息が、つまる。
ねっとりとした濃厚な空気は、呼吸すら億劫になるぐらい、苦しい。
ここは、こんなにも、苦しい場所だっただろうか。
この離れにいると、閉塞感に気が狂いそうだ。

どうしたら、いいんだろう。
何をしたらいいんだろう。
俺に、何ができるのだろう。

明かりもつけていない室内は暗い。
細い月のわずかな明かりだけが、辺りを照らしている。
ただ、窓を眺め、考えることしか、出来ない。

結界は、張られていない。
出ようと思えば出れる。
だが、出て、どうなる。
逃げてもどうにもならないから、張られてないだけだ。
勢いで逃げても、どうにもならない。

どうしたら、いい。
何をしたらいい。
俺は、何を選択すればいい。
俺に残された選択肢は、なんだ。
選択するほどの、道なんて、本当にあるのか。

「四天………」

弟と、そしてもう一人の名前を呼ぼうとして、やめる。
聞かれてないとは、限らない。
だから心の中で呼ぶ。

四天、志藤さん。
どうしているんだろう。
酷いことは、されていないと、思う。
そこまではしないと思う。
でも、もう、会うことは、出来ないのだろうか。

志藤さんには、一応、言いたいことを言っている。
だから、会えなくても、まだ、いい。
あの人が、幸せなら、それでいい。
でもこの後、あの人はどうなるのだろう。
あの優しい人は、辛い目に遭っていないだろうか。
そんなのは、許せない。
俺とのつながりなんて、全部否定してくれればいい。
こんな家から、逃げ出せばいい。
逃げ出して、くれ。

でも、俺が、何か言う訳にもいかない。
俺が、下手に口出すと、事態が悪化する可能性がある。
どうしたら、いい。
いつも結局頼りにしていた天も、頼ることはできない。

四天。
天に、まだ、俺の答えを告げていない。
答えを告げることなく、別れてしまった。

駄目だ。
そんなの駄目だ。
ようやく、近づけた、弟。
ようやく本心を見せてくれた弟。

まだ、駄目だ。
まだ、別れるわけにはいかない。

俺の決意を聞かせるから。
まだ、心は決められていない。
でも、決めるから。
答えを、言うから。
だから。

「………天…っ」

もう一度、会わなければいけないんだ。



***




一兄がゆっくりとこちらに近づいてくる。
思わず後ずさると、天が俺の手を一回握って、小さな声で素早く言う。

「兄さんは、何も話さないでね。表情も動かさないで」
「え」

一兄が、俺たちの前に立ち、いつものように頼もしく笑う。

「お帰り、二人とも。東条家のご当主はご健勝だったか?」

天も動揺する様子を見せず、にっこりと頷く。

「うん。相変わらずお元気そうだったよ。慶事もあったことだしね」
「そうか、よかった。それはなによりだ。先宮からもお礼をお伝えしてもらおう」
「まあ、一泊しかしてないけどね」
「そういえばそうか。その後も色々観光してきたんだろう。楽しかったか?」
「そうだね、中々実りがある旅だった」

和やかな、兄弟の、なんてことのない会話。
二人とも、にこやかで、楽しげにすら見える。
それなのに、寒気が止まらない。
天が少しだけ唇を歪め、皮肉げに笑う。

「楽しい旅だったよ。たった今まで、だけどね」
「ん?」

一兄が、不思議そうに首を傾げる。
天が手に持っていた、丸く薄い金属を見せつけるように掲げる。

「これはいくらなんでも悪趣味じゃない?」
「ああ」

一兄は、動揺は見せずに、困ったように苦笑する。
まるで、子供への悪戯が見つかった親のような朗らかな表情。

「悪いな。俺もそんな出歯亀みたいな真似はしたくなかったんだがな」
「ほんと、趣味悪い。覗き趣味?」

聞かれてはいけないことを聞かれてしまっただろう弟も、弟たちに、おそらく盗聴器をつけていたと知られた兄も、やっぱり穏やかで朗らかだ。
二人とも、ぞっとするほど、いつも通りだ。

「一族内でお前に対して疑念の声が出ていた。宮守に対して叛意があるのではないか、と」
「………」
「そんなことはないと、証明したかったんだが」

一兄は目を伏せ、深くため息をついた。
そして、ふっと表情を消す。
眉を顰め、末弟を見つめる。

「この結果は残念だ」
「相変わらず見事なポーカーフェイスだね」

天は相変わらず笑ったまま、長兄をねめつける。

「お前の翻意が証明された以上、放っておくわけにはいかない」
「ずっと前から、気づいてたんじゃないの?」
「そんなはずはないだろう。お前を信じていた。そこまで思いつめる前に言ってくれればよかった」

天が心底馬鹿にしたように鼻で笑う。
それから手に持った金属を一兄に放り投げる。
一兄はそれを片手で受け取る。

「見事にしてやられた。俺の負けだ」
「お前は力が強い分、力に頼りがちだからな。目の前にあるものに気づかないこともある」
「………」

一兄の言葉に、そこで天が初めて笑顔以外の表情を見せた気がした。
唇を軽く噛みしめた、悔しげな顔。
一瞬だったから、気のせいだったかもしれないけど。

「で、どうするの?」
「そうだな」

黙っていろと言われたけど、そこで我慢できなくなった。
天の後ろから抜け出して、兄と弟の間に体を挟む。

「い、一兄、天は、何も悪くない!」

尊敬し憧れていた長兄を見上げると、一兄は静かな目で俺を見下ろしている。
特に怒っている様子はないのに、恐怖に身が竦み、声が震える。
いつだって一兄に褒められると天に上るように嬉しくて、一兄に怒られると地の底に沈むように哀しくなった。
でも、ここで怯む訳にはいかない。

「天は、何も、してない!少しくらい、反抗的になった、だけだ!だからっ」

自分でも、何が言いたいのか分からない。
庇う言葉も、うまく出てこない。
どうしたら、この目の前の人を、納得させて、天を守ることができるだろう。

「分かってる。落ち着け」

一兄がそこで表情を緩める。
苦笑してなだめるように、俺の頭を撫でる。
こんな風に頭を撫でられると、いつだって、安心できた。
それなのに。

「一兄!」
「分かっている」

俺の頬を両手で挟み持ち上げて、優しく笑う。
幼い頃からまったく変わらない、温かで穏やかな慰撫。

「四天を悪いようにするつもりはない」

本当、なのか。
信じられるのか。
信じられるわけがない。
今までずっと嘘ばかりついてきた、この人を。

「………」

一兄が手を離し、もう一度俺の頭をくしゃりと撫でる。
それから天に視線向けた。

「だが、一族の手前、このままという訳にもいかない。しばらく、家で大人しくしていてもらうことにはなる」

天がくすくすと笑って悪戯っぽく首を傾げる。

「俺、監禁されちゃう?」
「少し謹慎していてくれ」
「少し、ね」

天がまた鼻で笑うと、一兄は悪いなと申し訳なさそうに言う。
この人のどこまでが演技で、どこまでが本気なんだ。
もう、何も分からない。
誰より、敬愛していた、兄なのに。
誰よりも今は、遠い。

「ああ、あと、志藤も、しばらく謹慎してもらう」
「………っ」

続けた言葉に、今度こそ悲鳴を上げそうになる。
思わず掴みかかって、それだけはやめてくれと懇願しそうになる。
だが、その前に天が気軽な口調で言った。

「わあ、かわいそ。巻き込まれだね」

そのふざけたような言い方に、天にも怒りが沸く。
振り返ると天は面白そうに笑っていた。
なんで、そんな風に、笑っていられるんだ。
あの優しい人が、どうなるか、分からないのに。

「あの人使えそうなのに勿体ないね。万年人材不足なのに」

どうしたら、止められる。
何を、言ったらいい。

「あいつが自ら巻き込まれにいったから仕方ない」
「まあ、使い勝手よさそうだから、使わせてもらおうとは思ってたけど」
「三薙とも仲がよかっただろう」
「そうだね、人のいい人だから兄さんは割と懐いてたみたいだけどね」
「宮守に害為す意思のある人間は放置するわけにはいかないかな」
「ん?」

そこで天は今気づいたというように、目を瞬かせた。
それから苦笑して、肩を竦める。

「ああ。なるほど。信じないと思うけど、一応言っておくと、まだ俺は利用前だから、あの人今のところ無関係だよ。さすがに申し訳ないから、ほとぼり過ぎたら解放してあげて」

何を言っているのか、分からなかった。
それくらい、天の言葉は自然だった。
一兄が天の顔をじっと見つめる。
それから俺の顔に視線を移す。
咄嗟に反応できず、ただ一兄を呆然と見つめ返す。

「もちろん、落ち着いたらすぐに解放する。まあ、その辺は本人に確認するとしよう」

一兄がまた視線を、天に戻す。

「うん。ま、あんまり酷いことはしないであげて」
「人をなんだと思ってるんだ」

苦笑しながら、軽く天の頭を叩く。
弟はにっこりと笑って、兄を見上げる。

「家のためには一切容赦なくなんでもできる頼もしい次期当主様」

あからさまな揶揄に、一兄は軽く肩を竦める。

「俺はお前が次期当主に相応しいと思っていたよ」

そして、静かにそう言った。
そこには揶揄や嘲笑といった色はなく、本心からの言葉に聞こえた。

「悪いが、奥の部屋で謹慎してもらう。後で父さんも話にいく」
「はいはい。こうなったらいい子にしてるよ」

降参というように天は手をあげてひらひらとひらめかせる。
そしてよどみない足取りで、家に向かって歩き出す。

「俺は、負けたんだから」
「て、天!」

蚊帳の外にされていた俺は、そこでようやく我に返る。
天の腕をつかみ、引き留める。

「駄目、だ!」
「そんな顔しないでも大丈夫。酷いことはされないよ」

そこでちらりと隣の長兄を見上げ、悪戯っぽく笑う。

「ね?」
「だからそんなことするか」

一兄は心外というように眉を寄せる。
それから安心させるように、俺の頭もぽんぽんと叩く。

「心配するな、三薙。落ち着いたら会う機会も作る」
「………っ」

でも、そんな言葉、信じられるわけがない。
宮守に対して害意を持っている天を、奥宮候補の俺に、会わせてくれるだろうか。
天に酷いことをしないなんて、言い切れるだろうか。

「そんな、の、嫌だ、嫌だ!嘘だ!駄目だ!」

天の腕を掴み一兄の側から引き寄せようとする。
けれど、その俺の手を、引きはがしたのは、他でもない天だった。

「て、ん」
「大丈夫だよ。ま、兄さんもいい子にしててね。ごめんね、結局兄さんと志藤さんを巻き込んで終わっちゃったね。というか志藤さんが一番とばっちりだよね。俺が運転手にしたばっかりに」

苦笑して肩を竦める点に、そこでようやく、さっきの言葉の意味に気づいた。
天は、志藤さんは何も知らないと言っているのだ。
一兄の前で、嘘を突き通そうとしているのだ。

そうか、川に落ちたのは二日目。
あそこで、盗聴器が、壊れていたとしたら、どうだろう。
そうだ、あの後から、つけてくる車はいなかったと言っていた。
あの後からの会話は、何も聞かれていないとしたら。
川に落ちる前、俺と志藤さんはまだ仲直り、していなかった。
ほとんど、話していなかったはずだ。
だったら、志藤さんのことは、誤魔化しとおせる可能性がある。

「まあ、諸悪の根源の俺は大人しく謹慎しとく。ごめんね、兄さんが結局どうしたいか、聞くことできなかった」
「あ………」
「それじゃあ、兄さん、また後でね」

天はひらりと手を振ると、今度こそ家の中に入っていった。

「………天」

俺が、どうしたいか。
俺の望みを、叶えてくれる。
天、お前はそう言った。
お前は約束を違える人間じゃない。

だから、絶対、俺の願いを聞いてくれるはずなんだ。





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