門の明かりが、見えてくる。
足がすくんで、立ち止まってしまった。
隣の弟も、何も言わずに立ち止まった。

慣れ親しんでいたはずの家が、今はとても遠く恐ろしく見える。
俺の家は、こんなにもどんよりと薄暗く重い空気を持つ場所だったっけ。
まるで知らない場所のようだ。

「………天、俺は」

どうなるのか。
どうしたらいいのか。
何も分からない。
ただ逃げ出したい。
でも逃げ出せない。

「俺は、これ以上は何も答えられないよ。許されてない」

天は言いよどむ俺の言葉を遮るように言う。
そしてちらりと笑って、門を指さした。

「後は先宮か一矢兄さんからどうぞ。お待ちかねだと思うよ」
「でもっ、いやだ」

何も分からない。
怖い怖い怖い怖い。
帰りたくない。
俺はこれから、どうなってしまうんだ。
嫌だ、これ以上は知りたくない、どこにも行きたくない。

「落ち着いて」

天は傘を持ったまま俺の前に回り込むと、人差し指で俺の唇をそっと抑える。
そしてわずかに高い目線を、まっすぐに俺に合わせる。

「落ち着いて。そしてゆっくりと考えてね」

考えるって、なんだ。
何を考えればいい。
何をすればいい。
俺は何も知らない。
何も知らなかった。
何も知らされていなかった。
俺だけ、知らなかった。
もう、何も分からない。

「ああ、そうだ」

混乱するばかりの俺なんて気にもせず、傘で隠れるようにして周りの景色を遮断しながら、天がそっと顔を近づけ耳元で囁く。
触れた吐息に、ぞくりと背筋に寒気が走る。

「出来れば、だけど、昔、俺があそこに兄さんを連れて行ったこと、内緒にしておいてほしいんだけど」
「え」

一瞬だけ、混乱してぐちゃぐちゃだった頭が真っ白になる。
そしてわずかに落ち着いた脳で、何を言われたのか考える。

「………な、んで。父さんと一兄は、知らないのか?」

宮守の最大の秘匿であろう奥宮に立ち入って、あの二人が知らないなんてことがあり得るのだろうか。
あの時俺と天は、とても小さかった。
隠し通せるわけなんて、ない。

「どうだろう。知ってる気もするんだけど、一応知らないってことになってる」

天は考えるように首を傾げて、曖昧な返事をする。
あの二人が、家の中で起きてることを知らないなんてことがあり得るのか。

「なんで?」
「さっきからなんでばっかり。何を聞いてるの?」

面白がって質問を質問で返す。
苛立って怒鳴りつけそうになるが、こらえる。
ここで天のペースに乗ったら、駄目だ。

「………なんで、二人は、知らないんだ?それと、なんで、黙っているんだ」

なんで二人に黙っておくのだろう。
俺は、もう一度見てしまったのだから、今更隠す必要はない。
天は楽しげに小さく笑う。

「まず、なぜ知らないか。これはあの時誤魔化すことが出来たから。兄さんも忘れてくれたからね」

確かに俺は、今の今まで忘れ去っていた。
最近になって夢を見始めるまで、何一つ思い出さなかった。
でも、誤魔化したって、どうやって誤魔化したんだろう。
あそこには結界も貼ってあった。
父さんを誤魔化すことなんて、できるのだろうか。

「そして、なぜ内緒にしたいか。俺は先宮と一矢兄さんに怒られたくないから」

四天が悪戯っぽく笑う。

「そんなところかな」

怒りよりも、脱力感で唇を噛みしめる。
いつもの、嘘はついていないけれどはぐらかしている、答えのようで答えではない言葉。
天は、いつだってこうだ。
いつだって真実を、言ってくれない。
諦めと絶望で、心が染まっていく。

「また、俺は、何も、分からないままなんだな………」

少し分かったと思った。
少し強くなったと思った。
少し未来を夢見た。
でもまた、手の中にあった希望はすべて消えていく。

「全部教えるって言ったよ、兄さん。約束したね」

けれど天は、息が触れるほどに近くで、まっすぐに俺の目を見ている。
笑っていはいる。
けれど、その目は、嘲りや、侮蔑は含まれていない気がする。

「俺のことなら教えるよ。俺が考えていること、俺がしたいこと。全部教えるよ。もう少し待ってね」

そしてそっと小さな声で、そう囁いた。



***




「三薙、帰ったか。すまなかったな、四天」

家に帰ると、すぐに一兄が玄関先に現れた。
いつもなら泣きそうになるほど安心するその姿に、今は体が竦んで近づくことができない。

「ううん、お役に立てて光栄です。でも俺も濡れちゃった。シャワーの方使うよ」
「ああ、ありがとう」

天はさっさと家に上がりこんで奥に向かう。
思わずすがるように手が伸びてしまった。

「あ………」

けれど天は振り返らず、その代りに一兄の手が俺の手を包み込む。

「大丈夫か、三薙」

大きく温かい手が、冷え切った手を温める。
一兄に触れられて、こんなに落ち着かない気持ちになるになるなんて、初めてだった。
俺が固まっているのはわかっているだろうに、それには何も言わず持っていたタオルで俺の頭を拭いてくれる。。
大きな手も、触れる温かさも、全ていつもの大好きな長兄のものなのに。

「冷え切ってるな。とりあえず風呂に入れ。風邪をひく」
「………っ」

頬に触れられて、びくりと体が震える。

「湯は張ってある。ほら行くぞ」
「い、一兄、俺はっ」

何を聞きたかったのか分からない。
何を言いたかったのか分からない。
整理できない。
ただ、怖い。

「まずは、風呂だ。それに何も食べてないだろう。何か食べて、それから話そう」

一兄は、腰をかがめて俺の視線に合わせてくれる。
大きな両手で俺の頬を包み込み、熱を分けてくれる。
いつだってこれで、安心することができたのに。
でも、今は、不安になるばかりで、落ち着くことなんてできやしない。
頭を振って、一兄の手から逃れる。

「や、だ!」
「三薙」

ぴしりと、大きくはないが低くはっきりとした声が制するように俺の名前を呼ぶ。
それだけで心が委縮して、抵抗する気持ちをなくしてしまう。
幼い頃から、一兄に怒られると、目の前が真っ暗になって、深い穴に落ちて行くような気になる。

「お前の言いたいことはわかる。だが、今は体を休めてくれ。頼む」

そしてその後にこんな風に、頭を撫でられると、体から力が抜けて何も言えなくなってしまう。
ただ頷くことしか出来ない。

「………うん」
「いい子だ」

一兄が優しく笑ってもう一度頭を撫でてくれる。
濡れることも気にせず、びしょ濡れの俺を抱きしめてくれる。

「大丈夫だよ、三薙。いい子だ」

不安な気持ちは消えない。
けれど全身から力が抜けて、何も考えられなくなっていく。
一兄のお香の匂いがして、ただ目をつぶった。



***




『お兄ちゃんは、アレになるんだよ』
『お前は、知らないといけない』

目をつぶると無邪気な幼い声と、どこか自棄になった大人の声がぐるぐると頭の中で駆け巡る。
頭の中を掻き回されるような、内臓を掻き回されるような不快感を伴う声。
人ではないナニカになった、二葉叔母さん。
あの痛みと苦しみを、俺は知っている。
腹の中をぐちゃぐちゃにされ、内部から溶かされているような、生きながらに食われていく、自分の存在が浸食されていく恐怖と痛み。
アレが内包していた闇は、きっと今まで俺が受け入れてきたものの、何倍も何十倍も、何百倍もある。
アレを受け入れることになったら、俺は、どうなってしまうんだ。

「………」

熱い風呂に浸かっているのに、寒気が止まらない。
ガタガタと震えて、温まらない。
俺は、アレになるのか。
あんな風生きながらに食われ、狂い、醜いバケモノになるのか。
いやだいやだいやだいやだいやだ。
怖い。

「三薙、まだ入っているのか」

ぐるぐると揺れる思考のどこかで、一兄の声が聞こえる。
答えようとして、声が出なかった。
手も足も動かせない。
世界が回って、気持ちが悪い。

「あ………」
「三薙、入るぞ」

閉じていた目を開くと、ぐらりと視界が歪んだ。
後ろに倒れ打ち付ける前に、何かに支えられた。
見上げると、心配そうに眉を顰める兄の顔がある。

「………いち、にい」
「馬鹿、のぼせる前に出てこい」
「………」

優しいのに。
一兄は、こんなに、いつものように優しいのに。
何も変わらない。
変わらない。
変わらないでいてほしい。

「泣くな」

苦笑して一兄の手が、俺の頬を撫でる。
そしてそのまま湯船から抱き上げられた。

「いち、に………」
「部屋に戻るぞ」

脱衣所で体を拭かれ、バスタオルに包まれ抱き上げられる。
頭がぐるぐるとして立つことが出来ず、一兄にされるがままに身を任せる。
いつもの優しいお香の匂いに包まれると、全身の力が抜けていく。
ゆったりとした振動が、眠気を誘い、瞼が重くなっていく。

気が付けば、柔らかい布の上に下されていた。
馴染んだ、自分のベッドの匂いがする。
目をなんとか開くと、一兄がこちらを見て微笑んだ。
胸がきゅうっと痛くなる。

なんでなんで、なんで。
一兄、なんで。
聞きたいのに、言葉が出てこない。

「ほら、水だ。飲めるか」
「ん」

言われて、喉が渇いていたことに気づく。
唇に当てられたペットボトルの口を吸い、飲もうとする。

「ん、くっ、かは、こほっ」

ゆっくりと注がれた水は、けれど寝たままだとうまく飲めず咳き込んでしまう。
濡れた唇を、硬い指が拭ってくれる。

「大丈夫か?」
「水、もっと」
「ああ」

もう一度水をねだると、一兄は自分でペットボトルの水を含む。
そしてそのまま、端正な男らしい顔が近づいてくる。
硬い唇が、俺の唇に触れる。

「んっ」

ゆっくりと舌で絡めながら注がれる水を飲みこむ。
水は少しだけぬるかったが、酷く甘く感じた。
目を閉じて、水を与えてくれる熱い舌を吸う。
けれど、舌はすっと、逃げていってしまう。

「も、っと」

小さく笑う気配がして、もう一度唇が重なる。
甘い水が注がれ、舌を吸いながら、飲み込む。

「ん、く、もっと」
「分かった」

何度かそれを繰り返して、ようやく、喉の渇きが収まる。
必死になって吸ったからか、唇が少しじんじんとする。
まだ、のぼせているせいか、呼吸が浅かったせいか、頭がぼうっとする。
体も熱くて、なんだかふわふわとしている。
もう一度重なった唇は、今度は水を含んでなかった。

「あ………ん」

優しく髪を撫でられ、さっきとは反対に唇を吸われ、舌をあやす様に撫でられる。
体から力が抜けていって、ベッドに沈み込むように体が重くなっていく。

「ん、はっ」

瞼が重くて、開かない。
優しい香り包まれ、優しい手に撫でられて、安堵感に眠気が襲ってくる。
抱きしめられるのが、心地いい。

「いち、に」
「少し眠れ」
「う、ん」

そうだ、眠ろう。
とても疲れた。
疲れた。

何も考えたくない。
眠ってしまおう。

きっと目覚めたら、全部、元通りなっている。





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