夜になって、食事を持った宮城さんが訪れた。 重湯に近いおかゆが皿に半分ほど残っている皿が置かれているのを見て一つ頷く。 「召し上がられたんですね。ようございました。こちらは夕飯と、お薬です」 「………」 ポットに入ってるのはスープか、おかゆだろう。 プリンの後におかゆを無理やり少しだけ食べたせいで、まだ胃は痛いし、腹は減ってない。 気持ち悪くて、今にも吐いてしまいそうだ。 でも、少しだけ食べて、薬を飲もう。 このまま横たわっていても、事態は何も変わらない。 いや、ただ最悪な方向に流れるだけだ。 何も知らず、何も考えず、何もせず、ただ、時間が経ち、無理やり生かされ、奥宮となるだけだ。 その前に、自分で命を絶つか。 それでもいいかもしれない。 今までも、ままならないこの体を疎んでいた。 これ以上、自分の体が自由にならないのは、嫌だ。 最後ぐらいは自分の意思で、この体を動かしたい。 でも、俺はまだ生きている。 俺はまだ何もしていない。 まだ、全てを知らない。 まだ、何か出来るはずだ。 俺は、強い。 死ぬのは、いつでもできる。 だったら、色々なことを、確かめてからでも、いいはずだ。 この部屋から出ることは出来ない。 でも、考えることは、出来るはずだ。 「では、失礼いたします」 宮城さんがシーツや布団カバーを替えて、部屋を整え、汚れ物を持って出ていこうとする。 そういえば、風呂も、入らなきゃ。 ゴミみたいな匂いが、するんだっけ。 「………はは」 ゴミ、か。 佐藤は、そういえばとても正直な子だった。 明るくて自分の感情に正直で元気で、そんな溌剌としたところに惹かれていた。 何も、変わっていない。 何も、変わってないのにな。 「三薙様、何か?」 不意に笑った俺に、宮城さんが振り返る。 顔を上げると、そこにはいつも通り何も表情を見せない小柄な老人の姿。 行燈のオレンジ色に照らされた顔が、不気味に感じた。 「………宮城さん」 「はい」 やっぱり感情を含まない、平坦な声。 刻まれた皺は、ぴくりとも動かない。 「俺は、これからどうなるんですか」 「私には分かりかねます。すべては先宮の御心次第です」 「俺が奥宮にならないっていうことは、許されるんですか」 「私には分かりかねます」 おかしくて、笑いがこぼれてしまう。 そうだ、この人が感情を揺らすはずがないし、勿論質問に答えてくれるはずがない。 時代錯誤なまでに、うちの家に忠実な人だった。 時代錯誤。 そうだ、それが、宮守の家だ。 昔からの因習を受け継ぎ、守り、また伝えていく家だ。 知っていたのに、知らなかった。 俺は、何も知らなかった。 ただ大事にされ守られ愛され、この狭い檻の中で幸せに浸って生きてきた。 目隠ししているように、何も見えてなかった。 「あなたが、俺を大事だと言っていたのは、俺が奥宮だからですか」 「宮守家の皆様は、全て大事な方たちです」 いっそ、拍手をしたくなるほどのポーカーフェイスだ。 この人が賭け事をしたらきっととても強いだろう。 「………みんなが俺を大事にしてたのは、俺が奥宮だからですか」 「私には分かりかねます」 分かっていた言葉に、失望する。 誰も、俺の疑問に答えてくれない。 誰も、教えてくれない。 「………もういいです」 「では失礼いたします」 宮城さんが出ていくと、我慢していた感情が溢れだす。。 また、黒く重くぐちゃぐちゃなものが胸から、涙と共に零れだす。 「………くっ、ふ」 ぼろぼろぼろぼろと、我慢できずに、流れていく。 苦しい。 誰もがみんな、俺に嘘をついていた。 誰もが、俺を騙していた。 誰も、俺に真実を教えてくれない。 ただ、あの化け物になることを望まれていた。 今まで大事にされていたのは、俺があれの器だからだ。 悔しい悔しい悔しい悔しい。 哀しい、苦しい、痛い、哀しい。 哀しい。 「は、あ………」 何が苦しい。 何が辛い。 何が哀しい。 俺は、何が哀しいと思っている。 俺をモノとして見ていたこと。 俺に嘘をついていたこと。 俺を騙していたこと。 「………皆が、俺を、騙していたことが辛い。苦しい」 笑っていたと思っていたのは、笑っていなかったのか。 俺を大事だと言った言葉は、俺ではなくこの体だけだったのか。 一緒にいて楽しいと言ってくれたのは、嘘だったのか。 俺は本当に笑っていた。 俺はみんなが大事だった。 一緒にいて、とても楽しかった。 幸せだった。 それが、一方通行だったのが、とても、哀しい。 俺の気持ちが、通じてなかったのが哀しい。 みんなが、本心を見せてなかったのが哀しい。 「騙したりなんて、しなければ、よかったのに」 嗚咽が止まらない。 泣くのも疲れて苦しいのに、涙が止まれない。 言ってくれればよかった。 一緒にいて楽しくなかったなら、そう言ってくれればよかった。 大事だなんてふりをしないでほしかった。 モノならば、モノとして扱ってほしかった。 それなら、こんな、哀しい思いをしなくて済んだ。 そうだ。 皆を、好きにならなければ、こんな辛くなかった。 「皆が、好きだから、辛くて、哀しい」 大事だから、辛かった。 好きだから、哀しかった。 今も、こんなに苦しい。 「どうして、騙したりしたの」 どうして、俺を愛して育てなければいけなかった。 奥宮は、慈しんで、愛して育てなければいけないと言っていた。 どうして、そんな残酷なことをするんだ。 「理由、聞かなくちゃ」 この前は、聞けなかった。 これも、聞こう。 そして、それからどうする。 俺は、どうしたい。 「俺は、どうしたい?」 聞いて、どうなる。 何が、変わる。 どう変わる。 俺の未来は変わるのか。 俺はこの後、どうなるんだ。 今のままなら、道は一つしか用意されてないだろう。 「奥宮になる?」 全てを諦めて、あの化け物になる。 ざわりと背筋に寒気が走って、体が震える。 畳に爪を立てて、叫びだしたくなる衝動を堪える。 「いや、だ」 あれは、怖い。 あんなのになりたくない。 痛い思いも、怖い思いも嫌いだ。 あれは、痛くて怖くて、冷たくて、真っ黒だ。 あんなのに、なりたくない。 「逃げ出したい?」 どうにかして、逃げ出すか。 一兄は学校へ行っていいと言ってるらしい。 なら、隙をつくことも出来るんじゃないだろうか。 今度は失敗しない。 ちゃんと用意をして、逃げ切る。 逃げて逃げて逃げて、奥宮から、逃げ出す。 「それで」 でも、それから、どうしたらいいんだろう。 逃げた先には何があるんだろう。 俺は何が出来るんだろう。 家の庇護もなく、俺は一人生きていけるのだろうか。 無知でなんの力もない、俺が。 「………」 それに、その後は、どうなる。 俺がいなくなって、残された人間はどうなる。 奥宮は、誰がなる。 「栞ちゃんは、五十鈴姉さんは、どうなる」 一兄の言葉から言えば、栞ちゃんが次の奥宮になる。 栞ちゃんももうすぐ出来上がると言っていた。 それに、栞ちゃんは奥宮になりたいと言っていた。 なら、全てを押し付けて逃げてもいいのではないだろうか。 俺は、奥宮になんてなりたくない。 でも、栞ちゃんはなりたい。 それなら、それでいいじゃないか。 俺がなる必要なんて、まったくない。 そうだ。 そのはずだ。 そのはずなのに。 「………」 屈託なく笑い、奥宮になるのが夢だと語った遠縁の子が脳裏に浮かぶ。 栞ちゃんも、いつもと態度は変わっていなかった。 でも、なぜか、とても痛々しく感じた。 白い折れそうなほどに細い体。 その身に刻まれた、綺麗な文様。 その呪詛をおって、栞ちゃんは笑った。 奥宮になれたら嬉しいと笑った。 その彼女に、全てを押し付けて、逃げる。 「………俺は、どうしたい?」 頭を掻き回しても、すっきりしない。 ただただ、黒く汚いものが、胸にたまっていくだけだ。 楽になんて、なれない。 どうしたら楽になれる。 こんなこと、今まで考えたこともなかったのに。 なんで、こんなことになってしまったんだろう。 誰が悪いんだろう。 みんな、いつから俺を騙していたんだろう。 「一兄は、何を、考えている。双兄は、四天は。父さんは、母さんは」 俺に笑いかけるその顔の下に、何を隠していた。 いまだに分からない。 何を考え、何を思い、俺に接していた。 「一兄は、俺を、奥宮にしたい」 それは、たぶん、間違いないと思う。 一旦奥宮の存在を知った俺を、それでも騙しとおそうとした。 あのままだったら俺は、一兄が望むなら、拒み切ることは出来なかっただろう。 一兄の望むようにしていただろう。 だって、俺にとって、一兄の存在は絶対なのだから。 両親よりも誰よりも、尊敬し、大事に思い、頼りにしていた人だった。 今だって、きっと、一兄が頼むのなら、俺は従ってしまうかもしれない。 「………っ」 まだ涙が溢れてくる。 優しく厳しく、俺を導いてくれた大きな手。 ずっと俺を守るためにあった、頼もしい手。 大事だと言って抱きしめてくれる優しい声。 今でも、こんなに、大切なのに。 「う、く」 涙を必死に拭う。 泣くな。 とりあえず今は、泣くな。 考えよう。 考える時間は、まだあるんだから。 「天は、何を考えている」 口にして、なんとなく、不思議に思った。 そういえば、天は、ちぐはぐな言動が多い。 俺を奥宮にしたいのかと思えば、栞ちゃんと奥宮になるのが夢だという。 俺を詰ったかと思えば、優しくする。 俺がぞんざいに扱いながら、大事だと言う。 「なんで、だろう」 天の言葉は、よく分からない。 一兄よりも、分からないかもしれない。 全て教えてくれると、前に言っていた。 四天は約束を破らない。 だったら、教えてくれるだろうか。 嘘をつかないという言葉が、すでに嘘かもしれないけれど。 「自分でも、もっと考えよう、天の言葉、天の行動」 天が、何を考え、行動しているのか、考えよう。 何も知らないままだなんて、もう嫌だ。 「俺は、何を、望んでいる」 一兄と天の考えを知って、それからどうなるんだろう。 俺は、どうすればいいんだろう。 「俺に、出来ることは、なんだ」 奥宮になることしか、出来ないのだろうか。 他に何も、俺には残されてないのか。 俺が育まれてきたこの環境は、それを望んでいるのは確かだ。 そのために、俺は育てられてきた。 「俺が、大事にされていたのは、奥宮だから」 父さんも母さんも一兄も双兄も天も、ずっと知っていた。 俺が、アレになることを知っていた。 それを、望まれ、大事にされてきた。 「いっそ、最後の最後まで、知らなければよかったのに」 適当な理由をつけられて、身を捧げろと言われれば、俺は承諾しただろう。 みんなのためになるなら、きっと躊躇いながらも喜んだだろう。 いっそ、そうなった方が、幸せだった。 ずっとみんなに騙されてきたなんて、知りたくなかった。 なぜ、双兄は、俺に教えたのだろう。 憎しみのような感情も、覚えてしまう。 「………でも、本当に?知らない方がよかった?騙されたまま、奥宮になるほうがよかった?」 何も知らないまま、奥宮になればよかった? 今のように知って、無駄でも抵抗したほうがよかった? 「どっちが、よかった?」 分からない分からない分からない。 何も知らなかった頃に戻りたい。 楽になりたい。 でも、知りたい。 何も知らないままなんて、御免だ。 「二葉叔母さんは、どうだった?」 全てを知って身を捧げたあの人は、何を考えいたのだろう。 知りたい。 どうして、家のために、尽くすことが出来たのだろう。 「祐樹さんは、雛子ちゃんは、どうだったんだろう」 あの二人は、利用されたのだから、事情が違うけれど。 でも、ワラシモリはどうだったのだろう。 昔の、人間だったころの記憶を持っているようだった。 そういえば、彼女は、宮守を罪深いと言っていた。 このことを、知っていたのだろうか。 「ワラシモリ………」 二葉叔母さんにも、会ったようなことを言っていた。 宮守と、関係深いようだった。 会いたい。 そして、話を聞きたい。 あの、幼い少女の神に、もう一度会いたい。 話を聞きたい。 聞いて。 聞いて、そしてどうなる。 「俺は、どうしたい」 結局問いかけは、そこに戻る。 どうしたい、かなんて分かってる。 奥宮になんて、なりたくない。 「俺は、生きていたい。皆で、笑っていたい。もっと広い世界を知りたい。色々なところに行きたい」 望むのは、ただそれだけだった。 大切な人たちと笑っていられれば、それはとても幸せだった。 未来を夢見ていた。 でもその夢は、酷く困難なものだった。 「俺には、後どれくらい………」 ただ、一緒にいたかった。 ただ、みんなで笑っていたかった。 「………俺は」 それが、望みだった。 |