目をつぶっていても、自分が白い光に包まれているのが分かる。 どういう仕組みなのか、世界が、白い。 温かく、冷たく、そして柔らかい。 白いシーツに、包まれているような。 ゆらゆらと、意識が遠のいて行くような、不思議な感触。 『もっと強く、あなたの世界を思い浮かべて。扉を開きます』 遠くで、よく馴染んだ美声が聞こえてくる。 促されるまま、あの懐かしい世界を思い出す。 最初は狭くて耐えられなかったのに、いつのまにか住み慣れてしまった少し雑然としたワンルーム。 イライラしていることが多かったけど、なぜか落ち着く喧騒で満たされたオフィス。 多くの人がすれ違い、別れて行く雑踏。 排ガスまみれの、私の街。 帰ったら、まず何しよう。 まず白米よ。 焼き魚で、ご飯を食べて、沢庵ときゅうりの漬物で、アサリのお味噌汁。 ああ、最高。 狭いワンルームでごろごろして、お気に入りのミルクボウルでココアを飲もう。 それから美容室だ。 こんなプリンでパーマの落ちた髪とはさっさとおさらばよ。 少し気分を変えて切っていいかもしれない。 『扉が開いてきました。気をそらさないで』 部屋汚れてるかなあ。 冷蔵庫の中身、無事かしら。 て。 ちょっと待った。 私が帰るのって、やっぱり四か月後の、世界なわけ? ファンタジーなお約束で、消えたその日に帰るとか、そういうことになるかしら。 ならないかしら。 なんか、ならないぽいわよね。 なんとかならないかしら。 ならないような気がする。 となると、私の部屋、もしかしてもう誰か別の入居者とかいたりして。 そこにジャージ来た女が、転がってくるわけよね。 何その気まずい空気。 しかもそいつが恋人とかとベッドの中だったりしたらどうよ。 うわ、泣けてくる。 何そのコント。 泥棒とかの不審者どころの話じゃないわよね。 即病院行きレベルの不審ぷり。 そもそも、私四か月間行方不明だったわけよね。 失踪届とか、出されてるのかな。 まさか三十女が失踪したからって、テレビ放送とかはされてないと思うけど。 ああ、会社は絶対クビよね。 就活か。 いやすぎる。 景気は回復してるのかしら。 あのままの景気だったら、間違いなくプー一直線。 資格ほぼなし、三十女なんて、就職先、あるの? まあ、選ばなきゃなんかしらあると思うけど、間違いなく条件は悪化するわね。 絶望的。 『セツコ、気をそらさないで』 そうだ。 だめだめだめ。 ちゃんと、あの世界を思い浮かべて。 ネイル。 美容室。 マッサージ。 スイーツ。 うん、帰りたい。 帰りたいわ。 ああ、でも就職活動なんてしたくない。 世間の荒波に、もう揉まれたくない。 見合いして、結婚すればいいかしら。 でも今時専業主婦も難しいわよね。 ていうか、無職の三十女に、いい物件はあるかしら。 だめだ。 考えれば考えるほど、辛い現実が待ち受けている気がする。 どうしよう。 『セツコ』 分かってるわよ! えーと、あっちに帰りたい理由、帰りたい理由。 お父さん、お母さん。 会いたい。 ああ、でも怒られるんだろうなあ。 泣かれるのだろうか。 心配、してるよねえ。 ただいまーとか軽いノリで帰れないかしら。 帰れないわよねえ。 縁とか切られたらどうしよう。 近所の目も、痛い。 いや心配してるんだから、帰れなきゃ。 きっと心配している。 でも、ちょっと待って。 こっちにいたら、少なくとも衣食住は保障されている訳よね。 仕事もあるし、友達もできたし。 何より権力者の知り合いよ。 しかも最高権力者。 むしろ勝ち組じゃない? うまくミカに取り入れば、老後まで安泰じゃない? 『セツコ』 分かってる。 帰りたい。 帰りたいのよ。 就活。 婚活。 好奇の目。 噂。 人生終わり。 だめだ、現実と向き合いたくない。 現実から逃げてしまいたい。 むしろ、こっちの世界の方が、生きやすいんじゃないかな。 苦労したくない。 楽したい。 将来の保障がほしい。 こっちでも、もういいんじゃないかなあ、とか。 パチン!! 何かがはじけた音がして、ふわふわとしていた思考がいきなり引き戻される。 白いシーツを、無理矢理はがされた。 寒いところに突然放り出されたような心細さ。 頭を思いきり殴られたような衝撃を受けて、目を開ける。 『あ………』 そこには、変わらない景色。 石造りの小さな部屋。 そして、こちらを見つめる十対の目。 驚いたように眼を開いている、アルノとエリアス。 不安げに顔を曇らせるエミリア。 面白そうににやついているミカ。 そして不機嫌そうに眉を顰めるネストリ。 『………今回は私の責任じゃありませんよ』 深くため息をついて、冷たい目で見下ろされる。 目が合わせられず私は座り込んだまま、俯いた。 分かってる。 分かってるわよ。 いや、大元の責任はあんたにあるのよ。 あんたがこんな世界に連れてこなければ、こんなことにはならなかったんだから。 後悔と悔しさで、握りこぶしを握る。 ふつふつと、熱い感情が生まれてくる。 『人間ってのはね………』 ああ、もう本当に。 どうしていっつも、こうなるのよ。 何度後悔しても、なおりゃしない。 でも、それもしょうがない。 顔をあげて、呆れたように私を見下ろす悪魔を睨みつける。 『そう簡単に覚悟なんて決められないのよ!迷って当然でしょ!逃げて悪いか馬鹿野郎!!!!』 私の心からの叫びが、狭い部屋に響きわたった。 鴨宮世津子、三十一歳。 異世界ツアー、続行決定。 |