賽は投げられたって、こういう時に言うのかな。 言ってしまった。 とうとう、言ってしまった。 もう、戻れない。 でも言った瞬間に、心のざわめきも、聞こえていた雑音も消えた。 心が驚くほど、軽くなった。 もう、決めた。 決めたのだ。 「迷いは、ないのか?」 一兄が表情を少しも揺らさず、静かに聞いてくる。 本当に、感情が見えない人だ。 今、何を想ってるのだろう。 嬉しい?何も思ってない?それとも少しは、哀しいと思ってくれている? 「ないと思う?」 「そうだな、愚問だった」 皮肉で返すと、一兄が苦く笑う。 迷わないわけがない。 心は定まっても、やはり後悔と恐怖と焦燥はある。 「でも、決めた。………結局俺は、俺以外の人が犠牲になるのを見るのは、嫌だ。そんなの見て、心穏やかになんて、暮らせない。そんな息苦しいのは嫌だ。それに、どうせすぐ死ぬなら、少しは役に立ちたい。役に立ちたいって、ずっと思ってたし………」 俺のできること。 俺がしたいこと。 俺に残された道。 俺の数少ない選択肢。 その中から、選んだ。 これが正しいかは分からない。 でも、これしか選べなかった。 「………そうか」 一兄は、一瞬目を伏せて、小さく息をつき、頷く。 それからまっすぐに俺を見つめてくる。 「分かった。先宮にお伝えする」 「うん、お願い」 賽は投げられた。 後は、俺の為すことを、為すだけだ。 「じゃあ、俺は行く」 「うん。おやすみ」 踵を返そうとして、一兄が一旦立ち止まる。 「………一兄?」 そして振り返った一兄が、不意に俺に腕を伸ばす。 「え?」 反射的に身を引くが、そのまま肩を掴まれ引き寄せられた。 その広い胸の中に押し付けられ、抱きしめられる。 頬に触れる堅い、けれど上質なスーツの感触。 ふわりと香る、お香の匂い。 一兄の体臭と混じりあった、懐かしい匂い。 「………いち、にい?」 「………」 一兄は答えず、ただ強く、俺を抱きしめる。 胸に顔を押し付けられているから、一兄の表情は見えない。 ただこの腕の優しさは、強さは、知っている。 ずっと傍にあり、俺を慰め励まし慈しんでくれた腕。 胸が、痛い。 「お前の選択を………、尊く思う」 擦れた声でそう囁いて、体を離す。 ようやく見えた一兄の表情は、いつもと変わらず、穏やかな笑顔の無表情。 薄く微笑んで、俺の額にキスをする。 「俺の奥宮、あなたの決断に、感謝と敬意を」 「………」 胸が痛い。 苦しい。 この痛みは、なんの痛み。 分からない分からない分からない。 ただ、苦しい。 吐き出すために、泣き叫んでしまいたい。 苦しい。 「お茶を運ばせよう。今日は、もう休め」 体を離す一兄から顔を背け、絨毯を見つめる。 感情が溢れてしまいそうだ。 拳を握りしめて、息を、深く吸い、吐く。 落ち着け落ち着け落ち着け。 「………うん、一兄も、早く休んでね」 「ああ」 そしてただ、それだけ言うことが出来た。 やっぱり分からない。 一兄、あなたは何を、考えているのだろう。 俺をどう思っているのだろう。 少しは弟として愛してくれていたのだろうか。 俺へ向けてくれた笑顔は、嘘ばかりじゃなかっただろうか。 「………考えても、仕方ない」 頭を強く振って、考えを追い払う。 この期に及んで、そんなものに縋っても仕方ない。 もう、これで、後戻りは、できない。 後は、やるべきことを、やるだけ。 無力で何も持たない俺が出来るささやかな努力を、するだけ。 決断したからと言って、特にすぐに何かが変わるわけじゃなかった。 生活は変わらず、今まで通りの日常が過ぎていく。 微かに何かが、蠢きはじめたのを感じはするが。 でもまだ、時間はあるはずだ。 今日は学校がないから、岡野と顔を合わせずに済む。 それだけは救いだ。 週明けにはちゃんと、いつも通り顔を合わせないといけない。 変な態度を取らないようにしないと。 岡野のことを考えるだけで、罪悪感に押しつぶされそうだ。 本当に最低だ、俺。 「………もう、考えるな」 やってしまった。 決めてしまった。 過去には戻れない。 やり直すことはできない。 今迷い始めたら、俺はもう、決断できないかもしれない。 もう、考えるな。 もう、決めたんだから。 「うん」 息を大きく吐き出して、部屋を出る。 そして、こそこそと足早に目的地を目指す。 忙しい人だからいないかもしれない。 でも、なるべく早く話をしないといけない。 「熊沢さん、今いいですか?」 辺りに誰もいないことを確かめて、目的の部屋まで来てノックをする。 まあ、なんかしら監視されてるだろうから、辺りを見渡しても意味ない気もするけど。 「はい?」 幸い部屋の主はいて、返事と共にドアを開いてくれる。 スーツではなくラフな部屋着を纏ったその人は、俺の顔を見て片眉を器用にあげる。 「これは、三薙さん。いらっしゃい」 いつもの笑顔を作りながらも、どこか声が堅い。 もう、聞いているのか。 相変わらず情報が届くのが早い。 この人は、やっぱり家の中でもだいぶ重用されているようだ。 「入ってもいいですか?少しお話したいことがあって」 「ええ、どうぞ」 熊沢さんは快く招き入れてくれる。 「一体、どうなさったんですか?あ、飲み物飲みます?」 「俺のこと、聞きました?」 「………っ」 部屋に入りすぐに、返事はせずに、単刀直入に切り出す。 熊沢さんは息を飲み、けれど、すぐに苦しそうに笑って頷く。 「………はい、伺いました」 やっぱり、聞いていたか。 それなら、話は早い。 立ったままの熊沢さんに向き合って、その目をじっと見つめる。 「そうですか。改めまして、俺は、奥宮になることになりました」 「………はい」 なんと答えたらいいのか分からなかったのか、熊沢さんが絞り出す様にそれだけ言った。 この人がこんな動揺しているのも珍しい。 なんだか、面白くなって、ちょっと笑ってしまった。 「………よくご決断、されましたね」 「すごい迷いましたけどね」 「そうですか。………三薙さんは、強い人ですね」 俺から目を逸らして、熊沢さんがそんなことを言う。 強くなんて、ない。 「強くなんて、ないですよ」 「いいえ、お強いです」 「………」 強くなんてない。 ただ、もう、余計なことは何も考えないようにしただけだ。 熊沢さんの逸らそうとする目を、もう一度しっかりと見つめる。 「俺は、決めました。だから、熊沢さん。双兄と双姉のこと、後、よろしくお願いいたします」 「………」 熊沢さんは、眉を寄せ、険しい顔をする。 睨まれているようで少しだけ怖くなったが、怯んでいる場合でもない。 「熊沢さん」 「はい」 「俺、熊沢さんのこと、信じてるんです」 「………」 ただ、この人に言うべきことを、言うだけだ。 俺はこの人を信じてる。 俺を助けることなんて、絶対してくれないだろう。 この人は自分の中の絶対を定めて、揺らがない人。 だからこそ、信じられる。 「熊沢さんは、何があろうと、双兄と双姉を、裏切らないでしょう?」 熊沢さんが、もう一つ眉間の皺を増やす。 怒っているのかもしれない。 双兄と双姉の名前を、俺が出したから。 「双兄と双姉は、俺のこと、知りましたか?」 「………ええ」 「そうですか」 あの弱い人たちは、どうするだろう。 ますますアルコールに溺れないといいんだけど。 弱くて臆病な可哀そうな人。 「でしたら、よろしくお願いいたします」 頭を下げて、もう一度お願いをする。 顔を上げる途中で、熊沢さんがそっと言う。 「私の第一優先は、あのお二人の身の安全です」 「はい、それは知っています」 それは、よく理解しているつもりだ。 この人の第一優先は、双兄と双姉。 それでいい。 「その次は、あの二人のお願いごとですよね」 ただ少し笑ってそう告げると、熊沢さんは面食らったように目を丸くした。 それから肩を竦め、呆れたようにため息をついて笑う。 「………すごく、強かになられましたね」 強か、というのだろうか。 人を少しだけ離れた位置で見るようにはなった気がする。 「あはは、なんか。性格悪くなっちゃいました」 「いいえ」 熊沢さんはゆるりと首を横に振る。 「いいえ、全然性格悪くなんてありませんよ。三薙さんは、どこまでも善良です。少しくらい強かなあなたは、より魅力的です」 そしてそんな風に褒めてくれる。 お世辞だかなんだか分からないが、反応に困って曖昧に笑う。 「分かりました。あなたの願いは出来る限り叶えます。あの二人のことはお任せください」 それから熊沢さんはそう言って請け負ってくれた。 ほっとして、胸を撫で下ろす。 これで、たぶん、大丈夫だ。 勿論全部がうまくいくわけじゃないだろうけど。 「ありがとうございます」 あの二人は、この人がついていれば大丈夫。 何があっても、支えてくれる人がいるんだから、大丈夫。 「………こんなこと、俺がお願いするのも変ですが、双兄と双姉があまり傷つかないようにしてください」 「………」 誰よりも脆い次兄たちは、俺がいなくなることでどうなってしまうだろう。 少しでも傷つかなければいい。 そう願い気持ちは嘘じゃない。 弱くて卑怯ではあるけど、優しくて俺のことを想ってくれる、兄と姉だ。 大事な、人たちなんだ。 「あ、それと出来れば、志藤さんもよろしくお願いしますね」 最後に思い出したようにそれを告げると、熊沢さんはいつものように飄々と笑って肩を竦めた。 「それはまあ、それなりに」 「出来れば力を入れてお願いします」 そう重ねて言うと、熊沢さんは声をあげて笑い、俺もつられて笑った。 |