田舎に来てから一週間。
なんだか近頃体の調子がおかしい。
いや、前から少しその傾向があったのだが、その症状が急激に悪化した。

1.ある人を見ると動悸息切れがする
2.ある人にふいに触れられたりすると涙が出そうになる
3.ある人が近寄るとダッシュで逃げたくなる

風邪も引いてないし、お腹も壊してないし、怪我もしてないし。
一体これはどうしたことか。



***




「おい、鈴鹿」

例えばこんな時。

自分の思考に潜り込んでいた私にかけられた声。
つられて顔を上げると、思いの他至近距離に『ある人』がいた。
「う、うわあああ!!!」
思わずバックダッシュで3m遠ざかる。
と、後ろに地面が見当たらない。
しまった、後ろは田んぼだった!
「わあああ!」
そのまま転がり落ちそうなのを、ギリギリのところで大きな手に腕をつかまれた。
「この馬鹿!何やってんだよ!」
助けてくれたのは、もちろんここ一年で急激に見慣れた年下の男の子。
怖くて、乱暴で、強くて、賢くて、実は優しい。
そんなかっこいい男の子。
大好きな綺麗な筋張った手で、痛いくらいに腕をつかまれている。
その力の強さにまた心臓が痛くなる。
慌ててその手を振り払った。
あ、後ろないって、忘れてた……。
「うわわわわわ!!!!」
そのまま後ろに転がり落ちた。
ぼちゃん。
まだ水の張っている田んぼがじっとり冷たい。
稲には被害がないようでよかったけど……。
「………楽しいか」
「………わかんない」
ものすごい呆れ顔で見下ろしてくる駿君に、私はそう答えるしかなかった。



***




そして例えばこんな時。

「おーい、崎上ー!!!」
濡れてべたつくジーンズを引きずっていると、聞き覚えのある明るい声が聞こえた。
軽やかに自転車を操り近づいてくる少女。
今日はジャージ姿だけど、やはり明るく快活そうでショートカットがとても似合う美人さん。
えーと、真壁さんだっけ。
真壁さんは鈍いブレーキ音をたてて脇で止まった。
うわ、やっぱり足長い。うらやましい……。
「どしたの、こんなとこで?て、鈴鹿さんどうしたの!?」
真壁さんは大きな目を更に大きくして驚きをあらわにする。
そうだよね、背中から転んじゃったから後ろとかべっとり汚れているし…。
やっぱ目立つよね。
「え、えっと、ちょっと転んじゃって……あ、あはは」
うう、みじめだ……。
内心めちゃめちゃ情けない気分でいっぱいだけど、笑ってごまかしてみる。
「だ、大丈夫ですか?」
「う、うん。まあ…、古いジーンズだったし…」
「いや、そうじゃなくて怪我とか」
あ、そうか。思わず服に気がいってしまった。
にしてもこの子本当にいいこなんだなあ。
優しいなあ。
う、なんかもやもやする。
「うん、かすり傷程度」
「そっか。この辺、道もあんまりよくないし、気をつけて下さいね」
「うん、ありがとう」
本当に気遣っているような心配そうな表情。優しげな声。
……いい子だなあ。
なのになんでこんなにもやもやしてるの、私。
なんか変なもの食べたっけ?
あ、さっき田んぼに落ちたから風引いたとか?
真壁さんは私から駿君に視線を移す。
「崎上、ちゃんと鈴鹿さん案内しなよ」
「こいつのドジを全部フォローすることは不可能です」
ひ、ひどい…。
まあ、あってるけどさ。今そんなこと言わなくても…。
「はあ?まったくあんたって本当に気がきかないんだから!」
「お前みたいな気のきかない女に言われたくねえよ」
「なによ!」
片手で殴るフリを見せる真壁さんに、笑ってよけるふりをする駿君。
駿君が中学生なんだな、って思えるような無邪気な笑顔。
……私といる時はあんまり見せてくれない、顔。
駿君は、私といる時はいつも大人っぽい。むっつしてること多いし。
う、なんかもやもやっていうかむかむかしてきた。
どうしたんだろう。
真壁さんにむかむかしてんのかな。
でも、真壁さんは優しいし、美人だし、足長いし、手長いし。
うーん。
やっぱなんか変なもの食べたかなあ。
「乙女心の分からない奴!そんなんじゃ鈴鹿さんに面倒みてもらえなくなるよ」
「俺が、こいつの、面倒をみてるの」
わざわざ区切って言う駿君。
そ、それは確かに本当になんだけど……。
なんかますます惨めになってきた。なんか泣きそう。
思わずうつむいてしまう。
「つーか、お前が乙女心とか笑えるし」
「何言ってんのよ、こんなかわいらしい純真な乙女を捕まえて」
駿君の厳しい言葉の数々にもめげずに、むしろ楽しそうにぽんぽんと言葉を交わす真壁さん。
これも、私には出来ない。
「馬鹿。何がかわいらしいだよ」
呆れたようにためいき交じりで返す駿君。

馬鹿。

その言葉を、真壁さんにも言うんだ。
呆れたように、ため息交じりで、でも笑いを含んだ、どこか優しい、馬鹿。
あれは、私だけに、言われる言葉だと思ってた。
真壁さんには、言わないで。

て、ちょっと待った。
私、馬鹿って言われたいの?
それはちょっとおかしくない?
ていうかマゾ?
馬鹿って言われて嬉しいって……。
しかも人が馬鹿って言われて悔しいって……。
どうなのよそれ、私!

「鈴鹿?」
うつむいて考え込んでいた私に気づいたのか、ちょっと心配そうに顔を覗き込んでくる駿君。
その切れ長の綺麗な黒い目に、またあの訳のわからない症状が顔を出す。
「う、わわわわわ」
後ろは田んぼだと覚えていたので、今度は前に体をそらす。
が、足元にあった土の削れた部分に気づかなかった。
足をもつれさせ、前から地面に突っ伏した。
下が柔らかい土だったのが幸いして、そこまでダメージはない。
が、やっぱり痛い。
「………」
「………」
「………」
地面に手と膝をついたまま、動けない。
二つの視線を感じる。
は、恥ずかしい。
顔を上げることができない。
誰かが、隣にしゃがみこむ気配。
「……お前、どうしたの?」
「……わかんない」
さっきと同じように返す私に、駿君は大きなため息をつく。
「ばーか」
そうして、手を貸してくれる。

私は恐る恐るその手をとった。
大きくて、筋張った手に、涙が出そうになる。


馬鹿って言われてちょっと嬉しい自分が悲しい。






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