無理やり志藤さんも交えてしばらく水の中を堪能していたら、不意にぞくりと寒気が走った。 「は、くしゅっ」 くしゃみを一つすると、急に風が冷たく感じて体が自然にぶるりと震える。 さっきまで心地よかった水も、肌を刺す様に感じてくる。 自分の体を温めるように抱えると、とても冷たかった。 「大丈夫ですか?」 「は、ひ。さすがに、寒いですね。たつみの湖よりは、ずっとあったかいけど」 志藤さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。 笑ってはみせるものの、鼻声になってしまった。 鼻水が出そうで、鼻をすする。 体が冷え切ってしまったようだ。 「まあ、まだ五月だしね、水も冷たい。さっさと出よ」 言葉とは裏腹に寒さなんて感じさせない天が、肩を竦める。 ちょっとふざけすぎたかもしれない。 志藤さんまで巻き込んでしまった。 このままでは三人とも風邪をひいてしまう。 さすがにそれは御免蒙りたい。 「うん、早く、出よ」 「はしゃいでる馬鹿な学生みたいなことした」 天がどこか憮然とした様子で言うから、ちょっと笑ってしまった。 「はしゃいだ馬鹿な学生でいい年だろ、俺たち」 まだ、俺たちは高校生で、友達と笑ってはしゃいで馬鹿なことをしていていい年のはずだ。 人に迷惑をかけない程度のふざけたことをして、笑い転げる。 学生って、そんなイメージがある。 この一年、岡野や槇達と過ごして、そんなことも、経験できた。 本当に、何をしても、何を話しても、楽しかった。 まして、天なんて、女性じゃないけど、それこそ箸が転がっても楽しい年頃だろう。 「違いない」 天がこちらをちらりと見て、笑う。 いつもの皮肉げな、どこか人を食った笑顔。 こいつが、ふざけたことをしてはしゃいで笑うところなんて、見たことがない。 はしゃいだ馬鹿な学生でいたところなんて、あったのだろうか。 子供でいれた時はあったのだろうか。 本当に幼い頃を除いて、俺の記憶には、ない。 「一人薹が立ってるけどね。ああ、でも学生だったっけ」 「え、えっと、はい」 俺たちの後ろをついてきていた志藤さんが、急にふられて慌てて返事する。 そういえば、志藤さんも大学生なんだ。 俺のイメージする大学生よりもずっとずっと大人びているけれど。 双兄よりも、大人に感じる。 志藤さんも、はしゃいで馬鹿なことをするなんて、経験したことはあったのだろうか。 思わずじっと見てしまうと、志藤さんは表情の選択に困ったような、ぎこちない笑顔のようなものを見せた。 眼鏡とスーツのままびしょ濡れで川に浸かっている様子は、なんだかシュールで、ちょっと情けない。 「スーツ濡らしてしまいましたね。ごめんなさい」 「あ、い、いえ、そんな、元はと言えば私が悪いですし」 首を痛めそうなぐらい横にふる志藤さんに、微笑ましくなってしまう。 ああ、やっぱり、この人のことを、嫌いではない。 まだ、好きだ。 怖くて、哀しくて、悔しくて、裏切られたと、絶望した。 でも、やっぱり、好きだ。 嫌いになんて、なれない。 「さっさと着替えよ。ほんと馬鹿なことした」 川岸に上がると、天が不機嫌そうにため息をついた。 確かに、いつも冷静な弟からすれば馬鹿な行動だ。 「珍しいな、お前がこんなことするなんて」 「ま、馬鹿な学生だから、たまにはね」 「………そうだな」 ふざけた答えに、俺も笑う。 こんなことばっかりしていられたらいいのに。 なんで、出来ないのだろう。 ゲームをしたりして、たまに喧嘩をして、仲直りして、同じことに笑って。 「そ。さ、早く着替えよ」 志藤さんが車を開けてくれて、荷物が入ったバッグを取り出す。 短期間の旅行だからそれほど多い訳ではないが、着替えがあってよかった。 「服はいいとして、二人とも靴再起不能じゃないの?」 そう言われて、気が付いた。 天は川に入る前に一人靴を脱いでいたから、靴は無事だ。 志藤さんの革靴は、乾かしても元に戻るか怪しい。 「………ていうか靴どこだ」 そして俺の靴は川の中に放り投げて、それきりだ。 回収してない。 今更あの冷たさの中に戻る気もしない。 回収しても、ぐちゃぐちゃで使えないだろうし。 「そりゃ若者らしく無邪気なことで」 天がいつものように厭味ったらしく揶揄る。 むっとするが、言い返せない。 いい年して靴をなくしたのは、俺だ。 「とりあえず着替えて、どこかの店で買いましょうか?」 志藤さんが遠慮がちに提案してくる。 天が服を取り出しながら頷く。 「それしかないですね。………服を一つ潰して拭くか」 「あ、タオルあります」 「あるの!?」 志藤さんの言葉に思わず聞いてしまった。 宿に泊まるから必要ないと思って、タオルなんて持ってくることも考えてなかった。 「ええ、一応何があるか分からないので、持ってきていました」 志藤さんはやっぱりぎこちなく笑って、トランクからタオルを三枚取り出す。 ふかふかの柔らかいタオルに包まると、温かくてほっとする。 気持ちがいい、匂いがする。 思った以上に自分の体が冷えていたことが、分かる。 「素直に助かりました。ありがとうございます」 「いえ、よかったです」 天がまったく素直じゃない礼を述べると、志藤さんは気分を害した様子なく頷いた。 人間が、出来ている。 俺もありがたくタオルで髪を拭き、シャツを脱ぐ。 肌に張り付く布は、脱いだ瞬間ぼたぼたと水滴が落ちていく。 「うわ、びしょびしょだ」 「当たり前でしょ」 「お前だってびしょ濡れだろ」 「まあね」 天も同じように服を脱いで、タオルに包まる。 水に入っているうちはよかったが、出てしまうと服が気持ち悪い。 さっさとジーンズも脱いでしまおう。 「あ、えっと、あの、中でお着替えになってはいかがでしょうか!」 ホックに手をかけると、志藤さんがそう促してきた。 確かに外で全裸になるのはちょっと気がひける。 でも車内は狭いし、辺りには誰もいない。 「でも、車濡れちゃうし、誰もいないから、少しぐらい平気じゃないですかね」 「で、でも、そ、その、外ですし」 「はい。人が来る前に早く着替えちゃいましょう」 「で、でも………っ」 志藤さんは困ったように視線を逸らしている。 礼儀正しい人だから、こういうところで服を脱ぐのを躊躇いているのだろうか。 でも、早くしないと風邪をひいてしまう。 「志藤さんも早く脱がないと風邪をひきます。今日ぐらいは仕方ないってことで………」 「………っ」 なにげなく志藤さんのシャツに手を触れようとすると、はじかれたように志藤さんが動き俺の手を払った。 「っ」 「あ、す、すいません!」 「いえ………」 志藤さんの白い肌は、冷え切っているだろうに上気して赤くなっている。 そこでようやく思い至った。 そうか、この人は、俺を、そういう目で、見ているのか。 「本当に、申し訳ありません!」 「いえ、大丈夫です」 あの時は混乱していて、訳が分からなくて、怖いだけだった。 でもこの人の手は、確かに意思を持って俺に触れていた。 キスをされて、直接肌に触れられた。 その意味が、急に実感を伴ってきた。 「えっと………」 正直、どういう反応をしたらいいか、分からない。 嫌悪感は、ない。 意思を無視されて好きにされるのはもう絶対に嫌だが、今の志藤さんは、怖くない。 ただ、戸惑いが強くて、どう接したらいいか、分からない。 俺のことを、そんな風に思う人がいるなんて考えもしなかった。 恋愛経験も片思いだけでろくにないのに、想いを寄せられる側になるなんて、想像したこともない。 俺が岡野に感じるような感情を、持っているのだろうか。 それは確かに、ここで脱がれたら嫌だ。 必死に止めるだろう。 って考えたら急に恥ずかしくなってきた。 顔が熱くなってくる。 でも、俺の体なんて見て、志藤さんはそういうことを考えるのか。 こんな、女性と違って柔らかくもない筋肉のついた堅い、でもだからといってたくましさもない男らしくない体。 「………」 「………」 お互い、動けずに俯いて立ち尽くす。 どうしたら、いいのだろう。 でも着替えないと二人して風邪をひいてしまう。 「志藤さんがあっち見てればいいでしょ。濡れたシートに座るのは俺はごめんです。ったく、どこでも興奮しないでください。ああ犬は雌の匂いを嗅いで発情するんですっけ」 「天!」 涼しい顔でさらりと下品なことを言う弟をたしなめると同時に、志藤さんが顔を真っ赤にさせる。 「す、すいません!私は車の反対側で着替えますので!」 「あ、はい!」 そしてそそくさと反対側にいってしまった。 本当に、どうしたらいいのだろう。 こんな立場になるなんて、考えもしなかった。 この前の時みたいにされるのは嫌だ。 だからといって嫌悪感があったり、嫌いになったりするわけじゃない。 でも、志藤さんをそういった感情で好きかと言われれば、それも違う。 どう、接したらいいんだろう。 「き、着替え終わりましたか?そろそろ、行きましょうか。靴を、買いましょう」 志藤さんが視線をそらしながら、車のドアに手をかける。 拒絶したいわけじゃない。 でも、なにか、してあげられるわけじゃない。 「………志藤さん」 「は、はい、なんでしょう!」 名前を読んだだけで顔を赤くして飛び上がる志藤さんは、やっぱり可愛い。 胸がずきずきと、痛む。 この人を悲しませたい訳じゃない。 笑っていてほしい。 なんでもしてあげたい。 ずっとずっと幸せでいてほしい。 大事な人。 想いの種類は違っても、とても大事な人。 俺は、この人に何をしてあげられるんだろう。 残された時間で、何かしてあげられるんだろうか。 「いえ、なんでもないです。髪も、ちゃんと拭いてくださいね」 「あ、はい」 タオルを差し出すと志藤さんは素直に髪を拭う。 大人で強くて聡明な人。 でも、子供っぽくて弱くて不安定な人。 可愛い、大事な人。 「くしゅっ」 ぼうっとしているともう一度くしゃみが出た。 志藤さんが慌ててタオルを返してくる。 「あ、だ、大丈夫ですか?三薙さんもよく拭いてください。車内温めますね」 「はい、ありがとうございます」 車内に戻る志藤さんを見送って、ひとつため息をつく。 志藤さんの想いが迷惑だとは、思わない。 でも、重くは感じる。 何も俺は、出来ないのに。 何も残すことは、出来ないのに。 彼を喜ばせることなんて、出来ないのに。 「随分、明るくなったね。さっきまで死にそうな顔してたのに」 着替え終わった天が、やっぱり皮肉げに笑う。 明るくなった訳じゃない。 頭をからっぽにしただけだ。 「………考えるの、疲れた。休みたい。ずっと、休めなかった。家にいると、休めない。今少しだけ、休みたい」 あの家にいる限り袋小路に入ったように答えのない問いを続けることしかできない。 もう、何かを考えるのは、しばらくやめたい。 ほんの、少しだけでいいから、休みたい。 疲れた。 「ここは、家じゃない。生きてる、匂いがする」 緑が鮮やかで、川は陽の光を得て輝き、水と草の匂いがする。 風が全身を撫でるのが気持ちよくて、疲れ切った心に温かさを灯す。 「問題は待ってはくれないけど」 「分かってる」 きっと多分、俺に残された時間は少ない。 考えられる時間も、わずかだろう。 それは分かってる。 「でも、天、お前が言ってくれて思い出した」 「何?」 ふと、思い出した。 考えなければいけない。 でもきっと、そこまで、悩む必要は、ないんだ。 「選べる選択肢は、そう多くない。その中で最善を、選ぶだけ、なんだよな」 一兄も天も、教えてくれた。 選べることなんて、そうないんだ。 悩むことすら許されないぐらい、選択肢は少ない。 だから、俺は、それだけに注力すればいいだけだ。 最善なんて、まったく思い浮かばないけど。 「ほんと、少なすぎて、嫌になって、全部放り投げたくなるけど」 「それもまた選択肢だ」 「………そうだな」 天は俺の死を望んでいる。 一兄も俺の犠牲を望んでいる。 どちらにいっても、俺にとっては絶望だ。 明るい未来なんて、思い浮かべることは出来ない。 でも、考えなければいけない。 もう知ってしまった。 知らない方が、幸せだった。 でも、知らない時には戻れない。 だったら、もう、前に進むしか、ないんだ。 選択肢が本当に少なくて、笑えてくる。 「天、お前に、聞きたいこと、まだある。ていうか、新しく出てきた」 「そう。じゃあ後でどうぞ」 そうだ。 まだまだ知りたいことがある。 知らない頃には戻れないのなら、いっそ知り尽くしたい。 「じゃ、靴買って、今日の宿に急ごうか。温泉でよかったね。風邪ひく前に温まろう」 「………うん」 選べる選択肢は、ほとんどない。 俺にとって最善は、いったい、どれなのだろう。 |