姉と、あの男が授業をさぼったことは聞いていた。
けれど、俺は思っていたのだ。
傷ついて、絶望して、帰って来た途端、俺にすがるだろう。
見捨てないで、と泣きつくだろう、と。
そしたらこれ以上にない程優しくしてあげよう。
俺だけを見ていれば、傷つける事はないのだと、何度でも教えてあげようと。
そう、思っていたのだ。

家に帰った俺を迎えた姉は、顔色が悪く倒れそうなほどだった。
けれど、学校で見た時よりも、しっかりとした光が目にあった。
俺の姿を見ても、怯えた顔はしても、落ち着いていた。

なんで、すがりつかないんだ。なんで、落ち着いていられるんだ。

勝手な、どうしようもない傲慢な想い。
姉の平気そうな様子への苛立ち。
そして姉を支えているだろう、あの男への怒り。

まだ、傷つけ足りないのか。
まだ、追い詰めたりないのか。
俺しかいないと、あんなに教え込んだのに。

不安げに俺を見る姉の顔を歪ませたかった。
俺はどこか嬉しくもなりながら、可哀想な獲物を追い詰めるための言葉を吐く。
より姉の心を切り裂く言葉を選んで、立ち上がれないほど叩きのめしたかった。

「大嫌いだよ、真衣ちゃん。もう俺に干渉しないでね?」

崩れ落ちる姉に、それでも怒りは収まらない。

「いい気味だね」

俺の言葉に、なす術もなく泣き崩れる姉に心地よさを感じる。
もっともっと傷つけばいい。
そして、姉には俺しかいないのだと思い知ればいい。
俺に取りすがって、早く俺のものになってしまえ。
そうすれば、俺はあんたをすぐに甘やかしてやるのに。
優しく、守ってあげるのに。
どうして、あんたは俺だけを見ないんだろう。

昔と変わらず、声を出さずにしゃくりあげるようにして泣く姉。

煽られる嗜虐心と保護欲。
更に追い詰めて、泣かせて、壊してしまいたい。
そして、甘やかして優しくして、安心させてあげたい。
全く逆の、けれどそのどちらも、俺の本心。

あんたが俺だけを見ていてくれれば、傷つけることもないのに。
俺は、本当は、あんたを傷つけたくなんて、ないのに。

しゃがみこんで、静かに泣く姉を抱き上げる。
軽く、骨ばった体がどうしようもなく愛おしい。
愛おしくて、憎らしい。
俺の顔を見ずに、小さく震える姉が憐れで、哀しかった。

「これはね、罰だよ、真衣ちゃん」
「ち……ひ、ろ…?」
「なんでこんなことになったか、よく考えてね?」

更に、姉を追い詰める。
姉の泣きはらした目に、心地よい満足感を覚えると共に、なぜか哀しかった。
俺も、泣いてしまいそうだった。



***




そこに来たのは念のためだった。
姉は学校を、休んでいるはずだったから。
俺に打ちのめされて、傷ついて。
暗い、今は一部しか使われていない旧校舎の一室。
誰かが根城にしているらしい、煙草のにおいが染み付いた部屋。
裏庭に面した、うす暗い部屋。
茂った木のちょうど切れていて、あのベンチがよく見えた。

そこにいたのは、誰よりも見慣れた頼りない少女。
そして、その少女を抱きしめる、眼鏡の男。

裏切られた、と感じた。
ひどい、裏切りだと。
あんなに傷つけたのに、あんなに追い詰めたのに。
俺しかいないのだと、教え込んだのに。
俺よりも、その男に助けを求めるほど、その男に頼っているのか。
それほど、姉の心はあいつに占められているのか。

他の男の腕に囲われる姉。

姉はこちらに背を向けていて、表情は見えない。
けれど、嫌がっていないことは、男の背に回された手から分かった。
自分から男にすがっている貧相な腕。

あの腕は、自分の背に回されていればいいものなのに。

眼鏡の男がこちらに気付く。
睨みつける俺に、何度か目を瞬かせると、口角を上げた。
人を食ったような、余裕そうな笑顔。
そして、何か姉に言うと、そのまま屈みこむ。

姉の唇に触れて、姉はそれを静かに受け止めた。

殺してやりたいと思った。
どちらを。
分からない。
自分から去ろうとしている姉なのか。
姉を奪おうとしているあの男なのか。
そのどちらもか。

男が再度顔を上げ、場違いなほどに明るく笑った。
そして、姉を抱きしめる腕に力をこめた。
自分のものだと、見せ付けるように。

敗北感と、屈辱。
どちらも、俺にはあまり馴染みのないもの。
そんな感情を植えつける、2人が憎かった。
握り締めすぎた手から、皮が破ける感触がした。
痛みが更に、怒りを煽る。

2人を見ていられなくて、教室を後にした。
まるで逃げだすような自分が、許せなかった。



***




午後の授業なんて、頭に入らなかった。
部活なんて、出れるはずもなかった。
俺の頭を占めていたのは、ただ一つの事。

姉をどうやったら追い詰められるか。
傷つけて、泣かせて、俺の事しか考えられないように出来るか。
あの眼鏡の男を引き離すには、どうしたらいいのか。

眼鏡の男は、最初の印象どおり、人に好かれる好人物だった。
誰に聞いても悪い噂は見当たらない。
明るく楽しく、けれど締めるところは締める。
生徒からも先生からも信頼され人気のある。
そんな、出来すぎた男。

健やかに、人を愛せるあの男がうらやましくて、妬ましかった。
そして、ますますむかついた。

姉は、あの男の傍にいたら、きっと幸せになれるのだろう。
それはよく分かる。
分かるが、許容できるはずがない。
姉は、俺の傍にいなければならないのだ。
たとえ不幸になったとしても、俺が守らなくては、いけないのだ。

浮かぶ矛盾。
けれど、俺はそれを見ないようにした。



***




その日の放課後、伊藤ゆりが声をかけてきた。
「部活ないなら、一緒に帰ろ?」
ああ、まだ別れていなかったんだっけ。
すっかり忘れていた。
顔を赤らめて、小さな可愛らしい顔を傾げる。
正直、面倒臭かった。
今は、姉の事しか考えたくなかった。
ただ、今別れを告げるのも面倒くさく、だからと言って優しくしてやる余裕もない。
俺は、断りの言葉を口にしようとした。

その時、一つの考えが浮かぶ。
俺が女の子と付き合うのを嫌がる姉。
置いていかれる事を怯える姉。

だったら、見せ付けてやったらどうなるだろう。
俺は、もう姉を見捨てるつもりなのだと、そう教えてやったら。
そしたら、今度こそすがりつくだろうか。
自分が誰のものかを、思い出すだろうか。

「いいよ、帰ろうか。うちに寄ってく?」

俺は、作り上げた完璧な笑顔でそう告げた。
誰と付き合っても、家に連れてくることはなかった。
家に誰かを入れるのはあまり好きではなかった。
自分のプライバシーに踏み込まれるのは、不快感を覚える。
そこにいていいのは、姉だけだったから。

けれど、だからこそ効果があるかもしれない。

ゆりが嬉しそうに笑い声を上げた。
その可愛らしい様子に、それでも俺の心は動かされない。
心の中で小さく謝り、俺はゆりの手をとった。



***




別にキスシーンを見せつけようと思ったわけではない。
たまたまそういう展開になって、そこに姉が帰って来ただけだった。
その時に姉が帰って来なかったら、ゆりを家に連れ込もうとは思っていたが。
その前に、運よく姉は帰って来た。

姉が俺達の姿を見て立ち尽くす。
泣きそうに、顔が歪む。
俺はそれに、深い満足を覚える。

それで、いい。

ゆりの柔らかく温かい体から離れる。
顔を赤らめ、媚と照れを含んだ笑顔で俺を見上げる。
その様子は、本当にかわいらしいものなのだけれど。

「あ、ごめん、姉が帰ってきちゃった」

俺はさも今気付いたように、申し訳なさそうに顔をゆがめる。
姉が俺に執着して、俺を支配しようとしているのはよく知られている事。
ゆりが、残念そうに眉をたれる。
素直な、可愛らしい子。
ごめんね。

もう一度、額に口付けると、俺は別れを告げた。
送れない事を謝りながら。
それでも俺が自宅まで連れてきた事が嬉しかったのか、どこかはしゃいでいた。
ちくりと罪悪感が咎めるけれど、それでもやめることは出来ない。

玄関を開いても、姉は立ちすくんだまま。
思い知ればいい、俺がいなければどうしようもないのだということを。

「入らないの?」

告げる声に、ようやく顔を上げる姉。
途方にくれた、子供のような頼りない姿。
ちっぽけな姉の姿が、ますます小さく見える。
自然と、俺の顔が綻ぶ。

「……伊藤ゆりと、別れて、なかったんだ……」

弱弱しい声。
怯えて俺を見上げる目。
そのすべてが、愛おしくて。
だから、そのまま泣きつけばいい。

「真衣ちゃんには、関係ないでしょ」

ここまで突き放せば、きっと姉は俺を引き止めるだろう。
俺に置いてかれることが、姉に耐えられるはずがない。
それは、確信に近い思いだったのに。

「うん、そうだよね」

信じられない、姉の言葉。

「関係、ないよね。姉弟、だもんね」

耳を疑った。
なんだ、それ。
なんなんだよ、それ。
今更、そんな言葉で俺を切り捨てるのか。

あの時、俺を縛り付けたのは、あんただったのに。
今更、俺を見捨てるのか。

「笑わせないでよ。今更姉弟だ?本気でそう思ってんの?」

だったら、なんであの時に俺から逃げなかったんだ。
俺を逃がしてくれなかったんだ。
俺は、もう、あんたがいなければ駄目なのに。
独りでは、立っていられないのに。

分かってる。
それは全部俺の勝手な都合。
姉を縛りつけたのは俺。
姉を独りにしたのは俺。

姉は、俺の支配から逃げ出そうとしているだけなのだ。
あの男の手をとって。

けれど。
そんなことは今更許されるはずがない。
あんたのそばには、俺だけがいれば、いいんだ。
俺だけしか、いてはいかないんだ。

それなのに、あんたは一人で幸せになろうとするのか。
ひどい、裏切り。
俺を簡単に、切り捨てる姉。

「まだ、1人で逃げるの?1人で気付かないふりするの?」

俺の執着に、気付かないのか。
俺がこんなにも、あんたを欲しがっているのに。
それなのに。

「どうして、俺だけ見ないんだよ!どうしてずっと傍にいてくれないんだ!」

泣いている姉を慰めるのも。
癇癪を起こす姉をなだめるのも。
眠れない夜、姉を抱きしめるのも。

すべては、俺の役目。

そう、俺は決めた。
決めてしまったのに。

不思議そうな顔をする姉。
ずっと隠してきた感情をあらわにする俺を、知らない人のように見ている。
この感情を知られたら、逃げられると思っていた。
知られるまでもなく、逃げられようとしているけれど。

俺を、置いていこうとしているけれど。

柔らかく抱きしめる、姉の頼りない体。
その懐かしい匂いが、例えようもなく愛しいのに。
誰よりも、大切なものなのに。

「真衣ちゃん、俺はね」

この骨ばった貧相な体が、俺を縛り付けて、俺を狂わせる。

「真衣ちゃんが、誰より大切で、誰より嫌いだよ」

殺してやりたいと思った。
このまま、メチャクチャに犯して、そのまま殺してしまいたかった。
俺だけのものに、してしまいたかった。

「それでも、俺は……」

あんたを守る事が、俺のいる理由。



***




電気をつけない暗い部屋で、独りベッドにうずくまっていた。
どこまで姉を傷つければいいのだろう。
どこまで姉を追い詰めればいいのだろう。
1人、明るい場所へ行こうとする姉を、どうすれば引き止めることができるのだろう。

いっそ、壊してしまえばいいのだろうか。


時折浮かんでは、無理矢理見ないことにしていた疑問。

なんで、俺は姉を追い詰めなければいけないのだろう。

ただ、守りたかったはずなのに。
ただ、一緒にいたかっただけなのに。
姉の笑顔が見たかっただけなのに。

それなのに、こんなにも俺は、姉を傷つけ、怯えさせている。
幸せになろうとしている姉を、縛りつけようとしている。

笑いが漏れた。
滑稽だった。
自分が馬鹿らしくて、笑いが止まらない。
暗い部屋で、たった1人、大声で笑っていた。
泣きながら。
涙が、次から次へとこぼれる。

それでも俺は、姉が欲しいのだ。
たとえ傷つけてでも、手に入れたいのだ。
どうしようもなく。
姉がいなくては、駄目なのだ。

なんで、俺は、こんなにも壊れてしまったのだろうか。
俺達は、歪んでしまったのだろうか。

「でもね、真衣ちゃん」

縛り付けるくせに、俺を見ない姉が憎くて。
それでもどうしようもなく愛しくて。

「真衣ちゃんは、俺が守るよ」

俺はもう迷わない。
迷えないのだ。






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