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「千尋は男の子なんだから、お姉ちゃんを守ってあげなきゃね」 そう言ったのは母親だったか、父親だったか、それとも他の誰かだったか。 もう覚えてないし、それは今更どうでもいい。 俺にとって言われるまでもなく、そんなことは当然だった。 けれど、それは俺のすることの再確認にはなった。 そう、真衣ちゃんは、俺が守るのだ。 姉は不器用で要領が悪く、意地っ張りで人見知りだった。 いつでも口を引き結んで、むすっとしている。 それは緊張からくるものなのだが、初対面でそんなこと分かるはずがない。 そのせいで、友達は少なかった。 そんな姉にとって、俺は格好の遊び相手だったのだろう。 内弁慶なところのある少女は、弟に対しては明るく、どこか偉そうだった。 自分よりも小さく、無害で、言う事を聞くおもちゃのような感覚だったのかもしれない。 俺はそんな姉にいつもつき合わされていた。 喧嘩も沢山した。 いっつも謝るのは立場の弱い弟。 体だって姉の方が大きかったし、まだまだ力も強かった。 泣かされたことだってあった。 たまにさすがに俺がキレて、姉が謝るまで絶対折れない、と徹底的に無視する事もあった。 そんな時でも意地っ張りな少女は自分から謝らない。 ただ、唇を引き結んで、怒ったような、どこか泣きそうな顔で後ろをついてくるのだ。 何か言いたげにして。 それでも俺が無視し続けると、ついに泣き始める。 声を出さずに、しゃくりあげて。 で、結局俺が折れてしまう。 そんな自分勝手な姉が憎たらしくて、むかついた。 それでもその時見せる、姉の安心したような泣き笑いにすべてを許してしまう自分がいた。 その表情が見たくて、わざと怒ったふりを続けることもあった。 姉はその頃、本当に俺が一番だった。 俺を中心に、世界が回っていた。 姉は何か楽しい事があると、一番に俺に報告にきた。 数少ない友達ではなく、父でもなく、母でもなく。 誰よりも先に、俺に。 綺麗な色をした石。お菓子のおまけのおもちゃ。夕暮れの変わった形の雲。 そのどれも、俺には大して価値のないもの。 けれどそれを俺に見せるために顔を赤らめて駆けてくる少女が、いつも無愛想に口を引き結んだ少女のいっぱいの笑顔が、何よりも嬉しかった。 「千尋！」 そう俺を呼ぶ声が、何よりの宝物だった。 泣いている姉を慰めるのも。 癇癪を起こす姉をなだめるのも。 眠れない夜、姉を抱きしめるのも。 すべては、俺の役目。 勝手な少女が少し憎らしくて、頼られるのが誇らしくて、その笑顔が大好きだった。 俺にとっても姉が一番だった。 けれど姉も俺も体が大きくなり、それに伴い心も成長する。 ２つの歳の差は、姉と俺との間に大きな隔たりを生んだ。 先に小学校に上がった姉は、少ないながらも固有の友人ができてくる。 ずっと一緒にいれた幼児期とは違う。 ずっと、お互いが同じものだと感じられていた頃とは違う。 お互い、別々の時間。 その頃はまだまだ女の方が心も体も成長が早くて、俺は置いてけぼりだった。 姉が楽しい事があった時、一番に報告にくるのは、俺ではなくなった。 姉の一番は、俺ではなくなったのだ。 裏切られた気がした。 体が切り裂かれたような気がした。 ずっと一緒だったのに、置いていかれた。 俺は姉が一番なのに、姉にとっては俺が一番ではないのだ。 悔しくて、哀しくて、憎らしくて。 それでもどうすることもできなくて。 ただ、離れていく姉を見ていることしかできなかった。 他よりはずっと仲のいい姉弟ではあったと思う。 姉は友達が少なかったから、俺ともよく遊んだ。 一方俺は、友達もそこそこいたし、昔から勉強だって運動だってできた。 クラスでも中心人物。 姉と付き合う理由なんてない。 けれど、それでも、俺はこの少女から離れられなかった。 不器用で、要領の悪い姉。 俺が守らなきゃ、どうするのだろう。 俺がいなくなったら、きっと泣いてしまう。 幼心にも、そう感じていた。 それと同時に、こんなにも俺が姉を想っていいるのに、姉の一番が俺でないことに苛立ちを感じていた。 そして、その時がきた。 姉が小学校の高学年に上がった頃。 その頃、両親は仲が悪かった。 理由は特に興味もない。 俺にとって、母も父も、姉よりはどうでもよかったから。 ２人で手をつないで降りた暗い階段。 不安げな姉。 俺の手を強く握る。 頼られている事に、満足感を覚えた。 言い争う醜い両親。 そして聞こえてきた声。 「じゃあ、私は千尋を育てるわ！」 「なんだと、千尋は俺が連れて行く！」 「貴方は真衣を育ててちょうだい！」 「真衣を育てる気はない！」 「私だって、千尋しか必要ないわ！」 その瞬間、姉の手から力が抜けた。 横を見上げると、色の白い少女は暗い中でも分かるくらいに青ざめていた。 呆然として、何もない表情。 放れた手をつなぎ、少し引っ張る。 けれど、姉は反応しない。 「真衣ちゃん」 小さな声で呼ぶ。 それでも反応しない。 両親はまだ飽きもせず言い争いを続けてる。 俺がもう一度引っ張ると、姉はゆっくりとこちらを向く。 けれど、いまだにその目は俺を見ていない。 少し苛立って、更に強く引っ張る。 すると、大きな目から、はずみのように、涙が零れ落ちた。 ぽろぽろと、次から次へ。 止める気もないようで、ただ頬を濡らし続ける。 それがとても綺麗で。 零れ落ちる大きな雫と、青ざめた姉の顔が綺麗で。 俺はしばらく見とれていた。 子供部屋になんとか連れてかえって、ベッドに座らせた。 すると姉はようやく意思を取り戻したように俺にしがみ付いてくる。 まだずっと体の小さかった俺は、ちょっと痛くて、眉をしかめた。 けれどその強い強い力に、喜びを感じた。 俺にしがみ付いてくるその腕に、俺の胸で泣く姉に、深い満足感を覚えた。 そして、そのすがる手に、ひとつの確信が生まれる。 ああ、こんな簡単なことだったんだ。 姉が俺を一番に見る方法。 それはとっても、簡単なこと。 姉の一番を、全部とってしまえばよかったんだ。 そうすれば、姉は俺しか見なくなる。 なんで、こんな簡単な事に気付かなかったんだろう。 そんな自分がちょっと馬鹿みたいで、思わず笑ってしまった。 ああ、本当に馬鹿だったな。 姉の薄い背中に手を回し、ゆっくりと撫でる。 ますます強い力で抱きしめられる。 この世で、頼れるのは俺だけだというように。 鳥肌が立つほどの、喜び。 両親が自分を選んだ事に大しては何とも思わなかった。 ただ、姉をこんなにも泣かす事に腹が立ち、何よりも姉を切り離してくれたことに感謝した。 俺よりも大きな体、強い力をもつ、けれど頼りない少女を柔らかく腕に囲う。 「真衣ちゃんには、僕がいるからね」 そう、俺だけがいればいいのだ。 声なく泣いて不安げに揺れる目に、すがるような光が映る。 ああ、それは、なんて、愛おしいのだろう。 俺には、姉が、一番だった。 姉が俺を一番に見る方法を知った。 それなら、することは決まっていた。 姉の一番を、すべて消していく。 最後には、俺しか残らないように。 それは子供っぽい独占欲。けれど幼いがゆえに真っ直ぐで強かった。 姉と違って人望のある俺は、交友関係も広かった。 姉の友人の弟や、知り合いなどに、姉に対しての噂を吹き込む。 俺から広まったとは分からないように、細心の注意を払って。 噂は、あっという間に広まる。それが悪いものであればあるほど。 それで簡単に、姉の友人は離れていった。 本当に、他人との仲なんて脆いもの。 それでも姉の傍にいようとする人間は、別の方法で排除した。 幼いがゆえに残酷で、俺は自分でも驚くほどの情熱をもってそれをなした。 姉は、１人になる。 泣いて帰ってきては、俺にすがりつく。 「どうしたの、真衣ちゃん？」 白々しく、俺は心配げに姉を抱きこむ。 「めぐちゃんが、急に、話して、くれなくなって」 静かにしゃくりあげるように、泣く姉。 そんな姉が可哀想で、愛おしくて。 「大丈夫、真衣ちゃんの傍には、僕がいるから。僕が、真衣ちゃんを守るから」 それは心からの言葉。 姉が、俺を一番に見ていれば、いつだって優しくする。 「本当？千尋は、傍に、いてくれる？」 泣きながら俺に頼る不安げな少女。 それが、本当に、可愛くて、守りたくて。 「当たり前でしょ。僕は、真衣ちゃんが大好きなんだから」 そう、だから姉は、俺だけを見ていればいいのだ。 俺に罪悪感はなかった。 姉はこんなにも頼りなく、ちっぽけだ。 俺が守らなくては、ならないのだ。 こんなにも、俺が姉を一番に想っているのだから、姉は俺を一番に想わなければならない。 それは、俺にとって、当然のことだった。 泣いてる姉を慰めるのも。 癇癪を起こす姉をなだめるのも。 眠れない夜、姉を抱きしめるのも。 すべては、俺の役目。 そんな風に、姉を１人にして、俺だけを見るようにして。 それなのに、しぶとい姉は、どんなに妨害しても他に頼る人間を見つけようとする。 姉が中学に上がると、がらりと変わる人間関係になかなか周りを排除するのは難しくなった。 そんな場合は姉にあることないこと吹き込んで、１人にする。 年々人付き合いが苦手になる少女に近づく人間は、そう多くなかったから。 それでも、俺を一番に見ない姉に腹が立ち、思い通りにならない現実に腹がたった。 早く、自分も中学に上がりたくて仕方がなかった。 この、姉に対するどうしようもない感情を、俺は深く考えた事はなかった。 ただ姉に執着した。 姉が愛しくて、守りたくて、その笑顔を見たくて。 それと同時に、こんなにも自分を縛り付けて止まない姉が嫌いだった。 縛り付けるくせに、俺を見ない姉が憎かった。 俺をこんなにひきつけるくせに、どこまでも無頓着な少女。 誰よりも好きで、誰よりも嫌い。 その感情の正体が分かったのは、思春期を迎えた頃。 姉は少女らしい体に変化して、俺は男としての特徴を現し始める。 丸みを帯びた姉の体に訳もなく鼓動が早くなった。 友達との会話に、異性についてのものが増えてきた。 そして、幼い少年としての時間を終えた日。 夢の中で俺は、姉を組み敷いていた。 その時初めて、俺は自分の感情の歪さと醜さに、恐怖した。 恐れと焦燥に、目の前が、真っ暗になった。 |