「世津子、まだ寝てるの、早く起きなさい」
「ん」

パタパタとまわりで忙しく動き回る音がする。
もうちょっと寝かしてほしい。
疲れてるんだ、たまの休みぐらい寝かせてくれ。

「うー、もうちょっと寝かして、お母さん」
「あんたはもう、またこんなに部屋を散らかして。いい年して子供みたいなんだから。しっかりしなさい。だから嫁き遅れるのよ」

うるさい、それが今関係あるのか。
あるか。
いや、でも今そんなこと言わないでもいいじゃないか。

「世津子はまだ寝てるのか?進達がこっち来るって言ってるんだが」

お父さんも勝手に私の部屋に入ってきてる。
年頃、でもないけど、うら若い娘、でもないけど、まあ、娘の部屋に勝手に入るなよ。
まあいいか。
見られて恥ずかしがって逆ギレする思春期なんて遠く過ぎ去ってしまった。
それよりもうちょっと寝かしてほしい。

「あら、本当?ごはん作らなきゃ。ほら、世津子も起きなさい」

進が来るのかあ。
一家で来るのかな。
またあの幸せ風景を見せられて、それに比べてお姉ちゃんはとか言われるのは勘弁してほしい。
軽く死にたくなる。

実家帰って来ない方がよかったかなあ。
でもまあ、休みぐらいはな。
たまにはお父さんとお母さんと、ついでに進たちの顔も見たいし。
休み。

何休みなんだっけ。
なんで、私実家で寝てるんだっけ。

「ほら、世津子起きて」
「世津子、久々に飲みに行くか」

お母さん、お父さん。
懐かしい。
懐かしい声。
とっても久しぶりに聞いた気がする。
そうだ、すごく、久しぶりだ。
前は一月に一回ぐらい、電話してたのに。
最近、聞いてない。
顔が見たい。
見たい。
会いたい。

「お母さん、お父さん………?」

目を開いて、布団をはぐ。
けれど、そこに二人はいなかった。
ただベッドがあるだけの、石造りの粗末な部屋だった。
石。
石造りの家なんて、日本にめったにない。
少なくとも、うちは、こんな家じゃない。
お父さんが頑張って買った30年ローンの狭い建売住宅だ。

「お母さん、お父さん!お母さん、どこ!」

慌ててベッドから飛び出して、隅にあるこれまた粗末な木のドアに飛びつく。
ドアは、私が開く前に、向こう側から開いた。
現れたのは明るい金髪の髪の、蛇のような嫌らしい目をした男。

「………っ」
「ここで何してるんだ、女」

いやいやいやいやいや。
違う違う違う違う。

「正直に言え。殺すぞ」

体がすくんで動かない。
声が喉に絡まって出てこない。
逃げ出すことができないまま、男が私の腕をつかむ。

「ひっ」

いやだいやだいやだ。
もう痛いのも怖いのもいやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
お父さんお母さん助けて。
助けて。

「来い。指から切り落としてやる」
「あああああ!きゃあああ!」

ようやく悲鳴が出てきた。
でも腕を放してくれない。
いやだいやだいやだ。
いやだ。

死ね死ね死ね死ね。
こんな奴死んでしまえ。
そうだ、お前は死んだはずだ。
血まみれになってみっともなく死んだはずだ。
とっとと死ね。
消えろ。
私の目の前から消え失せろ。

「があっ」

その瞬間、男のお腹が思いきり裂け、血が溢れだした。
私の全身に、男の血が降りかかる。
生臭い匂いが、あたりに充満する。

「きゃ、あああああああああ!!!」

男が苦悶の表情を浮かべ、血まみれのまま床に倒れこむ。
私の腕はつかんだまま。
私の腕ももう、血に染まって真っ赤だ。

「あなたが、殺したんですか?」

その時静かな声が部屋に響いた。
気が付けば男が入ってきたドアの向こうに、ネストリが立っていた。
私の手も体も顔も、すべてが血まみれだ。
男は、お腹の中身をぶちまけて、床に倒れている。

「わ、わた、私じゃないっ!私じゃない!私は何もしてない!」
「ここにいても無為な人間が、人を殺したんですか?」

私じゃない。
私が殺したんじゃない。
カテリナだ。
あの女が殺したんだ。
私が殺したんじゃない。
私は、人殺しなんてしてない。

「あなたは、別にこの世界で必要な人間じゃないのに」

私が殺したんじゃない。
死にたくなかっただけ。
痛いのがいやだっただけ。
怖いのがいやだっただけ。

私じゃない。
私じゃない。
私じゃない。

私は、悪くない。

「あなたは、いてもいなくても同じ存在なんですよ」

ネストリがにっこりと天使のように微笑む。
うるさい。
そんなの分かってる。
私はこの世界に必要な人間じゃない。
だってこの世界の人間じゃないもの。

でも、あっちの世界で、私は必要だった?
お父さんとお母さんは、私を愛してくれてた。
それは、分かる。
友達もいた。
同僚も上司も、それなりに仲がよかった。
でも、私がいなくなって、あの世界に何か影響が出ただろうか。

私は、あの世界に、必要とされていた?



***




目覚めたとき、あたりは真っ暗だった。
窓すらない部屋は、ドアの隙間から漏れるわずかな明かりでぼんやりとあたりの様子が分かる。
誰もいない。
誰もいない、部屋。

「ひっ、く、う」

涙がぼろぼろと溢れてきて、嗚咽が漏れる。
軋む体を起こして、ベッドの上に座り込む。

「う………」

暗闇の中見た手は汗で少しだけ湿っていたが、どろどろとした液体はついてなかった。
そのことに少しだけほっとする。
腫れた頬を拭っても拭っても、後から後から涙が溢れてきて濡れてしまう。
心にぽっかりと穴が空いている。
悲しい、悲しい、切ない、むなしい、寂しい。

「ひいぅ、く」

寂しい寂しい寂しい。
誰か、私を必要として。
傍にいて。
慰めて。
私を、置いていかないで。
誰か。
誰か、会いたい。

「………アルノ」

脳裏に浮かぶのは深い皺の刻まれた優しい笑顔、穏やかな優しい声。
会いたい会いたい会いたい。
慰めてほしい、頭を撫でてほしい、大丈夫って言ってほしい。
私に、優しくしてほしい。

「アルノ、アルノ」

暗闇の中、なんとか用意された木の長い杖をつかんで、ベッドから降りる。
痛み止めの術のせいか痛みはぼんやりとしているが、足も手もうまく動かない。
ずるずると、体を引きずるようにして、ドアを目指す。
部屋から出るまでに随分時間がかかって、汗を掻いてしまった。
でも、立ち止まる気にはなれなかった。

「セツコ様、トイレですか?」

ドアを開くと、廊下に控えていたらしいティモと、もう二人、顔だけ知ってる兵士が立っていた。
ティモが無表情に近寄ってきて、体を支えてくれる。

「アルノ、アルノ、どこ」
「アルノ様だったら、部屋においでになると思いますが」

アルノの部屋なら、知っている。
なら、そこに行けばいい。
またずるずると杖と体を引きずって、歩き始める。

「セツコ様。どこに行かれるんですか?」
「アルノに会いたい」

ティモが前に回ってきて、また体を支える。
腕を肩を掴むから、先に進めなくなってしまった。
邪魔しないでほしい。

「お体に****ですよ。アルノ様もお休みかと」
「アルノに、会いたいの!邪魔!」
「………」

ティモは不思議そうに首を傾げて、私の顔をじっと見る。
手は放してくれない。
本当に邪魔だ。

「放して!」
「失礼します」
「わっ」

手を振り払おうとすると、その前に体がふわりと浮かび上がる。
驚いて手をバタバタとして杖を取り落してしまう。

「お連れいたします」
「………」

気が付けば、ティモの腕の中にいた。
私は決してまったく軽くないのに、重さを感じさせないぐらい軽々と持ち上げられている。
ティモは床に落ちた杖を、器用に立っていた兵士の方に蹴り上げる。
兵士が慌ててそれをキャッチするのを見届けて、すたすたと歩き始めた。

「………え、と」

ていうか、姫抱っこされている。
これは姫抱っこか。
うわ、私の人生の中でこんなことされる日が来るとは思わなかった。
あれ、ミカにされたことあったっけ。
俵みたいに抱えられたのは覚えてるけど、こんな風に抱っこされた覚えはない。
あったっけ。
まあ、どうでもいいや。

「泣いてたんですか?」
「あ」

ティモが私の肩を抱いている方の手で、頬をそっと撫でる。
私を見下ろす灰色の目に、ふいにドキリと心臓が跳ね上がった。

「ちょっと捕まっててもらえますか」
「え」

ティモが手を動かすので落ちそうになって慌ててその太い首に抱き着いた。
たくましい、筋肉のしっかりとした肩の盛り上がりを感じる。
うわ、なんか、本当にドキドキしてきた。

「どうぞ」

ティモが懐から茶色の布を取り出して、私の上に乗せる。
これで涙を拭けということか。
なんだ、この人、すごい紳士なのか。
やばい、久々に、すごい嬉しい。
私、アルノとエリアス以来、久々に人間扱いされてる。

「あ、ありがとう」

この人、結構イケメンだし、年も近そうだし、無表情だけど優しいし、実はすごくお買い得物件なんじゃないか。
いいよ、いい。
ドキドキしながら、貰った布で顔を拭おうとした。
でも、寸前で手が止まってしまう。

「………臭い?」
「ああ、そういえば随分前から持ってますね。汗拭きに使ってたんで」
「おい」

そういうものを女性に渡すな。
いや、ほら、体育会系みたいだし、たぶん、こういうの慣れてないのよ。
うん。
そういうところも純朴そうでいいじゃないか。

「目の周りも腫れてるので、泣くと治りが遅くなりますよ」
「腫れてる、の?」
「はい、パーチのように」

パーチってなんだ。
いや、でもほら、私を気遣ってくれている。
やっぱりすごい優しいのだ。
うん、いい。

「………傷、残るかな」

まだ、怖くて鏡を見ていない。
手で触れた感触ではかなり腫れていて、きっとひどいことになってる。
もともとそんな見目がいい訳じゃない。
人間、視覚情報がなんだかんだいって重要だ。
ますますひどいことになってたら、どうしよう。

「機能には問題ないですし、平気ですよ」

不安からもらした言葉に、ティモはあっさりとそう言った。

「目はありますし、耳も口もついてます。よかったですね」

ああ、うん、やっぱ駄目だ。
さよなら、私の一時のときめき。

「ティモ、あなた、もっと言葉選ぶ、いい」
「え、はい?」
「………」

やっぱり私にはアルノしかいない。



***




「アルノ」

まだ起きていたらしいアルノは、ノックに答えて迎え入れてくれた。
ランプが照らす部屋の中を覗き込むと、アルノは予想通りにこりと優しく笑う。

「セツコ、こんな時間にどうしたんだい?」

夜に訪れてもまったく嫌な顔を一つしない。
その顔を見ただけで、声を聞いただけで、心がふわりふわりと温かくなっていく。

「怖い夢、見た。怖いの。一緒にいていい?」

アルノは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いてくれた。

「勿論だ」

ティモが私をアルノのベッドにそっと下してくれる。
アルノはまだ仕事をしていたらしく、テーブルの上には書類らしきものが散らばっている。

「ごめんね、仕事、邪魔して」
「構わないよ、私もちょうど休もうと思っていたところだ」

そう言いながらアルノは書類を片付ける。
こんな風に私を優先してくれちゃうから、あんまり邪魔したくはなかったんだけど。
でも、今日は、一人でいるのは怖かった。

「ティモ=ユハニ、誰かにお茶を用意するように言ってもらえるかい」
「はい、かしこまりました」
「それと、君はもう休んでいいよ」
「いいんですか?」
「ああ。セツコを見ていてくれてありがとう」
「いえ、では下がらせていただきます」

ティモは頭を下げて、すたすたと去っていった。
本当に見た目も悪くないし、優しいし、頼もしいんだけど。

「ティモ=ユハニは失礼なことはしてないか?」
「あー、うん」

微妙なところだ。
その後、メイドさんが持ってきたお茶を飲んでぽつりぽつりと会話しているうちに、夢の恐怖はすっかり薄れたきた。
眠くなってあくびをすると、アルノがふっと微笑んだ。

「さあ、セツコはもう少し休んだ方がいい。私はここにいるから眠りなさい」

アルノがベッドにやってきて、そっと布団を開き寝かしつけてくれる。
優しい優しい濃いグリーンの目が、私を見つめている。
それだけで、眠気がどんどん襲ってくる。

「………アルノは、どこで寝るの?」

でもここで寝たら、アルノが寝る場所がなくなってしまう。
アルノはもうそれなりに年だし、ゆっくりと休んでほしい。
腰とか痛めたら大変だ。

「私はここで君を見ているよ」
「………一緒に寝よ」
「は?」

さすがに面食らったようで、目を白黒させている。
そんなアルノはあまり見ないから、思わずちょっと笑ってしまった。

「怖い。一緒にいて」
「子供のようなことを言う」
「だって、怖い」
「君は子供じゃなくて、立派な女性だ。そういう慎みのない真似はよくないよ」

アルノは困ったように眉を寄せて、私の頭を撫でてくれる。
子供じゃないと言いながら、扱いはまるで子供だ。
だから私も、つい子供っぽく、アルノの袖をひいてしまう。

「いいから!一緒に寝よ!」

いい年した女が何やってるんだと、ちらりと理性では思わないでもない。
でも、アルノには全開で甘えてしまう。
アルノの前では、なんだか少女時代に戻った気分になる。
冷静に見たら結構痛い行動だが、アルノは何も言わないからいいだろう。

「………お願い」

もう一度袖をひいておねだりすると、アルノはふっとため息をついて苦笑する。
そして諦めたように言った。

「今日だけだよ」
「ありがとう!」

喜んで礼を言うと、もう一度ため息をついて、隣に入ってきてくれた。
アルノの匂いがするベッドで、その薄い胸に頬をこすりつける。

「まったく、本当に君は子供のようだね」
「うふふ」

苦笑しながらも、私の頭を撫でて抱き寄せる。
アルノだって老けては見えるが十分現役世代の立派な男性だし、私だって女だ。
ちらりとそういうことを考えないでもないが、でもそれ以上に今はただ甘えていたかった。
アルノも、まるっきり子供扱いで、そういう気はないらしい。
でも今は、それでいい。

「アルノの隣が、一番安心する」
「光栄だね。君に安心と眠りを与えられるなら、それだけで私がここにいる意味がある」

アルノの傍にいれば、大丈夫だと思える。
強さとかで言えば、ミカやネストリやエリアスの方がずっと強いんだろうけど。
アルノ、私でも倒せそうだし。
でも、一番安心するのは、アルノだ。

「あのね、怖かった」
「怖い思いをさせてすまない。まったく、カテリナは陛下にそっくりだ」
「………」
「陛下もカテリナも、国の統治者としてみれば、正しい判断だ。だが、だからといって、**を見捨てていいものではない。犠牲になるのは、いつだって弱者だ」

アルノが苦々しく吐き出すように言う。
いつもミカを叱ってはいるけど、そんな風に言うのは初めてだ。

「アルノ」
「本当に、あの人たちには困ったものだ」

アルノはふうっともう一度ため息をついて、疲れたように笑った。
そしてまた、私の頭を撫でてくれる。

「懐かしいな」
「え?」

アルノは目を細めて、遠いどこかを見る。
声も、いつも以上にずっと優しい。

「昔、娘ともこうして一緒に寝たよ。君のように怖い夢を見たといって、枕を持ってきた」

胸が痛くなるぐらいに、優しい笑顔。
切ない声。

「娘さん、は」
「もう随分前に、いなくなってしまったけどね」

この人の、痛みを癒したい。
優しくしたい。
辛い思いなんてさせたくない。
この優しい人に、そんな顔をさせたくない。
急に浮かんできた、熱くて、でも優しくて、苦しい思い。

「アルノ、大好きよ」

ぎゅっと抱き着いて、顔をもっとこすりつける。
アルノも背中を引き寄せて、額にキスしてくれた。

「私もだよ、セツコ。君が大好きだよ」
「本当に本当に、大好き。いっぱい大好き」
「ありがとう」

ああ、私は、この人にとって、必要な人になりたい。
この人のためになる人間に、なりたい。

そう、思った。





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