カラカラカラカラ。 また誰かが訪れる。 もう誰も来ないで。 誰も俺に触れないで。 これ以上、怖い話をしないで。 これ以上、何も考えたくないんだ。 いやだいやだいやだいやだ。 けれど、どんなに願っても、襖はまた開く。 また、恐怖を持って、誰かが現れる。 もう、嫌だ。 「………だ、れ」 横たえていた体を起こして、身構える。 窓から差し込む月明かりだけの暗い室内では顔がよく見えなかったが、長兄でも末弟でもない小柄な影だ。 「行燈に火をいれてもよろしいですか?」 その影は、愛らしい鈴を転がすような声でそう言った。 聞き覚えのある、可愛らしい声。 つい、先日も、電話越しに聞いたばかりだ。 「栞ちゃん………?」 「はい、お久しぶりです。明かりつけますね」 栞ちゃんが行燈に向かい、中に火を入れる。 二つある行燈で照らされると、室内は随分と明るくなった。 オレンジ色に照らされる部屋の中で、栞ちゃんがにっこりと笑う。 「こんばんは、三薙さん」 「………」 なんで、栞ちゃんが、来たんだろう。 ぼんやりとして働かない頭をなんとか働かせる。 栞ちゃんは、なんだったっけ。 この子も、俺を騙していなかったっけ。 「ご飯、食べてないんですね。お体に悪いですよ。夕飯持ってきました。召し上がってください」 栞ちゃんが持ってきていたらしいお盆を掲げてみせる。 上には何か、ポットのようなものが乗っている。 「食欲、ないんだ………」 けれど、食欲はまったく、わかない。 ほとんど何も食べてないのに、空腹を感じない。 胃は痛みを感じてる。 頭も痛い。 なんだか体が熱を帯びているような気もする。 「スープですから、負担が少ないと思います」 栞ちゃんがポットを、マグカップに注いでみせる。 ふわりと漂うスープの匂いに、吐き気を覚える。 栞ちゃんがそれを俺に差し出すが、受け取れず首を横に振る。 「こんなにやつれて。お可哀想に」 栞ちゃんはマグカップを畳の上に置きながら、眉を顰める。 悲しそうな顔で、その白く小さな手を伸ばしてくる。 「大丈夫ですか?」 栞ちゃんだと思って油断して、結界を張っていなかった。 緊張で身を竦めるが、その手は優しく俺の頬を撫でるだけだった。 「私が、もうちょっとうまく立ち回れば、よかったんですかね」 頬を撫で、頭を撫でてくれる。 まるで、小さな子を相手にするように、優しい声と手だ。 「ごめんなさい。三薙さんがそこまで気づいてるとは思わなくて。もっとちゃんと嘘をつけばよかったです」 「………栞ちゃん」 そうだ、この子も、俺に嘘をついていたんだ。 触れる手に、途端に恐怖を感じる。 奥宮の声を聞いたと嘘をついた。 それは、なんのためだったんだ。 「お辛いですよね。可哀そう。急に色々な事実が出てきて。こんなの、残酷です。知らないままでいられたらよかったのに」 栞ちゃんは泣きそうに顔を歪めて、本当に俺を憐み、気遣っているように見える。 優しい手は俺の頭を抱え込み、自分の胸に引き寄せる。 「辛かったでしょう。いいんですよ、泣いても怒っても」 「………っ」 「疲れましたよね。心も頭も、休めてください」 優しい手に、優しい言葉に、涙が溢れてくる。 あの駅で倒れてから、ずっと、追われていた。 真実に恐怖に追われて、怯えて、眠ることも、考えをやめることもできなかった。 誰も俺に、休む暇をくれなかった。 見たくない現実を突きつけるだけだった。 「三薙さんは、可哀そうです」 栞ちゃんが何を考えているの分からない。 年下の女の子にすがるなんて、情けなくてみっともない。 でも、もう、疲れた。 「あ、………うっ、く、あ………」 「三薙さんは、何も悪くないんですよ。何も間違ったことはしていません。泣いてもいいし、怒ってもいいんです。あなたは、感情のままに、周りを詰ってもいい」 「………ひ、あ」 こらえ切れず、みっともなく嗚咽を漏らす。 涙が溢れてきて、栞ちゃんのワンピースを濡らしてしまう。 駄目だ、気を許すな。 この子だって、俺に嘘をついた。 でも、高く愛らしい声と、いたわりを持つ手が、優しい。 「可哀そうです。しいちゃんも一矢さんも、酷いです。性急すぎです」 けれど、その言葉で涙が止まる。 そうだ。 この子は、たぶん、知っているのだ。 自分が奥宮の候補ということを、謳宮祭が、その選定の儀式だと。 「いくらなんでも、もっとやり方があると思います」 憤慨するような声を聞きながら、顔を上げて、栞ちゃんから身を離す。 涙を手の甲で拭って、深呼吸をして、息を整える。 栞ちゃんは、俺を気遣わしげにじっと見ていた。 「大丈夫ですか?」 労わる声も表情も、なんらおかしなところは感じない。 心から俺を心配しているように見える。 「………栞ちゃんは、全部、知ってたの?」 「はい」 「………」 栞ちゃんはためらいなく頷いた。 後ろめたさも、気負いもそこには感じない。 俺が言葉を失うと、ちょっと困ったように首を傾げた。 「私は全て知っていました。黙っていてすいません。先宮の言いつけということはありますが、でも、知らない方がいいと思っていたんです」 「なん、で………」 「奥宮になる日に怯えて毎日過ごすのは、辛いことだと思うし」 知っていた方がよかったのか。 知らない方がよかったのか。 分からない。 もう、それは分からない。 でも、この子は全部知っていたのだ。 全部全部全部。 俺が奥宮となることが決定したことも、知っていたのだ。 それを、喜んでいるのだろうか。 俺に決まってよかったと思っているのだろうか。 だから、こんなに朗らかなのだろうか。 俺を憐み、見下しているのだろうか。 「………栞ちゃんも、俺が、奥宮になればいいと思ってるの?」 声に険が混じってしまう。 これは、八つ当たりだ。 この子を攻撃したいと思ってしまった。 奥宮から逃れたこの子が、憎らしいと思ってしまった。 「いいえ?」 でも、栞ちゃんは、首を横に振って、愛らしく笑った。 「本当なら、私が奥宮になりたかったんです。だから、私、三薙さんのことすごい羨ましいんですよ?嫉妬しちゃいます。ジェラシーです!」 「な、んで、そんな」 いつものように握り拳を握って、愛らしく頬を膨らませてみせる。 何を言っているのか、分からない。 この子は、何を言っているのだろう。 どうせ、俺に決まったからって、茶化しているのだろうか。 「金森の力の話、覚えてます?」 「え………」 「金森は、体内の力を扱うこととかに長けているんです」 栞ちゃんは、俺の困惑に気付かないのか、気にしないのか、にこにこと笑う。 すっとその場に立ち上がると、身に着けていたふんわりとしたワンピースを肩から落とす。 とさっと音を立てて、それは畳に落ちる。 「な、ちょっと、栞ちゃん!」 下着を身に付けているとはいえ、オレンジの光に照らされた白い肌が、眩しい。 こんな時でも、ドキドキと心臓が早く打ち、すぐに目を逸らす。 「は、早く、服着て!」 「あはは、三薙さん、ちょっと見てください」 「ええ!?」 「いいですから。ちょっとだけでも。減りませんから」 すごく罪悪感と抵抗感を感じたが、何度も促されるので、ちらりと栞ちゃんに視線を戻す。 まるで日本人形のような、長い髪に、小柄で折れそうなほどに細い、綺麗な体。 華奢で白い、体。 白い。 「………それ、は」 思わず目を見張り、栞ちゃんに向きなおす。 下着姿の栞ちゃんの体。 その白い肌には、絡みつくように、不思議な模様が描かれていた。 肩から胸に、腹から腰、腰から腿まで、蛇が巻きついているようにも見える。 最初は何か、絵の具とかで描いているのかと思った。 でも違う。 その淡く輝く模様は、栞ちゃんの体に刻み込まれている。 見たことのある、文字。 「………それは、術?」 「はい」 栞ちゃんは体を巻きつくような文様を、そっとなぞって見せる。 手が伝った場所が、ふわりと光を放つ。 不思議な、でも綺麗な光景。 栞ちゃんの華奢な体を、まるで彩り引き立てているような、美しさ。 「普段は見えないんですが、力を使うときだけ、こうやって見えるんです。結構綺麗でしょう?でも刺青だからすごい痛いんですよ。小さい頃からちょっとづつ針を入れて、後少しで完成です」 前に見たときは、こんなものはなかった。 刺青、なんて、なかったはずだ。 ああ、見えなかっただけか。 完成って、なんだ。 何が完成だ。 「完成したら、奥宮としての器になれるんです」 栞ちゃんは半裸の姿で佇みながら、にこりと笑う。 普段と同じ、朗らかで、明るい笑顔。 「金森の家は遠縁なのに、宗家に近くて発言力があるでしょう?これがその所以です」 金森の家は、遠縁だけど、うちとは親しい付き合いをしていた。 幼いころから、栞ちゃんは家に出入りをしていて、それで仲良くなった。 頻繁に訪れる妹のような少女と、よく遊んだ。 家に出入りしていたのは、なんの、理由だった。 「奥宮候補が少ない時は、金森の家からスペアを出します。私は、昔から三薙さんのスペアだったんですよ」 スペアって、なんだ。 何を言ってるんだ。 そこで栞ちゃんがふうっと、ため息をついて、唇を尖らせる。 「どうしても宗家の力には及ばず、いい器ではないから、実際奥宮になることは少なかったみたいです。それでも少し輩出してるんですよ」 しょんぼりとした顔をした後、すぐに明るい表情に戻り胸を張る。 とても誇らしげに、自慢げに。 「でも私、五十鈴さんよりは多分よくできた器なんですよ。この術式もかなりうまくいったって言われてるんですから。素質あるって言われてるんですよ!」 楽しげに笑う栞ちゃんから目を離せない。 その愛らしい仕草も、日本人形のような綺麗な容姿も、全て、可愛い妹のような少女のものなのに。 なんで、なんで、なんで。 「だから、別に私、三薙さんが奥宮になってほしいとか思ってませんよ。むしろ三薙さんがならないなら私が代わりになりますから。まあ、もう選ばれてしまったんですけど」 「………」 「もう、すっごく悔しい!」 いつも気合を入れる時も拗ねる時も、彼女は拳を握り、頬を膨らませてみせる。 その仕草がとても愛らしくて、微笑ましかった。 いつもと変わらない、愛らしい仕草。 それなのに、違和感を感じる。 これは誰だ。 この目の前にいる子は、誰だ。 愛らしい仕草をする、この子は誰だ。 「元々、叶わないかなあとは思ってたんですけどね。三薙さん、本当にすごいらしいんで。でも、私でも、二葉さんには勝てたかも」 運が悪かったなとひとりごちる。 二葉さん。 そうだ、二葉さんだ。 奥宮になったら、あんなになるのだ。 醜い、化け物。 ずっとずっと、苦痛に耐え、苦しむのだ。 「で、でも、でも、奥宮になったら、ずっと、あれになるんだよ!?そんなの!そんなの………っ」 なんであれになりたいなんて言えるんだ。 本当に分かっているのか。 あれが、どんな苦痛なのか分かっているのか。 「はい、そうですね」 けれど栞ちゃんはやっぱりにっこりと笑う。 「無理に体いじってますからね。どうせ私もそう遠くないうちに壊れます。もう結構ガタが来てます」 「………っ」 ガタが、来てるって、なんだ、それ。 なんでそんなことを笑っていえるんだ。 「あ、三薙さんも多分そうですよ?どんどん消費は激しくなるそうです。そのうち、しいちゃんと一矢さんの力でも賄えなくなるぐらい」 今、身を満たしているこの力でも、賄えないときが来る。 なんだ、それ。 そんなの聞いてない。 何も知らない。 俺は何も、聞いてない。 「どうせ壊れる道具なら、有益に使ってほしいでしょう?こんなに苦労したんですから」 「あ………」 無邪気に、朗らかに笑う栞ちゃんに、言葉が出てこない。 頭が痛い。 ガンガンする。 栞ちゃんが、小さくくしゃみをした。 その音にすら、頭痛が増す。 「あはは、風邪ひいちゃいますね。すいません、こんな恰好しちゃって」 照れくさそうに言いながら、ワンピースを着なおす。 でも、俺の脳裏にはさきほどの文様が、しっかりと刻み込まれている。 奥宮となるべく、刻まれた、呪詛。 そうだ、あれは呪詛だ。 「ああ、冷えちゃいましたね。新しいの淹れます」 栞ちゃんがもう一つマグカップを取り、スープを注ぐ。 そして、そっと俺にまた差し出す。 「さ、召し上がってください。なんにしても、餓死なんて嫌でしょう?」 「………」 「あーんですよ。なんか照れくさいですね」 今度はスプーンで掬い、口に差し出される。 されるがままに口に含むと、コンソメの味に、吐き気がぶり返す。 けれど栞ちゃんはもう一口差し出す。 また飲み込む。 気持ちが悪い。 吐き出してしまいそうだ。 「栞ちゃんの、夢って………」 途中で、ふと、思い出して、問う。 スープから逃れたいという気持ちもあった。 栞ちゃんが、スプーンを止める。 「夢ですか?」 栞ちゃんは夢があるといった。 未来なんてないと自分で言っていたのに、どんな夢を見るんだ。 奥宮になりたいなんて、俺を騙そうとする、嘘じゃないのか。 本当は、未来に希望と夢を持っているんじゃないのか。 どこか縋るように、問う。 「全部は、言えません。二人きりの内緒ですから。でも、ちょっとだけ教えてあげますね」 三薙さんは特別だから、と言って栞ちゃんは小首を傾げて笑う。 そして、頬を赤らめて小さな声で言った。 「しいちゃんが先宮になって、私が奥宮になることです。ふふ」 いつも四天のことを語るときのような、嬉しそうな照れくさそうな、はにかんだ表情。 愛しい恋人を思ってか、目を伏せて、幸せそうに微笑む。 「ずっと、私が死ぬまで傍にいるって、素敵でしょう?」 コンソメの味が、舌に残っている。 喉の熱さが、不快だ。 吐き気が、する。 「一般的女子高生として、愛する人と添い遂げたいって思う訳です!」 栞ちゃんが、愛らしく、握り拳を作る。 |