マリカは厨でもらったお菓子が乗ったお盆を手に、廊下を歩いていた。
細い手足には包帯が巻かれ痛々しいが、白い頬は赤く染まって生き生きとしている。
その足取りは弾むように軽く、鼻歌でも歌いそうな上機嫌は、辺りに人がいたら誰でもわかっただろう。

「ごきげんよう、マリカ」

不意にかけられた声に、マリカは驚いて飛び上がる。
人気のない廊下で、完全に気配はなかった。

「だ、誰!」
「驚かせてしまった?ごめんなさい」

声の主は廊下の柱の陰に隠れるように、ひっそりと立っていた。
現れてみると、途端にその存在感はその場を圧倒する。
長身で冷たい印象のブラウンの髪の美女。
それはこの国の王位継承権第二位の女性だった。

「か、カテリナ殿下。し、失礼しました」

マリカは慌てて身を引いて頭を下げる。
カテリナはにっこりと笑い、穏やかな声で首を横に振る。

「いいのよ、楽にして」
「は、はい」

低く澄んだ声と優雅な仕草。
その姿は、高貴な麗人以外の何者でもない。
けれど彼女は政治家としての見識と手腕、そして武人としての頭脳と強さを評価されている文武両道の王家の人間だ。

カテリナは、国中から絶大な支持を集めるオラヴィ王家の中でも特異な存在だ。
冷酷で人を人とも思わない非道な王女とも言われている。
けれど戦に外交にと、彼女の国への貢献は確か。
彼女が指揮を執ると、最初はどんなに無茶な作戦だと思われても、結果として最善に終わっていたりする。
カテリナ自身周りの声など気にせずふるまうため、ますます評価は分かれる。
一部熱狂的な信奉者がいたり、蛇蝎のごとく嫌う人間もいる。
ただ、間違いなく敵対する勢力からは、その一切の容赦のない苛烈な攻撃により、下手したら王であるミカよりも憎悪の対象になっている。

カヤーニの魔女。
敬意と多大な畏怖をもって、そう呼ばれている。

「怪我は平気?」
「え、えっと。おかげさまで………」

マリカはなんとか礼儀正しく振舞おうと、うまくない敬語を扱おうとする。
幼いころ近所に住んでいた老人から多少の言葉を教えてもらったため、貧民街で生まれ育った割には綺麗な言葉は使える。
けれど、王家の人間に対して正しい言葉使いができるかと言われれば、勿論無理だ。
恐縮して畏まるマリカを見て、カテリナはくすくすと笑う。

「率直に話してくれていいわ。国元にいる時ぐらいは、回りくどい話はしたくないもの」

そんなことを言われても相手は王家の人間だ。
マリカは少しだけ迷ったが、カテリナは畏まる自分を見るためにこんなところで待っていたわけではないと理解し口を開く。

「えっと、はい、見た目はこんなですけど、もうあまり痛くないんです。十分手当してもらいましたし」
「そう、よかったわ。早く助けられなくてごめんなさい」
「いいえ。助かるとは思ってませんでしたし、すごく幸運でした」

その言葉は本心だった。
まさかカテリナに助けられるなんて、想像すらもしなかった。
今回のことは大いなる幸運だった。
通常だったら貧民街で三つの死体が見つかり、しぶしぶ誰かが片付け、すぐに忘れ去る。
どこにでもある小さな話、それで終わるはずだったのだから。
貧民街でずっとそれを見てきたマリカは、身に染みて理解している。

「そう言ってもらえるとありがたいわ。そうそう、あの家にいたマーリスの人間は二人は死んだ。一人は生け捕ってあるけど、見たいかしら?ちょっと見た目は汚くて、あんまりおしゃべりが出来ないけど」

カテリナの言葉にマリカは、今度は考えずに首を横にふった。
別に、家を襲った人間たちへの復讐心も興味もない。

「いいえ。必要でしたら会いますが、必要ないようでしたら特に会いたくないです」
「そう」

要点を言葉少なに話すマリカに、カテリナは満足げに頷く。

「家は借家のようだから、荷物だけ引き上げて大家に返したけどいいかしら」
「あ、何から何まで申し訳ありません!ありがとうございます」
「いいえ。生家を勝手にしてしまってごめんなさい」
「………いいえ」

マリカは自嘲するように唇を歪めて笑う。
あんな家、燃やしてしまっても構わなかった。
あそこには大事なものなど、何一つなかった。

「マーリスの死んでいた一人はあなたがやったのでしょう?急所に一刺し。見事だったわ」

カテリナは俯くマリカには気づかないように、明るい声で言った。
思いもよらない褒め言葉にマリカは首を横に振る。

「ぐ、偶然です」
「それでもためらいのない綺麗な傷口だったわ。素敵」
「あ、ありがとうございます」

殺人の腕がうまいというのはいいことなのかは分からない。
たまに炊き出しをしてくれるから通っていた教会の教師様は人を傷つけてはいけないと言っていた。
この戦時中に、夢物語を通り越して滑稽ですらあるけれど。
人を殺めたことを、後悔はしていない。
けれどだからといって褒められるのも、違う気がする。

「三人も大変だったでしょう?」
「………」

マリカの顔色が一気に白くなる。
唇が小さく震える。

「責めてるんじゃないのよ?ゴミが三つもいなくなって、街も綺麗になったわ」
「………」

カテリナはマリカの顔を見ながら、相変わらずにこにこと笑っている。
細く小さな少女は、拳を握り締め、床に視線を落とす。

「マーリスの三人があなたの家を拠点にしたのって、あなた達のお客様だったからかしら?」

カテリナの質問は、ただの確認だった。
全て、知っているのだろう。
身元も分からない人間を、城に連れてくるはずもない。
そして、試しているのだろう。
マリカは諦めと共に、俯いたまま小さく頷いた。

「そう、分かったわ。ありがとう」

何が分かったのだろうと、マリカは冷えた気持ちのまま思った。
別に罰せられるのは構わない。
でも、できれば城から去りたくはなかった。

「ねえ、私のもとへ来ない?」
「え」

何を言われるのだろうと断罪を待っていたマリカに振ってきたのはそんな予想もしない言葉だった。
思わず顔を上げると、カテリナは変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど薄茶の瞳は、面白がる色を映している。

「あなたは強くなりそう。私、使える人間が欲しいの。集めても集めても足りない。まだまだ足りないわ。少しでも見込みがあるなら勧誘して回ってるんだけど、芳しくなくて」

カテリナの白く長い指を持つ、けれどタコによって硬くなった手がマリカの頬をそっと撫でる。
甘く囁かれる言葉を聴いていると、酩酊してしまいそうだ。

「行動力、決断力、ためらわなさ。どれをとっても、伸びる要素があるわ。使える駒になりそう。使える駒は好きなの。ああ、もちろん使えなくてもそれなりに使うから大丈夫よ。捨てたりしない。どんな駒でも使い道はあるもの」
「………」
「どう、私のところに来ない?」

カテリナの指がマリカの唇をなぞり、ひいていく。
マリカは呆然としてカテリナを見つめながら、ただ一つだけ問い返した。

「………私なんて、信用できるんですか」
「信用なんてしてないわ。裏切られることも想定して、更に先を読むのが楽しいでしょう?」

カヤーニの魔女。
そう言われている理由が、マリカにはなんとなく分かった気がした。
ヴァロやピメウスの実力もそうだが、甘く囁かれる言葉は、それ自体に魔力が宿っているようだ。
黙り込んだマリカに、カテリナが小さく首を傾げる。

「気分を害したかしら?」

マリカはその言葉に、小さく笑って首を横に振る。

「いいえ、全然。すいません、失礼なことを言っていいですか?」
「いいわ」

カテリナはあっさりと頷いた。
昔の貴族だったら貧民層の小汚い子供なんて、話しかけるだけで罰せられただろう。
マリカが物心ついた頃にはすでにミカによって旧支配層は一掃されていたが、それでも特権階級の怖さは知っている。
けれど、カテリナは今、それを気にすることはないということは、なんとなく理解していた。

「カテリナ殿下のお言葉は、とても率直で、気持ちがいいです」
「あら、そうなの?あなたは変わってるわね。いつもこれで皆に怒られるの」
「いいえ、私は綺麗な言葉は嫌いです。綺麗な言葉は、汚い感情を隠してるから」

マリカは幼くつたない言葉で、けれど自分の思いを形にして伝える。
カテリナは面白そうに、その薄茶の目でじっとマリカを観察している。

「そんな風に正直に言ってくれた方が、私は嬉しいです。それに、見込みがあるって言ってくれて、嬉しいです。認めてくれて、嬉しいです」
「じゃあ、一緒に来てくれる?」

カテリナの言葉に、マリカは困ったように笑って、けれど首を横に振った。

「申し訳ありません。もし許されるならば、辞退させてください」
「あら、どうして?」
「………私は、あそこで死んでもよかったんです。死ぬつもりでした。もう、どうでもよかったんです。どうせ、うまく生き延びても罪に問われるか、マーリスの人たちのもとへ行くだけです。そのどちらも、嫌でした。もう人の好きにされるのは、嫌でした。私は自分で行くところを選びたかった」

意思を無視され続ける日々。
意見は暴言によって、抵抗は暴力によって、全て封じられてきた。
息をしながら、死んでいた。
地獄のような日々を、ただ毎日、今日は少しは平穏であるようにと祈ることしかできなかった。

「だから、死にたかったんです。行く先が冥界でも、私は構わなかった。それが自分で選んだことなら。だからあの人たちに抵抗をした」

そうしたら、殺してくれると思った。
正直、本当は人を助けるなんて、どうでもよかった。
ただ、楽になりたかった。

「でも」

マリカはそこで、ふっと表情を緩めた。
記憶を愛おしむように、目を細める。

「でも、助けてくれたんです」

その言葉には、温かな響きが籠っていた。
嬉しそうに微笑んで、カテリナを見上げる。

「セツコ様は、私を助けてくれたんです。自分も危ない状況なのに、逃げてって言ったのに、帰ってきてくれて、助けてくれて、最後までかばってくれて………」

大丈夫か、と聞いてくれたのを覚えている。
震える声で、逃げようと言ってくれたのを覚えている。
泣きながら覆いかぶさってくれた時の温かさを覚えている。

「私、守ってもらったの、初めてでした。心配されたのも、庇ってもらったのも、初めてでした」

そして、空いた左手で、胸元を抑える。

「私はセツコ様に、この命をもらいました。だから、私の命はセツコ様のものです。どうせ捨てるはずだった命です。あの人のためだったら使っても惜しくないです」

あそこでどうせ、尽きていたはずの命だった。
捨てかけていた命を、拾ってもらった。
だったら、この命は拾った人間のものだ。

「私が自分で、決めたことです。自分が選んだ道です。もし許されるなら、私はあの人の傍にいたい」

マリカはまっすぐにカテリナを見つめ、はっきりと告げた。
不敬だとして罰せられても、これだけは譲れなかった。
決めたのだ。
何も持たない自分が、ただ一つ持つべきものを。
カテリナは怒る様子は見せず悪戯っぽく笑う。

「彼女は、あなたが思うような聖人ではないかもしれないわよ?」
「ふふ、聖人ではないと思います」

マリカは思わず小さく笑ってしまう。
一緒に過ごしたこの短い間で、思ったよりも行儀が悪いことも、口が悪いことも、優しくないことも知った。
あの時、自分を置いて逃げようかと迷ったことも分かっている、庇おうとしたときに少し時間がかかったのも分かっている、

「でも、そんなこと関係ない。私は彼女に助けられた。それが何より大事で、全てです」

それでも帰ってきてくれた。
それでも庇ってくれた。
それでも守ってくれた。
セツコが弱ければ弱いほど、それはどれだけ勇気のいることだっただろう。
マリカの中で大事なものは、それだけ。

「そう、残念。ふられてしまったわ」

カテリナは本当に残念そうにふうっとため息をついた。

「ありがとうございます。たとえ冗談だとしても、とても嬉しかったです」
「あら、本気よ。ふられた人間に嬉しいって言われてもねえ。まあ、ふられたなら潔く退散するわ」

特にカテリナの気分は害さなかったようで、マリカは安堵して肩の力を抜く。
どんなに友好的に話してくれていても、身分の高い人間に、これほど好き勝手言ってしまったのだ。
何をされても、文句は言えない。

「ああ、でも」
「は、はい!」

逆接の接続詞が続いて、安心していた分だけ驚いて飛び上がる。
けれどカテリナは相変わらず笑顔だった。

「セツコ付きだったとしても、強くなっておいても損はないわよね。マリカ、強くなりたい?」
「え、は、はい。強くはなりたいです」

突然の問いかけに、マリカはこくこくと頷く。
強くはなりたい。
もう自分の意思を好き勝手に無視されたくない。
それに大事な人を守りたい。

「じゃあ、ティモ=ユハニやマスターに言っておくわ。あなたに一定の教育が受けられるように」
「………え」
「強くなって気持ちが変わったら私のところに来て頂戴。いつでも歓迎するわ」

ようやくカテリナが言った意味が分かって、マリカは顔を輝かせた。

「あ、ありがとうございます!」
「ふふ、先行投資って大事よね。ちゃんと使える駒になってね」

くすくすと笑いながらそんなことを言うカテリナに、マリカは困ったように笑う。

「………カテリナ殿下はわざと自分を悪く見せているようです」
「あら、知らなかった?私とてもいい人なのよ」
「ええ、私はあなたにも助けられました。その事実だけで、私にとってはカテリナ殿下はとても優しく素晴らしい人です。なんて、偉そうに申し訳ありません」

マリカはまっすぐに薄茶の目を見つめて言う。
するとカテリナは、初めて苦笑して肩をすくめた。

「あなたは、その聡明さがちょっと面白みに欠けるわね」



***




「お待たせしました、セツコ様」

カテリナに捕まっていたので、戻るのが遅くなってしまった。
マリカはセツコのために軽食を用意して戻るところだったのだ。
急いで部屋に帰ると、セツコはテーブルに置いたビンをじーっと見つめているところだった。

「セツコ様、お酒はダメですよ!」

慌ててマリカは駆け寄り、お菓子をテーブルに置いてから酒瓶をひったくる。
セツコは恨めしそうにじっと酒瓶を見つめている。

「匂い、匂いだけ、いい。飲まない」
「ダメです!」

後ろに隠しても、セツコはしつこく頼んでくる。
まだ全身が痛むと言っているのに、体に障るだろう酒は別問題らしい。

「もう多く、痛くない、それに、ちょっとだけ、いいと思う。ほんの少し。舐めるぐらい」

セツコは決して聖人じゃない。
ちょっと付き合ったらわかるが、割と意思が弱くてだらしのないところが多い。
けれど、そんなところも微笑ましいと思ってしまう。

「………セツコ様、体に悪いです。どうしても飲みたいですか?それなら………」
「う」
「………でも、セツコ様の体が心配です」

それに、マリカがこんな風に悲しげに訴えると、きまり悪そうに視線をそらす。
ミカやネストリのような人間には強く出るが、弱く下手に出る人間には強く出れないらしい。
だから毎回、しぶしぶ頷く。

「………いいわ」
「そうですか!ありがとうございます!セツコ様、甘いお菓子をもらってきたからこっちを食べましょう」

マリカがテーブルに置いたお菓子にかぶせてあった布巾を取り除く。
フルーツの入ったクッキーは、甘い香りをさせておいしそうだった。

「うう、本当に私、ダメ人間………」

セツコはテーブルにつっぷして、なにやら自己嫌悪に陥ってるらしい。
色々とやらかしては後悔して落ち込んでいる。
そんなところも、マリカにとっては好ましい。

「セツコ様はダメ人間なんかじゃないです!」

セツコは視線を逸らして、ため息をついた。

「………ありがと」

マリカは嬉しそうににっこりと笑う。

「セツコ様は、素敵な人です!」
「………」

それが、何も持たないマリカが決めた、ただ一つのもの。






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