「ただいま」 いつものように、建て売り住宅の安っぽいプラスチックのドアを開けた。 小さな玄関には、母の趣味で大輪の百合の花が飾られている。 その甘ったるくてしつこい香りに、一瞬吐き気を覚えた。 「おかえり」 柔和な、通りのいい声が私を迎える。 下を向いていた顔を上げると、声と同じように柔和な顔がそこにあった。 近頃では、この顔を見るたびに、訳もない苛立ちを覚える。 同じもので出来ているとは思えない、綺麗な顔、優しい性格、出来のいい頭。 2つ年下の、私の家族。 無言で横を通り過ぎようとすると、柔らかい声がかけられた。 「今日は、遅かったね」 「あんたは早いじゃない」 「ああ、今日は部活がなかったから」 こいつは水泳部に所属している。 優秀な弟は、運動の才も秀でていて、一年にしてレギュラーを獲得しているらしい。 本当に、その完璧さにうんざりする。 「真衣ちゃんは?どっかで遊んできたの?珍しいね」 「あんたには関係ないでしょ」 邪険に言い捨てても、弟は怒りもせず肩をすくめた。 リビングに向かう後ろを、1人で話しながらついてくる。 背も、1年前に抜かされてしまった。 後は引き離されるばかりだ。 何一つ、こいつにかなうことはない。 リビングのソファに乱暴に座り込み、ブレザーを脱ぎ捨てた。 几帳面な弟は、それを拾い上げハンガーにかけている。 「お父さんとお母さんは?」 「遅いみたいよ」 「ふーん」 聞いてはみたものの、別に興味もない。 父と母が私には興味がないように、私も彼らに興味はない。 「ご飯食べてきた?」 「食べてない」 「そっか、炒飯作ったから食べる?」 無言で頷く。 弟は優しげに笑うと、エプロンをかけ厨房に向かった。 料理までできる。 本当によく出来た弟だ。 唇と眉がゆがんだのが分かった。 鼻歌交じりで夕飯の用意をする弟。 その姿を見ていると、私の苛立ちの原因がよみがえってきた。 「千尋は機嫌がいいんだね」 ソファにもたれかかって、こまめに働く弟に話しかける。 「そう?」 「新しい彼女が出来たから?」 弟、千尋はカウンターの向こうで顔を上げた。 二重の綺麗な目をパチパチと瞬かせ、驚いているようだ。 「あれ、どこで知ったの?」 「あんたは有名人だからね。すぐ耳にはいってくる」 「そっか」 そうして照れたように、困ったように笑った。 優秀な優秀な弟は、学校では有名人で、大変モテる。 彼女が切れたところは、中学校に上がってから見たことはなかった。 「伊藤ゆり、でしょ」 「よく知ってるなあ」 ポリポリと頬をかいて、目をそらす。 その嬉しそうな様子に、私の中の苛立ちが増す。 「あんな性格の悪い子、趣味悪い」 「性格悪いって……、ゆりはいい子だよ?」 ゆり。 すでに名前呼びなのか。 胸がざわざわして気持ち悪い。 吐き気をこらえるように、私はクッションを力いっぱい抱え込んだ。 「あの子、この前私の方睨んだ。すごい、むかつく」 「真衣ちゃん……」 眉を下げて、ちょっと情けない顔になる。 それでも怒ったりしない。 いつもの、ことだ。 「別れて。あんな子が家に来たり、お姉さんとか私のこと呼んだりしたら最悪」 「そんなことはしないだろうし、家には呼ばないよ?」 「とにかく嫌なの!別れて!」 私は小さい子のように、癇癪を起こして大きな声を上げる。 でも、弟と目を合わせていられなくて、顔をクッションに埋め込んだ。 柔らかな視線をうなじに感じる。 しばらくして、深い深いため息が聞こえた。 「まったく、真衣ちゃんはわがままだなあ」 悟ったような諦めたような、優しい声。 その中に、怒りとか苛立ちとか、そんな負の感情は感じられない。 いつものように、その言葉で弟はすべてを受け止めた。 弟の優先順位がまだ自分であることに安心を覚えた。 同時に、なんでも私の言う事を聞いてしまう千尋に、自分勝手な苛立ちを覚える。 いつだって、弟は「かわいそう」な私の言う事を聞いてしまう。 だから私は、ますますわがままになってしまう。 断ち切りたい連鎖。 このままでいたいという、無様な感情。 一度でも私に逆らったら。 自分の意志を優先してくれたら。 そうしたら終わりにしよう、とそう思っているのに。 千尋は私を甘やかし続ける。 勝手だと分かっている。 分かっているけれど、自分ではこの優しい手を手放せない。 弱い自分と、優しすぎる弟に。 私は苛立って仕方がなかった。 |