部屋の中に入ると、寝ころんで本を読んでいた天が顔を上げる。 それからなんだか呆れたように眉を吊り上げる。 「………」 「ただいま」 どうしてそんな表情をするのかと思ったがとりあえず帰宅の挨拶をする。 すると天は、くっと小さく笑った。 「お帰り。随分汚れてるね。アオカンでもしたの?まだ寒いのに頑張るね」 「四天さん!!!」 志藤さんがいきなり声を荒げるので、驚いてびくっとしてしまった。 「え、な、え?え、アオカンって何?」 「ご存じなくても問題ありません!」 「え?」 思わず隣にいた志藤さんに問うが、顔を赤くした志藤さんに遮られる。 志藤さんがこんな態度を見せるってことは、あまりいい言葉ではないのだろうか。 いつもの天の皮肉だろうか。 「空は青くないけど、それでもアオカンなのかね?」 「もう結構ですから!」 天がくすくすと笑いながら言うと、志藤さんがまるで叱るように少し強めに言う。 やっぱりいい言葉ではないようだ。 でもさすがにそんな反応されると気になってしまう。 「アオカンってなに?」 「青空の下での」 「聞かなくていいです!答えなくていいです!もうこの話は終わりです!」 天が説明しようとすると、志藤さんが俺と天の間に入って会話を断ち切った。 後でもう一回聞いてみよう。 なんて思ってると、志藤さんが話を逸らすようにそっと肩に触れてくる。 「三薙さん、お体が冷えたでしょう、お風呂に入ってはいかがですか?」 確かに、夜露に濡れた体は、だいぶ冷え切っている。 風呂に入った方がいいだろう。 「え、と、はい。志藤さんも冷えてますよね。一緒に行きますか?」 「い、いえ、結構です!私は大浴場で!」 「俺、まだ大浴場行ってないから、大浴場行きたいです」 「ええ!?」 どうせなら一緒に入りたいので誘うが、志藤さんは目を白黒させるばかりだ。 別にいいのにな。 こんなもの、いくらでも見ていいのに。 「わ、私は、でしたら、こちらのお湯を使わせていただきます!」 「でも」 「頼みますから!」 俺は構わないし、むしろ一緒に入りたいのだが、さすがに懇願されたら無理強いも出来ない。 俺はやっぱり無神経なのだろうか。 「………残念ですけど、分かりました」 人の心を推し量るのは、とても難しい。 人が何を考えているのかなんて、もう何も分からない。 何を考えて、何を好み、何を厭い、何を求めるのか。 心が覗ければ、楽なのにな。 「天は風呂行かない?」 一人で行くのはなんとなく寂しくて、寝ころんでいた弟に声をかける。 天はぱちぱちと瞬きをして、しばらく考え、体を起こす。 「そうだね、じゃあ、兄さんに付き合おうかな」 「うん」 天が立ち上がると、志藤さんがすかさず俺の浴衣を渡してくる。 「ごゆっくりどうぞ!」 「はい、志藤さんも」 慌てて追い出すような行動に少し笑ってしまうが、それも微笑ましい。 促されるがままに部屋を出る。 廊下はひんやりとしていて、うす暗い。 客も少ないせいか、人気はまったくない。 よく磨かれた床が、きしと小さく音を立てる。 廊下を歩き始めると、天が肩を竦める。 「本当に悪女だね」 「悪女か」 悪女なのだろうか。 俺のしていることは、やっぱり無神経で、あの人を振り回すことなのだろうか。 「俺、志藤さんに、ひどいことしてるかな」 天がちらりとこちらを見る。 「どうだろう。本人は嬉しそうに見えるけどね」 「嬉しいなら、いいな」 あの人を傷つけたいわけではない。 ただ、あの人が喜ぶことを、したいだけだ。 「………何話してきたの?」 天に聞かれて、少しだけ考える。 何を、話したか。 そんなに長い話じゃなかった。 沢山のことを話したわけじゃなかった。 ただ、ひとつのことだけ、分かった。 「志藤さん、俺のこと、好きなんだって。すごく」 「………」 そんなことを話しているうちに、暖簾が目にはいった。 青い布地に小さく殿方と白抜きで染められている。 「あ、大浴場、ここか」 暖簾をくぐり、その奥にある引き戸をあけると中は15畳ぐらいの脱衣所だった。 横手の擦りガラスまで行き、中を覗く。 湯気に満ち溢れた浴場はとても広く、大きな窓で囲まれていて、解放感がある。 中には誰もいない。 貸切のようだ。 「うわ、広い!すごい!あっちが露天かな!早く入ろう!」 脱衣所に引き返し慌てて服を脱ぐ。 それからまた浴場にとって返し、露天風呂まで駆け足で向かう。 「岩でできてる!川も見える!」 露天風呂に向かう窓をあけると、そこは岩でできた風呂と、ささやかな手すりの奥に、部屋と同じく川が見えた。 こちらの方が、川が近く迫力がある。 夜の風は冷たく、体がまた冷えていくがあまり気にならない。 後ろを振り返り、弟に露天風呂を指さす。 「すごいな、天!」 「そうだね。確かに広いし、豪華なお風呂」 「外行っていい?」 「どうぞ、兄さんのお好きに」 天はまるではしゃぐ子供に対する態度のように冷静だ。 一人興奮していた自分が馬鹿みたいに思えてくる。 「………」 文句を言いたくなるのを堪えて、さっさと露天風呂に浸かる。 実は結構冷えていたらしい手足がじんわりとほぐれていく。 やっぱり温泉は気持ちがいい。 「お前は本当に感動が薄いよなあ。たまには大声あげて驚いたり感動したりしないの?」 「感動ねえ。することはあるけど、飛び上がるまではいかないかな」 天は浴槽の縁に背中を預けて、首をストレッチしている。 まあ、昔から、感動の薄いやつだった。 一人大人びて、上から見下しているような。 いや、違う。 小さな頃は、一緒に、俺と同じように、はしゃぎ、笑い、感情をあらわにしていた。 変わったのは、乖離していったのは、その後だ。 「………お前が、そんな風になったのって、奥宮を見てから?」 「どうだったかなあ」 天は気のない返事で首を傾げる。 「言いたくない?」 「うーん、というか、まあ、成長過程でこうなったというか」 「成長過程?」 天はこちらを見て、皮肉げに唇を歪める。 いつもの、意地悪そうな、笑い方。 「俺は小さい頃から、仕事出されてたでしょ?兄さんが羨ましがってたとおり」 「………うん」 羨ましかった。 才能があり、強く、父や兄たちから信頼される弟が、ずっと羨ましかった。 俺には絶対に手が届かないものを持つ弟が、妬ましかった。 伴われ仕事に行く背中を、どれだけ見送っただだろう。 「俺は才能があるし、強かったし、頭もよかったからねえ」 「………まあ、確かにな」 少しだけ苛立ちを感じるが、それは、本当のことだ。 こんなことで怒っても、しかたない。 感情的になっても、何もいいことはない。 「何回目の仕事だったかな。呪詛された人を助けろって言われた。呪詛返ししろってね。想いは強かったけど、術はそれほど複雑ではなかった。仕事的には、楽勝」 「………うん」 「依頼人は、その家の娘さん。術者は、その家の娘さん」 「え」 「妹さんがお姉さんを呪ってたんだよねえ」 天はなんでもない思い出話を語るように淡々と話す。 一瞬、どういうことなのか、理解できなかった。 妹が、姉を、呪っていたって、どういうことだろう。 「その頃の俺はそれほど術を多く知ってるわけじゃないからね。呪詛返しは倍返ししか知らなかった。だから、聞いたんだよね、そうしたら妹さん、死んじゃうよ?って」 「………」 「先宮はGOサインをくれたよ。それでいいってね」 父さんが、言ったのか。 呪詛返しをしていいと。 小さな、天に。 「んで、呪詛返しして、妹さんは死んだ」 お湯の中に入っているのに、全身の体温が奪われていく気がする。 ぞくぞくとして、体が震える。 「………それが、何歳ぐらい?」 「6歳か、7歳か、そこらじゃないかな。そんなんばっかりしてたらあんまり小さな出来事で動じなくなったかな」 「………」 天は特に表情や態度は変えない。 いつも、勉強が面倒だとか言ってるような、そんな態度だ。 まったく、変わらない。 変わらないぐらい、慣れてしまったのか。 それとも、慣れたふりをしているのか。 「その傷は………、その傷も?」 「前にも言った通りお仕事だよ。これは、ゾンビみたいなのに襲われて刺された時だね」 天の全身に残る、傷跡。 特に背中の傷は、とても深く、大きかい。 この前、石塚家でも、怪我をさせた。 痛かっただろう。 痛い、だろう。 「………」 胸が痛くて、苦しくて、不安で、焦燥感が沸きあがってきて、天の腕に触れる。 瑞々しい皮膚の感触に、その中の血の流れを感じる。 もっと天の脈動を聞きたくて、肩に顔を乗せる。 天の心音と吐息を感じて、ほっとする。 「人の話聞いてた?俺、兄さんで欲情するんだけど」 「………」 「ほんと悪女だね」 苦笑交じりの声が、聞こえる。 その皮肉げな声にも、ほっとする。 幼いころの素直な甘い声とは違う。 今の天の声、だ。 この声になるまで、天はどれだけ痛みを負ってきたのだろう。 「あの頃は、仕事から家に帰ってくると、兄さんが家の前で待ってた」 ああ、思い出した。 確かにあの頃俺は、天が返ってくると聞いたら玄関で待っていた。 天の姿見たくて、ちょっとの嫉妬心はあったが、それでも小さな弟が心配で。 最初は、純粋な、心配だった。 「兄さんは………」 天はそこで、いったん言葉を切る。 それからしばらくして、ふっとため息をついた。 「なんでもない」 そして苦笑交じりに、そう言った。 何を言おうとしたのだろう。 気になって顔をあげる。 天の顔は思いのほか近くにあって、その深く黒い目は、じっと俺を見下ろしていた。 「無暗に襲ったりはしないけど、さすがに若いから理性にも限界があるんだけど」 「………」 俺に欲情すると言った天。 こんな貧相な体に、そんな気になるのだろうか。 やっぱり、よく分からない。 「………天は、俺と、その、したいとか、思うのか?」 「はあ?」 「えっと、その、欲情とか、言ってるし」 天の反応に自分が自意識過剰のように感じて恥ずかしくなる。 なんだか言い訳のようにしどろもどろに答え、目を逸らす。 「何、ヤらせてくれんの?」 「………」 馬鹿にするような直接的な言葉に、さすがに顔が熱くなってくる。 ヤりたいとか、ヤらせるとか、明確な意思はない。 誘うつもりとかはなかったが、そうなっていただろうが。 「ていうかどうしたの、そのビッチぷり。志藤さんにもなんかしたみたいだし」 ビッチって、ひどい言い草だ。 と思ったが、志藤さんとキスして、天や一兄とも儀式とはいえ、そういうことをしている俺は、確かにビッチなのかもしれない。 男なのにビッチっていうのも、変な話だけど。 こういうの、淫乱とか言うのだろうか。 別に自分からしたいって、訳じゃないけど。 そういえば俺は結局この3人以外は知らずに、女性とも触れ合うことはないのか。 「キスした、だけだ」 「へー」 「でも、志藤さんが、俺と、したいっていうなら、別にいい」 って言葉にすると、本当に俺、節操のないやつだ。 節操も恥じらい、何もない。 でも節操も恥じらいも何も、俺は男だしそんな気にするものでもない。 それに、もう今更、それぐらいどうでもいい。 「俺、あの人に何も返せないし、こんなんでいいなら、全然いい」 それであの人が嬉しいなら、満足なら、全然いい。 もしかしたら迷惑なだけかもしれないけど。 「なんていうか、まあ」 天が呆れた様子で肩をすくめ苦笑する。 そういう態度をするのも、当然かもしれない。 すごく、いい加減な態度だろうか。 でも、それしか俺には返せない。 あの人と同じ想いは返せない。 これから想いを育てることもできない。 ずっと一緒にいることも叶わない。 「………やっぱり、余計にひどいかな」 「それは本人に聞いた方がいいんじゃない?」 「………うん」 今度、この気持ちを伝えてみよう。 それであの人が怒るなら、間違っているのだろう。 そうしたら謝ろう。 嫌われてもいいかもしれない。 その方があの人のためかもしれない。 悲しむのだけは、嫌だけど。 「お前は、俺と、ヤりたい?」 天の目を、覗き込む。 吸い込まれそうなほどに深く黒い目が、じっと俺を見つめる。 しばらくして、天が目を細めて、唇を歪める。 「ほんと、こんなんで理性が切れそうになるんだから、恐ろしいね」 天の目には、わずかに揺らぎが見える気がする。 本当に、天が、俺なんかに欲情するのか。 この自信家で、強く聡明な弟が、俺に、感情を揺らすのか。 それはなんだか、酷く不自然で不思議だった。 「お誘いは嬉しいけど、ビッチはあんまり好みじゃない」 「………そっか」 天が望んだなら、どうしていただろう。 俺は天とするのも厭わないのだろうか。 俺は天を、どう思っているのだろう。 「ま、据え膳を見て見ぬふりをするのもなんだから、これだけもらっておく」 考えようとすると、ぐいっと引き寄せられて肩に顔が埋められる。 「つっ」 ガリッと音がして、肩に強い痛みが走る。 火をつけられたように、熱い。 突然すぎて、抵抗することもできなかった。 「った、な、にすんだよ」 「ご馳走様」 顔をあげた天がぺろりと唇を舐める。 自分の肩を見下ろすと、そこにはくっきりと赤い歯形が出来ていた。 温められた体は、じんじんと鈍い痛みを強くする。 「なんで………」 「おいしそうだったから。はは、このままだと完勃ちしちゃう。もう出よ」 「………ああ」 天はまともに答えるつもりはないらしい。 確かに上せそうだ。 仕方なく、肩をおさえて、立ち上がる。 天はすたすたと歩いて、いってしまう。 「………」 相変わらず、天の考えていることは、分からない。 色々話してもらっても、やっぱり、理解が出来ないところだらけだ。 「………」 脱衣所にあがり、浴衣に着替えながら、隣の天を見る。 「………お前は、俺に、奥宮になって死んで欲しいんだよな」 天がちらりとこちらを振り向いて、にっこりと笑う。 「うん。俺に必要なのは、奥宮となった兄さん、それと、儀式に必要な神剣」 「神剣?」 「そう、見なかった?奥宮の近くにあったはず。代々の先宮が受け継ぐ剣。泡影だったかな」 「ほうよう?」 神剣。 奥宮に、そんなものはあっただろうか。 二葉叔母さんしか、目に入ってなかった。 「そう、儀式に必要で、それで、たぶん、奥宮を殺すのに必要な剣」 「………へえ」 俺を殺すための道具の神剣が必要。 「奥宮となった、俺が必要、か」 天は、殺すために、俺が必要。 「一兄は、俺に今まで通りの奥宮になってほしい、か」 逆に一兄は、俺を生かすために、俺が必要。 その生は、おそらく死以上の苦痛に満ちているのだろうけど。 「何考えてるの?」 「色々」 考えることをいったん放棄していた。 でも、やっぱり、考えてしまう。 天が怪訝そうに、眉を顰める。 「俺はね」 俺に向き合い、まっすぐに俺を見つめる。 「なりふり構わず自分の望みを言う人が、好きだよ」 そしていつか言った言葉を、もう一度告げる。 なりふり構わず、自分の望みを言う、か。 望みはあった。 死にたくない。 生きていたい。 皆と一緒にいたい。 奥宮になんかなりたくない。 こんなの嫌だ。 嫌だ嫌だ嫌だ。 全部夢だったらいいのに。 一兄も双兄も天も、父さんも母さんも、今まで通り厳しく、でも優しい大好きな家族。 藤吉も佐藤も、明るく楽しいずっと一緒にいたい大事な友達。 温かいもので満ち溢れた穏やかな日常。 でももう、叶うことはない。 「望み、か」 天もきっと、先宮になって、栞ちゃんを犠牲にして宮守を廃するなんて夢、持ちたかった訳じゃないだろう。 それを望みにするしか、なかったのだろう。 悩み苦しみ、それを選んだのだろう。 今なら、そう思える。 ああ、だからこそ、何よりも欲するものを手にして、まったく躊躇わない、露子さんが嫌いだったのだろうか。 「俺の望みが何か、考えてる」 「………そう」 選べる選択肢は多くない。 その中で俺が一番望むものを、選ばなくてはいけない。 |