眼鏡の縁が鼻に触れて、咄嗟に目を瞑る。
瞑る前に見えたのは、志藤さんの眼鏡の奥の熱っぽい目。

「ん」

志藤さんの柔らかな唇が、そっと俺の唇を吸う。
一度触れたことがある、唇。
あの時は供給のためだった。
では、今はなんのために。

「な、に」

一度吸うと、すぐに離れていく。
目を開くと、志藤さんはやっぱりじっと俺を見ていた。
その穏やかな表情は、いつもの志藤さんなのに、なぜか別人のように感じる。

「三薙さん」

泣きたくなるほど優しい声で俺の名前を呼び、眼鏡を取る。
眼鏡を取った志藤さんは、いつもより幼く感じる。
目を細めて優しく笑い、もう一度顔を寄せてくる。
押しのけようとした手は、優しく、けれど抵抗を許さず抑えられる。
シートベルトに阻まれて、うまく身動きが取れない。
この人が、こんな俺の意思を無視をするようなことをするなんて、今までなかった。
いつだって、俺の意思を尊重してくれた。
お互い、助け合ってこれたと、思っていた。

「な、い、や」
「三薙さん」
「や、や、だ、んっ」

志藤さんの唇が、もう一度重なる。
先ほどよりも深く、強く、重なり、吸われる。
角度を変え、強く弱く、浅く深く、何度も何度も啄まれる。

「あ、ん、ふっ」

ちゅ、ちゅっと音を立てるのが恥ずかしくて、訳が分からなくて、涙が出てくる。
いつもだったら、俺が泣いたら気にしてくれる。
慌ててどうしたのかと聞いてくれる。
なのに今は気づきもせずに、痛くなってくるほどに、ただ俺の唇を貪っている。
食べられてしまいそうで、怖くなってくる。

「う………」

なんでなんでなんで。
どうしてどうしてどうして。
どうして、志藤さん。
どうして。
どうして、こんなことに、なっているんだ。

「志藤さん、しと、うさんっ」

唇が解かれた瞬間を逃さず、顔を逸らす。
すると志藤さんの前にむき出しになった喉に、顔を埋められる。
熱い吐息が触れて、志藤さんの匂いがして、大きな手は俺の腕を抑えていて、状況が理解できない。
訳が分からない。

「三薙さん、三薙さん、三薙さん」
「しとうさん!」

熱がこもり湿った息とともに、繰り返される、やっぱり熱のこもった言葉。
聞いたこともないほどに、感情が溢れる声。
志藤さんは、こんな風に俺の名前を呼んでいたっけ。
分からない。

「好きです。あなたが好きです。あなたが愛しい。こんなにも人を愛しく思ったことはありません。あなたがいて、私はようやくここにいることが実感できる。息ができる」

何を言っているのか、分からない。
まるで、知らない人のように感じる。
誰か、知らない、男の人のようだ。
恐怖がより大きく、身の内に大きくなっていく。

「あなたがいなければ、喜びも悲しみもない。あなたがいない世界なんていらない」
「あっ」

喉に、強く吸いつかれる。
痛みと共に、ざわりとした寒気が背筋を走る。
この痛みを知っている。
この痛みの先にあるものを知っている。

「三薙さん、お願いです、傍にいてください。どこにもいかないで。私を一人にしないでください」

カチャリと音がして、体の圧迫感がなくなる。
シートベルトが外されたんだ。
咄嗟に逃げ出そうと身をよじると、その前に体のバランスが崩れる。

「わっ」

視界が急にぐるりと揺れる。
気が付くと横たわり車の天井を見上げていた。
志藤さんが助手席に身を乗りだし、いつの間にか倒れていたシートに横たわる俺の肩を抑える。
大きな背と大きな手と、堅くたくましい体。
雄の匂いがする男性に、組み敷かれている。

「………っ」

怖い、怖い怖い怖い。
もう、こんなのは、嫌だ。
怖い。
もう、こんな風にされるのは、嫌なんだ。

「いや、いやです、いや、志藤さん、駄目です」
「拒まないで。私を拒絶しないで。お願いです」
「あ、いや、だ」

大きな手が、もどかしそうにシャツを引っ張る。
ボタンが2、3個飛んで、ワイシャツが肩から落ち、胸のあたりまで剥き出しになる。

「いやだっ」

顔を殴りつけようとした手はなんなく掴まれ、体ごとのしかかられる。
志藤さんが嬉しそうに微笑んで、俺の喉から鎖骨のあたりに触れる。

「っ」
「三薙さん、綺麗です。ずっと触れたかった。ずっと、焦がれていた。ずっとずっと、あなたに触れたかった」
「やめて、お願い、しとうさんっ」

怖い怖い怖い。
やめて。
俺の意思を無視しないで。
あなたまで、俺を、無視しないで。

「一矢さんも、四天さんも、受け入れたのでしょう。許したのでしょう。私では駄目ですか。大切にします。あなたを守ります。犠牲になんてしない」

守ると言いながら、志藤さんは俺の自由を奪っていく。
一兄や天と同じように、俺を、道具のように見ている。
モノのように扱う。

「聞いて、聞いてください。お願いだから、俺の話を、聞いて、……あっ」

今度は喉にまた噛みつかれる。
耳を、肩を、鎖骨を、確かめるように、舐め、噛みつく。
喰いちぎりたいのを我慢するように、志藤さんが深くため息をつく。
本当に、このまま喰われてしまいそうだ。

「ひっ、いや、いた、い」
「私を置いていくなんて、許せない。あなたも私を裏切るんですか。置いていくんですか」

何を、言っているんだろう。
どうして、俺の話を聞いてくれないんだ。

大事な友達。
唯一の、俺の同性の、友達。
支えあって助け合って、お互い強くなっていけたらって思っていた。
似た弱さを持った、優しく儚い、けれど強い、大切で、大事で、大好きな、友達。

「や、やぁ!」

ズボン越しに下半身に触れられる。
何をしようと、してるんだ。
儀式じゃない。
供給でもない。
じゃあ、これは何だ。
どうしてこんなことをするの。

「見せてください、触れさせて。あなたのすべてを、私に見せて」
「志藤さんっ」
「あなたは泣き顔すら、綺麗です。胸が締め付けられ守りたいと思い、それなのに、もっと泣き顔が見たいとも思ってしまう」

涙をぬぐうように、頬を舐められる。
目尻を舐め、涙を追いかけ耳まで舐め、最後に唇に触れる。

「んっ、うう、」

舌が、入ってくる。
力を伝達するわけではないキスは、酷く生々しく感じる。
理性は残っている。
力を感じる訳じゃない。
ただ、生温かく湿ってぬめぬめと動く肉の塊が、口の中を動き回る。
まるで何か生き物が、口の中にいるようで気持ち悪い。
くちゃくちゃと恥ずかしくなる音を立てて、喰いつくそうというように、唇を食み、舌を吸い、口内のすべてを舐め、歯列をたどる。

「ん、ん、はっ」

呼吸が出来なくて、苦しい。
酸素を求めて必死に呼吸をするうちに、頭が真っ白になっていく。

「はあ、三薙さん」

志藤さんが顔を上げるとその唇が濡れてぬめりと光る。
含みきれなかった唾液が溢れて俺の口を伝うと、その唾液すら舐めとる。

「も、やっ」

カチャリと音がして、ベルトが外される気配がする。
足をばたつかせ、体を押しのけようとするが、狭い車内とのしかかられる体勢に、うまく抵抗が出来ない。
志藤さんは子供の抵抗をいなすように、なんなく俺の動きを封じ込める。

「あ、や、いや、怖い、嫌、嫌です」

涙が更にぼろぼろと溢れてくる。
もう、嫌だ。
こんなの、嫌だ。

「触れたかった。ずっと、あなたに触れたかった」
「い、や、怖い、嫌です。嫌だ!離せ!」

ズボンの中に手が入ってくる。
下着越しに触れられて、びりびりとした強い刺激に体が跳ねる。

「ひ、やっ、離せ、離せってば!」

押しのけようとした手で、志藤さんの頬をひっかいてしまう。
ガリっという音と共に、指先に嫌な感触がした。

「っつ」
「あ」

志藤さんの呻く声に顔を上げると、その白い頬に赤い筋が二本出来ていた。
血の滲む頬は痛々しくて、怖くて、動けなくなってしまう。

「三薙さん」

志藤さんは、なのににっこりと笑って自分の頬に触れる。
愛おしそうに、目を細める。

「痛みだって、愛しく尊い」
「あ………」
「あなたが私に与えてくれるものは、全て喜びです」

怖い。
いつものように優しく笑っているのに、怖い。
どうして、こんなことになったんだ。
何が悪かった。
俺が、悪かったのか。
志藤さんが、まるで、別の男の人のようだ。
怖い、怖い怖い怖い。
友達だと思ってた。
大事な、友達だと思っていたのに。
志藤さんだって、俺を大事だと言ってくれたのに。

「あなたに私のすべてを差し上げます。だから、お願いです。あなたを、ください」
「ん」

手が握られて、もう一度キスをされる。
握られた手は、温かくて、優しい。
優しい、のに。

「三薙さん、三薙さん」
「や、だ」

何度も何度もキスが繰り返される。
志藤さん、熱っぽく、俺の名前を呼ぶ。

バン!

その時、突然大きな音がした。
なんの音か分からなくて、閉じていた目を開ける。

「くっ」

志藤さんの呻く声。
何かがぶつかりあうような音。
事態を認識する前に、ふっと体の軽くなる。
志藤さんが俺の上からいなくなっていた。

「なっ」

ドスっと重いものが放り投げられたような音。
シートから慌てて体を起こすと、助手席のドアが開いていることに気づく。
そこからひょいっと、誰かが覗き込む。

「兄さん、まだ貞操無事?」

それはいつも通り慌てる様子なく、皮肉げに笑う弟。

「天!」

なんでここに、天がいるんだ。
どうなっているんだ。

「ギリギリセーフみたいだね。あーあ、そんな剥かれちゃって」

天は俺の姿を見て、馬鹿にしたように苦笑する。
その視線に、今の自分の状態を思い出す。

「あ………」

シャツは引きちぎられ上半身はほとんど剥き出しで、ズボンもホックとファスナーが外され下着が見えている。
情けなくてみっともない格好に、涙がまた溢れだす。
悔しい、怖い、哀しい。
どうして。
どうして俺の意思は、全て、無視されるんだ。
慌ててシャツを掻き寄せ、身を縮こまらせるようにして視線から逃れる。

「ま、処女じゃなくてよかったね。未遂だし」

笑いながらの揶揄する言葉に、混乱と悲しみと恐怖が、怒りに塗り替えられる。
顔をあげ、意地悪そうに笑う弟を睨みつける。

「な、にいってんだよ!ふざけんなっ」
「そうそう、泣くより怒りなよ。犬に噛まれたと思って忘れれば?」
「なに、を」

言ってるんだという言葉は、最後まで言えなかった。

「天!」

天の後ろから、大きな手がその肩を掴もうとしていた。
慌てて名前を呼ぶことしかできなかったが、勘のいい弟にはそれで十分だったらしい。

「っと」

身をひるがえして、その手から逃れる。
そのまま後ろにいた人間から距離を取るように一歩車から離れる。
そして、呆れたように笑う。

「噛み癖があるって聞いてたけど、これは酷いな」
「邪魔をしないでください、四天さん」

志藤さんが佇みながら、天を睨みつける。
俺に向けていた優しい笑顔はなく、見たこともない冷たい表情だった。
天にこんな態度をする志藤さんも、見たことがない。
いつだって礼儀正しく、穏やかな人だった。
それなのに今は、ぴりぴりとするほどの、敵意が伝わってくる。

「あなたは、三薙さんを犠牲にしようとしているのでしょう?そんな人には、三薙さんを渡せません。三薙さんは、幸せにならなきゃいけないんです。三薙さんは笑っていなければいけないんです」
「誰のために?あなたのために?」

あくまでも余裕を持ち、馬鹿にするように天が嘲笑う。
志藤さんが忌々しそうに眉を寄せる。

「少なくとも、あなたよりは、私の方が、三薙さんを想っている」
「そうかもね。でも、まあ、兄さんにとってはどっちもどっち。敵でしょ」

天が言い終わるか言わらないかのうちに、志藤さんが踏み込み、その拳を天の鳩尾に叩き込む。
早く重く、風を切る音がする。

「わ、と」

天はわずかに右足を引き、すんでのところでその拳を避けた。
そして苦笑しながら、その手に持っていた剣袋の組み紐を解く。

「とりあえず、飼い主に噛みつくような馬鹿犬には躾が必要だね」

そして大きく一振りすると、綺麗な装飾が施された鞘が現れた。





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