田舎に来てから一週間。 なんだか近頃体の調子がおかしい。 いや、前から少しその傾向があったのだが、その症状が急激に悪化した。 1.ある人を見ると動悸息切れがする 2.ある人にふいに触れられたりすると涙が出そうになる 3.ある人が近寄るとダッシュで逃げたくなる 風邪も引いてないし、お腹も壊してないし、怪我もしてないし。 一体これはどうしたことか。 「おい、鈴鹿」 例えばこんな時。 自分の思考に潜り込んでいた私にかけられた声。 つられて顔を上げると、思いの他至近距離に『ある人』がいた。 「う、うわあああ!!!」 思わずバックダッシュで3m遠ざかる。 と、後ろに地面が見当たらない。 しまった、後ろは田んぼだった! 「わあああ!」 そのまま転がり落ちそうなのを、ギリギリのところで大きな手に腕をつかまれた。 「この馬鹿!何やってんだよ!」 助けてくれたのは、もちろんここ一年で急激に見慣れた年下の男の子。 怖くて、乱暴で、強くて、賢くて、実は優しい。 そんなかっこいい男の子。 大好きな綺麗な筋張った手で、痛いくらいに腕をつかまれている。 その力の強さにまた心臓が痛くなる。 慌ててその手を振り払った。 あ、後ろないって、忘れてた……。 「うわわわわわ!!!!」 そのまま後ろに転がり落ちた。 ぼちゃん。 まだ水の張っている田んぼがじっとり冷たい。 稲には被害がないようでよかったけど……。 「………楽しいか」 「………わかんない」 ものすごい呆れ顔で見下ろしてくる駿君に、私はそう答えるしかなかった。 そして例えばこんな時。 「おーい、崎上ー!!!」 濡れてべたつくジーンズを引きずっていると、聞き覚えのある明るい声が聞こえた。 軽やかに自転車を操り近づいてくる少女。 今日はジャージ姿だけど、やはり明るく快活そうでショートカットがとても似合う美人さん。 えーと、真壁さんだっけ。 真壁さんは鈍いブレーキ音をたてて脇で止まった。 うわ、やっぱり足長い。うらやましい……。 「どしたの、こんなとこで?て、鈴鹿さんどうしたの!?」 真壁さんは大きな目を更に大きくして驚きをあらわにする。 そうだよね、背中から転んじゃったから後ろとかべっとり汚れているし…。 やっぱ目立つよね。 「え、えっと、ちょっと転んじゃって……あ、あはは」 うう、みじめだ……。 内心めちゃめちゃ情けない気分でいっぱいだけど、笑ってごまかしてみる。 「だ、大丈夫ですか?」 「う、うん。まあ…、古いジーンズだったし…」 「いや、そうじゃなくて怪我とか」 あ、そうか。思わず服に気がいってしまった。 にしてもこの子本当にいいこなんだなあ。 優しいなあ。 う、なんかもやもやする。 「うん、かすり傷程度」 「そっか。この辺、道もあんまりよくないし、気をつけて下さいね」 「うん、ありがとう」 本当に気遣っているような心配そうな表情。優しげな声。 ……いい子だなあ。 なのになんでこんなにもやもやしてるの、私。 なんか変なもの食べたっけ? あ、さっき田んぼに落ちたから風引いたとか? 真壁さんは私から駿君に視線を移す。 「崎上、ちゃんと鈴鹿さん案内しなよ」 「こいつのドジを全部フォローすることは不可能です」 ひ、ひどい…。 まあ、あってるけどさ。今そんなこと言わなくても…。 「はあ?まったくあんたって本当に気がきかないんだから!」 「お前みたいな気のきかない女に言われたくねえよ」 「なによ!」 片手で殴るフリを見せる真壁さんに、笑ってよけるふりをする駿君。 駿君が中学生なんだな、って思えるような無邪気な笑顔。 ……私といる時はあんまり見せてくれない、顔。 駿君は、私といる時はいつも大人っぽい。むっつしてること多いし。 う、なんかもやもやっていうかむかむかしてきた。 どうしたんだろう。 真壁さんにむかむかしてんのかな。 でも、真壁さんは優しいし、美人だし、足長いし、手長いし。 うーん。 やっぱなんか変なもの食べたかなあ。 「乙女心の分からない奴!そんなんじゃ鈴鹿さんに面倒みてもらえなくなるよ」 「俺が、こいつの、面倒をみてるの」 わざわざ区切って言う駿君。 そ、それは確かに本当になんだけど……。 なんかますます惨めになってきた。なんか泣きそう。 思わずうつむいてしまう。 「つーか、お前が乙女心とか笑えるし」 「何言ってんのよ、こんなかわいらしい純真な乙女を捕まえて」 駿君の厳しい言葉の数々にもめげずに、むしろ楽しそうにぽんぽんと言葉を交わす真壁さん。 これも、私には出来ない。 「馬鹿。何がかわいらしいだよ」 呆れたようにためいき交じりで返す駿君。 馬鹿。 その言葉を、真壁さんにも言うんだ。 呆れたように、ため息交じりで、でも笑いを含んだ、どこか優しい、馬鹿。 あれは、私だけに、言われる言葉だと思ってた。 真壁さんには、言わないで。 て、ちょっと待った。 私、馬鹿って言われたいの? それはちょっとおかしくない? ていうかマゾ? 馬鹿って言われて嬉しいって……。 しかも人が馬鹿って言われて悔しいって……。 どうなのよそれ、私! 「鈴鹿?」 うつむいて考え込んでいた私に気づいたのか、ちょっと心配そうに顔を覗き込んでくる駿君。 その切れ長の綺麗な黒い目に、またあの訳のわからない症状が顔を出す。 「う、わわわわわ」 後ろは田んぼだと覚えていたので、今度は前に体をそらす。 が、足元にあった土の削れた部分に気づかなかった。 足をもつれさせ、前から地面に突っ伏した。 下が柔らかい土だったのが幸いして、そこまでダメージはない。 が、やっぱり痛い。 「………」 「………」 「………」 地面に手と膝をついたまま、動けない。 二つの視線を感じる。 は、恥ずかしい。 顔を上げることができない。 誰かが、隣にしゃがみこむ気配。 「……お前、どうしたの?」 「……わかんない」 さっきと同じように返す私に、駿君は大きなため息をつく。 「ばーか」 そうして、手を貸してくれる。 私は恐る恐るその手をとった。 大きくて、筋張った手に、涙が出そうになる。 馬鹿って言われてちょっと嬉しい自分が悲しい。 |