夜の帳が辺りを包み込み、城の上層部にある姫君の部屋からの景色も薄暗い森を映すばかりだった。
窓辺に立ったブルマイスター家の長女、グレーティアは、わずかにちらちらと見えている歩哨の松明を見ながら密やかにため息をつく。
長い銀髪に印象的な青い瞳、のびやかな肢体。
画家が競って描かせてくれと懇願するブルマイスター家の名花は、その顔を曇らせていてなお、美しかった。

「………とうとう、明日なのですね」
「………」

グレーティアに仕える年若い執事は、感情を見せない静かな表情で黙ってお茶を注ぐ。
高い背に程よくついた筋肉、後ろに流した黒髪と切れ長の目は冷たい印象を与えるが、涼しい容貌の美しい若者だった。

「………クルト」
「はい」

グレーティアは後ろにいた執事、クルトを振り返り苦しげな声で名を呼ぶ。
執事は一瞬だけ眉を微かに潜めるが、努めて感情を表さないように短く返事をする。

「ねえ、クルト………、わたくしは」
「………」

グレーティアが続ける言葉を、どこかでクルトは分かっていた。
けれど、それ以上聞く訳にはいかなかった。
だから黙ってその場に感情を見せずに佇む。

「………クルト、わたくしは………」
「………」
「わたくしは」
「グレーティア。私は下がらせていただきます」

逃げ出すように一歩足を後ろに引いたところで、グレーティアは感情を発露させた。
美しい顔を歪めても、それは美しさを損なうことなく、ただただ儚くより一層その美貌を引き立たせる。

「わたくしは、バスラーなどには嫁ぎたくないのですっ」
「………グレーティア」
「わたくしは、グレーティアは、クルト、あなたを………」
「………」

クルトは耳をふさぎたかった。
これ以上は聞いてはいけないと思った。
これ以上、その美しい目を見ていたはいけない。
なぜなら、グレーティアを抱きしめてしまいたくなる衝動に、屈してしまいそうになるから。

「………」
「クルト」

まるでおとぎ話の人を惑わす魔女の声だと思った。
どんなに堅い決意も、その鳥の歌声のような声は、簡単に解いてしまいそうだ。

「クルト、覚えていて?この石のこと」

グレーティアが、そっとペンダントにしていた鈍い青の石を取り出す。
忘れることはない。

あれは、二人の美しい思い出なのだから。



***




「クルト、クルト!こちらです!」
「グレーティア!」

おてんばな姫君は、傍付きの若者を振り回し、城をかけ廻る。
周りの者を困らせる、けれど不思議と憎めない愛らしい姫君。
二人の追いかけっこを、城の住人は微笑ましげに眺めている。

「ねえ、あのお花を取ってくださいな!クルト、取って!」
「もう、グレーティアは本当に我儘なんですから」
「取って、クルト!」

くすくすと笑いながら、グレーティアがまだ少年のクルトの背の倍はあるだろう木を指さす。
クルトは困ったように笑いながらも、愛らしくて仕方ない姫君の言いつけを聞き届ける。
同年代の者よりも高い背と壮健な体を持った少年は、器用に木に登り、芳しい香りを放つ真っ白な花を一輪枝から摘み、きらきらとした目で見上げていた姫君差し出した。

「はいどうぞ、姫君」
「ふふ、ありがとう!これはお礼でしてよ、クルト」

嬉しそうに笑いながら花を受け取ったグレーティアは、代わりに懐から鈍い青をした、グレーティアの小さな手の平ほどの石を取り出した。
それを見て、クルトは目を見張る。

「え、うわ、これどうしたんですか?これはピザークの谷にしかない石じゃないですか」
「私が取ってきたのですよ」
「ええ!?」

更に驚いて、クルトは思わず声を上げてしまう。
ピザークの谷とは城の直轄地で、一刻ほど歩いたところにある険しい谷。
様々な色の鉱石が取れることで有名だ。
グレーティアが手にしているような石は価値こそないが、鈍い青色は落ち着いた色合いで夏の日の曇り空のようで美しい。
しかし幼い少女が一人で行くような場所ではなく、クルトは思わず怒鳴りつけてしまう。

「あのような危ないところに行かれたら駄目じゃないですか!」
「だって、クルトはこの石がお好きでしょう?グレーティアは、自分でクルトに贈り物をしたかったのです。お父様が用意してくれたものではなく、グレーティア自身でクルトに贈り物をしたかったのです」

幼い少女の精一杯の真心に、クルトの胸は締め付けられ、痛く、けれど温かくなる。
しかし手放しに褒めて礼を言ってしまうのは立場上不可能で、仕方なく顰め面を作って見せる。

「全く、付き合わされた可哀そうな付き人は誰なんですか。きっと伯爵様に酷くお咎めを受けたでしょうに」
「グレーティアは一人で行きましたのよ」
「は!?」

グレーティアのあっけらかんとした一言に、クルトは三度驚く。
一刻ほどと言っても、大人の足での一刻。
いくらグレーティアが伯爵が驚くほどに身体能力が高いのだとしても、さすがに想像のつかない距離だ。

「だって誰に言っても止められますわ。だから先日、こっそり抜け出して一人で行ったのです」
「…………」
「すごいでしょう!」

得意げに胸を張るグレーティアは、とても愛らしい。
おてんばで自立心旺盛な姫君は、時々とんでもないことをやってみせる。
そのことに驚いたり呆れたり怒ったり、けれどどうしても憎めない少女。
今回も呆れ叱ろうと思いながらも、出てくるのはため息交じりの窘めの言葉。

「………もう、そんな危険な真似は二度としないでください」
「………嬉しくないのですか?」
「嬉しいです。勿論、身に余る光栄です」

この青い石を、この細く小さな足で取りにいってくれたのだと思うと、胸が温かいもので一杯になる。
それが自分のものだと思えば余計に嬉しく、けれど怖い。

「でも、グレーティアに怪我でもされたら、私は悔やんでも悔やみきれないです」

いくら領内だといえ、何があるか分からない。
不審者が忍び込む可能性だってある。
そこでグレーティアに何かあったらと思うと、クルトは恐怖で身を蝕まれる。

「グレーティアが笑って傍にいてくれることが、何よりの贈り物です」
「クルト!」

花が咲くように笑って抱き付く幼い少女を、クルトは愛しさと共に抱きしめる。
こんな風に気安くしていられるのも後わずかだと知りながらも、それでもこの愛しい存在を、今だけは腕に閉じ込めてしまいたい。

「グレーティアはいつだってクルトの傍にいてよ!」

鈍い青をした石は二つに割り、二人の誓いの証となった。



***




「わたくしは、あの時に誓いましたわ。ずっと貴方の傍にいる、と」
「子供の頃の他愛のない話です」
「わたくしにとっては、一生の誓いです」
「………グレーティア」
「ねえ、クルト、あなたは、いいのですか。わたくしと離れても、あなたは………」

すっかり成長したグレーティアは、髪が長くなり手足が伸び、少女の愛らしさから女の色香を身につけた。
けれどその真っ直ぐな性根は幼い頃から、変わらない。
ブルマイスター家の珠玉と歌われる姫君は、家臣たる執事にその白い手を伸ばす。
クルトは苦い唾を飲み込みながら、平坦な声で、淡々と話す。

「バスラー家のご嫡男は、国王の覚えもめでたい優秀な方だと伺っております。容姿も申し分ない美丈夫であるとも。グレーティアにふさわしいお方です」
「クルト!!」
「私は、ただの執事でございます」
「そんなのは関係ありません!クルト、今だけでもいい、今だけでもよいのです………」

グレーティアの手が、クルトの腕にそっと触れる。
少しだけ震えてしまったのを気付かれただろうか。
クルトは目を伏せ、すぐ傍にいるグレーティアから視線を逸らす。

「今だけでもよいのです。わたくしが嫌いならそれでよいのです。それなら諦めることもできます。わたくしは貴方への想いを一生胸に秘め、生きていくことといたしましょう」

グレーティアの悲痛な声に、今すぐ謝り抱きしめたくなってしまう。
この愛しい存在を掻き抱くことが出来るなら、それはどんなに幸福か。

「ただ貴方の真実を。貴方の心の誠を、どうかグレーティアに教えてくださいませ」
「私は………」
「クルト、お願いです」
「………っ」

そっとその深い深い、まるで誓いの石のように青い瞳に見つめられクルトは言葉を失う。
その声は人を惑わす魔女の声。
その目は人を操る魔物の目。

「私は、貴方を………」

抗うことなど、出来はしない。
これまでもこれからも、クルトはグレーティアに敵うはずもない。

「貴方を、お慕いしておりました。永久にお慕いすることでしょう、私の愛しい姫、グレーティア」

告げてはならない想い。
墓まで持っていくつもりだった言葉。
大恩ある伯爵に知られたら、ただではいられないだろう。
この命すら危ういかもしれない。
けれど、グレーティアに偽りを告げることなど、出来なかった。

「………ありがとう、クルト」

グレーティアの目が、涙で潤み、そのきらめきが否応増す。
この目を見るのも、今夜で最後。
この手から離れていく、愛しい幼い姫君。

「心は決まりました」

グレーティアが落ち着いた声で、ふっとけぶるように笑った。
賢く強い姫君は、きっとバスラー家を懸命に支え、幸せになることだろう。
グレーティアが幸せになること、それこそがクルトの幸せ。

「………グレーティア」

最後の想いをこめて名を呼ぶと、グレーティアはもう一度笑って、そっと手を離す。
失われた温もりに、胸が締め付けられた。

「クルト」
「グレーティア、どうか、幸せに」
「………ええ。わたくしは、幸せになります」

グレーティアがクルトに背を向け、部屋の隅の戸棚に向かう。
クルトは頭を深く深く下げ、最後の別れを心の中で告げた。

「さあクルト、では逃げましょう」
「は?」
「手はずは整っております。城の井戸の隠し通路から城下に出ます」
「え?」

思いがけない言葉に、思わず顔を上げる。
そこには戸棚を開け、何やら色々と引っ張り出しているグレーティア。

「もし貴方が正直に想いを伝えてくださらなかったらグレーティアは貴方を縛ってでも連れていくところでしたわ。正直に仰ってくださってよかった」
「ぐ、グレーティア?」

先ほどまでの儚さはどこへやら、その瞳に強い力を込めてグレーティアは笑う。
幼い頃からずっと見てきたおてんばで賢い姫君の、悪戯を考えている時の顔。

「さあ、こちらにお召し替えなさって。その服では目立ち過ぎますわ」
「え、あの?」
「余り時間を費やしていては怪しまれます。部屋の護衛には申し訳ありませんが少し眠っていただいておりますの。行きますわよ」

そう言って、自身もクルトの前でてきぱきと着替えを始める。
もとより着替えを手伝うこともあったので、そこに恥じらいなどはない。
男性が身につけるような下穿きと動きやすい簡素な服に着替えたグレーティアは、その美しい銀髪を結いあげる。
その姿はまるで美しい貴公子のようだった。

「あ、あの、グレーティア、何を?」
「さっさとしてくださる?クルトはいつもは頼もしいのに時々うっかりしておりますのね」

もう一度男ものの服を差し出され、クルトは思わず一歩ひいてしまう。

「に、逃げ切れるはずがありませんよ!この城にはどれだけの兵が!」
「この、わたくしが、ただの大公ごときの、城の見回りの一個小隊や一個大隊、相手にできないとお思いになって?」

一個小隊や一個大隊はさすがに言い過ぎだが、確かに伯爵が驚くほどに身体能力の高い姫君は、城の手だれの一人や二人、軽く片付けてしまうだろう。
おそらくは、間違いなくクルトよりは優れた剣の使い手だ。
今回のバスラー家との話は、思いもよらぬ方向に成長を続ける娘に、伯爵が思い悩んでの縁談でもあった。

「これ以上わたくしの言うことを聞いてくださらないのでしたら、クルトにも少しお休みなっていただくことになりましてよ?よろしくて?」

にっこりと腰に佩いた剣に手をかけ告げられた言葉に、クルトの背筋に寒気が走った。
慌ててグレーティアの手から服を受け取る。

「き、着替えます」
「ええ、手早くお願いいたします」

さすがにグレーティアの前で堂々と着替える気にはなれず衝立の後ろに向かい服を脱ぐ。
渡された服は簡素で地味な色合いで、クルトの身の丈に誂えたように馴染んだ。

「さあ、これからはお父様とバスラー家、仲介に立った王家からの追手もつくかもしれませんわね。困ったこと」

困ったと言いながら、衝立の向こうから聞こえてくるグレーティアの声はどこか弾んでいる。
縁談の話が出てからすっかり落ち着いてしとやかになり、ようやく大人になったのだと伯爵も喜んでいた。
クルトはふさぎこんでいるのかと心配もしていたのだが、どうやら大人しくして油断させ、色々と用意をしていたらしい。

「わたくしたちを引き裂こうとするひどい人達です。わたくしはあんなに嫌だと申し上げておりましたのよ。バスラー家の若様はわたくしの性格には合わないと言いましたのに。愛する二人を引き裂こうとするなんて、神がお許しになりませんわ。ブルマイスター家が滅びたとしたら、きっと神のお裁きでございますね」
「ほ、滅びるって、グレーティア、貴方は、一体、何を………」

着替えを済ませて衝立の奥から出てくると、グレーティアは小袋を四つほど抱えていた。
そしてにっこりと笑う。

「この度、クリスタラー家に少しご相談させていただきましたのよ。クリスタラーのご当主様は親身になってお力添えしてくださいました」
「グレーティア!よりによって、クリスタラーなんて!」

ブルマイスター家の政敵であるクリスタラー家は、今回の縁談には苦虫をかみつぶしていたに違いない。
ブルマイスター家とバスラー家が結びつけば、両家はより力を増す。
クリスタラーにとっては、頭の痛い事態だっただろう。
けれどクリスタラーは伯爵を長年悩ましてきた仇敵で、それと手を組むなどクルトには考えたくもないことだ。
とんでもない言葉に慌てるクルトに、けれどグレーティアは不敵に笑う。

「クルト、このわたくしが、クリスタラーのご当主に引けをとると思いまして?」
「………」

その自信に満ちた言葉に目に、クルトは抗う言葉すら失う。

「さあ、行きますわよ、クルト。愛する二人は決して引き裂かれてはいけないのです」

グレーティアは、誓いの石に一つキスを落とすと、ゆっくりとクルトを振り返る。
そしてその美しい手を差し伸べた。

「グレーティアは、クルトの傍にずっとずっとおりましてよ」

にっこりと花が咲くように笑う少女は、幼い頃から全く変わらない。
だから結局、これまでもこれからも、クルトはグレーティアに敵うはずもない。

「………はい、グレーティア」

そしてクルトは、グレーティアの手を取った。



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