雨はまだ続いているようで、静かに地面を打つ音が聞こえる。 昼なのに薄暗い部屋。 かすかに響く、規則的な安らかな寝息。 疲れきった顔で眠る、頼りない、温かい姉の体。 もう後戻りが出来ないという、後ろめたい気持ち。 どこかぽっかりと空いたような、空虚感。 そして、それを上回る、喜び。 遠い遠い昔に感じていた充足感。 ずっと2人でいれた、姉と俺の区別がなかった頃。 姉の一番が俺で、俺の一番が姉だった頃の満たされた心。 それはずっと欲しかったもの。 やっと、取り戻す事ができた。 ずっと欲しくて欲しくて、ようやく手に入れられた。 安心しきって体を預ける、哀れな姉。 これは俺のもの。 俺だけのもの。 姉は俺が守る。 姉の傍には俺がいる。 ようやく果たされた、約束。 姉の腕に、もう一度口付ける。 嬉しかった。 哀しかった。 心が熱くなって、そのまま目に伝わってくる。 まだすべてが俺のものになったわけではないけど。 それでも、もう放さない。 俺はやっと、分かったから。 姉を逃がしたくなかった。 姉の自由を奪って、他の人間を見ないように偽りを吹き込んで。 追い込んで、追い詰めて。 それでも手に入らないこの女に憎しみすら覚えて。 すぐ傍にあるその手に触れる事が出来なくて。 姉が逃げ出さないように優しく接した。 俺の中の醜いものに気付かれないように。 怖がって、怯えて、俺を嫌悪しないように。 そうして、姉が俺を求めるのを待っていた。 それが間違いだったんだ。 俺はただ欲しがるだけでよかった。 姉が求めていたのは、強く望まれる事。 臆病で、1人でいるのに耐えられなくて。 姉が待っていたのは、息がつまるぐらいの執着。 決して1人にはされないという確証。 俺はただ、欲しがるだけでよかったんだ。 俺達は、似てるね、真衣ちゃん。 さすがに姉弟だ。 お互いが、離れていくのが怖くて。 お互いを縛り付けて。 お互いに執着して。 臆病で、無様で、醜くて。 それでもあんたは、俺よりもずっと前向きだったけどね。 もう少しで、こんな歪んだ関係から逃げられたかもしれないね。 あんたにもう少し勇気があって、あの男を信じられたなら。 でも、もう放さない。 優しくいたわりあう姉弟なんて、ごめんだ。 たとえ痛みを伴っても、誰よりも近い場所にいたい。 それが、俺の欲しいもの。 ただ静かだった俺と姉だけの空間に、不快な音が響いた。 ドアを叩く、乱暴な音。 玄関先だろう。 無視をしようかと思ったが、ノックの持ち主は大体予想がつく。 2階にある部屋にはそれほど聞こえないが、このままでは姉が起きてしまう。 俺は脱ぎ捨ててあったシャツを羽織ると、姉が目覚めていないことを確かめてから玄関にむかった。 玄関を開けると、そこには予想通りの顔。 見るだけで虫唾が走る。 どこか飄々とした眼鏡の男。 いつも余裕をたたえた顔に、今は焦りを浮かべている。 その様子に、少しだけ胸がすいた。 「ああ、えーと……深谷さん」 「それは深谷ねぎ、埼玉の名産です。俺は根木、根木です。って分かりにくすぎますそのボケは」 焦って、少し怒った様子で、それでもきっちりと訂正する律儀な男。 「それは失礼。それにしても人んちのドア、壊さないでくれます?」 「なんでチャイムが鳴らないんだよ、この家」 「ああ、すいません、インターホンの電源切っちゃいました」 なんでもないように微笑んで答える俺に、目の前の男は苦虫を噛んだような表情を浮かべる。 それは、とても心躍るもの。 「人に全部押し付けて帰りやがって!」 いつ見ても余裕に満ちて飄々としている男が、吐き捨てるように言った。 滲み出る怒りは、今まで見たことのなかったもの。 「弟が倒れた姉を連れて帰るのは当然でしょう」 けれどそんなものは怖くない。 余裕をなくしたこの人は、怖くはない。 笑顔のまま、好奇心に満ちた目で姉を連れ去ろうとした時のほうがよほど怖かった。 俺は姉が気を失ったあの後、すべてをこの男に押し付けて帰った。 姉を連れて帰ると言う口実の元。 教師への言い訳、自分のしてしまった事にパニック状態になったゆりの世話。 それらをすべて根木に押し付けて。 この人のよく頭のいい男は、すべてをそつなくやってくれたことだろう。 その間に、俺は姉を手に入れることができた。 「………っ」 根木が悔しそうに顔を歪める。 ああ、この人もこんな顔ができるのか。 その人間らしい顔は、好感が持てる。 「何度電話してもつながらねえし」 「電話線抜いちゃいましたから」 「直接押しかければ誰も出ないし」 「昨夜からずっとインターホンの電源切ってました」 大きくため息をついて、片手で顔を覆う。 かみ締めた唇は、俺を責めるものだろうか、姉を責めるのだろうか、それとも自分を責めているのだろうか。 「………やってくれるな、弟君。要領良すぎ」 「お褒めに預かり、光栄です」 「今まではぜーんぶ後手後手に回ってたけどな」 今度は、俺の口の中に苦いものが広がる。 この男に、あと少しで奪われそうになった。 あの時の焦燥感と、喪失感が蘇りそうになる。 けれどそれを押し込めて、表に出さないように、笑顔を保つ。 「最後に欲しいものが手に入れば、それでいいです、俺は」 眼鏡の奥の細い目に、剣呑な光が走った。 「………清水は?」 「寝てますよ。俺の部屋で」 さらに細められたそれは、気圧されそうになるぐらいだった。 一歩下がりそうになる足を、指に力をいれて踏みとどまる。 「起こしてくれない?」 「今は誰にも会いたくないと思います。特に、あなたには」 その一言で、男はすべてを悟ったようだった。 いや、聡い男だ。 来る前に薄々気付いていただろう。 それでも突きつけられた言葉に、男の力が抜けた。 苦しげに歪めた顔に浮かぶのは、怒り、だろうか。 「お前は……それでいいのか」 それは押し殺した声。 けれど、怒気は感じなかった。 やるせない悔しさが滲んでいた。 「何がですか?」 「絶対、清水もお前も、後悔する」 悔しさと、これは哀れみ、だろうか。 根木は、哀れんでいた。 姉と、そして俺を。 ああ、姉がこの人に心を開いたのが分かる。 この人は、どこまでも優しいのだ。 悔しさも怒りも、確かに俺にもむけられているだろうが、それ以上に姉を救えなかったことに。 「お前さ、まだ全然若いじゃん。視野狭すぎんだよ。そりゃ、人生長いし、失敗だろうとなんだろうとしまくって後悔すんのもいいと思うんだけどさ。けど、これはそういう問題じゃねえだろ。こんなうちに人生決めちゃっていいの?そんなに、思いつめてどうすんだよ、お前も、清水も!」 口調は軽いけど、そこに宿る響きは真摯だ。 この人は、本当に姉を想っているんだろう。 けれど。 「そんなの、俺がこれまでに考えなかったと思います?」 「………。それでも、俺はあまりにも周りが見えてなさ過ぎると思うよ。 馬鹿じゃねえの、お前ら。そんな簡単にあっさり道踏み外してんじゃねえよ。もっと悩めよ、もっと人生の余裕持てよ、狭いんだよ、見てるところが」 眼鏡の下に浮かぶのは、好奇心ではなく哀しげな色。 何を言っても無駄だと言う事は分かってるんだろう。 力強さはない。 それでも、耳にすんなりと届いた。 この人にずっと持っていた嫌悪感は今はそれほどない。 でも、だからと言って、彼の言葉を受け入れる事はできない。 これまで、ずっと悩んだ、苦しんだ。 後悔だってもしてる。 この人に、言われるまでもない。 それでも俺に分かっているのは、ここで姉を手放したら更に後悔すると言う事だけ。 一生、この時のことを引きずって苦しむと言う、ただそれだけ。 姉のいない世界なんて、考えられない。 そんな渇ききった世界なんて、いらない。 それが視野の狭い、若いが故の思い込みと、この人は言うのかもしれないけれど。 「俺はさ」 俺の声に、唇をかみ締めて苦しげに眉をしかめていた男が、顔を上げた。 姉の心を、きっと今でも多少占めている男を好きになれるわけではない。 「あんたのこと、嫌いなんだけどさ」 「俺も、お前が嫌いだよ、清水千尋」 「でもさ、あんたはいい人だと思うし、可哀想だと思うんだ」 「は?」 俺の意外な言葉に、今度は目を丸くする。 表情の豊かな男。 人を安心される空気を持つ、俺の嫌いなタイプの人間。 「俺とあの女に関わらなきゃさ、あんたきっとそんな後悔しなかっただろうし」 「………」 「だからさ一発ぐらいなら、殴られてやってもいいかな、て思う」 「何言ってんの、お前」 「さあ、なんなんだろう」 自分でも何を言っているのか分からない。 少し、自分で自分を笑う。 全く、俺らしくないことを言ってしまった。 「そんなこと言うと、マジ殴るよ、俺お前本気で嫌いだし」 「どうぞ」 殴られてもいいだろう。 もう、この男に姉を奪う事はできないだろうから。 それは勝利を確信した側の傲慢だったのかもしれない。 それとも、俺はこの男に許されたいのだろうか。 巻き込んで、きっと姉を救えなかったことで自分を責めるだろうこの男に。 根木は拳を目の高さまであげる。 一見ひょろりとした印象だが、よく見れば綺麗に筋肉がついている体。 それなりに、痛いだろう。 けれど、よけようとも、目をつぶろうとも思わなかった。 男は、拳を振りかぶって、けれど、寸前で力を抜いて下ろした。 「……殴らないんですか」 「やめた、意味ないし」 「意味、ないですか」 根木は、この男らしくない歪んだ、苦々しい笑みを浮かべた。 「意味ないね。殴ってどうなるの?それで弟君すっきりして、今までのことチャラ?俺、超損じゃん。そんな馬鹿馬鹿しいことできません。一生後ろめたく思ってろ」 俺も笑ってしまう。 苦々しく。 それは確かに俺の自己満足。 それですっきりするのは、俺の心だけ。 男の歪めた笑顔も、毒のある言葉も、それでも今の俺には小気味よかった。 「そうですか、俺は別に、あんたに後ろめたくなんて思いませんけどね。ああ、それともう姉には近づかないで下さいね」 「弟君に言われる筋合いはないし。それに、俺が周りに言いふらしたらどうするの。お前と清水は、出来てるってね」 それはこの男にもこんな顔が出来るんだ、と思わせるような底意地の悪い笑顔。 こんな顔、最初からしてたら俺ももっとあんたを好きになっていたのにね。 それでも、俺はもうあんたに脅威を感じない。 この男の、弱みは、もう分かったから。 「そんなこと、あんたはしないよ」 「ふーん、余裕だね?なんで。言いふらしたら、今のままではいられないだろうに」 「しないよ。あんたは『優しいから』」 突きつけた言葉に、ずっと浮かべてた笑みが消えた。 それは、生傷をえぐられたような、痛々しい顔。 その顔で、確信する。 それはこの男の長所。そして多分、最大の短所。 「あんたは、先が見えすぎるからね。それで、優しすぎる。真衣ちゃんを傷つけるようなこと、あんたにはできない。」 そしてそれが、俺とあんたの違いで、きっと姉が俺を選んだ理由。 俺だったら、こんなところで押し問答なんてしない。 姉がどんなに傷つこうと、泣こうと連れ去る。 何があろうと、あの女を手に入れる。 この優しい人に、そんなことはできない。 根木は殺意を感じるほどの険しい目で、俺を睨んだ。 俺も、それを静かに見返す。 しばらくの間、そのままにらみ合い続けた。 そして、目をそらしたのは、根木だった。 「ちっくしょ。本当に俺、マジで馬鹿じゃん」 顔を戻した時には、すでにいつものように余裕のある笑顔だった。 それはどこか、苦味を混じらせたものだったが。 「あんたは、大人すぎるんだろうね」 「あー、はいはい。どうせ最後に勝つのは泣いた子供だよ」 「あんたをすごいとは思う。あんたになりたいとは思わないけど」 根木は眼鏡の下の眉を吊り上げると、鼻で笑った。 「そりゃどうも」 もう一度大きく息をつくと、静かに俺に目を合わせる。 「それでもさ、清水千尋。俺は、清水真衣が泣いてたら、きっとお前から奪うよ」 「泣かすことは、あるかもしれませんね。でも真衣ちゃんは、もう居場所を求めることはありませんよ。俺が執着してる限りね」 最後に一瞬だけきつく俺を睨むと、根木は背中を向けた。 「じゃ、清水によろしく。学校へ来ても無視はしないでね、って言っといて」 「伝えません。あんたはもう姉に近づかないで下さい」 「そんな風に余裕ないこと言ってると、俺にもまだチャンスがあるんだーって思っちゃうよー」 「……………余裕なんて、ありませんよ」 最後に小さく言った言葉は、男の耳に入ったのだろうか。 分からないが、男は小さく手を振ってそれきり振り向かないまま帰っていった。 大きく息を吸って、吐く。 怒りや、悔しさや、喜びは、ない。 そこにあるのは、更に強くなった俺の中の確かなもの。 部屋に戻ると、姉はいつの間に目を覚ましたのかベッドに座り込んでいた。 俺が部屋に入ると、定まらない目線でぼんやりと見返す。 骨ばったむき出しの肩が、痛々しいほど白かった。 「起きたの、真衣ちゃん」 その言葉にようやく俺に気付いたのか、慌ててずり落ちた毛布を巻きつける。 そしてどこか怯えたような目で、おどおどと俺を見上げた。 毛布に包まる姉は余計に貧相でちっぽけで、保護欲を煽られる。 そしてその小動物のような怯えは、征服欲を刺激して止まない。 俺の欲を、どこまで掻き立てる女。 「今ね、根木さんが来たよ」 その言葉に、目に見えて姉は青ざめた。 未だに姉を強くひきつけているあの男に、やはり忌々しさを感じる。 けれど、姉があの男に好意を抱いていればいるほど、もうあの男にすがることはできないだろう。 姉はもう、俺のものなのだから。 「ちゃんと言っておいたよ、真衣ちゃんは俺のものですって」 「………ち、ひろ……」 不安げに揺れる視線。 震える唇。 他の男のためにそんな顔をする姉を、憎らしく感じる。 あんたはね、俺のためにだけ感情を動かせばいいんだ。 他の男に、心を奪われるのは許さない。 「真衣ちゃんに、もう近づかないで下さいって」 「………あ、そんな……」 姉がうずくまるベッドに、ゆっくりと腰掛ける。 沈むシーツに、姉がびくりと体を震わせる。 「あれ、それとも真衣ちゃんはまだ根木さんと一緒にいる気なの」 「ちが……ちがう……」 「そうだよね、だって」 姉はその後に続く言葉を予想できたように体を丸める。 自分を傷つけるものから、身を守るように。 「あんたは、あの人を裏切ったんだから」 「うっ…く……」 膝に埋めた顔から嗚咽が漏れる。 声を殺して泣く様子に心が痛くなる。 その痛々しい様子がどうしようもなく愛おしくて、その体を優しく腕に絡めとる。 「ごめんね、真衣ちゃん」 固く強張った背を、毛布越しにゆっくりと撫でる。 傷つけているのは俺だけど、守りたいと、心から思っている。 「大丈夫、真衣ちゃんの傍には俺がいるから」 可哀想な真衣ちゃん。 臆病な真衣ちゃん。 打算的な真衣ちゃん。 「大好きだよ。本当に本当に、誰よりも何よりも、あんたが、愛しくて仕方がないよ。どうしようもないほど」 それでも体を丸めて嗚咽を漏らす姉の背を、飽きることなく撫でる。 ゆっくりと姉は体の力を抜いていく。 俺の胸に、身を寄せる。 頼られる感触が、心地よかった。 「ずっと傍にいる。俺はあんたを置いていかない、一人にしない。好きだよ。本当に、大好きだよ。真衣ちゃんが、大好きだよ」 繰り返す言葉に、腕の中の姉が顔を上げる。 顔は涙で濡れて、その目はまだ不安そうに揺れている。 「本当……?」 「うん、本当だよ。俺は、真衣ちゃんしかいらない。真衣ちゃんが傍にいればいい。絶対に、離れない」 安心したように、姉は笑う。 それは子供のようにあどけなく、隠し切れない喜びが浮かんでいた。 「ずっと……、一緒にいて、千尋。置いて、いかないで。一人に、しないで」 貧相な腕が、しがみつくように俺の背に回される。 思いのほか強い力は、姉の心を表しているようだった。 「一緒にいるよ、当たり前でしょ。俺は、真衣ちゃんの弟なんだから」 「うんっ……、うん……千尋、千尋…」 再び零れ落ちる塩辛い涙を、軽く吸った。 そのまま、額に口付ける。 骨ばった体を強く抱く。 見かけとは裏腹に柔らかい体が、愛おしくて愛おしくてたまらない。 あふれる激情に、自分まで目頭が熱くなる。 「真衣ちゃんは、俺が守るよ」 それは誓い。 それは絶対のもの。 当然であって、正しいもの。 そのために俺はあって、そのために姉はいるのだと。 そう、なんのためらいもなく感じていた自分。 あんたの望むものをあげるよ、真衣ちゃん。 全部全部、あげる。 だから、俺がずっと欲しかったものを。 焦がれて、切望していたものを。 俺に、ください。 俺だって、逃げたかったよ。 ねえ、真衣ちゃん。 でも、きっと逃げるなんてことは最初から無理だったんだ。 あんたと一緒にいない優しさより、あんたと一緒にいる苦しみが何よりも心地いい。 そんな俺が、逃げれるわけなんて、なかったんだ。 俺は、自らが作り上げたこの狭い檻の中に囚われながら、愛しい姉を縛り続ける。 |