も好きなんだと伝えたい。
でも、俺にそんな資格はないし、岡野も困る。
だから一回息をついて、激情を吐き出す。
抱えきれなくなりそうな感情を、落ち着かせる。

「………会えて、よかった。岡野と会えてよかった。岡野がいてくれてよかった。仲良くなれて、嬉しい。ありがとう」
「また、そんな、恥ずかしいこと………」
「………岡野」

そっとカーテンの、岡野の額がある辺りに唇で触れる。
抱きしめている岡野は、きっと気づかない。
気付かないでくれ。
ごめんなさい。
でも、許して。

好きだ好きだ好きだ。
愛しい。
触れたい。
抱きしめたい。

「宮守?」

もっと抱きしめたくなる手をなんとか離して、岡野から身をひく。
岡野は恐る恐ると、蓑から出てくる。
陰からそっとこちらを伺う様子は、いつもと違ってなんだか頼りなくて、かわいい。

「ははっ」
「な、なんだよ!」
「ご、ごめん」

思わず笑ってしまうと、岡野が起こって眉を吊り上げる。
そんな様子もどこか照れているようで、やっぱり可愛い。

「あのさ、岡野、腹減らない?」
「え」

このままここにいると、触れたくなってしまう。
もっと一緒にいたくなってしまう。

「何か、食ってかない」
「いいけど」
「じゃあ、帰ろうか」

俺が教室の窓ガラスを締め始めると、岡野は憮然とした様子で小さく頷く。

「何食べるの?」
「コロッケ食いたいな」
「じゃあ、コンビニか」

聞かれて出てきたのは、コロッケだった。
思い出に残っている、ほんのりと温かいほくほくとしたコロッケ。

「岡野の作ったコロッケ。また食べたい」
「はあ!?何言ってんの?」

岡野は馬鹿にしたように言って、さっさと鞄を持って教室から出て行ってしまう。
俺もカーテンを直すのは諦めて、鞄を持って後を追う。

「待った!待ってよ、岡野」

ずんずんと怒ったように足音荒く歩いていた岡野は、俺が追いついて少しだけ歩調を緩める。
そして、振り向かないまま、小さな声で言った。

「………明日、暇?」
「へ?」
「家にご飯、食べにくる?」
「え」

何を言われたのか認識できなくて、その場に立ち止まった。
岡野はちらりと俺を振り向くと、すぐにふいっと前を向いた。

「嫌なら、いい!」

そしてまた歩幅を大きくし、すたすたと歩いていってしまう。
ようやく我に返り、慌ててその後ろを追いかける。

「行く!行く!絶対に行く!」

そんなのどんな用事があろうと、なんだろうと絶対行く。
手をあげて叫ぶように言うと、岡野は俺を睨みつける。

「あいつらに言うとうるさいから、黙っておけよ」

それは藤吉と槇と佐藤のことだろう。
きつい口調に、ただこくこくと頷く。

「分かった」
「ふん」

そして岡野がまた歩き出す。
でもその歩調は、やや緩やかだったから、その隣に並ぶ。

「へへ」
「なんだよ」
「幸せだなって」
「何それ」

岡野は呆れたように目を細める。

だって、幸せなんだよ、岡野。
こんな風に君の隣にいられるのが、とても嬉しくて仕方ない。
君の夢を聞いて、君の表情の一つ一つに魅入って、君の言葉に一喜一憂する。
それが、こんなにも幸せ。

幸せなんだ、岡野。
岡野といると、世界に現実感が戻ってくる。

いつまで、こうしていられるんだろう。
いつまで、君を見ていられるんだろう。





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