いつもの広間に訪れると、父さん、先宮はすでにそこにいて、いつものように厳しい顔で座っていた。
促されるまま、一兄と共に父さんの前に座る。

「よく来てくれた」
「は、い」

俺を前にしても、表情を動かすことはない。
前はここにきて、仕事を言いつけられるのは、とても嬉しいことだった。
広間に呼ばれる天や双兄に嫉妬していた。
ずっと入りたかった場所だった。
でも、今はただ、ここは重苦しい空気を纏う、薄暗い部屋でしかない。

「三薙、お前には明日には最後の共番の儀を迎え、明日か、覚悟が定まらなければ、明後日」

父さんは声も表情も、すべて揺らすことはない。
ただただ静かで、強い、宮守家当主、先宮として態度を崩さない。

「奥宮を継いでもらわなければならない」

そうして、そう俺に告げた。
そこには息子に対する憐憫や情なんてものも一切感じられない。
ただ、凪いだ湖のように、冷たく静かで、穏やかですらあった。

父さん、俺は、あなたにとって、どういう存在だったのですか。
大事な大事な道具ですか。
それとも不出来でも、少しは、息子として、愛してくれましたか。
ねえ、父さん。
二葉叔母さんと同じ道をたどる俺を、あなたはどう思っているのですか。

なんて、問うても、この人が答えてくれることは、ないのだろうけど。
一兄と同じ、いやそれ以上に、硬質で人形のように感情を揺らさない、完璧な当主。

「………そんなに猶予があるのですか」
「ああ、奥宮が一時不在でも、それぐらいは持ちこたえることができる」
「………そう、ですか」

前に、四天が言っていた通りだ。
奥宮が一時的に不在でも、少しぐらいは、もつ。
やっぱり天は、俺に嘘は、つかない。

「今一度問う。お前に、覚悟があるか」

幾度も迷った。
幾度も逃げ出しそうになった。
幾度も翻しそうになった。

けれど惑った先に、答えを見つけた。
後悔もあるし、未だ迷いもする。
けれど、決めたのだ。
もう、逃げないって、決めたんだ。

「………仰せのままに、先宮。尊きお役目、謹んで承ります」

これが、俺の答え。
俺の選んだ道。
俺の運命。

「そうか」

父さんは、やっぱり表情を揺らすことはない。
ただ少しだけ目を伏せて、大きく頷いた。

「よく引き受けてくれた。感謝する」

やっぱり、感情の揺れは一切見えない。
ねえ、父さん、二葉叔母さんの時もそうだったの。
あなたにとっては、二葉叔母さんも俺も、ただの道具なの。
少しだけでも、なんらかの表情を見せてくれれば、いいのに。
感情を、触れさせてくれればいいのに。

「………いいえ、宮守に生を受けたものとして、当然のことです。この地のために身を捧げる栄誉、恐悦至極です」
「そうか。よく言った。私はお前を誇りに思う」

じっと父さんの目を見つめる。
けれど、父さんはやっぱり、表情を動かさない。
やっぱり、駄目なんだな。
やっぱり父さん、あなたは、先宮なんだ。
そして一兄も、こんなものに、なるんだ。

「では、三薙。今日はゆっくり休め。明日には共番の儀を執り行う。潔斎はしなくてもかまわない」

そう言い置いて、父さんが、すっと立ち上がり、俺の横をすり抜けていく。
その足取りを追って、慌てて振り向く。

「え、あ、二葉叔母さんは………?」

一兄は本日役目を終えると言った。
だから、俺が奥宮になるのが遅くて驚いていたのに。
てっきり俺も二葉叔母さんのところに連れて行かれて、さっさと奥宮にされるものだと思っていた。
それをどう抗おうか、悩んでいたのに。

「………これより、天赦の儀を執り行い、お役目を終えていただく」

父さんは足を止め、けれど振り向かないままそう答えた。
初めて聞いた単語に、首を傾げる。

「てんしゃ、のぎ?」
「ああ、奥宮を終えていただく、儀式だ」

心臓がびくりと、跳ね上がる。
一瞬で血の気が引いて、手の先まで冷たくなる。

「それを、これ、から?」
「ああ」

俺の声は、震えていた。
父さんの声は、いつもどおり静かだった。

「お前は、心残りなきよう、過ごせ」

そう言って、父さんはまた歩き出す。
隣に座っていた一兄も黙って立ち上がり、その後を追う。

「あ、ま、待ってください!」

思わず、その言葉が口をついて出た。
二人が立ち止まり、俺を振り返る。
俺がずっと畏怖し、そして敬愛していた二人の視線を受けて、一瞬言葉に詰まる。
でも、ここでひいたら、駄目だ。
唾を飲みこみ、拳をぎゅっと握りしめ、二人の威圧感に耐える。

「………あの、俺も、行って、いいですか」
「………」

二人は、黙って俺を見ている。
視線を逸らさないように、拳に力を込める。

「俺も、二葉叔母さんがお役目を、終える、その瞬間を、寿ぎたく思います」

思ってもない言葉。
いや、言葉に嘘はないか。
ようやくあの苦痛から逃れる二葉叔母さんのことは、確かに喜ばしく思っている。
15年も苛まれてきた檻から、解放されるのだ。
それが、どんな形にせよ。

「………来い」

父さんが俺をねめつけながら、短くそれだけ言った。

「ありがとうございます」

けれど、許可はもらえた。
俺は、見ることが出来る。

奥宮の、最後を。



***




そこは、以前入った時と変わらず、噎せ返るほどの邪気の気配があった。
邪気はないのに、その気配だけで胸がいっぱいになるほど、濃厚だ。
呼吸をすることすら、苦しい。

奥宮。
宮守の最深。
この地を統べる神が負わす社。
そして、社の中の深淵の闇に浮かぶ、二つの光。

「あ、ああ………、あう、うああああ」

あらゆる苦痛を内包したかのような、耳を塞ぎしゃがみこみたくなるほどに悲痛な声。
二葉叔母さんが、結界の中で立ちつくし喉を掻き毟っている。
以前見たときと変わらず苦しんでいる。
以前と変わらない。
いや、違う。
あの頃よりずっと、二葉叔母さんは、弱っている。
掻き毟る喉の傷が癒えるのが、遅い。
血が溢れ、床を濡らしていく。
そして、その身に纏う闇も、今にも溢れかえりそうだ。

見て、理解した。
もう、二葉叔母さんには、あの闇を受け入れる力は、ないのだ。
壊れかけ、闇が零れ落ちそうなんだ。
けれど今必死に、あの人は、堪えようとしているのだ。
それが、分かった。

「一矢、泡影を持て」
「はい」

父さんはやっぱりその顔に張り付いた先宮の仮面を外さないまま、一兄に低く命じる。
奥宮の右手には、飾り気のない白鞘に収められている二尺六寸ほどの剣が飾られている。
一兄がそちらに向かい、恭しく剣を手に取り、父さんに渡す。

「………」

父さんは剣を受け取ると、座り込み、目の前で苦しむ二葉叔母さんに、深々と一礼した。

「………奥宮、長きに渡るお役目を全うするこの瞬間に立ち会えたこと、歓喜の念に堪えません。これまでのお勤め、ありがとうございました。どうぞお休みください」

それから立ち上がると、剣を鞘から抜き放つ。
それほど強い力を持つとは思わない、けれど直刃の美しい剣。
光りの射さないのこの社で、ただ奥宮の眼と、泡影の刃だけが光る。

「宮守の地に神留まります掛巻も畏き奥宮に、恐み恐み奉り申し上げる。夜須美より壌より奈保留を受け入れし、尊き御身に賜ひ清賜と申す事の由を………」

父さんが抜き放った剣を掲げ、朗々と祝詞を唱え始める。

「諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ 清め給へと白す事を聞食せと 恐み恐みも白す」

そして、その祝詞を終えると、泡影は更に光を集め、輝く。
真っ白で、目がくらむほど、光り輝く。

「………」

父さんが、その剣を持ち、足を進める。
そして、奥宮を封じる結界の前に立ち、泡影を二葉叔母さんに振りかざす。

「あ、あああ、あ………」

二葉叔母さんは反応することすらできずに、ただ立ち尽くす。
父さんは、その剣を静かに、優雅にすら見えるほど穏やかに振り下ろす。

ザン!!

その太刀筋は、二葉叔母さんを縛っていた呪鎖を断ち切る。
右手と右足を同時に、そして返す刃で左手を、最後に、左足を。

ザン!

左足の呪鎖を切り落とすと同時に、闇が、二葉叔母さんを解き放つ。
けれど、溢れることはなく、その結界の中に蠢き、とどまる。
鎖から解き放たれた二葉叔母さんの体が、ぐらりと傾ぐ。

「あ、あ………」

そのまま前に倒れこもうとした体を、父さんが前に進み出て受け止める。

「あ」

二葉叔母さんの表情から、苦痛が消えていく。
疲れ果て、狂気に満ちた顔が、呆けた、子供のような表情に変わる。
闇に満ちていた目に、光が戻る。
父さんと母さんと同年代には見えない若々しい顔が、あどけなく唇が持ち上り、かすかな笑顔の形を作る。

「にい、さん」

擦れてか細い、けれど慕わしげな、声。
聞いてるだけで胸が引き絞られるような、幼い声。

「にいさん」
「二葉」

二葉叔母さんが、確かに、父さんを見つめて笑う。
蕩けそうな、甘い甘い、愛しさが溢れるような甘い表情。

「にい、さん」

俺たちを背にした父さんの表情は、見えない。
ただ、泡影を持たない左手で、二葉叔母さんの体をしっかりと抱きとめる。

「………」

父さんが二葉叔母さんの耳に顔を寄せ、何かを囁く。
それを聞いた二葉叔母さんの顔が解け、見ているだけで切なくなるほどに、柔らかく笑う。
まるで愛し合う恋人の逢瀬に、紛れ込んでしまったような気まずさといたたまれなさを感じる。
着いてくるなんて、言わなきゃよかったかもしれない。
この二人は、二人きりに、してあげなければ、いけなかったのかもしれない。
俺は、今ここで、確かに、部外者だ。

「わた、し、ね………、に、いさん………し……だ…」
「………」

父さんの声も、途切れ途切れに話す二葉叔母さんの言葉も、聞き取れない。
ただ、二葉叔母さんは力の入らない体を父さんに預けながら、そっと目を閉じる。

「…うれ…、…い………る」
「………」

そして、父さんが右手を静かに動かす。
あまりにも自然な、穏やかな動作で、何をしようとしているのか、分からなかった。
制止する暇すらなかった。

「二葉………て、………だ」

父さんが、左手で更に二葉叔母さんの体を抱き寄せ、何かを囁く。

ザン!!!

布を断つような、肉を断つような、土に刃を立てるような、そんな音がした。

「あ、は………、………ね」

二葉叔母さんが笑う。
その瞬間、その体が、霞んだ。

いや、違う。

体が、崩れ落ちた。
言葉通り、ボロボロと、泥人形のように、壊れて、崩れた。
さらさらと、崩れて、そして、何もなくなる。
二葉叔母さんが身に纏っていた巫女服が、父さんの足元に落ちている。

「あ」

後に残ったのは、濃厚な闇と、泡影を手に立ち尽くす父さん。
やはり背を向けているから、その顔は見えない。

「………っ」

眩暈がして、足から力が抜ける。
後ろに倒れこみそうになった瞬間に、腹から抱きすくめられ、支えられた。

「………大丈夫か?」
「………」

背中に温かい感触がして、ほっと息をつく。
生きていることを感じる熱。
死と闇に満ちたこの場で感じている、生命の気配。

「三薙、外に出るか?」
「一兄………」

ほんの少しの余韻もなく、存在していた跡すら残さず、二葉叔母さんは消えた。
でも、二葉叔母さんは、笑っていた。
父さんに身を預け、蕩けそうに笑っていた。

二葉叔母さん、あなたは、幸せだった?
それとも、やっぱり、自分の運命を憎んでいた?

何も分からなかった。
そしてまるでその存在が夢だったかのように、二葉叔母さんは、もういない。

あれが、俺がいずれ迎える終わり。


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