今日も今日とて、言葉の勉強。
ていうかこれ、いつか完全に理解できる時って来るのかしら。
一生来ない気がする。
もう私の脳みそに、これ以上言語が入る余地がない。

ああ、日本語喋りたい日本語。
私、今分かった。
日本語を心から愛している。

疲れたなあ。
お茶飲みたいなあ。
それに。

『そろそろ休憩にしましょうか。お手洗い行ってきていいですよ』

トイレ行きたいなあ、って思った瞬間に目の前の悪魔は本をパタンと閉じた。

『だから、人の生理現象を把握してんじゃないわよ!このセクハラ野郎!』
『すいませんねえ。仕方ないんですよ。見えてしまうんですから』
『いい加減この変な魔法モドキとけつってんのよ!この悪魔!』
『術といたら、セツコと意思疎通できる人がいなくなりますが、いいですか?』

そう言われると、言葉に詰まる。
もうそろそろ日常会話ぐらいどうにかなるような気がしないでもないけれど、でもやっぱり誰一人自由に話せる人のいない生活というのは、かなりなストレスな気がする。
海外だったら国際電話もかけられるけど、異世界電話なんてKDDIもサービスプランないだろうし。
電話してお母さんと話すってわけにもいかない。

『ていうかそもそもあんたがさっさと私を元の世界へ返せばいいのよ!!』
『それは現在鋭意努力中ですので、しばしお待ちください』
『本当にやってるんでしょうね!本当にやってるんでしょうね!?』
『勿論ですよ』

そしてにっこりと笑う悪魔。
くそ、何一つ信用できない。
こいつの言葉なんて、係長のおごるって言葉ぐらい信用できない。
だいたい不公平なのよ。
なんで一方通行なのよ。
私の頭の中が見ることができるつーなら、私にもこいつの考え見せなさいよ。
ふられた女の数とか、恥ずかしい下半身事情とか、へそくりのありかとか、とにかく全て暴いてやる。

『そんなに見たいですかね、私の頭の中』
『特に見たくもないけど、私だけ見られるのがムカつくからあんたの秘密も暴露しなさい』
『はあ、いいですよ』
『だいたい、人にやられて嫌なことは…て、え!?』
『いいですよ、見ますか?』

いきなりの言葉に何を言われたか分からなくて、一瞬固まる。
まさかこう返ってくるとは思わなかった。
数回瞬きして、ネストリを見つめ返す。

『………何かの罠?』
『何も罠なんてありませんよ。ただ、私の思考をお見せするだけです』
『………とか言って、またなんか私にへんな魔法かけるんでしょ』
『疑り深いですねえ』

誰のせいだと思ってんだ、このクソ悪魔。
困ったように苦笑するネストリを、睨みつける。
するとネストリは軽く肩をすくめた。

『じゃあ、やめておきますか?』
『………絶対に何もしないのね?』
『普通に思考をお見せするだけです』
『………やる』

この気まぐれを逃したら、もうこんな機会ないかもしれない。
何をされても、これ以上待遇が悪化することもないだろう。
これ以上最低な魔法っていうのも思いつかない。

頷くと、ネストリはにっこり笑った。
立ちあがり、向かいから、私の隣の椅子に移動する。
そして、私の首を掴んだ。
ひやりとした感触に、一瞬体が震える。

『では、失礼します』
『な、何!?』

こつん、と子供の熱を測るときのようにおでこを合わせられる。
驚いて、身を引こうとするが首を掴んだ手に阻まれた。
なんだ、またセクハラか。

『久々なので、ちょっと思念を合わせやすいようにします』

意味は分からないが、とりあえず必要なことらしい。
なんかものすごい胡散臭い。
新興宗教の勧誘みたい。
まあ、似たようなものか。

仕方なく、私はその状態で我慢する。
近くで見ると、やっぱりネストリは美形だ。
染み一つない綺麗な肌に、イラっとする。
私より肌が綺麗ってどういうことだ、中年男のくせに。

『初めてですので、少し気分が悪くなるかもしれません。もし何かあったら言ってください』
『分かったわ』
『では眼を閉じて、心を穏やかに、呼吸を私に合わせて』

言われて、目を閉じる。
おでこに、冷たくて堅い感触を感じる。
ネストリの穏やかな呼吸が聞こえる。
私はそれに合わせるように、ゆっくりと息を吸って吐く。
あ、そういえばご飯食べてから歯を磨いてなかった。
………臭くないかしら。
ハーブが歯についてたりしないかしら。
そんなことを考えていると、ネストリがくすりと小さく笑った。

『大丈夫ですから、余計な事を考えないでください』
『わ、わかったわよ』
『ではゆっくりと、また呼吸を深くして』

余計な事を考えるなと言われても、そう言われると余計な事ばかり浮かんでくる。
やっぱりこいつの体温は冷たいんだなあ、さすが悪魔だなあ、とか。
そういえばこいつは体臭とかないよなあ、とか。
ミカは割と獣っぽい匂いがするのに。
無臭って、逆に気持ち悪いなあ、とか。

『セツコ』
『分かってるってば』

そんなこと言われても浮かんじゃうものは浮かんじゃうのだからしょうがない。
それでもずっとこうやって眼を閉じて呼吸を合わせていると、ボーっとしてくる。
なんだか、眠くなってくる。
しばらくそうして、おでこをくっつけていると、なんとなくうとうとしてくる。
どれくらいそうしていただろうか。
もうそろそろ、落ちる、と思ったその瞬間。

急にジェットコースターに乗ったような急速感が身を包んだ。
ぐいぐいとひっぱられるように、前に引き込まれる。
体は、動いていないのに、前へ前へのめり込む感じがする。

「う、わあ!」
『つながったので、そのまま眼を閉じておいてください』
「ん、なこと言ったって!!」

眼を開けてしまいそうだ。
極彩色の光が舞い込んでくる。
眼がチカチカする。
眩しい。
景色が目まぐるしく変わる。
以前乗った、夜の街中のジェットコースターみたい。
夜の街が、ぐるぐると回転する。

「よ、酔う」
『下手に動くと、あなたの精神が破壊されるので、大人しくしていてください』
「ちょ!今なんて言った!?ものすごく不吉なこと言わなかった!?」
『落ち着いて』

言われてもこの状態で心を落ち着けるというのも無理な話だ。
まだ世界はぐるぐる回ってる。
気持ち悪い。

体は動いてないのに、暴風に吹かれているみたい。
もみくちゃにされる。
どこが上か、どこか下か分からない。

ぐるぐるぐるぐると、目まぐるしく光が回る。
そして、自分のものではない何かが入り込んできた。

<楽しい>
<どんな反応をするのだろう>
<暴れている>
<不様だ>
<虫けらのよう>
<面白い>
<反応に興味がある>
<ひねりつぶしたい>
<楽しい>
<気持ち悪い>
<人を中にいれる>
<不快>
<面白い>

何かが、一斉に入ってくる。
それが言葉である、だとか、いやに物騒な言葉が紛れ込んでる、とか理解する暇もない。
圧倒的な情報量が、私の考えを侵食し、喰い尽くす。
何も考えられない。
埋め尽くされる。
怖い。
私が、なくなる。

『落ち着いて。もう少し深く入ってみましょうか』

その中で、明確なイメージが叩きこまれる。
でも何も返事ができないまま、私は沢山の何かに翻弄される。
ぐるぐると、世界が回る。
考える暇がないくらい、沢山の感情が入り込む。
景色がさかさまになったり、ものすごい勢いで通り過ぎたりする。
見えている訳ではない。
頭の中に直接入り込むイメージ。
うまく言えない。
脳みそに手をつっこまれて、ぐちゃぐちゃにされている気分。

見たことのない街。
山。
人。
家の中。
海。
川。
人、人、人。

やばい、気持ち悪い。
死ぬ。

それでも勢いは止まらない。
暴風に、まだ吹かれ続けている。
引っ張られる。
前に前に、引き込まれる。

急に、世界が黒くなる。
真っ黒。
極彩色の光の渦から逃げられて、少しだけほっとする。
途端に、うるさいぐらいの感情の波も消える。

静かになる。
今度は逆に、耳が痛くなるぐらいの静寂。

まだ引っ張られている。
世界は黒い。
真っ暗すぎて、どこに進んでいるのかも、というか先に進んでいるかもわからない。
けれど体は引っ張られている。

しばらくそのまま引っ張られていると、ある事に気付く。
黒いと思っていた世界は、違う色をしている。
黒に見えていたけれど、赤い。
黒に限りなく近い、赤。
感触なんてわからないはずだけど、それは何かどろどろとしている気がした。
どろどろとした、赤い世界。

何もないと思っていた世界は、地面に何かが敷き詰められている。
もっと意識をすると、それは人の形をしている気がする。
余すことなく地面を埋め尽くす人、人、人。
寝ているのか、死んでいるのか、わからない。

ただ、横たわる隙間ない人の海。
赤くて黒い世界。

気持ち悪い。
ぐらぐらする。

体は前に引っ張られる。
何かが、見えた気がした。
人の海の中心に、子供が立っている。

何も考えられなかった頭が、それを怖い、と感じた。
その子供に、近づきたくないと感じた。
怖い夢から無理やり目覚めようとするように、私は必死に自分に呼びかける。
眼を覚ませ。
眼を覚ませ。

子供が、ゆっくりとこちらを振り返る。
いやだ、怖い。
子供は、金色の髪をしていた。
小さな子供。
私の胸のあたりぐらいまでしか身長がないだろう。
長い、金色の髪。

眼を覚ませ。

子供の、顔が見える。
子供の体には、何かが絡みついていた。
白い細長い何か。
蔦?
違う。
あれは人の、形をしている。
白い、骨?
人の形をした骨が、子供に絡みついている。
まるで縛りつけるように。

子供が私の方を見上げる。
いやだ。
眼を覚ませ。
眼を覚ませ。
目を覚ませ!

バチン。

その瞬間、テレビが消えるような音がする。
そして、頭を思いきり殴られたような衝撃が走った。

急速にまた、引っ張られる。
今度は後ろに。
世界が回る。
黒い世界が遠ざかる。
極彩色の光が舞い込む。
沢山の音が入り込む。

引っ張られる引っ張られる引っ張られる。
そして。

急に止まった。
音も、光も、世界も、何もかもが消える。

おでこに、冷たくて堅い感触を感じる。

『大丈夫ですか?セツコ』

悪魔の、もう慣れた脳内会話が脳裏に響く。
先ほどまでの世界が嘘のように、いつもどおり。
ゆっくりと、目を開ける。
悪魔の透き通るような碧眼が、入り込む。
楽しそうに、悪魔が笑っている。

『セツコ?』

問われて、私は一言言った。

「吐く」

そして、私は思いきり悪魔に胃の中身をぶちまけた。



***




『………ひどいです』
『あんなに気持ち悪いもんだって知らなかったからしょうがないでしょ』

私がネストリの服に、思い切り夕飯のシチューをぶちまけた後。
メイドさんを呼んで周りを片づけたり、部屋を移動したり、着替えたり、匂い消しにお香を焚いたりしていたら大分時間が経ってしまった。

服を着替えてこざっぱりとした悪魔は、珍しく渋面をしていた。
少し怒ってもいるようだ。
ぶちぶちと不満げに、口直しのワインを飲んでいる。
女として最低の行動だったが、悪魔に一矢報いたのはなかなか気分がいい。
人にリバースするなんて、二十代前半以来。
最近はちゃんとペース守って飲んでたしね。
前はみんな介抱してくれたけど、最近はもう誰も相手してくれない。
自分の身は、自分で責任取るしかない。

それにしても、あの時の鳩が豆鉄砲くらったような顔は忘れられない。
うん、こいつにこんな顔させられただけでも十分。
今更こちうに女のプライドも何もあるもんか。

悪魔はいまだに不服そうに口を尖らせている。

『だから、慣れないから気分が悪くなるかもと言ったのに』
『じゃあ、気持ち悪いって言った時点で止めなさいよ。気が狂うかと思ったわよ』
『そういえばこの術、気が触れる人もいますね』
『そういうことは先に言え!』

ああ、だからこいつの言うことは信用ならないんだ。
もう二度とこいつの口車に乗るか。
本当に気持ち悪かった。
回転ジェットコースター10回連続レベルだ。
今も床がぐらぐらと揺れている感じがする。
一回吐いてすっきりしたとはいえ、まだ少し気持ち悪さが残る。

『それぐらい調整しますよ。私がやってるんですから』
『それこそ信用できないわよ!』
『ひどいなあ』
『どっちがよ!』

ネストリは不満げに口を尖らせるが、ひどいのはどっちだ。
これで廃人になっていたら、どうするつもりだったんだ、こいつは。
……まあ、どうもしないんだろうけど。
洒落にならない。

『また今度やってみますか?』
『今の会話の流れから、どうしてそうなるのよ。誰がやるか!』
『残念です。結構楽しかったのに』

本当に残念そうに、顔を曇らせる。
こいつ、とことん変態だ。
人に自分の中を見せるって、えぐすぎる。
人間、隠れているところがあるぐらいでちょうどいい。
人の中を見ようとするのも、変態すぎる。
私はもうお腹いっぱい。

『それで、どうでした?私の中は?』
『気持ち悪かった』
『傷つきますね』

ただ、ぐるぐると回った景色と、断片の映像しか覚えていない。
全く無意味な行動だった。
もう二度とこんなことしない。

『寂しいなあ』

断片的に覚えているのは、見知らぬ街、人、景色。
人に埋め尽くされた地面。
赤くて黒いどろどろとした世界。
真ん中にいた金髪の子供。
最後に振り返った子供の顔は、そういえばネストリによく似ていた気がした。

かすかに記憶に残ったその世界は。
白くて赤くて黒くて透明だった。





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