「あ………」

約束。
突然のことで混乱して頭が回らない。
約束。
そう、約束。
俺は天と約束したんだ。
俺の望みを、天に伝えると。
四天に、何を望むか。
俺は、四天に、何を望むか。

「ま、いいか」

俺が答えられずにいると、天は呆れきった顔でため息をついた。
そして立ち上がるとともに、俺の手を引いて引っ張り起こす。

「え」
「ここに来てもまだ言えないんでしょ?本当に優柔不断だよね」

相変わらずの小馬鹿にしきった態度。
違う。
言えない訳じゃない。
ただ、今、言っていいのか。
分からない。
まさかここで、天が来るとは、思ってなかった。
本当にこいつは、いつも俺の予想外のことばっかりする。
俺はいつだって、振り回されてばっかりだ。
俺に考える時間を、いつもくれない。

「だから、とりあえず、行こっか」
「行くって………」
「ん?」

俺の手を引いて部屋のドアまで歩きながら、天は俺の疑問が分からないと言うように首を傾げる。

「ここにいると答える時間もなくなっちゃうでしょ?だから、とりあえず行こう」

まるでピクニックに行くかのように朗らかに楽しげに話す。
行くって、どこに。
ここから、どこへ。
どこへ、行けるって、言うんだ。

「俺は、誰かと違って約束を守る男だからね。約束を果たす前に、逃げられるわけにはいかない」

あてこする意地の悪い言い方は、嫌になるほど、いつも通りの弟のものだ。
こんな状況でも天は、天のままだ。
この力強い手に、声に、言葉に、従ってしまいたくなる。
生まれながらに人を圧倒する、白い力を纏う弟。

「だから」

天が振り返って、綺麗な顔に邪気のない笑顔を浮かべる。
薄暗い部屋の中でも、自分自身が光り輝いているように見える。

「迎えに来たよ、兄さん」

ああ、いつか、こうして、天は、迎えに来てくれた。
あの時も、床に這いつくばる俺を見下して、それはとても綺麗に笑った。
あれは、いつのことだったっけ。

でも、いつでも、一緒か。
いつだって、俺を迎えに来てくれるのは、四天だった。



***




促されるまま、部屋から出て、廊下の窓から外に出る。
天は用意のいいことに靴もすでに用意していた。
手には剣も持っている。
俺も部屋を出るときに咄嗟に持って行けと言われて、短刀を持ってきた。
一兄の懐剣は、持ってこれなかったけど。

「お前、どうして、ここに」

なるべく音をたてないように、けれど全力で宮守の庭の中を走る。
生まれたころから見知った場所のはずなのに、道なき道を走るのは、まるで樹海の中にでもいる気がする。
行く手を阻む木々の枝が、意思を持って俺たちを行かせまいとしているようだ。

「二葉叔母さんだったモノ、死んだんでしょ」
「………」

月が明るいといえ、天は暗闇の中でも危なげなく、木々を避け走る。
鞘に入ったままの剣で枝を薙ぎ払い、俺のために道を作ってくれる。
さすがに息は上がっているが、その足取りはよどみない。

「だから、逃げた。少し手こずったけどね。」

四天は前を向いて走りながら、答えてくれる。
モノという言葉に、胸がズキズキと痛む。
モノじゃない。
二葉叔母さんは、モノなんかじゃ、なかった。

「手後れかと思ったけど、まだ、間に合ったみたいね」
「………俺は、でも」

逃げていいのか。
このまま天の手をとって、逃げていいのか。
でも、逆にいいタイミングなのか。
いや、でも、天を巻き込んで、いいのか。
でも、天が、いるなら、ちょうどいいのか。

「一矢兄さんと、儀式はまだだよね?」
「う、ん」
「そう、よかった。済まされてたら、速攻で奥宮になってたかもしれないし。アレは思ったより早く限界がきたんだね」

そしてまた前を向いて、足を速める。
さすがに二葉叔母さんをそこまでモノ扱いされるのは嫌で、抗議する。

「二葉、叔母さんは、でも、満足そうだった!最後は、奥宮じゃ、なかった!あれは、人、だった!」

二葉叔母さんは、満ち足りていた。
本当はどうか、分からない。
最後の何を話していたかは、聞こえなかった。
だから、本当に満足していたか、なんて、分からない。
でも、そう信じたい。
満ち足りていたと、満足したと、最後は幸せだったのだと、最後には人に戻ったのだと。
そう、信じていたいんだ。

「とりあえず、黙って走って、家を抜けるまで」
「………」

天はそれに応えることなく、前だけを向いている。

「俺が逃げたことはとっくにバレてる。今更後戻りはできない」

後ろには、戻れない。
じゃあ、先には何があるんだ。
この暗闇の森を越えた先には、いったい何が、あるんだ。

森は、永遠に続く様に、感じてしまう。
暗闇に蠢くなにかが、こちらを見ているのを感じる。
宮守の家は、こんなに、広かっただろうか。

早く、早く早く早く。

終わりなんてないと感じる暗闇の中を、どれくらい走っただろう。
森の切れ目が、先に見える。
あそこを越えてれば、確かに塀が少し低くなってるところがあって、越えられたはずだ。
人ならざるものの監視はあるだろうが、俺と天ならそれくらいならかわせる。
後、少しだ。

「え、うわ!」

急に天が足を止める。
その背中に鼻がぶつかりそうになる寸前で、ギリギリ俺も止まる。

「天、何?」
「宮守の血の盟約に従い、我が僕、我が声に応えよ」

急になぜ足を止めたのかと問う前に、天が素早く呪を唱える。
そして、地面に放り出された水晶から、みるみるうちに二体の美しい獣が姿を現す。

「え、黒輝、白峰」

ビロードのような黒い毛並みを持つ黒い狼と、四本の尾をもつ美しい白銀の狐。
なぜ天の使鬼をここで呼ぶのか。

「ま、そう簡単にいくわけないか」

ため息交じりに一人ごちて、天が剣を鞘から抜き放つ。
月明かりを受けて、その刀身が光を放つ。
天の背中の向こうには、森と塀の間の、ぽっかりと空いた空間。

「三薙、四天、散歩か。もう夜も遅いから、明日にしたらどうだ?」
「………っ」

それは、さっきまで聞いていた声。
聞いているといつだって安心できて、眠くなる、穏やかで力強い優しい、声。
なのに、今はぞっと、背筋に寒気が走り、全身が強張った。

「………あ」

慌てて天の横に出ると、目の前の空間には、何人かの人影があった。
その中には、よく知っている顔がいくつかある。

「夜更かしはするな、三薙」

穏やかに、いつだって感情を揺らすことなく笑う長兄。
月明かりの下、今も変わらず笑って、佇んでいる。
いつもと変わらない。
ここが、朝食のダイニングだと勘違いしてしまいそうなほど、変わらない。
だが、その手には、天と同様、抜身の剣が握られている。

「あーあ、見つかっちゃった。よくここがわかったね?」
「いくつかヤマを張ってたんだ、俺たちが当たりを引いたな」

つまり、ここ以外にも人は、配置されているということか。
よりによって、この人に当たらなくてもよかったのに。
焦り、手に汗を掻く俺とは裏腹に、対峙する末弟は涼しい顔で、微笑んでいる。

「夜の散歩っていうのも、粋なものでしょ?今日は月が綺麗だし」

軽口を叩きながら、その全身に、揺らぐほどに白い力をみなぎらせていく。
黒輝と白峰も歯をむいて、警戒している。

「確かにな。なら、俺も一緒に行こうか。いつもお前らは俺を仲間外れにするからな」
「お目付け役がいたら、羽を伸ばせないでしょ」
「そう言うな。たまには兄弟で並んで話し合う時間を持つのも悪くない」
「一人足りないけどね、どこいったんだろう」

一兄が肩を竦めて、苦笑する。
そして、困ったように笑ったまま、問いかける。

「三薙、四天、念のため聞いておく。今すぐ引き返す気は?」

どうしよう。
どうしようどうしよう。
怖い。
怖い怖い怖い。
一兄が、怖い。
いつだって、一兄に褒められると心が浮き立った。
いつだって、一兄に叱られると地の底に突き落とされるようだった。

「少しくらいの夜遊び、許してくれない?一矢兄さんだって、結構遊んでたでしょ」

でも、天は、やっぱり、いつもの天だ。
変わらぬ態度を見て、少しだけ、動揺が収まっていく

「それを言われると耳が痛いが、兄として夜遊びを見過ごすわけにはいかないな」
「何それ、ずるい」
「はは、悪いな」

そこで、一兄がすっと表情を改める。
仕事の時に見せる、冷静で冷徹な一切の感情を消した、顔。

「奥宮には、命に関わるような怪我はさせるな」

全身に鳥肌が立ち、軽く吐き気がした。
恐怖に、身が竦む。
今の言葉の意味は、俺には、怪我をさせてもいいから殺すなということ。
そして、天は、命に関わる怪我をさせてもいいと、そう言うことなのか。
違う。
そんなはずがない。

「一矢兄さんの、そういうところ、俺、好きだな」
「俺もだ、四天。お前のそういうところを可愛いと思ってるよ」

酷く残酷なことを言われてるのに、天はくすくすと楽しそうに笑う。
一兄もいつも俺たちに接するように、慈しみすら感じる笑顔を見せる。
怖い、怖い怖い怖い。
なんだ、これ。
どうしてこうなったんだ。
俺たちは、喧嘩はするけど、仲がいい、兄弟だったのに。
なんで、こんなことに。

「黒輝、兄さんを」

天の言葉に、黒輝が俺の前に素早く立ちはだかる。

「佐藤、藤吉、三薙を押さえろ。三浦、太一、四天を」

そして一兄の言葉に、人影の中の二人が、こちらに視線を向ける。
ああ、吐き気がする。
なんで、こんなことに、なっちゃったんだろう。

「………誠司、佐藤」

一兄の横に立った二人は、よく知っている、クラスメイト。
俺の数少ない友達、だった人たち。
月明かりの下、宮守家の森の中、一兄と藤吉と佐藤。
なんだかピースの合わないパズルのようで、酷く違和感があって、現実味がない。

「夜遊びは駄目だよー!お兄ちゃんの言うこと聞かなきゃね!仕方ないから、私がちゃんと家に連れて帰ってあげる」

佐藤は、ここ最近見せる邪気たっぷりな顔でにやにやと笑う。
全身に滲み出る悪意に、足を引いてしまいそうになる。

「………三薙」
「………」

藤吉は、苦しげな顔をしていた。
眼鏡の奥の眼は哀しげに細められている。
そんな顔を、するな。
しないでくれ。
俺は、どうしたらいい。

「兄さん」
「あ」

手をぎゅっと、強く握られる。
向かい合う人たちに意識を集中させながら、隣をちらりと見る。
前を見たままの天が、俺の手を強く握っていた。
その手の力の強さに、心の揺れ幅が少しだけ小さくなる。

「兄さん、俺はまだ約束を果たしてない。俺は、約束を破る人間になる気はない。破らせるなら、許さない」

ちらりと一瞬だけこちらを見て、綺麗に笑う。

「今迷ったら、俺が殺してあげる」





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