「宮守?」 「あ、な、何?」 黙り込んで、手も止めた俺の顔を、岡野が不審そうに覗き込んでくる。 慌てて顔を上げるが、岡野はじっとその猫のような目で見つめてくる。 その強い視線に、条件反射でドキッとしてしまう。 なんて、綺麗な、大きな目だろう。 「………あんた、本当に変。やっぱり、体調悪かったりする?」 そのいつもはきつく輝く茶色がかった目が、今は不安そうに揺れている。 また、心配させてしまった。 駄目だ、しっかりしないと。 今は逆に、ここから、離れた方がいいかもしれない。 少し、一人で考えたい。 「そんな………うん。そうだな。ちょっと寝不足のせいかふらふらする」 「やっぱり!ほら、保健室行くよ!」 頭を押さえて言うと、優しい岡野は途端に立ち上がり、俺の腕を引っ張る。 俺もされるがままに立ち上がる。 「うん。ありがと」 寝不足なことは、本当だ。 頭痛はずっと、続いている。 力に満ちていて前より体は楽なはずなのに、だるさが抜けない。 「藤吉、こいつ保健室連れて行くから、先生に言っといて」 「え、大丈夫?三薙?」 岡野が俺の手をひっぱり、途中藤吉にそれだけ言いおくと、ずんずんと歩いていく。 心配そうに声をかける藤吉に、白々しい気持ちになりながら、笑いかけてみせる。 「うん。ちょっと寝不足、ちょっと保健室で休んでくる。少し休めばたぶん平気だから」 「そっか、無理するなよ」 「分かった。ありがと」 藤吉は、本当に心配そうに顔を曇らせている。 そのことに、胸がじくじくと痛む。 心配なんかじゃ、ないくせに。 駄目だ、岡野に、変なところは見せないようにしないと。 「ったく。本当にお前はとろいんだから、さっさと言えよ」 「ごめん、ありがと、岡野」 優しい、女の子。 俺を心からなんの思惑もなく、心配してくれるの、岡野と、槇と、それと志藤さんぐらいじゃないだろうか。 母さんは、どうなんだろう。 分からないや。 「いいか。ゆっくり休めよ!」 保健室の先生にも、岡野が説明してくれて、ベッドに乱暴に放り込まれる。 病人にするには手荒い扱いだが、岡野は心配したりすると余計に乱暴になるから仕方ない。 これも、岡野の不器用で可愛い所だ。 「具合よくなったらさっさと帰れ。家から迎えに来てもらうとかでもいいし」 「分かった。でも本当に少し休めば、平気だから。昼は一緒に食べたい」 「な」 後どれだけ一緒にいられるか分からない。 だから、過ごせる時間を大事にしたい。 「岡野と、一緒にメシ食いたい」 岡野と槇と、一緒に、いたい。 そう言うと、岡野は見る見るうちに顔を赤くする。 そして布団を俺にたたきつけるようにかぶせる。 「わっぶ」 「………いいか、無理したら殴るからな!昼までに治せよ!」 「わ、分かった。大事にする」 ふんと鼻を鳴らして、岡野は踵を返す。 そしてベッド周りのカーテンを乱暴に閉めると、さっさと行ってしまった。 しばらくして、優しいおばちゃんって感じの少しふくよかな保健の先生が、ベッドのカーテンをちらりと開いて覗いて来る。 「大丈夫、宮守君?乱暴ね。でもあなたを心配してるのね」 「はい、岡野、優しいから。大丈夫です。すいません」 「ふふ。仲いいのね。じゃあ、彼女の言うとおりちゃんと寝て食べてね。あなた細いし」 「はい。分かりました」 それだけ言って、先生はカーテンを閉めてくれた。 ちゃんと、食べてはいるんだけどな。 食べなきゃ、何もできない。 眠ることは、難しいけど、でも、体力だけは、つけておかないと。 「………」 カーテンの檻に包まれて、煤けた天井を眺め、ようやく一人になれた気がして息をつく。 ここは、宮守の家でもない。 俺を監視する人は、今は誰もいない。 落ち着く。 そっと、目を閉じる。 暗闇の中で、思考を巡らせる。 俺は、どうしたらいい。 何をしたらしい。 奥宮になっても、いいと思っていた。 それですべてが丸く収まり解決するなら、もうそれでいいと思った。 俺のせいで傷つく天や志藤さんなんて見たくない。 自らが奥宮になるという栞ちゃんも見たくない。 俺が奥宮になればすべてが終わるなら、それでよかった。 でも、気づいてしまった。 俺が、奥宮になっても、何も解決しない。 俺が奥宮としての役目を果たせなくなったら、次の奥宮が選ばれる。 その次も、その次も、その次も。 今まで、宮守の家が続いてたのと同じように、先宮と奥宮の役目も、続いていく。 終わらない。 何も終わらず、苦しみは続く。 俺や、栞ちゃんや、二葉叔母さん、そして天や、一兄のような人間が、また、生まれるのだ。 傷つけあい、恨み、憎しみ、欺き、陥れる。 まだ十代の少女が、恋人と一緒に死ぬのが夢だと言う。 誰よりも信頼した人間に裏切られ、絶望に落ちる。 そんなものが、これからも続いていくのだ。 「………それは、駄目だ」 そんなのは、駄目だ。 そんなのは、嫌だ。 俺はそんなもののために、この身を捧げるのは嫌だ。 みんなが幸せになるならいい。 でも、苦しみと痛みは続く。 そんなの、嫌なんだ。 「じゃあ、どうすればいいんだ?」 つい漏らすと、カーテンの向こうから先生が声をかけてくる。 「宮守君?」 「あ、なんでもないです」 「そう?ちょっと空けるから、ちゃんと寝ててね。すぐ戻るわ」 「はい」 ドアが開いて、しまる音がして、詰めていた息を吐く。 もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。 奥宮になりたくない。 でも、それしかないなら、もうなってもいい。 でも、なっても何もならない。 じゃあ、どうすればいい。 何が、正解なんだ。 俺はどうしたい。 何がしたい。 したいこと。 できること。 何ができる。 何ができない。 何をしたい。 どうすればいい。 分からない。 もう、何も分からない。 誰か、教えてくれ。 泣きついて、弱音を吐きたくなる。 でも、相談出来る人はいない。 今までだったら、兄弟に、なんでも相談していた。 なんでも話していた。 でも、もう、話せる人もいない。 一兄は、勿論駄目だ。 天に話すことも、今は無理だ。 志藤さんも、無理。 双兄は、どうだろう。 普段はおちゃらけていながらも、いざという時は頼れる兄だった。 でも、天や熊沢さんの話や、これまでのあの人を見ると、俺が相談することは、しない方がいいだろう。 余計に双兄を追い詰めるだけで、俺の求める答えをもらえることはなさそうだ。 熊沢さんは、双兄に関わること以外では頼れない。 栞ちゃんに言ったら、彼女は自分が奥宮になると言うだろう。 他に、誰に相談できる人がいる。 父さんと母さんも無理だ。 叔父さんと叔母さんたちは、宮守の人間だろう。 家の人たちは、駄目だ。 俺には、本当に今、誰もいない。 誰も頼れない。 元々家以外に、それほど親しい人もいなかった。 数少ない、外の人間は、誰がいる。 岡野も槇も、話すわけにはいかない。 藤吉と佐藤は、家の人間と一緒だ。 ああ、そうだ、雫さん。 雫さんなら、話を聞いてくれるだろうか。 頼れる、強い人。 だが、それで巻き込むことになったら、どうする。 駄目だ。 あの人を、宮守の家の事情になんか、巻き込みたくない。 家のことで、十分傷ついて、心を痛めている彼女を、巻き込みたくない。 じゃあ、どうすればいい。 どうすればいいんだ。 誰に、話せばいい。 「………誰にも、話せない」 そう、分かっていた。 天が言うとおりだ。 もう、誰に答えをゆだねることも、出来ないんだ。 「………自分で決めるしか、ないんだ」 誰にも頼れない。 誰にも相談できない。 誰も俺に答えをくれない。 もう、何も知らないとは言えない。 俺は、俺を取り巻く真実を、皆の思惑を、知った。 その上で、自分で、自分の為すことを決めなければ、いけないんだ。 何も教えてもらえなかったから何もできないと逃げるのは容易だ。 拗ねて泣いて逃げていることもできる。 でも、そこに待ち受けるのは、ただの絶望だ。 もう、これ以上、逃げることはできない。 どんなに選択肢が少なくても、選ばなければ、いけないのだ。 「………」 ゆっくりと、瞑っていた目を開くと、視界の隅に何かが映る。 さっきまでぴっちりとしまっていたカーテンが少しだけ開いている。 「っ」 その隙間から、目が、俺を見ていた。 ざわりと、全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。 慌てて布団を跳ね上げ、ベッドの上に起き上がる。 「な、だ、誰だ!」 カーテンの隙間から、白い指がにょきっと伸びてくる。 ベッドに足を立て、いつでも立ち上がることが出来るように、身構える。 「気付かれちゃった?」 しかし聞こえてきた声は、緊張する俺とは裏腹な、朗らかな少女の声。 指はしゃっと音を立てて、カーテンを開く。 現れたのは、お団子を頭のてっぺんで結った、元気のよさそうな少女。 「お見舞いに来たよー」 「………佐藤」 授業中なのに、とか、気配をまったく感じなかったとか、心臓に悪い登場の仕方をするな、とか、色々言いたいことはあったが、全部無駄な気がした。 大きく波打つ心臓を鎮めるために、大きく呼吸をする。 「具合平気?」 「………平気だよ、ずる休みだ」 「あはは。悪いんだ」 俺が普通の返事をすると、向こうもこれまでと同じように、普通に応える。 さっきの藤吉もそうだが、それがとても白々しく感じて、苛立つ。 つい、声に険が籠ってしまう。 「佐藤は、俺が弱ってた方が嬉しい?」 「うーん、ちょっと違うな」 佐藤は、小さく笑って首を横に振る。 「私が弱らせるなら、嬉しい」 その、俺の口や耳から入って来そうなほどの毒々しさに、言葉を失う。 怒りや苛立ちも消え失せ、代わりにこみ上げるのは悍ましさと恐怖。 「………佐藤って、何者なんだ?」 得体の知れないもの。 よくわからないもの。 理解できないもの。 目の前のものは、俺とは全く違うイキモノのようだ。 言うことは分かりやすくていいけれど、そのあり方は、まったく理解できない。 「何者って言われても。どこにでもいるかわいい女子高生」 佐藤はきょとんと目を丸くしてから、可愛らしく笑う。 「どこにでもいるかわいい女子高生は、そんな、物騒なこと言わない」 「どこにでもいるかわいい女子高生なんて全然知らないくせにー。三薙、友達いないじゃん。あ、いるか。偽物の友達」 それから、にっと唇を歪めて笑う。 以前と変わらない笑顔にも見えるのに、とても歪で恐ろしいものにも見える。 「ねね、藤吉が優しくしてくれて嬉しかった?私と彩に好かれてるとか、いい気分になった?やっだー、勘違い!自分が女の子に好かれる性格だと思った?三薙みたいのに友達もできるはずないよね?」 そんなの、知ってる。 分かってる。 俺みたいなのに、友達なんて、出来るわけなかった。 いや、違う、引きずられるな。 「ふふっ、そういう顔が、嬉しい」 思わずわずかに歪めた顔を見逃さず、佐藤は楽しそうにころころと笑う。 反応してしまった自分が、悔しくて忌々しい。 反応したら、喜ぶだけなのに。 「………そうだな。佐藤の言うとおりだ」 「でしょー。うじうじしてて卑屈で全部人のせいにする三薙君に、友達なんて出来るわけないじゃんね」 聞くな。 惑わされるな。 引きずられるな。 「偽物でも、出来てよかったね?」 偽物。 そうだ、偽物だ。 分かってる、偽物だ。 でも、ここでいたぶられ、佐藤を喜ばせることは、したくない。 弱みなんて、見せたくない。 傷ついたことなんて、見せたくない。 藤吉は、俺が傷ついたら、顔を歪めてくれた。 苦しんでる様子を見せてくれた。 だから、まだ、俺に対して、なんかの感情を持っているんじゃないかと思えた。 まだ、本音を見せることが出来た。 でも、佐藤は、俺が、苦しめば苦しむほど、喜ぶだけだ。 そんな奴に、どんなに苦しくても、囚われてる様子は見せたくない。 「うん。偽物でも、友達出来て、よかったよ。岡野と槇と、………それに、佐藤、藤吉、お前たちに会えたことだって、俺は嬉しかった。だって、楽しかった思い出は、嘘じゃない」 そうだ、自分で言っていて、思い出した。 残ったものもあるんだ。 俺の中にある本物だって、あるんだ。 俺の想いは本物だ。 佐藤や藤吉だって大事に想った。 それは、否定はしない、温かい思い出だ。 そう教えてくれたのは、志藤さん。 志藤さんは、俺のこと好きだと言ってくれた。 前に、俺のすべてが偽物だと嘆いた時、俺の中にあるものは本物だと、そう言ってくれた。 「………」 真っ直ぐに見つめ返して言うと、佐藤は鼻白む。 口を尖らして、拗ねたように言う。 「そういうのは、つまんない」 「そう」 ここで喜んでも、佐藤をヒートアップさせる。 佐藤には、感情を揺らさないように、接するのが、きっと一番いい。 冷静に。 落ち着け落ち着け落ち着け。 こんな奴に、いいようにされるな。 「佐藤は、本当に、みんなで遊んだりするのは、楽しくないの?」 佐藤はいつだって、楽しそうだった。 みんなで遊びに行くときだって誰よりもはしゃいで、場を賑やかに和ませてくれた。 それは、全部演技だったのだろうか。 「そういうのも楽しいよ。美味しいもの食べて遊んで笑って、楽しい」 でもね、と佐藤は続ける。 「でも、笑っているよりも、顔を歪めて苦しんでる姿見てるのが、もっと楽しい」 悪びれる様子はなく、本当に楽しそうに満面の笑みだった。 嘘や、虚勢のようにも思えない。 どうしてこんな風に、歪むことができるのだろう。 「………佐藤が、そうなったのは、いつからなの?なんか、あったの?」 「いつからって、物心ついた時からかなあ。その前からそうかも」 佐藤は俺の質問に、思い出す様に考えて、小さく首を傾げる。 そしてやっぱりにっこりと笑う。 「気が付いたらこうだったの。別に哀しい過去とかそういうのないよ。私はそういうのだったの」 そういうの。 ああ、その言い方はなんだか、しっくりくる。 そういうもの。 そういう存在。 佐藤は、そういうモノなんだ。 「ふらふらしてたら捕まって処理されそうになったから、今はエサと住処もらって、大人しくしてるけどね」 佐藤からは、変な気配は感じない。 化物という訳ではなさそうだ。 それでも感じる異質な空気。 人間なはずなのに、人間とは異なるもののようだ。 「三薙も、大人しく飼われちゃいなよ。きっと楽だよ?どうせ何も出来ないじゃん。なんの力もないし、味方もいないし」 そうだ、俺は何も出来ない、味方はいない、何も持っていない。 だが、こいつの言葉に、引き込まれるな。 「もしくは、歯向かってねじ伏せられるのもいいかもね。それを見るのも、楽しそう」 気にするな。 気にすることはない、言葉だ。 それに、他の人間よりもずっと、分かりやすい。 佐藤は、自分の愉悦のために生きている。 それだけだ。 理解はできない。 でも、分かりやすい。 「佐藤は、本能で生きてるんだな」 「ホンノーって、なんか私が動物みたいじゃん」 頬を膨らませて、怒ってみせる。 その姿は、以前と変わらず、かわいらしい。 「自分のことしか、考えないんだな」 ある意味、それは、とても羨ましい。 まあ、羨ましいって言えるほど、俺が人に気遣えてるかと言われれば、決してそうじゃないけど。 俺だって、自分のことしか考えられない。 色々な人を傷つけ、巻き込み、利用してきた。 俺もたいがい、自分勝手だ。 もしかしたら、佐藤とそう代わりもないのかもしれない。 「どうでもよくないよ?他の人って、すごく大事だよ?私めっちゃ、周りの人のこと考えてるし」 佐藤は俺の言葉に心外だというように、ますます怒って見せる。 可愛らしいお団子を揺らして、拳を作る。 「私、一人じゃ何もできないよ。みんながいないと、私楽しくないよ。みんなが周りにいてくれないと、寂しくて死んじゃいそう。みんな、大事だよ!」 言ってることは、すごくいいことなのに、ここまでうすら寒く感じるのは、すごい。 「人はね、一人じゃ何もできないんだよ、三薙!みんなの助けを借りて、生きてるんだから!」 力説する佐藤に、やっぱり怒りや呆れを通りこして感心すらしてしまう。 本当に理解できない、イキモノ。 でも、その言葉は少しだけ、心に刺さる。 「………一人じゃ、何もできない、か」 俺には、誰もいない。 何も持たない。 でも、佐藤の言うとおりなんだ。 一人じゃ、何も出来ない。 |