四天は一度目を閉じて、また開く。
それからテーブルについていた手を離し、浴衣の裾をはらってゆっくりと立ち上がった。
俺に一歩近づいて、軽く首を傾げる。

「理由を、聞いてもいいかな?俺には聞く権利あるよね?」

天の意思に沿った答えではない。
けれど、弟は少し微笑みすら浮かべている。
それが余計に怖くて威圧感を感じて、後ろに下がりそうになる足をなんとかとどめる。
天は、たぶん今、怒っている。
唾を飲み込んで、手を握り締める。

「………俺に残された、選択肢はそう多くない」

天が促す様に、頷く。
伝えなければ、いけない。
天は、本心を、真実を伝えてくれた。
だから俺も、本心を話す。
それが天の怒りを、買うものであっても。

「その上、どれも、選びたくないものばっかりだ。すべて放り出して逃げたくなる」
「うん」

一兄を選んであの苦しみに囚われるのも、四天を選んで宮守と共に滅ぶのも、どれからも逃げて干からびて死ぬのも、どれも考えたくない、選びたくない。
俺が望んでいた未来は、そんなものではなかった。
ただ、一兄が双兄が天が傍にいて、岡野や槇や、それに藤吉や佐藤がいて、志藤さんがいて、熊沢さんがいて、皆で笑って、楽しく過ごせればよかった。
皆がいれば、それでよかった。
でももう、そんな日は来ない。

「でも、だからといって、逃げ出してもどうしようもない。どうせ俺は干からびて死ぬ。逃げても死ぬし、逃げなくても、結局楽しく生きるなんて、出来ない」

どれも選びたくない。
でも、どれかは確実に来る未来だ。
選ばずに唯々諾々とそのまま過ごせば、迫りくるのは納得もできない確実な破滅。

「だったら、より嫌なのを、考えた。消去法」

天は黙って、俺の二歩前で、聞いている。
どれも選びたくないなら、後は後ろ向きな選択しかない。

「逃げるのは、嫌だ。ていうか無理だ。逃げられる気もしない」
「志藤さんを利用すれば?」
「………それも嫌だ」

志藤さんと逃げれば、少しは、逃げられるかもしれない。
それも、ちょっとは考えた。
あの人は、あの愚かな人はきっと、俺を連れて逃げてくれるだろう。
その力を分け与えてくれて、いずれ滅ぶその時まで一緒にいてくれるだろう。
それは泣いてすがりたくなるほどに、魅力的だ。
でも。

「あの人には、幸せになってほしいから」
「今更?もう、あの人は兄さんにメロメロなのに?」

天のからかうような言葉にはのらず、首を横に振る。

「それでも…、利用したけど、それでも、いや、だからこそ」

一緒にいてほしいと、思った。
でも、俺に想いをくれた人だからこそ、あの人だからこそ、そんなの、駄目だ。

「あの人には幸せになって、それで、俺という存在がいたこと、覚えていてほしい。だから俺と一緒に死ぬなんて、駄目なんだ」
「あの人にとったら、兄さんと死ぬことこそ幸せかもしれないのに?」
「………でも」

分かってる。
もしかしたら俺の望むことこそ、あの人にとって残酷なことかもしれない。
だからこそ、俺はあの人を更に利用する。

「ずっと、ずっと、家族以外にも、俺がいたって、覚えていてほしい」
「………」
「いずれ、誰からも忘れられるんだろうけど、それでも、少しの間でいいから、覚えていてほしい」

矛盾するけれど、岡野と槇にはすぐにも忘れてほしい。
家族はきっと、覚えてはいるだろう。
でも、それだけだ。
それ以外は、俺なんて存在、なかったようなものだ。
そんなの、嫌だ。
俺という存在を、覚えていてほしい。
それをしてくれるだろう生贄に、俺はあの人を選んだ。

「それに逃げたら、栞ちゃんや五十鈴姉さんが、きっと、次の奥宮になるだけなんだろう?」
「そうなるかな」

天は少し目を伏せて、あいまいに頷く。
だって、それしかない。
俺がいなくなれば、代わりが立つだけだ。

「そんなの、見たくない。俺のせいであの二人がなんて」
「自分がいい子になりたい?」
「………」

天の少し苛立ったような、責めるような声。
その挑発に、やっぱり心が強く動くことはない。

「いい子、か。そうなのかもしれない」
「………」
「俺は、あの二人が生贄になる姿を見て、罪悪感を抱えて、干からびて死ぬなんて、ごめんだ」

いい子で、ずっといようと思っていた。
一兄に、家族に、認められ、褒められるために、いい子でいるしか、なかった。

「ずっとずっと、嫌だった。何もできず、何も成せず、ただ自分の力のなさに絶望して、いずれ死ぬのを待つのは、嫌だった」

家の中で一人だけみそっかすで、でも誰にも責められず、庇護され、慰められるだけの存在。
怒られもしなかったのが余計に辛かった。
ただ、退屈で安全で変わりのない、死んだような日々を過ごしていた。
あの家しか居場所がないのに、あの家にいると疎外感を感じていた。

「俺は誰にも期待されず、望まれず、家にずっといた。家の外に、出ることすらできなかった。ただお前たちが仕事に行き、成功して帰ってくる。俺はそれをただじっと見ている。お前たちに寄生して、力のおこぼれをもらいながら、いずれくる終わりを、待つだけだった」

ずっと、漠然と自分が長く生きられないと思っていた。
いずれくる終わりは、そう遠くないだろうと。
それまで俺は家族に寄生しながら、何もできない自分を呪いながら生きるだけだと。
それが、ずっと嫌だった。
苦しかった、辛かった。
何もできない自分が、厭わしくて仕方なかった。

「だから」

生きながら自分が腐っていくような感覚。
腐臭の中にいるのがどんな気持ちか、天には分からないだろう。
俺に天の気持ちが分からないように。

「嫌なんだよ。何も成せず、ただ、終わるだけなんて、絶対ごめんだ!!」

腐っていくのは、ごめんだ。
何も成せず死ぬぐらいなら、何かを成し遂げて、生贄になる方がましだ。
後で後悔するかもしれない。
でも、それでも、栞ちゃんと五十鈴姉さんが犠牲になるのを見て、自分だけ逃げて腐っていくなんて、そんなの、嫌だ。

「それこそ、宮守が兄さんをそう育てたのだからだとしても?兄さんに、劣等感と自虐心を植え付けてきたのは全部俺たち宮守だ。兄さんがそう考えるのすら、計算だ」

それは、そうなのかもしれない。
俺が何も成せず、何も生み出せないと思ってきたのは、それが嫌で仕方ないと考えるようになったのは、宮守のせいなのかもしれない。

「それでも」

何が俺にとって大事か。
ずっとずっと、考えてきた。
利用されたことを恨み、憎み、宮守に復讐するか。
何もかもを放り捨てて終わるまで逃げるか。
それとも、利用されているのを分かりながら、生贄になるか。

「でも、逃げたら、本当に俺は、何も残すことなく、終わる!そんなの、嫌だ!!」

利用されていたとしても、俺の気持ちが作られたものでも、でも、嫌なんだ。
これ以上、役立たずで、誰からも必要とされず、何もできず、死んでいくなんて、嫌だ。
せめて何かの役に立って、誰かのためになって、死にたい。

「だから、何かをしたい。どうせ死ぬならこの命を有効に使いたい。それで、志藤さんが覚えていてくれるなら、それでいい」

俺の犠牲が、宮守のためになる。
そして俺の存在を志藤さんが覚えていてくれる。
それが、俺が思いついた、まだマシな、最悪の中の少しだけ上等な考え。
どこかで自分の選択を馬鹿だと、憎んで滅ぼせ、何もかも捨てて逃げ出せ、と、そう思う。
でもやっぱり、答えはここに戻ってくる。
崇高な使命感なんてない。
俺が犠牲になるなんて気持ちもない。
ただ、嫌なんだ。
無駄に死ぬのが嫌で、怖くて仕方ないんだ。

「………どうして、諦めるの?どうして、最後まで生きようと、戦おうとしない訳?」
「諦めてなんて、ない。選択肢が少ないって言ったのはお前だ」

天が、静かな声で、表情で、淡々と続ける。
いつものように冷静で、感情が揺らいでいるようには見えない。

「じゃあ、俺を選べばいい。兄さんの命で、俺の目的は達成できる。宮守は滅ぶ。何かを、残せる。宮守家の崩壊なんて、兄さんの終わりを飾る華々しい結果じゃない?綺麗な最後の徒花」
「………」

それも、考えた。
四天の手を取って、宮守を滅ぼす。
それも、暗い喜びに浸れる空想だった。
俺を騙して利用して、死に勝る苦痛を与えようとしている家族。
そんなもの、本当に、いるのか。
そんなもの、みんな、消えてしまえ。

「天、俺は………」

でも。
みんな消えたら、どうなる。
みんな、消え失せてしまったら。

「宮守を、消したら、何も残らないんだ」

俺の思い出も俺を覚えている人も、それこそいなくなる。
俺の世界は作られていた。
宮守によって用意された、小さな箱庭。

「だから、滅ぶなんて、嫌だ。宮守は俺の世界なんだ。俺のずっと見てきた、ちっぽけな世界。でも、それが全て、なんだ」

ずっと見てきた小さな小さな、歪で完璧な世界。
でも、俺は、それしか知らない。

「お前たちとかくれんぼして、鬼ごっこして、ゲームして、ふざけて、喧嘩して、笑って、俺の思い出はそんなのばっかりなんだ」

一兄がくれたかっこいい腕時計を意味もなく身に着け、じっと見ていた。
双兄がくれた写真集を飽きることなく眺めて、海の空想に浸った。
天と一緒にふざけて喧嘩しながらゲームをして遊んだ。

「俺の思い出の中にはいつだって、宮守の楽しい光景しかない。だから、それがなくなるのも、嫌だ」

この1年で友達が出来た。
楽しい思い出も沢山出来た。
でも、大半の俺の記憶は、宮守家の中にある。
それが壊れてしまったら、やっぱり、俺の生きてきた意味は、なくなってしまう。
俺の世界の、全てだったんだから。
自分の世界がなくなるのは嫌だ。

「一兄も双兄も、そしてお前も、憎んだ、嫌った。恨んだ。死ねばいいと、思った」

雛子ちゃんは、お母さんが悲しむのが嫌だと言った。
ワラシモリは愚かな女たちの行く末を見守るのが役目だと言った。
あの村を守りたいと、そう言っていた。
だから、聞くなと言ったのだろうか、あの幼く残酷で優しい神は。

「でも、やっぱり好きなんだ。愛してる」
「………っ」

だって、ワラシモリ、雛子ちゃん、その気持ちが、痛いほどに分かってしまう。
自分でも馬鹿だと思う。
自分でも意味が分からない。
でも、それでも、やっぱり、恨んでも憎んでも、好きなんだ、愛してるんだ。
それが全部嘘だとしても、どうしても、切り捨てることなんて、出来ないんだ。
楽しかった嬉しかった優しかった。
記憶が、それを訴えてるんだ。

「ごめん、ごめんな、天。でも、俺は、嫌なんだ」

涙が、溢れてくる。
なんでかは、分からない。
この涙の意味は、自分にも分からない。

「利用されてると分かっても、そうやって思うように育てられたのだとしても、でも、俺は、俺の世界を、失いたくない」

逃げているのかもしれない。
自分を誤魔化そうとしているのかもしれない。
分からない。
でも、どの選択肢にも正解なんてない。

「先にあるのが、死にも勝る苦痛でも?」

天の声が、少しだけ、低くなる。
その目は静かだけれど、睨むように細められている。

「でも、俺のせいで、滅ぶ宮守なんて、見たくない」
「死ぬんだから、見ることはないよ」
「でもそれだと、お前も、多分死ぬんだろう」
「………」

天が宮守を滅ぼした後、たぶん天も無事ではいられないだろう。
あの家が、裏切者を許すだろうか。
それが天の本望だとしても、何も生み出さない、そんな結論は嫌だ。

「それだって、嫌だ。お前には、死んでほしくない。それに、お前には」
「馬鹿じゃないの。どうして、憎まないの?俺を、一矢兄さんを、双馬兄さんを、父さんを母さんを、家を、世界を」

言いかけた言葉は、天の苛立ちを含む声に、遮られた。
天の手が白くなるほどに、握りしめている。
静かな怒りが、伝わってくる。

「………憎んだ、よ」
「だったら、滅ぼせばいい。逃げればいい。家のことなんて忘れて、逃げればいいんだ。力なんて志藤さんにでももらえばいい。あの人はそれで満足だ」
「でも、そうしたら、栞ちゃんが、犠牲になる」
「そうして、栞と俺が、あの家を滅ぼせばいい」

もう、苛立ちを隠そうとはしない。
眉間に皺をよせ、敵を見るような目で、俺を睨みつけている。
その憤りに身が竦むが、ここで引くわけにはいかない。
ずっと苦痛に耐えて、歪んでしまってすら見える少女。
あの子をこれ以上、苦しめるなんて、嫌だ。

「栞ちゃんには、笑っていて、ほしい。お前だってそうだろ?」

天は更にイライラとした様子で、片手で髪をくしゃりとかき回す。

「そうだよ。だから兄さんが、奥宮になればいい」
「でも、俺とお前で宮守を滅ぼせば、栞ちゃんは、きっと、辛い目にあう」
「なら、兄さんは逃げればいい!」

天が、叫ぶ。
吐き出す様に、感情を爆発させるように。
いつだって余裕に満ちて人を嘲笑っているかのような弟が、苛立ちを隠そうとはしない。
歯をむき出しにし、顔を引きつらせ、怒りと苛立ちを、露わにしている。

「………」

それを見て、珍しいものを見た驚きと不可解さに、言葉を失う。
天の感情とは裏腹に、俺は冷静になっていく。

「お前の言ってること、おかしい」
「………なにが」
「前から、そうだ。俺に死んでほしいと言いながら、抗うことを強いる。俺が、諦めようとすると、怒る。でも、犠牲になれっていう」

俺に死ねと言う。
犠牲になって宮守を滅ぼせと言う。
でも、俺が生を諦めようとすると、怒る。
逃げろと言う、戦えと言う。
栞ちゃんを犠牲にすると言う。
でも犠牲にしたくないと言う。

「お前は、本当は俺に、どうしてほしいんだ?」
「………」

茶化すとき、ふざけるときは、俺を煙に巻くとき。
さあ、と言う時は、言う気がないか、言うことを許されてないとき。
そんなことは、分かってきた。
じゃあ、俺を試すようなことを言う時、こいつは何を求めている。

「お前は、俺に逃げてほしいのか?抗ってほしいのか?それとも一緒に、宮守を滅ぼしてほしいのか?」

どれが、天の本心なのか。
分からず、ずっと戸惑っていた。
ずっと、理解できなかった。
だから問いかけても、誤魔化されてきた。

「四天、お前はどうしたいんだ?」

天は顔をくしゃりと歪める。
泣いてはいないけれど、まるで泣きそうな子供のように。

「そんなの………」

絞り出すような、声。
そして、それは、爆発した。

「そんなの、分からないよ!!」

叫ぶように、天が声を荒げる。
今まで見たことないくらい、苦しげな顔。
幼い頃でさえ、こんなに感情を爆発させたところなんて見たことがない。

「あんたが奥宮になればいい!俺が殺して、宮守を滅ぼせばいい!そうしたら、栞が助かる!」

混乱したように、髪を掻き毟る。

「違う、逃げればいい!諦めるな!戦えよ!」
「………」
「違う、違う違う違う!」

違うと繰り返して、頭を横に振る。
まるで、溺れまいともがいているように見える。

「違う!」
「………天」
「兄さんは、奥宮になって、死ねばいい!」

胸にたまったものを、血と共に全て吐き出すように叫ぶ。
いつだって冷静で落ち着いていて頼りになる弟。
目の前にいる混乱している少年は、まるで初めて見る、人間のようだ。

「違う!生きて、戦え!」

ああ、そうか。
そうだったのか。

「三薙兄さんは、あんなバケモノになったら、駄目だ!そんなの、許さない!」

ああ、ようやく、分かった。
分かった気がする。
ようやく、天が、分かった気がする。
ようやく、触れられた気がする。

いつだって冷静で迷わない、強い弟。
余裕で皮肉げで人を嘲笑っていた。
そう、思っていた。

こいつが、迷わない人間が、好きだと言ったのは、迷わない人間になりたかったから。
本当に迷わない人間が嫌いなのは、自分がそうなれないから。

四天は、俺の弟は、きっとずっと迷って、苦しみ続けていたんだ。





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