「くっそおお、あのドS悪魔、いつか見てろよ。絶対に叩きのめしてやる」 脳みその許容量を超える知識を詰め込まれて、すでに頭は飽和状態だ。 後はあの悪魔を罵る気力ぐらいしか残っていない。 脳裏でどうやってあの悪魔に復讐しようかと考えること、それが最近の唯一の私の楽しみだ。 ていうかこれくらいしか、息抜きがない。 とりあえずこの首輪が外れると同時にトイレにたたき落としてやる。 この世界のトイレは一応は水洗なのがちょっと残念だが。 どうせなら肥だめにあのお綺麗な顔をすりつけてやりたかった。 トイレは城の裏手に流れてるらしい川を利用して、絶えず水が流れている。 下水も完備されており、予想以上に全然清潔。 まあ、あの悪魔も流せばいずれは下水にたどりつくだろう。 絶対流してやる。 しかし、この夢の世界の文化レベルがいまいちよく分からない。 つたない知識にある中世ヨーロッパよりももう少し上かもしれない。 あの頃トイレって窓から捨ててたりしたらしいし。 よかった、本当に水洗でよかった。 食事も薄味で大味だが、悪くはない。 野菜も肉も素材の味が力強くて、どこか泥臭い。 繊細な味付けの日本で育った私には大味すぎるが、まあ、食べられないほどではない。 食事の感覚も日本と一緒で、三食に二回の間食つき。 そこまでなくてもいいんだが。 果物なんかは驚くほど新鮮だし、水やワインらしき酒もおいしい。 なんの肉だとかなんの野菜だとかなんの果物だとかは想像しないことにした。 一度ちらっと見えた肉の原型は…。 いや、私は何も見なかった。 あれは明らかにネズ……。 いや、私は何も見ていない。 石造りの10畳ほどの一室を与えられて、衣食住に困らない生活はしている。 むしろ部屋は私のワンルームよりも広い。 そして家具もぼろっちいが作りはいい。 それほどひどい扱いではない。 あの悪魔が朝から晩までつきっきりで精神的拷問を与えてくる以外には。 肉体も伴うか。 いい加減あの電撃にも慣れてきそうだ。 いや、決して慣れることはできないが。 少々困るのは風呂だ。 こちらに来て2週間、お風呂に入ったのは4回。 1週間に2回ほど入ればいいほうなようだ。 日本のように浴槽につかるものではなく、だだっ広いサウナなようなところで体を温めて垢を出してメイドさんに体を擦られて水をかぶせられた。 寒いし熱いし好きな時に入れないし知らない人に貧相な裸は見られるし。 これだけは本当に困る。 後は部屋で体を拭くぐらいだ。 幸い、今は熱くも寒くもない季節らしく、それほど汗臭くもならないが。 夏になったらどうするのか。 ていうかこっちの季節は日本と一緒なのか。 まあ、いい、深く考えるのはやめよう。 にしても、いつになったら夢は覚めるのか。 かれこれ二週間。 あの悪魔に対応するのに精一杯で、夜も泥のように眠るだけで何も考えられなかった。 ようやくあの悪魔の言葉がなんとなく耳に馴染んできて、みみずののったくったような落書きのじみた文字に見覚えが出てきた。 何が分からないかも分からない状態から一歩出ることができて、少しだけ心に余裕が出来る。 そうすると、ちょっとだけ考えてしまう。 家はどうなっているだろうか。 家賃は引き落としだからまだ大丈夫だとして、卵が腐っている気がする。 あ、この前買ったまぐろの刺身は確実にいっちゃってる。 冷蔵庫からの悪臭が部屋を充満している様子を思い浮かべてて、思わず顔をしかめた。 ああ、それより会社は大丈夫だろうか。 3日後までにまとめてくれって頼まれてた書類があった。 それに取引先に数字の確認もしなきゃいけなかったし。 発注数がおかしかったのよね、あれ。 また後輩のミスだろうか。 頭が痛い。 私がいない間、あの子たちはちゃんとできているだろうか。 ていうか2週間の不在って、もしかして失踪とか家出扱い? 家族に連絡が行っていたり? うわ、考えたくない! お父さんとお母さんが心配して警察に届けたりとか? うわ、無理。 この年で失踪とか、ほんと無理。 借金もないし失恋もしてないし、理由もないし。 なんで失踪したのか、なんて泣かれても、こっちが聞きたい。 あ、なんか考えるのが辛くなってきた。 よし、やめておこう。 大丈夫、夢はいつか覚める。 平気よ、覚める。 こういうファンタジーものは、確か何かが解決すればすべて元通りよ。 ナ○ニアだってそうだった。 大丈夫、全部全部元通り。 三十路女のスルースキルを舐めるんじゃないわよ。 嫌なことは考えない! よし、大丈夫。 私は眼を閉じて頭を強くふった。 もやもやとした不安を心の奥底に沈めこむ。 大丈夫大丈夫、なんともないなんともない。 『****************』 そこに、声が聞こえた。 つられて顔をあげる。 『*******************』 そこには、長身で野性的な不精髭を生やした男前の姿があった。 ハリウッド映画だったらアクションの、悪役か名脇役、そんな感じ。 主役を張るにはアクが強すぎる、そんなけれんみのある男前だ。 この人は見覚えがある。 えーと、誰だっけ。 ここに来て私が出会った人間なんて数えるほどだ。 あの悪魔と身の回りの世話をしてくれるメイド?のような人達。 えーと、この男は。 疲れきって回転の悪くなった頭をフル活動させる。 男は反応のない私に、なお何かを話しかけている。 この面白がっているような性格の悪そうな笑い方はどこかに記憶が。 ああ、そうだ、初日にあの部屋にいた3人のうちの一人だ。 『*********』 「なによ、何言ってんだか分かんないわよ」 慣れてきたと言っても、まだまだ何もわからない。 早口で喋られると未だにガッテンガッテンとか言ってるように聞こえる。 なにせ見たことも聞いたこともない言語だ。 想像すらつかない言語体系で、予想もつかない単語ばかり。 文法はかろうじて英語に似ているみたいで助かったけど。 『*****************』 もちろん私の言うことなんてわからず、男はそれでもなおも私に話しかける。 疲れきった私は楽しそうに私に話しかけるその様子にイライラとしてきた。 「うっさいわね!分かんないつってんでしょ!日本語で話せ、日本語で!」 絶対に出来ないと分かってはいても、ついそんなことを言ってしまう。 これくらいは許されるだろう。 未だ自分の身に降りかかった不幸が受け止めきれない私だ。 怒鳴りつけると、私が怒っているということに気付いたのか、男は眼を丸くする。 肩をすくめて顎の不精ひげを撫でるように顎をさする。 何かを思案しているようだ。 付き合ってられない。 さっさと目的を果たしにいこう。 『どこ、いく?』 男の脇をすり抜けようとすると、ふいにそんな単語が耳に入った。 私でもわかる単語だ。 思わず横にいた長身を見上げてしまう。 男は私と視線が合うと、目を細めて笑う。 40代ぐらいに見えるが、笑うと意外と若く見える。 かわいいじゃないか。 『どこ、いく?』 再度男はゆっくりと、私にも聞き取りやすいようにはっきりと話した。 大きな手で廊下の右左を指さし、ジェスチャー付きだ。 イライラとしていた気持ちは、少しだけ和らぐ。 イケメンっていうのは見ているだけで心安らぐものだ。 『どこ、いく、**********?』 男が再度問いかけてくる。 後半は聞き取れなかった。 少しだけ気分を良くした私は、だから答えてやろうと思った。 だが、単語が思い浮かばない。 習っただろうか。 習ってない気がする。 まあ、いいや。 分かる言葉で答えてやろう。 『酒』 男は眼を丸くする。 なんだろう、間違っていただろうか。 他に思いつく単語が分からない。 台所、も酒蔵もまだ習っていない気がする。 『酒?』 男が鸚鵡返しに繰り返す。 あってるのか、それともなんか違う単語だったのか。 分からないけど、まあ、いいや。 『酒』 『酒、どうした?』 『欲しい、酒』 そう、私の目的はこれだ。 まるで拷問のような辛く険しい日々、安らぎが欲しい。 少しでいい、心の潤いが欲しい。 僅かに余裕のできた私の心は、癒しを求めた。 そう、酒だ。 人類の友、酒。 あの魔法の飲み物は、きっとこのささくれだった心を少しばかり癒してくれることだろう。 夕食時にワインらしき果実酒は出るが、あんな1,2杯で足りるか。 酒。 浴びるように酒が飲みたい。 とりあえず全てを忘れていい気持になって、眠りたい。 こんな悪夢を一時でも忘れたい。 それで、本来なら就寝しているこの時間に私は城を彷徨っている。 部屋とトイレと風呂と、勉強でたまに移動させられる部屋の4,5つしか行き来していないため、道はさっぱりわからない。 そういえば、外も見ていない。 石造りの城以外みておらず、ここ最近外の天気も分からない。 あれ、これ立派な軟禁? 本当に私って、もしかしてひどい扱い受けてない? そんなことを考えつつ、思いついたら我慢できなかった。 道に迷おうがどうでもいい。 悪魔に怒られるかもしれないが、考えられなかった。 私は行く。 そこに酒があるなら。 悪魔かメイドさんに頼めばよかったと気づいたのは、見事に道に迷ってしばらくしてからだ。 途中何人か人には出会ったが、みんな私を見て見ぬふりだ。 咎められも助けられもしない。 遠巻きにひっそりとこっちを見ているばかり。 なんだ、私は珍獣か野獣とかそんな扱いなのか。 気分を悪くし、私はどんどん人気のないところに足を向けた。 そこで、この男に会ったのだ。 そういえば、悪魔以外で口を聞いたのは初めてかもしれない。 メイドさんはただ黙々と作業しているだけだし、こちらが話しかけても特に返さない。 まあ、言葉が分からないのもあるのだが。 男はもう一度聞いてくる。 『酒、欲しい?』 『欲しい!酒!!頂戴、酒!酒!』 私は精一杯訴える。 男は一瞬首を傾げる、そして耐えきれないように大声で笑い出した。 廊下に響き渡るような低く通りのいい美声。 笑い方は品がなくワイルドだけれど、それすらもこの人には似合いだ。 私が笑われているのだろうが、なぜかそこまで腹が立たない。 力強く笑う男に、私は思わず見とれてしまう。 あの悪魔の優しげな微笑みとは大違いだ。 しばらく笑って、ようやく落ち着くと男は手を私に差し出す。 笑いのかけらを顔にこびりつかせたまま、優しげに話しかけてくる。 『来い、酒、ある、***********』 『くれる?酒?』 『はい、*****************』 やっぱりいまいち聞き取りはできない。 思えば私は英語のヒアリングも苦手だった。 筆記はそこそこだったが、聞き取りはいつまでたってもだめだった。 しかし、とりあえず、この男についていけば酒はもらえるらしい。 他に当てもない。 それに、この男はあの悪魔よりも感じはよさそうだ。 わたしは男を信じて、その手を取った。 |