夕飯は、山のものらしい、川魚や山菜の料理ばかりだった。

「おいしい!山女魚って初めて食べました。全然臭みがない」

あまり食べない淡水魚は、臭いがまったくなくとてもおいしい。
たつみで食べたものは味付けが濃いめだった。
あれはあれでとてもおいしかったが、こちらはシンプルな味付けで、けれどこっちもとてもおいしい。
俺たちを部屋に案内してくれた中年の仲居さんは給仕をしてくれながら品よく笑う。

「お口にあってよかったです。5月の山女魚は鮎にだって負けないぐらいおいしいですからね。岩魚も中々いけますでしょう?」
「はい!お刺身でも食べられるんだ。タンパクですけど、おいしいです」

山女魚と岩魚のお刺身まであり、川魚の刺身なんてもちろん初めて食べるので楽しくなってくる。
タンパクだが歯ごたえがあって、食べごたえがある。

「たらの芽の天ぷらもおいしいです!こっちのはなんですか?これもおいしいです」
「それはこしあぶらです。天ぷらによく合うんですよ。もう少し前でしたらフキノトウもおいしかったんですけど、終わってしまったんですよねえ」
「フキノトウも好きです。食べたかったなあ」
「まあ、お若いのに渋いんですね。山菜がお好きだなんて」
「あはは、家がそういうのばっかりだったんで」

洋風の料理も出るが、やっぱり和のものが多かった。
だから多分若い人には好かれないこういう料理も慣れているし好きだ。
まあ、同じもの食べてるはずな弟は偏食気味だが。

「ではまた来年おいでくださいな。ああ、もう少ししたら鮎もおいしいですよ」
「…………いいですね。行きたいなあ」
「ええ是非。旬の食べ物を用意してお待ちしております」
「はい、是非」

来年、か。
来年まで俺の時間はあるのだろうか。
夏まではあるのか。
いつまで、俺は、俺の時間は許されているんだろう。
タイムリミットは、間違いなく近づいている。

「そうそう、旬と言えば、蛍もそろそろ時期ですよ」

ぼうっとしていると、仲居さんがそんなことを言う。

「蛍?」
「ええ、少し上流の方で。見ごろはもう少し先なんですが、ちらほら見えますよ」
「え、見たい」

蛍なんて、見たことがない。
思わず身を乗り出すと、仲居さんが微笑む。

「行きたいのでしたら車をお出ししますよ。ご自分のお車で行かれるのでしたら地図をご用意します。今日なら平日ですし、まだ盛りじゃないのでそれほど人もいませんよ」

どうしよう、すごい見たい。
隣と向かいにいる同行者に視線を移す。
向かいにいた志藤さんが、笑いながら控え目に提案してくれる。

「その、よろしければ、車を出しますよ」
「え、あ、でも」
「ゆっくりご覧になりたいでしょう」

旅館の人に連れて行ってもらうのでもいいと思ったのだが、確かに気を使ってしまうかもしれない。
志藤さんの車の方がゆっくり見えるだろう。
連れて行ってくれるのなら、見たい。

「その、迷惑じゃ、ないですか」
「いえ、私も見たいので、三薙さんがよろしければ」
「じゃ、じゃあ、行きたいです!」
「はい」

志藤さんが気を使ってくれたのかもしれないが、気持ちをありがたくいただこう。
蛍なんて、もう見ることはないかもしれない。

「天は?行くよな?」

隣の弟に視線を移すと、苦みの嫌いな弟は山菜を選り分けてキノコを食べていた。
そしてこちらを見ないまま応える。

「行って来れば?俺は部屋にいるよ」
「なんだよ。一緒に行こうよ」
「疲れたから寝てる」

せっかくなのに、一人だけ旅館に残すのはなんとなく気がひける。
更に誘おうとすると、天はさっさと向かいの志藤さんに視線を向ける。

「志藤さん、兄さんのこと頼みました」
「え、は、はい」
「じゃ、メシ食ったらいってらっしゃい」

そしてひらひらと手をふって、綺麗な笑顔で言い放つ。

「では地図をお持ちしますね」

仲居さんは苦笑しながら、お盆を持って退出をした。



***




食後、洋服に着替えて出かける用意をする。

「本当に、お前行かないのか」
「うん。俺は蛍興味ない。ていうかあんまり好きじゃない。いってらっしゃい」
「………」

一応もう一度誘うが、布団の上で横たわった天はやっぱりひらひらと手を振る。
やっぱり、少し寂しい。
こんな風に一緒に蛍を見るなんて、もうないだろうに。
天の態度はいつだって、何も、変わらない。
隠していたことを明かした今でも、まったく変わらない。
感傷的な気持ちになっているのは、俺だけなのか。

「ああ、志藤さん」
「はい?」

仕方なく出かけようとした俺たちに、天が布団の上で顔を上げる。

「暴走して変なことしないでくださいね。面倒くさいから。この期に及んで厄介なことして、引っ掻き回さないでください」
「し、しません!」
「その言葉、信じさせてくださいね」

その言葉に、この前のことを思い出して、恐怖と羞恥となにやらもやもやとした感情が蘇ってくる。
それが分かってるのか分かってないのか、天がこちらにも視線を向ける。

「兄さんも十分警戒してね」
「………」

志藤さんと、二人きりか。
思わずちらりと横を見てしまうと、志藤さんが慌てて手をふる。

「し、しません!もういたしませんので!」
「あ、は、はい」

俺の微妙な煮え切らない返事に志藤さんの顔に更に焦りが生まれる。
白い顔が、更に血の気が引いて青くなっていく。

「す、すいません!本当に申し訳ありません!申し訳ありません!ああ、こんなこと申し出て、本当にすいませんでした!畏れ多い!軽率でした!やっぱり宿の方に車を出してもらった方が」

しまった、ネガティブ全開になってしまった。
いや、俺も思い出したらかなり微妙な気分にはなるんだが。
でも、ここで断ったら余計にこの人は自分を追い詰めてしまうだろう。

「あ、いえ、大丈夫、大丈夫ですから!」
「いえ、しかし、すいません!」
「大丈夫です!」
「………っ」

志藤さんの手を掴み、繰り返される謝罪を遮る。
不安に目が揺らぎ、今にも泣きだしそうな顔だ。
あんなことされたし、怖い所もあるけど、やっぱりそんな顔を見ると笑ってしまいそうになる。
可愛い、人だ。

「………俺も行った方がいいのかな。面倒くさいんだけど」

手で枕を作りつまらなそうに見ていた天が、ため息交じりにつぶやく。

「だ、大丈夫だよ」
「兄さん、黒輝持ってるよね。なんかあったらそれでどうにかして。ていうか、出来れば自分でなんとかして」
「わ、分かったよ!分かってるよ!」

この前は予想外の出来事すぎて、対応が出来なかった。
でも、今回は前ほど抵抗が出来ないってことはないだろう。
いや、志藤さんがもうこれ以上何かするとは思わないけれど。

「他に武器は持ってたっけ」
「ぶ、武器って、必要ないだろ!」

と言いながら、ジャケットの中には一兄からもらった懐剣が相変わらず入ってはいる。
いつもの癖みたいなもので、他意はないが。

「今度は俺は追いかけないから。足がないし。志藤さんも次はないんで、お願いします」
「………肝に銘じます」

志藤さんが眉をきゅっとひそめて、頷く。
四天が皮肉げに笑って、ひらひらと手を振った。

「はい、じゃあ、いってらっしゃい。お気をつけて」

いまだに握ったままの志藤さんの手は、冷たい。
かすかに震えて、顔色は蒼白だ。
俺と二人というのも、辛いだろうか。
これも、無神経だろうか。

「………お前も、来ればいいのに」
「生理的に苦手なの、ああいうイキモノ。ひっくり返したらゴキブリと一緒だし」
「………嫌なこというな」

気が利かない上に嫌なことを言うやつだ。

「………」

少しだけ考えるが、ここで取りやめたらきっと志藤さんはもっと傷つくだろう。
大丈夫。
志藤さんは、もう、俺の意思を無視したり、しない。

「………分かった。なるべく遅くならないようにする」
「うん。ごゆっくり」

そしてにっこりと笑う天を背に、俺は志藤さんの手を引いた。



***




ぎこちない会話を交わしながら、車で10分ほどの川岸まで来た。
たった10分が酷く長く感じた。
到着した時はほっとして、ため息が出そうになってしまった。

「……暗いですね」
「はい、足元にお気を付けください」

辺りは街灯もほとんどなく、月明かりと、志藤さんの持つ懐中電灯がわずかな道しるべだ。
車を道の端に止め川へ続く草むらをかき分ける。

「蛍、いますかね」
「どうでしょう。まだ少ないらしいですから」

蛍の時期は後少し先だそうだ。
だからか、辺りに人はまったくいなかった。

「………天も来ればいいのに」
「そうですね。ご一緒出来ればよかったのですけど」

そうしたらもう少し、会話が弾んだかもしれない。
このぎこちない空気を、どうにかしたい。
それに、せっかくだから、一緒に、時間を過ごしたかった。
複雑な想いを抱えているが、それでも、ずっと一緒にいた弟だ。
少しでも楽しい感情が、共有できたら、わずかでも理解することもできるんじゃないだろうか。

「えっと、暗いですね、っと、わ」
「危ない!」

足元の石に気づかず、蹴躓いてバランスを崩す。
倒れるほどではなかったが、ぐいっと腕がひかれた。

「大丈夫ですか?」
「は、い」

志藤さんが俺を引き寄せ、心配そうに顔を覗き込む。
腕をつかむ手は、強く、大きくて、熱い。
あの日のように。

「………」

つい言葉がでてこなくて、黙り込んでしまう。
すると慌てて手が離された。

「あ、申し訳ありません!」
「いえ、大丈夫です」

慌てて首を横に振るが、志藤さんの顔はまた曇る。
月明かりを受けて、更に白くなる。

「大丈夫ですよ、志藤さん」

自分にも言い聞かせるように、繰り返す。
大丈夫。
この人は俺を、もう、裏切ったりしない。
息を吸って、吐く。
落ち着け、大丈夫だ。

「志藤さん」

志藤さんがびくりと、震える。
小動物のような、子供のような反応に、笑ってしまう。
その手をそっと掴み、目を見つめる。

「志藤さんは、俺の話、聞いてくれますよね?」
「………は、はいっ」

志藤さんは何度もこくこくと頷く。
眼鏡の奥の目は潤んでいて、今にも泣きだしそうだ。

「それなら、大丈夫です」

大丈夫。
この人は、俺が知っている、志藤さん。
あの時の志藤さんも、志藤さん。
どちらも志藤さんであることは間違いない。
でもこの人はもう、俺の意思を無視したりしない。

「………申し訳、ありません。昔から、私は、自分の感情の抑えが、効かない」

志藤さんが苦しげにあえぐように言う。

「私のことを聞いたと、熊沢さんから伺いました」
「はい、その、家のこととか、学校の、トラブル、とか」
「………はい」

そっと目を伏せて、地面を見つめる。
志藤さんの照らす懐中電灯が、足元の石と草を照らす。

「隠していて、申し訳ありませんでした」
「………」

隠されていたとは、思っていない。
言う必要があったとも思っていない。
全てを話すのが友達では、ない。

「あなたに軽蔑されたくなかった。あなたに私のどうしようもない醜さを、弱さを、自分勝手さを知られたくなかった」
「………志藤さん」
「そもそもこの考えが、自分勝手で醜く、弱いのですが。まったく私はいつまでも成長しない」

唇を歪めて、自嘲する。
強い人。
でも弱い人。

「申し訳、ありません。あなたを傷つけたくなんて、なかった。あなたを、守りたかった」
「………」
「大切なものなんて、もう、いらないと思っていたんです。これ以上周りを傷つけるぐらいなら、そんなもの持たなくていいと」

かつての家族。
そして熊沢さんにもらったお守り。
この人が我を忘れるのは、大事なものを侵された時、だ。

「志藤さん………」
「………すいません、もう少しですね。行きましょう」

志藤さんが会話を遮って、踵を返す。
歩き出すその背中を見つめて、追いかける。
どうすればいい。
どうしたら、この人を傷つけなくて済むんだ。

「あ………」

草むらと林を抜けると、視界が開ける。
月の明かりとそれを受ける川が、明るく光っている。
そしてその脇に、ふわりふわりと光るものが、見える。

「蛍、だ」
「ええ」

光は5つほどで、ふわりとふわりと、点滅しながら空を泳いでいる。
想像していたよりも明るくはないが、そのか細い光がより幻想的だった。

「………綺麗、ですね」
「ええ、本当に綺麗ですね」

川の音と月明かりに囲まれた中、漂う儚い光が、ゆらゆらと舞う。
いまにも消えてしまいそうなほのかな光は、美しくそしてなんだか哀しかった。

「………蛍って、寿命、短いんですっけ」

志藤さんは懐中電灯をおろし、頷く。
強い光が消えると、周りの音までしんと静まり返った気がする。

「詳しくは知りませんが、蛍二十日に蝉三日という言葉があるくらいだから、それくらいなのでしょうね」
「二十日、か」
「ええ、成虫になってからは露しか口にしないと聞いたことがあります」
「………露しか食べないで、一か月足らずで、子供作って、死んじゃうのか」

大人になって一か月にもならず、ただ自分の子孫を残し、死ぬ。
なんて、潔くて、強くて儚い生き物なんだろう。

「綺麗、だなあ」

そう思うと、余計に美しく感じる。
哀しく、けれど強く、命を燃やし尽くす。
そんな風に生きられれば、いいのに。
自分のすることを迷わず、為せれば、いいのに。

「………あの、志藤さん」
「はい」

迷いなく命を燃やすなんて、俺には出来ない。
迷いばかり後悔ばかり人を傷つけてばかり。
潔く、美しく、生きることなんて、出来ない。

「………蛍みたいな綺麗な生き物と一緒にするわけじゃないんですが、俺もたぶん、あんまり、長くはいられません」
「………っ」

志藤さんが、短く息を飲む。
胸が痛い。
傷つけたくなんて、ない、大切な人。

「奥宮になるかどうかなんて、まだ考えられません。考えたくない。でもそうじゃなくても、俺はたぶん、それほど長くは生きられない」

奥宮になるにしろ、抵抗して干からびるにしろ、志藤さんとは一緒にいられない。
例え志藤さんと逃げるにしろ、いつかは力が枯渇して、志藤さんもろとも食らい尽くすだろう。
力の消費が、年々激しくなっているのは、確かだ。

「俺のこと、えっと、その」

それなのに、俺は、人とつながることを望んだ。
元々、自分がそれほど長くは生きられないなんて、分かっていたはずなのに。
自分の寂しさを埋めるために、人の手を求めた。
そして、こうして、人を、傷つける。

「好きで、いて、くれてるんですよね。その、勘違いじゃなければ」

俺のせいで、この人を傷つける。
俺を好きになってくれた人を傷つける。
ああ、本当に天も一兄も、残酷だ。
どうして、俺をこの人に出会わせたんだ。
何より俺が卑怯で、愚かなのだけれど。

「友達よりももっと、強い意味で」

志藤さんに向き合い、見上げる。
背の高い人は、眼鏡の奥に恐れと不安をためて俺を見下ろしている。

「嬉しいです。すごく、嬉しいです。俺のこと、好きになって、くれて、すごく、嬉しいです」

嬉しかった。
幸せだった。
ずっと一緒にいたかった。

「でも、お願いだから、俺のこと、忘れて、ください」

だからこそ、俺のことなんて、好きになんてなってくれなくてよかった。
早く忘れてほしい。
俺なんて、好きにならなくてよかったんだ。
俺を無視してくれて、よかったんだ。
そうしたら俺なんかがこの人を傷つけるなんてことは、なかった。

「ごめんなさい、変なこと言って、ごめんなさい。でも、俺なんかのこと、もう、気にしないでくれて、いいんです」
「………」

どうして、この人を巻き込んでしまったのだろう。
道具として使うなら、道具として育ててくれればよかったのに。
そうしたら、温もりなんて、求めなかったのに。

「俺は、あなたに何も返せない。志藤さんに好かれる資格なんて、ない。あなたに、志藤さんが、好きになってくれることなんて、ない。俺のことなんて」
「やめてください」

俺の言葉は、鋭い声で遮られた。
それは小さいけれど、聞いたことのないような低く怖い声。

「え」

俯き加減になっていた顔をあげると、志藤さんが俺を厳しい顔で睨みつけている。

「やめてください。私の想いを否定しないてください」

悔しそうに、怒気を孕み、苦々しく吐き捨てる。
この前の時ですら、こんな怒りをあらわにはしてなかった。
見たことのない顔と聞いたことのない声が怖くて、言葉を失う。

「あなたに想いを返してもらえないのも、あなたに嫌われるのも、仕方がない。納得できる」
「そ、んな」

志藤さんは、冷静で淡々としている。
けれど苦いものが、その声には含まれている。

「嫌いだったらなら、私を嫌悪するなら、いい。私を嫌いなら、そう言ってください」
「そんなことは、ないです!嫌いだなんて、そんなことはない!」
「ご迷惑なら、仰ってください。私はあなたに近づかない」

首を思いきり横に振る。
嫌いじゃない。
迷惑なんかじゃない。
だからこそ、苦しい。
迷惑をかけたのは、俺の方だ。

「これも、我儘かもしれません。いえ、我儘ですね。申し訳ありません。勝手を重ねることをお許しください。でもどうか、無視だけはしないでください。見なかったことにしないでください。好かれる資格なんてそんなもの必要ない。私の好きな人をなんか、だなんて言わないでください。馬鹿にしないでください。私があなたを好きだという気持ちを無視しないでください。欲しいものなんてとっくにもらってる」
「しとう、さん」

志藤さんがその場に跪き、俺の手を握る。
怖い顔のまま、けれど必死に、すがるように、俺を見上げてくる。

「私がそれ以上を望むのが、強欲でした。もう、十分なんです。だから、私があなたを愛しいと思っていた気持ちをなかったことにしないでください」

ぎゅっと握りしめられた手は、大きく熱い。
悲しみにか怒りにか、わずかに震えている。

「私の好きな、私の愛しい人を、私の想いを、あなたに出会ったことを、否定しないでください!」

胸が痛い。
苦しい。
どうしたらいい。
分からない。
傷つけたくないのに、傷つけてしまう。

「………ごめんなさい、志藤さん」
「いえ、ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、志藤さんが何度も謝罪を口にする。

「あなたに、負担ばかりかけている。迷惑ばかりかけている。すいません、申し訳ありません。想いが通じるなんて、もう、思っていない。でもただ、あなたが笑っていることを、望んでは、いけないでしょうか」
「………っ」

苦しい。
重い。
投げ出したい。
逃げたい。

「すいません、三薙さん、すいません、ごめん、なさい」
「………」
「こんなこと申し上げても、あなたを困らせるだけだ。あなたをより苦しませるだけだ。ごめんなさい、好きになってごめんなさい。あなたを好きになって、ごめんなさい。ごめんなさい」

好きになってごめん、なんてそんなこと、言わせたくない。
好きになってくれてありがとう。
好きになってくれて嬉しい。
こんな俺を、認めてくれて、嬉しい。
それを、伝えたい。
でも、そうして、この人を更に傷つけるのか。

「好きです、好きです。あなたが好きです。あなたが愛しい。あなたが好きです。あなたが、何より愛しく、尊い」

俺は何も返せない。
この人と同じ想いも返せない。
この人をこんな風に縛り苦しめるだけ。
出会わなければよかった。
好きになってもらわなければよかった。

「どうか、三薙さん」

ああ、でも、嬉しい。
苦しい。
でも嬉しい。
逃げたい。
でも嬉しい。
重い。
でも嬉しい。

「志藤、さん」

声が、体が、心が震える。
目頭が熱くなる。
喉が渇く。
息がつまる。

「………どうか、あなたを、私から奪わないでください」

ごめんなさい。
でも、あなたが俺を必要としてくれることが、叫びだしたくなるぐらい、嬉しい。





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