一兄の、お香の匂いがする。
柔らかい障子越しの日差しが、瞼を擽る。
目を開くと、見慣れた、一兄の部屋。

「………」

どれくらい、寝ていたんだろう。
まだ日は高いから、そんな長い時間ではないだろう。
気分は悪くない。
少しだるいけど、体も軽い。
一兄と天の力が、体の中に満ち溢れている。

「………起きたのか、三薙」

後ろから、耳元に囁かれる。
俺の腰を抱いているこの手は、一兄のものだ。

「うん、おはよう、一兄」

腕の中で振り向いて向き合うと、一兄は目を細めて笑う。
優しく穏やかに、いつものように笑って、俺の額にキスをする。

「おはよう」

なんだろう、チクチクする。
胸が、痛い。
喉が、苦しい。

「もう、時間?」
「………」

珍しく一兄が目を伏せて、言葉を濁す。
ああ、もう、時間なんだ。
もう、終わりなんだ。
そうだな。
それにどれくらい寝ていたか分からないが、四天が来ても、困る。

「じゃあ、行こっか」
「………ああ、身を清め、服を改めよう」
「これからもっと汚くなるのに、変なの」

あんな汚いバケモノになるのに、綺麗にしてどうするんだろう。
なんて、無駄な行為。
一兄と天の精液にまみれていた方が、ずっと相応しいし、気分がいいのに。

「………そうだな」

一兄は苦笑すると、体を起こし、俺を抱き上げる。
じくじくじくじく、胸が痛い。
なんだろう、痛い。

「ね」

いつのまにか、白装束を身に着けていた。
体もある程度、清められているようだ。
本当に、一兄と天の匂いがするほうがよかったのに。
ずっと、落ち着いたのに。

「風呂なんていいのにな」

抱き上げられ浴室に向かう途中自室の前で、ふと思いつく。

「あ、ねえ、奥宮になる時、何か持ってても平気?」
「ああ、たぶん平気だろう」
「そっか。じゃあ、大事なもの持ってく」
「分かった」

そのまま部屋に向かってもらい、部屋に置いてあったものを探る。
身に着けられるだけの、大事なもの。

志藤さんにもらったアイオライト。
龍神にもらった石。
一兄の短剣。
後は、天の水晶は、着ていた服に入ってたはずだ。
あれも持っていこう。
短剣以外を岡野が作ってくれたポーチに入れていこう。

「こんな、ところかな」
「大丈夫か?」

俺の生きてきた、証。
作った絆。
多分、なんの意味もないけれど、きっと続く、長い長い苦痛の中、傍らに置いておきたかった。

「うん。大丈夫」

着ていた服から水晶も取ってきて、ようやく浴室に向かう。
脱衣室で一兄が服を脱がしてくれて、抱き上げて風呂に入れてくれる。
用意されていた風呂はほどよく熱く、ほっと息をついて、力が抜ける。
水垢離じゃなくてよかった。
最後だと思うと、やっぱり熱い風呂にも浸かりたい。

「熱くないか?」
「大丈夫」

風呂につかりながら、髪も洗ってくれる。
大きな手で頭を撫でられるのは、気持ちがいい。
またとろとろと眠くなってきてしまう。

「………昔からこうして、一兄にはよく風呂いれてもらってたよな」
「ああ、そうだな」
「懐かしい」

胸の痛みが強くなる。
喉の圧迫が酷くなる。
腹の底が冷えてくる。
なんだろう、これ。

俺は、心地いいのに。
今すごく、気持ちがいいのに。
昔からこうして、一兄に風呂に入れてもらうのは好きだった。
楽しかった。
嬉しかった。

「俺、幸せ、だったのかな。だったかも」
「………」

ずきりと、一際胸が痛くなる。
痛い、苦しい。
哀しい?

「………ああ」

そうか、これは。
この感覚は、そうなのか。
なんだ、そうだったのか。

「先宮と奥宮のシステムってよくできてるね」
「ん?」

瞑っていた目を開けて、一兄を見上げる。
俺の言葉に、不思議そうに首を傾げる。

「これ、一兄の、気持ちだよね。痛くて、苦しい」

ずきりずきりと、痛む胸。
喉が圧迫されて、苦しくなる呼吸。
腹の底が冷えて、指先まで冷たくなる。

「これは、俺の気持ちじゃない。苦しくて、痛い。哀しい、辛い」

見上げた一兄は、困惑の色を浮かべている。
俺の言っている意味が、分からないようだ。

「分からない?一兄の気持ちが、心が、伝わってくる」

そう言えば、天と共番の儀を終えた後も、天の気持ちが伝わってきた。
すぐに眠らせてしまったから、あの時は強くは感じなかったけど、最後の儀式を終えて、よりつながりが強くなったのだろう。
先宮と奥宮は、これだけ心が寄り添うのか。
たぶんこれは一兄の感情。
一兄の想い。
これだけ近くにいて触れ合ってるから、伝わってきているのだろう。

「何を、言ってるんだ?」
「一兄が、哀しいって、想ってるのが伝わってくるよ」
「………俺が?」
「自分で分からないの?」

一兄はやっぱり怪訝そうに眉を顰める。
こんなに強く感じるのに、自分で分からないのか。
俺が感じ取ってるの、分からないのか。

「一兄は、悲しんでるよ、今。俺を奥宮にするの、苦しんでる。寂しがってる」
「それが、俺の感情なのか………?」
「うん、だってこの痛いのも、苦しいのも、俺の感情じゃない」

俺は、今までになく、ひどく落ち着いている。
恐怖も焦りもあるけれど、諦観なのかなんなのか、あまり感情が波立っていない。
でも、俺のではない、焦燥と怒りと悲しみに、暴れる感情が、俺の中にある。

「これは、一兄のものだよ」

けれどそれでも一兄は、意味が分からないと言うように不思議そうな顔をしている。
隠しているのでも、冷静を装っているのでもたぶんない。
本当に、分かっていないのか。

「………可哀そうな一兄。自分の感情も、分からないんだね」

常に自分を律し、抑え、己を消し、宮守のために生きてきた人。
この人は、感情をすべてを覆い隠しているのだ。
ああ、理性のバケモノっていうのは、本当だ。

「俺は、辛さも苦しさも、強く感じたことはない」

一兄は、軽く笑いながら、そんなことを言う。
でも、俺はそれを否定して首を横に振る。

「そんなわけないよ。だって一兄は、俺のお兄ちゃんでしょ。だったら俺と同じものだ。哀しくて辛いことだって、いっぱいあるよ」

後ろ向きに座っていた体を反転させ、一兄に向かい合う。
一兄が着た白装束はすっかり濡れてしまっている。
でも、浴槽越しに、その濡れた体を抱きしめた。
大きな逞しい、堅い体。
いつだって俺を守ってくれていた強い人。

「みな、ぎ」

珍しく驚いて、目を見張り、掠れた声を出す。
戸惑う感情もまた、伝わってくる。
本当はこんなに、感情がいっぱいあったんだ。

「ようやく分かった。ようやく、一兄のこと分かったよ」

理解したかった。
分かりたかった。
大好きだから、知りたかった。

「やっぱり、一兄も俺のこと、好きだったんだね」

こんなにも苦しんでる。
こんなにも悲しんでる。
こんなにも痛がってる。

「奥宮と先宮のシステムって、本当によくできてる。愛情を注いで育てるって、そんなことをして、無関心なんかでいられないよね。そしてこうしてその気持ちが伝わってくる」

いくら道具として育てても、いくら利用して管理して育てていても、何も感じないなんて、出来るのだろうか。
俺だって、騙され利用されていたと知ってもなお、一兄を、この宮守の家を愛している。
なんの感情も傾けないなんて、出来るはずがない。
少なくとも、一兄は、こんなにも、感情を溢れさせている。

「ならいいや」

ようやく、一兄に触れた。
一兄に、近づけた。
一兄を、知ることができた。

「大丈夫だよ、一兄。俺が今度が守ってあげる。一兄がそうしてきてくれたように」

俺が先宮になることで、とりあえずはこの家と一兄が守られるならそれでいい。
一兄が、そうしたいなら、そうしてもいい。
だってやっぱり、一兄を愛している。

「大好きだよ、一兄。俺がずっと、一緒だよ」

ぎゅっと、自分より大きな人を強く抱きしめる。
ああ、愛しいな。
愛しい。

一兄の心も、伝わってくる。
戸惑い、悲しみ、痛み、苦しみ、焦燥、怒り、そして愛しさ。
冷たくて、温かい感情が、溢れている。

「み、なぎ、三薙、三薙、俺は、三薙」

一兄が、苦しげに俺の名前を繰り返し、俺を掻き抱く。
やっぱり、自分では分かっていないようで、声には多分に戸惑いが含まれている。

「可哀そうな一兄。俺とは本当に、反対だ。感情の出し方、分からないんだ」

感情が隠せず、すべて露わにする俺と、感情のすべてを封じて自分すら騙し通す一兄。
この人は、器用過ぎて、頭がよすぎて、完璧すぎて、だから不器用なんだ。
四天よりもずっと、不器用な人。

「み、なぎ」

ここにきて、こんなにこの人が愛しい。
完璧だった兄が崩れて、でも今、更に愛おしい。

「………一矢さん、三薙さん、先宮がお待ちです。そろそろおいでください」

外から、声がかけられる。
この高く済んだ少女の声は、覚えがある。

「………ああ、分かった」

一兄の戸惑いの表情がすっと消え、次期当主候補の顔になる。
先ほどまでの迷いは、一切失われる。

完璧な人。
完璧に自分を律する、理性のバケモノ。
なんて、可哀そうな人。
自分が傷ついていることも、悲しんでいることも、分からないのか。
もっと早く、知ることが出来ればよかったな。
もう、遅いけど。

「行こう、三薙」
「………うん」

一兄が俺を抱き上げ浴室を出る。
用意されていた巫女装束に身を包み、一兄も正装である衣冠を身に着ける。
さあ、終わりの、始まりだ。

「………栞ちゃん」

廊下に出ると、同じく巫女装束を身に着けた栞ちゃんが控えていた。
愛らしい人形のような少女は、俺を見て毒を込めて笑う。

「馬鹿な人ですね、三薙さん」

素直で可愛いと思っていた年下の少女は、大人びた顔で笑う。
俺も苦笑して肩を竦める。

「………そうかも」
「せっかくしいちゃんが、連れ出してくれたのに」

笑ってはいるが、その言葉には怒りを含んでいる。
危険に身を晒してまで助けに来てくれた天の努力を台無しにした。
そりゃ、栞ちゃんは怒るだろう。

「ごめん。だって俺、天が俺に力食われて枯れるのも、栞ちゃんが奥宮になる姿も、見たくない」

栞ちゃんは鼻で笑って、赤い唇を尖らせる。

「私はどうせ、すぐに壊れるポンコツなのに」
「それは、俺も一緒だよ」

そう返すと、お互い目を合わせて、つい吹き出してしまった。
栞ちゃんがようやく険を失い、くすくすと笑う。
会話も状況もおかしいけど、ちょっとだけ嬉しくなる。

「あはは、そうでしたね」

やっぱり、この子が笑っているとほっとする。
俺が知っていた栞ちゃんがすべてじゃないとしても、それでもこの子には笑顔が似合う。

「だから、栞ちゃん。天をよろしくね。楽しく、優しく過ごさせてあげて」

例えその時間が短くても、その分、強く、より近く、過ごしてくれればいい。

「………私は三薙さん」

栞ちゃんが、俺を見上げまっすぐに見つめてくる。
ただただ可愛いと思っていた少女は、こんなにも強く凛とした表情を持っていた。

「あなたがずっと羨ましかった。奥宮の一番の候補で、素質を持ち、何も知らず幸せそうに、皆に守られて」

俺は、奥宮になんて、出来ればなりたくない。
自分の運命を最初から知っていればよかった。
でも、栞ちゃんを見ていると、それがいいことだと思わない。
結局、どっちがよかったのだろう。

「そして、四天君に、守ってもらえる、三薙さんが」

栞ちゃんが少し目を伏せると、長いまつ毛が頬に影を落とす。
元々色白の子だったが、ますます白くなっている気がする。

「ずっとずっと、羨ましくて、大嫌いでした」

俺は、栞ちゃんが羨ましかったよ。
天と並んで信頼されて、共犯者になれた君が、羨ましかった。
一兄が天と栞ちゃんの関係をどう思っているのか知らない。
だが、言わない方がいいだろう。

「………俺は、それでも栞ちゃんが好きだよ。妹みたいにずっと思ってた」

だからそれを飲み込んで、もう一つの気持ちを伝える。

「だから、兄として、妹を守らせてよ」

可愛い可愛い、妹のような女の子。
天と一対の人形のように並んで笑う様子は、いつも羨ましく微笑ましかった。

「………本当に、馬鹿な人ですね」

栞ちゃんが、泣きそうな顔で笑う。

「でも私も、そんな馬鹿な三薙さんのこと、好きでした」
「うん。ありがとう」

その華奢な体を、そっと抱きしめる。
小さな体は、力を入れたら折れそうなほどに細い。
こんな頼りない体でずっと戦ってきた、強い子。

「元気で。天と、どうか、幸せに」
「………はい。一般的女子高生は、彼氏と幸せになることしか、考えてないんです」
「はは、妬けるな」

どうか、幸せになって。
それが、たとえ、つかの間の間だとしても。



***



昼なお暗い、森の中。
宮守の地の奥の奥。
宮守が秘匿する神のおわす、最深部。

注連縄と札を幾重にも巻き付いた禍々しい、社。
扉を開くと、濃厚な闇の気配が、溢れ、俺たちを包み込む。
奥には祭壇と、一振りの剣と、一人の人影が見える。

大丈夫。
大丈夫だ。
きっと、大丈夫。

「あのね、一兄、これから、俺は狂うよ」

今は主のいない神殿は、けれど次の神体を待ち構えて大きな口を開いている。
闇が渦巻き、俺を飲み込もうとしている。
恐怖に心が支配されそうになるのを、拳を握って堪える。

「一兄に酷いこといっぱい言って、すべてを呪って、すべてを憎む」

あれに飲み込まれたらきっと、二葉叔母さんのようにすべて憎み恨み、死を望むのだろう。
今考えている気持ちなんて、あっという間に消え失せるのだろう。

「でも、今、この時、本当だった気持ちを覚えていて」

だから、今、人間でいられるうちに、伝えておく。
人間だったころの気持ちを、伝えておく。

「みんな、大好きだよ。俺、幸せだったよ。一兄と双兄と天と、友達と、父さんと母さんに見守られて、愛されて、幸せだったよ」

綺麗ごとだ。
欺瞞だ。
自分を騙してる。
恨みも憎しみもある。
暗く汚い感情もいっぱいある。

「だから、みんな、幸せに、なってね。大好きだよ」

でも、今、人間であるうちに伝えられる、一番綺麗な感情を。
一番、優しく柔らかい感情を残しておく。

「一兄も、どうか、もっと楽になってね。自分のために生きて、いいんだ」

隣を見上げると、長兄の顔に、また戸惑いが浮かぶ。

「俺は………」

少しだけ、ためらい、けれど俺の目をまっすぐに見つめる。
そして、小さな声で、そっと言った。

「俺は、四天が俺を越えて、宮守を滅ぼすなら、それでもよかった」
「………」

それはきっと、本当の気持ちなのだろう。
一兄は、宮守であることをやめられない。
そういう、存在なのだ。
だから全力で宮守として、俺と天に相対した。
そして、天は、一兄を越えることは、出来なかった。

例え俺がそのまま逃げることに頷いても、すぐに捕まっていた。
力も経験も知識も何もかもが足りない。
才能あふれていても、天はまだまだ、子供なのだ。
そんなあいつに、重荷を、背負わせてしまった。

「………四天に、ひどいことしないでね。あいつも、弱いやつだから、見守ってやってね」
「ああ」
「後、岡野と槇のこと、よろしく」
「分かっている。お前の望みは、すべて叶えるよう、努力する」
「うん。信じてる」

ずきずきずきずき。
ああ、また、一兄の心が痛んでる。
痛い、な。
でも、この人の感情を知るのは、心地いい。
俺を想う気持ちが、伝わってくる。

「………三薙、お前がずっと、俺の救いだった」

何にも頼れず、頼らず一人で立つこの人の救いに、少しはなれていたのだろうか。
それなら、嬉しい。
この人の、慰めになれていたのなら、嬉しい。

「ずっと一緒に、いてね」
「………ああ。ずっと、お前の傍にいる」

生まれた時から、そして今この時まで、結局俺は一兄と一緒にいる。
その手を導かれ、暗闇の果てまで歩いていく。

「一矢」

社の中から、朗々とした声が響く。
いつもは、力を持ち威厳に満ちたその声は、今はどこか力を失っているように感じる。

「………はい」

暗闇の中にたたずむ父さんは、急に老いたように見える。
もっともっと、強い気配と目を持っていたような気が、したのに。

「………三薙、いいか」
「はい。大丈夫です」

もう、心は決めた。
俺に手が届くことは、思いつくことは、全て為した。
ならもう、することはない。

「一矢、いいか」
「はい」

一兄が、次期当主見込の顔になる。
ああ、違う。
今この時から、この人が、もう宮守の当主になるんだ。

「先の先宮たる私が、奥宮の宴のこれよりの開宴を宣言する」

父さんの声が、社の中に響き、闇が一層騒ぎ出す。
その声なき声を聞いて、体が冷たくなっていく。
ああ、この恐怖は、俺のものだ。

「三薙、奥へ」
「は、い」

父さんに促され、生きた神体を鎮座させる祭壇に上る。

「………お前の覚悟に、感謝する」
「は、い」

小さく言って、父さんが俺の手足に呪鎖を巻きつけていく。
ずしりと重いその鎖に、座り込みそうになる。
闇が期待に蠢き、俺を飲み込もうと、その蔦を伸ばしてくる。

「当代先宮が、慎みて奥宮の宴を執り行うことを、聞こし召せと恐み恐み申す」

一兄が俺の前に立ち、声を張り上げる。
その声に、力がこもり、術が発動し始める。

「これより奥宮は現人たる虚ろな身を脱ぎ捨て、その身を神へと御返しになり、平げく安げくこの地をお治めになる」

鎖から力が放たれ、俺の体に巻き付いてくる。
力が俺の中まで入り込み、すべて拘束していく。

「恐み恐み奉り申し上げる。夜須美より壌より奈保留を受け入れたる、宮守の地に神留まります、掛巻も畏き奥宮に………」

一兄が、呪を唱える。
一兄の力が、俺を捉えようとする。

「………いや、だ」

思わず、声が漏れてしまった。
咄嗟に口をふさいで、声を殺す。

「………っ」

いやだいやだいやだいやだ、いやだ。
奥宮になんて、なりたくない。
なりたくないなりたくなりなりたくなりなりたくない。
怖い怖い怖い、嫌だ怖い、怖い逃げたい怖い嫌だ。
なんで俺だけなんでこんな目に、どうしてどうして、怖い。
皆嫌いだ、俺を犠牲にする一兄も父さんも大嫌いだ。
どうして天、もっと強くなって、俺を助けてくれなかったんだ。
双兄も双姉も勝手なことばっかり、結局何もしてくれない。
嫌いだ、大嫌いだ。
嫌いだ。
怖い怖い怖いいやだ、怖い。

「っ、っ、つ!!!」

必死に感情と漏れ出てくる声を、噛み殺す。
一回漏れ出たら、みっともなく泣き叫んでしまう。
決めたのに。
自分で、決めたのに。

「………っ」

逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい。
嫌だ怖い。
怖い。
嫌い嫌い大嫌いだ、こんなの嫌だ。
俺は弱い。
俺は、こんなの耐えられない。
だって、俺は、弱いんだから。
強くなんて、ないんだから。

『あんた、強いよ』

不意に、脳裏に、照れたような小さな、けれど強い言葉が響いた。
輝くような笑顔が浮かぶ。
照れたようにふてくされたように、けれどもはにかみ、顔を赤らめて笑う。
強い強い、光りに満ちた瞳が俺をまっすぐに見る。
ふっと、心から、焦燥と恐怖が、薄くなっていく。

「あ………」

岡野。
そうだ、岡野、君が言ってくれた。
俺は強いって、岡野が言ってくれたんだ。
その言葉で、俺は、強くなれる気ががしたんだ。

そうだよな、俺は、強いもんな。
二葉叔母さんが、15年耐えたことを、俺が、耐えられないはずがない。

ねえ、岡野。
ありがとう、岡野。
いつも、岡野の言葉が、俺に勇気をくれる。
強い強い君に、憧れ、惹かれていた。
大好きな岡野。
どうかお願い、ずっと、笑っていて。

『三薙さんは、弱くなんてありません。私の大切な方をそんな風に言わないでください』

そしてそう、志藤さんも、温かい言葉をくれた。
そうだよな。
志藤さん。
あなたが好きになってくれた、愛してくれた俺が、そんなに弱い訳がない。
あなたが信じてくれたんだから、きっと俺は弱くないんだ。

うん。
大丈夫。
大丈夫だ。
大丈夫。

俺は、皆から、強さをもらってるから、大丈夫。

一兄、大好きで、尊敬する、完璧な兄。
俺をずっと導き、愛してくれた人。
例え作為的であっても、あなたが育ててくれたことに感謝してる。
きっと、一番、家の犠牲になった人。
可哀そうな、人。
どうか、少しでも、これからの道が、明るくありますように。

怖い。

槇も、どうか幸せでありますように。
俺が知ってる女の子の中で、一番強い尊敬する女の子。
強く敏い彼女は、きっと、誰よりも幸福を集められるはずだ。

怖い。

藤吉も、まあ、それから佐藤もちょっと、幸せになればいいな。
うん。
だって俺、二人が、やっぱり好きだったし。
痛い目合わせたし。
だから、まあ、いいか。

怖い。

双兄と双姉はまあ、熊沢さんがいれば、大丈夫かな。
あんま、双兄がお酒飲みすぎないといいかな。
あんま気にしないで、楽しく過ごせると、いいな。

怖い。

栞ちゃんも、どうか天と一緒に幸せになって。
笑っていて。
優しい世界で、せめて最後まで、笑っていて。

怖い。

父さんも母さんも雫さんも、出会った人、俺に優しくしてくれた人。
全部全部、幸せで、いられますように。

「………」

足の先から、闇に染まっていく。
食いつくそうと、闇の蔦が、這って行く。
これは、闇。
これは、無。
これは、邪。

すべての、この世の悪意が詰め込まれたもの。

「………っ」

怖い、怖い怖い。
怖い。
駄目だ、怖い。
怖い。
助けて。

『兄さん。俺を裏切って奥宮になるくせに、もう怖気づいてるの?』

天の小馬鹿にする声が、聞こえる。

「………あ、っは」

お前は本当に、生意気な奴。
こんな時まで、俺の想像でまで皮肉を言う。
そして助けてって言ったら、必ず助けに来てくれる。

だからこそ、奮い立たされる。
お前の兄として、強く、ありたい。
ずっと、お前の尊敬できる兄でいたかった。
一兄のような兄になりたかったんだ。

「………ごめん、な、天」

結局俺に出来るのは、すべて人に頼ることだった。
何もできなかった。
何も為せなかった。
ただ俺は、人を信じて、頼ることしか、できなかった。
後はもう、何もできない。
見守ることすらできない。
何もかも投げっぱなしで、お前に呪いをかける。

でも、俺のことなんて、忘れていい。
忘れていいから。
ごめんな、天。
天、幸せになって。
どうか幸せになって。

大好きだよ。
お前をずっと憎み恨み羨みながらも、それでも焦がれ、愛しかった。
だからどうか、幸せになって。
お前に呪いをかけながら、望むんだ。
俺のことを忘れて、どうか幸せに。
ごめんな、ごめん。

「御魂みに 去ましし神は 今ぞ来ませる」

一兄の呪が、術を作り上げ、俺を縛り上げる。
次、目を開くとき、最後に会う人は、いったい誰だろう。
俺は、二葉叔母さんのように、笑えるかな。
笑えると、いいな。

笑いたい、な。





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