ゆっくりと意識が覚醒していく。 滑らかなシーツの感触。自分のものとは違うスプリングの効きすぎたベッド。 空調によって熱気は制御されているらしく、肌に触れる空気は涼しい。 右手だけが、温かかった。 優しく私の手を包み込む、大きなもの。 「ち、ひろ……?」 重たい瞼を持ち上げた。 差し込んでくる赤い光に、何度か目を閉じる。 「ぶっぶー、はっずれ」 けれど聞こえてきたのは、予想していたものより明るくてかすれた声。 その時の私が感じのものは、失望だったろうか、安堵だったろうか。 「ね…ぎ……?」 「あたり。いつでもどこでもあなたの根木君です」 ようやく光に目が慣れる。 ベッドの横に腰掛けて、手を握っていてくれたのは根木だった。 いつものように、フレームの下の細い目はどこか笑っている。 「何してんの、こんなとこで」 「何してるって、見て分かるでしょ」 「見てわかんないから聞いてるの」 「大事な彼女が気分悪くて寝てるから寄り添ってるんでしょー」 それで、ようやくここがどこか思い至る。 見上げた白い天井は赤く染まり、もう夕方であることを知らせる。 「ああ、保健室か……」 「そ、先生は職員会議とかでいなくなっちゃった。変なことしちゃだめよ、だって。でもこの状況はおいしすぎだよねー」 変わらず軽い調子で話す、明るい男。 顔をもう一度根木に戻すと、にこりと無邪気に笑いかえされる。 「……変なこと、すんの?」 「え、何それ、お誘い?うーん、迷うなあ。先生帰ってくるまでかー。うーん」 うんうんと1人うなる男は、相変わらず真剣に、ふざけている。 「でもさ、初めてはベイサイドの夜景が綺麗なホテルっていうわけじゃないけど、さすがにここはムードなさすぎだよね」 「そう……?」 分からない。 ベイサイドの夜景の綺麗なホテルってのは笑ってしまうけど、だからと言ってどこが変な事するのにふさわしい場所かというのは分からない。 「そりゃそうだよー。外は部活の暑っ苦しい声が聞こえて、いつ先生帰ってくるか分かんなくて、まあスリルがあるっていっちゃあるけど」 根木の左手が、そっと私のほうに伸びてきた。 自然な仕草で、指の背で私の目尻を拭う。 拭いきれなかった水滴が、こめかみを伝って枕に落ちた。 「相手はゲロくさくて、泣いてるし」 そう言って、おどけた仕草で指にこぼれた水滴を吸った。 声は相変わらず明るく、眼鏡の下はこちらを真っ直ぐに見ている。 「私、ゲロくさい?」 「微妙に」 「そっか」 「吐いたの?」 頷く。 そう、私は確か、トイレで吐いていた。 すべてを吐いて、それでも足りなくて。苦しくて苦しくて。 胸が痛くて、頭が痛くて、眼球が痛くて。 ふらふらと這い出たトイレの先で、根木の姿を見た気がする。 記憶はそこで、途切れていた。 「………根木が、ここまで運んでくれたの?」 「そ。感謝して。姫抱っこは無理だったけどね」 「そう、ありがとう………」 助けてくれたのは、いつもの優しい腕ではない。 目の前の、明るく朗らかな男の腕。 胸が引き絞られるように、痛みが走った。 「それでさ、清水さん」 根木の改まった声に、顔を上げると、こっちを真っ直ぐに真剣に見ている目と視線があった。 何よりもこの男の感情を写す、この目が好きだと思う。 「何?」 根木は私の手を、両手で包みなおす。 温かい手は、心地良かった。 「俺の子を産んでくれ」 「………ばーか」 相変わらず、真剣にふざけた男。 けれどそれが、私には嬉しかった。 こんな無様な姿を見ても、傍にいてくれる男が嬉しかった。 手に感じる温かな温もりが、心地よかった。 だからこそ、私は、根木に言わなければならない。 「ねえ、根木」 「何?もうつわりは平気?」 「大丈夫。私さ、あんたのこと好き」 沈黙。 いつもおちゃらけて明るい男の表情が固まった。 あまり動揺することのない根木のその驚きに、少し笑ってしまう。 そして続けた。 「私、自分に優しくしてくれる人間は好き」 「え?」 「多分、あんたじゃなくても、私に優しくしてくれる人間だったら、誰だって好きなんだと思う」 そっと目を伏せた。 これは本当のこと。 私は、根木が根木だから好きなのではない。 根木が優しくて、傍にいてくれるから好きなのだ。 昼、目の前の男の言葉に頷こうと思った。 それで、この男が傍にいてくれるなら。 自分の傍に、いてくれるなら。 すべて、自分勝手な望みだ。 千尋を縛り付けてきたように、私は私のために根木を縛ろうとした。 そのことを告げなければならないと思った。 この優しい男を、利用したくはなかった。 けれど、そのことを告げるのは、怖かった。 根木の顔が見れなくて、私は強く目を瞑る。 目を伏せたまま、先を続けた。 「私、昼にあんたの告白に頷こうと思った。それで、根木に傍にいて欲しかった。あんたが言うように、千尋から離れるのにも、それがいいと思った」 一つ息をついて、つばを飲み込む。 握られた手は、まだ放されない。 「でも、それって、千尋に依存しなくなる分、あんたに依存することなんだと思う。私は、誰かに傍にいてもらわなくちゃ耐えられなくて、それであんたを利用しようとした。あんたの気持ちを、利用しようとした。そんな下心があって、頷こうとした。私はきっと、あんたじゃなくてもよかった」 右手はまだ温かい。 目は開けられない。 眼鏡の下の好奇心に満ちた目が、軽蔑を浮かべているのを見たくなかった。 この男に、嫌われるのは怖かった。 でも、謝らなくてはならない。 男の気持ちに対して。 もう一度、息を吸って、吐く。 「それで?」 けれど、謝罪の言葉口にしようとした私の耳に入ってきたのは意外な言葉。 根木の明るい声に、私は思わず閉じていた目を開いた。 目尻に残っていた涙が、弾みでこぼれる。 根木の細い目は、いつも通りに好奇心をたたえていた。 「え?」 「いや、それがどうしたのかな、って?」 本当に、さも不思議そうに問う目の前の男。 「だから、その、悪かったな、て」 「悪いの?」 「え?」 「いや、普通でしょ、それ」 男のいうことが分からなくて、何度か瞬きをした。 根木は、楽しそうに、悪戯な小学生のように笑っている。 「下心あり、おっけーおっけー問題なっし!俺だって下心いっぱいだよ。あんなこととかそんなこととか隙あらばしようとしているし」 「でも、それは……」 「別に違くないよ。それに言ってみれば、俺だって清水を守ってやりたいとか、清水に笑って欲しい、とか勝手な自己満足だし。清水を守って、俺の優越感と男のプライドが満たされるわけよ。俺っていい男ー!みたいな偽善的な気持ちで悦にいるわけよ」 なんだか、違うような気がする。 根木の言う事は、私の感情とは、全く違う気がする。 けれど、口は挟めない。 「それに、清水は誰だっていいって言うけど、清水を気に入って清水に優しくして、清水が気に入ったのが俺。俺しかいなかった。他の誰も、清水に優しくしなかったし、清水に気に入られなかった。沢山いる中で、清水が好きで、清水に告っているのは俺だけ。優しくしてくれるから好き。それも全然問題なし。俺は好きな子には優しくしたい。それで俺を好きになってくれるなら需要と供給ばっちり。それで、清水も俺が好きなんだろ?」 頷く。 だんだん訳が分からなくなってきた。 根木が私を好きで、私も根木を好き。 優しくするのが好きな根木と、優しくされるのが好きな私。 私に優しくしてくれるのが根木だけだったから、私は根木と付き合う。 なんの問題もないのだろうか。 「それならいいじゃん。どんどん依存してよ。弟に依存するより、彼氏に依存した方が健康的でしょ」 首をひねる。 本当に、根木と話していると、自分の悩みがなんでもないように思えてくる。 私は、何を悩んでいたのか分からなくなってくる。 「でも……」 「ん?」 「でも、彼氏は他人でしょ。いつかいなくなっちゃう」 それは、とても怖い。 1人になるのは、嫌だ。 「じゃあ、弟はいつまでも一緒にいるの?」 その言葉に、頭を殴られた気がした。 『大嫌いだよ』 さっきの苦しさが、蘇ってくる。 喉元に、嗚咽がこみ上げる。 焦燥感と、空虚感に、叫びそうになる。 咄嗟に、空いている左手で口を押さえた。 吐き出せるものは、もうない。 引き攣った喉が、変な風に鳴った。 その時、右手が強く握り締められる。 温もりに、震えていた体が止まった。 「まあ、確かに永遠に一緒にいるよ、なんて約束はできないけどさ」 根木は私の動揺なんて気にしないように、明るい声で続ける。 けれど、細い目はまっすぐと真剣にこちらを見ていた。 「でもとりあえずは一緒にいるよ。俺はいきなりいなくなったりしない」 相変わらずのどこか突き放したような客観的な言葉。 だからこそ、信じられそうな言葉。 まだ苦しさは胸に残っているけれど、右手は温かい。 「……私、依存するよ。すごい、ウザイよ?」 「俺も割りと粘着質な方だから、重い愛は大歓迎」 「でも……」 「俺に頼ってよ。俺を利用して?俺は清水が好きなんだから」 そうして、無邪気に笑った。 その笑顔は、千尋の完璧な隙のないものとは違う。 どこか悪戯っぽく、子供のようだった。 そして、温かかった。 頼っても、いいのだろうか。 傍にいてくれるという、この男を利用してもいいのだろうか。 一緒に、いてくれるのだろうか。 悩んだのは一瞬。 男の細いくせに感情をよく映す目をみて、自然と言葉が口をついてでた。 「……じゃあ、傍にいて。急にいなくならないで。一緒にいて」 「勿論」 私の勝手な願いに、根木は自然に頷いた。 椅子から立ち上がり、ゆっくりと屈みこんでくる。 長い影が、白いシーツに落ちた。 覆いかぶさるようにして、額に柔らかな唇が落ちる。 「うーん、やっぱりゲロくさい」 男の軽口に、私も自然と肩の力が抜けた。 「ムードない」 「初めては昼にしといてよかったー」 相変わらずふざけた事を言う男に、口元が緩む。 「今度はちゃんとしようね。ムード作りして」 「ベイサイドの夜景の見えるホテルで?」 「いいねー、薔薇を敷き詰めたベッドで!」 「ばーか」 ひどい、とい言いながら、男は額と、頬と、そして唇に軽いキスを落とす。 優しくてくすぐったくて、今度は少し、ドキドキする。 根木も、嬉しそうに笑っている。 それが、私も嬉しい。 「あー、襲い掛かりたいんですけど」 「ムードない」 「若いから」 くすくすと、温かい笑いがお互いの間にこぼれる。 こんなにリラックスして、落ち着いた気分になれたのは、久しぶりの気がした。 近頃は、いつも何かに苛立っていた。 「私、あんたとやっていけたらいいな、と思う」 「やっていきましょうよ」 「千尋がいなくても、大丈夫かな」 きっと、何気に聡いこの男は気付いているだろう。 私がここに寝ている理由を。 弟と、何かがあったことを。 「大丈夫にしていこう」 「今までずっと、千尋がいたから、1人じゃなかった」 ベッドに覆いかぶさっていた根木が体を起こし、枕元に腰かける。 寝転んだままの私を見下ろして、眼鏡の下の目は真っ直ぐだった。 根木らしくなく、一瞬目をそらし何かを言いよどむ。 「根木?」 「それは、たぶん違うよ清水」 「え?」 「俺さっき超怖かったもん。マジ殺されるかと。あれはヤバい」 言っている意味が分からない。 「清水ってなんか1人占めして、頼らせたくなるんだよなあ」 男の要領を得ない言葉に、眉間に皺がよるのが分かる。 「何言ってんの、あんた?」 「まあ、逆に闘争心が煽られもするわけなんだが」 「だから何言ってんの!?」 短気な私は、ついに癇癪を起こす。 声を荒げて、根木を睨みつける。 根木はおどけた仕草で肩をすくめる。けれどやはり、表情は真剣だった。 「清水弟がいたから1人じゃなかった、じゃないよ」 堅い手のひらが、私の髪の毛を掻き揚げた。 「清水弟がいたから、1人だったんだ」 |