「おい、永人!お前、玲子ちゃんに何を言ったんだ!」
「鬱陶しいから消えろって言っただけだよ」
「永人!」

帰った俺を待っていたのは、想像通りの兄貴の怒声だった。
こいつの言葉は一々俺の癇に障る。
まるで俺を苛立たせるためだけに言葉を選んでいるのではないかと思うくらいだ。

「お前あんなに世話になった玲子ちゃんに、どこまで馬鹿なんだ!」
「兄貴はあんな女に付き纏われて鬱陶しくないのかよ!他人事だと思って偉そうに!自分が相手じゃなきゃ何でも言えるよな!何が婚約者だ!」

その時、バシっと大きな音がした。
一瞬遅れて自分が右を向いているのに気付く。
そしてジンとした痛みが伝わって、頬を打たれたのが分かった。
口の中が軽く切れたのか、鉄の味がした。

「婚約者なんてのは、親父の冗談だろう!あの子は本当にお前を想ってお前の傍にいてくれたんだぞ!」
「………どうせ義務感と罪悪感だろ」

あいつは俺のことなんて想ってない。
俺の言葉なんて聞いてない。
俺なんて見ていない。

「とにかく、これですっきりした!」

だから俺は兄貴にそう言い捨てて、その場を逃げ出した。



***




頭が痛い。
体が熱を持っている。
気持ち悪い。

「あ、羽田さん見てるよー」
「わあ、本当に鬱陶しい」

女共のキンキンした声が、頭に響く。
うるさい。
うるさいうるさいうるさい。
気持ち悪い。
もう、ぶっ倒れたい。

「行くぞ」

羽田の視線が、背中に向けられているのが分かる。
駄目だ、ここで倒れたら、またあいつに見られる。
またあいつが気にしてしまう。
速くここから逃げないと。
もう、あんな不様な姿は見せたくない。

「そうだね、行こ行こ!」

ぐいっと腕がひっぱられる。
急激に力を片方に向けられて、頭が揺れる。
予想してなかった衝撃に、俺の脆弱な脳はついていけない。

「あ」

そのまま、かくりと膝から力が抜けた。
こらえることもできずに、そのまま不様に肩から廊下に倒れ込む。
痛みを感じる暇もなく、意識が遠ざかっていく。

「蔵月君!?」
「え、蔵月君?」

ああ、うるさい。
キンキン喚くな。
俺は、大丈夫なんだから。

「永人!」

だから、そんな必死な声で、呼ぶな。
俺は大丈夫なんだ。
もう大丈夫なんだ。
だから、もうお前がそんな心配そうな声、出さなくてもいいんだ。
もう、囚われてなくて、いいんだ。

「どいて」

羽田の冷静な声に、少しだけ焦りが滲んでいる。
いっつもそうだ。
お前が俺のことで焦るのは、俺が倒れた時だけ。
俺が何を言っても聞かないのに、こんな時だけ感情をあらわにするんだ。

「何よ、あんた」
「近寄らないでよ!」

女共が羽田の体を押しのけているらしい。
けれどいつになく冷たい声が、それを一蹴した。

「うるさい、どけ!」

冷静な低い声に押されたのか、女共が離れる気配がする。
たくましい腕が、俺の貧相な体を抱えあげる。
懐かしくて温かい、ほっとする匂いに包まれる。
ずっと、傍にあった腕。

「永人、ちょっと我慢して」

こうなりたくなかったから、離れたのに。
こいつに、もうこんな迷惑かけたくなかったのに。

それなのに俺はこいつの腕の中、心底ほっとして意識を手放した。



***




「お前が永人様から離れるから!」

ばしっと音がして、小さな女の子の体が倒れ込む。
やめてください、と兄さんが止める声がする。

「ごめんなさいっ」

幼い声は、すでに泣き声が混じっていた。
ああ、泣かないで。

「お前は、自分の立場が分かっているのか!永人様に何かあったらどうするつもりだったんだ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」

ああ、怒らないで。
そんな、怒らないで。
俺が悪いんだから。
全部全部、俺が勝手なことをしたから、悪いんだ。

「……玲ちゃんを、怒らないで」

うまく動かない口をなんとか動かして、そう告げる。
慣れ親しんだ熱が、体を苛んでだるい。
でも、玲ちゃんにはもう泣いてほしくない。

「永ちゃん!」

途端に俺の寝ているベッドに駆け寄ってくる気配がする。
幼馴染の大好きな少女が、ベッドに顔を伏せる。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね、永ちゃん」

小さな女の子が泣いている。
俺にとりすがって、泣いている。
繰り返す謝罪に、心が痛くなる。

「気にしないで、玲ちゃん。僕は、大丈夫、だよ。僕は、大丈夫。だから、泣かないで」

苦しい息の中、俺は必死にその涙を止めようとしている。
優しく強い女の子の、そんな顔は見たくなかった。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね。もうしないから」

体が弱い俺は、いつだってみそっかすだった。
そんな俺をいじめて楽しんでいた、リーダー格の女の子。

その日も、俺をおきざりにして置いて行ってしまった。
一人ぼっちで取り残された俺は、変質者に誘拐されるところだった。
たまたま通りがかった大人に助けられて事なきを得たものの、体の弱い俺は発作を起こして病院送りになってしまった。

「わたしが、絶対、永ちゃんを守るから、ごめんね」

その涙を拭いたいのに、手がうまく動かない。
気にしないでと言いたいのに、言葉が中々出てこない。

「もう絶対、永ちゃんを、一人にしないから」

泣きじゃくる女の子は俺の枕元で、そう誓ったのだ。



***




「………永人、大丈夫!?」

起きると枕元には、夢と同じ顔。
随分成長してたくましくなったが、その泣きそうな顔は変わらない。
ああ、こんな頼りない顔を見たのは、本当に久しぶりだ。

「………玲ちゃん」
「………うん」

ふと、夢の続きでそんな懐かしい呼び方が出てきた。
その泣きそうな頼りない顔が、その消え入りそうな声が、酷く懐かしくて、普段だったら出てこない言葉が出てくる。

「………もうさ、気にしなくていいんだよ」
「何?」

普段の冷静でどっしりとした力強い言葉とは違う、弱々しい小さな子供のような声。
それが懐かしくて、嬉しくて、思わず笑ってしまう。
ガキ大将のくせして、強いくせして、本当は虫が嫌いで、血が苦手で、隠れて泣いていた女の子。
実はかわいいものが好きで、ピンクのリボンやぬいぐるみが好きで、こっそり集めていて、俺にだけ見せてくれていた。
血を見ても動揺しなくなり、虫を平気で捕まえられるようになり、リボンをぬいぐるみを捨てた。
そしてその表情も感情も消えていった。

「俺、お前に守られなきゃいけないほど、もう、ガキじゃない」

全ては、俺を守るために。

「だから、お前は好きにしろよ。俺を守るとか、そんなの、どうでもいいから」

分かっていた。
こいつが俺を守ろうとしてくれていたのは、分かっていた。
何度もやめろと言った。
それでも聞いてくれなかった。
どんなに傷つけても、離れていかなかった。
俺はもう大丈夫なんだ、と言っても、いまだに体の弱い俺の傍から離れなかった。

「………」

それは酷く息苦しくて、情けなくて、でも嬉しかった。
傷つけて追い払って、自由になってほしかった。
何をしても、何を言っても離れていかないこと確かめたかった。
そんな二律背反した気持ちが、ずっと苦しかった。
でも、もう、いい。

「もう、いいんだよ。お前が傍にいなくても、俺は生きていけるんだよ。もう、自由になってくれよ」

こいつに守られていると、俺はいつまでも弱いままだ。
弱い存在でいて、こいつに傍にいて欲しい。
でも、縛り付けて同情で傍にいられるのは御免だ。
いつだってせめぎ合っていた心。

「今まで、縛り付けてて、ごめんな」

でも、もうこれ以上は耐えられない。
こいつの哀しい顔も、呆れた顔も、見たくない。

「ごめん」

目を瞑って、もう一度繰り返す。
慣れ親しんだ熱は、じわじわと体力を奪う。
この脆い体。
こんな体じゃ、こいつを守ることも出来やしない。

「………馬鹿な永人」

ぼそりとつぶやかれた言葉に、目を開く。
すると羽田は泣き笑いのような顔で俺を見ていた。
大きな豆のある堅い手で、ベッドに投げ出されていた俺の手をぎゅっと握る。

「私は、好きであんたの傍にいる。いつだって好きで傍にいた。いつだって私は私の意志で永人の傍にいた」

その言葉に、驚いて目を見開く。
ぎゅっと、温かい手が更に力を込める。
力強くて頼もしい、ずっと俺を守ってくれていた手。

「小さい頃だって、苛めても慕ってくるあんたが可愛かった。だから苛めてしまった。今だって、嫌がられていると分かりながらも、傍にいたかったから、いた。ごめん、私が離れられなかった。謝るのは、私の方だ」

ずっと鬱陶しがられていると思っていた。
義務感で傍に入られているのだと思っていた。

「でも、それは、俺が誘拐されたかけたり、親父や、兄貴に言われたから……」

羽田はゆっくりと首を振って、優しく笑う。
そんな笑顔、兄貴の前以外で見たことは、ずっとなかった。
俺の前で笑うことなんて、もうずっとなかった。

「私は、私の心に従っている。誰かに強制されることを、私はよしとしない。無理矢理課されたことに従うこともない。私は自分で納得できなければ、従わない」

まっすぐに、迷うことのない言葉。
強く、絶え間なく自分を鍛え続ける武人の目。
道場で戦うこいつを、小さな頃から羨望の眼差しで見ていた。
ずっと憧れていた。
強い玲ちゃんが、ずっと好きだった。
だから玲ちゃんは俺のためになんか縛られてほしくなかった。

「私は、我儘だよ、永人。自分のしたいことしか、しない。私はあんたが好きだった。私はあんたをずっと守りたかった。大事にしたかった。私の力で、あんたを守り通したかった」

そんなの、嘘だ。
嘘だ嘘だ。

「嘘、だ」
「嘘じゃない。私は嘘をつかない。もし許してくれるなら、嫌じゃないなら、今まで通り、傍にいさせて」

目が熱くなってきて、視界が滲む。
胸も、コトコトと沸騰したお湯のように熱く波打っている。

「………いいのか」
「永人こそ、嫌じゃないの?私みたいな男女に傍にいられて」

嫌だった。
ずっと嫌だった。
義務感で同情で、傍にいられるのが嫌だった。
守られている身分が嫌だった。
でも、もしお前が義務感じゃなくて、同情じゃなくて、守ってくれるというのなら。

「………嫌じゃ、ない」

それは、嫌ではない。
こいつを俺の力では守ることは出来ない。

「嫌じゃないよ、玲子」

でも傍にいられるのなら、昔のように笑っていられるのなら、それでいいんだ。
難しいことじゃ、ないんだ。

ただ、傍にいたいんだ。



***




「今日は体調、平気?」
「平気だってば!」
「そうよかった」

穏やかに笑われると、胸が変な感じにもぞもぞとする。
ずっとこいつの笑顔なんて見られなかった。
お互い嫌じゃなくて、意地を張っていただけなんだと分かったら、心配されるのも嫌じゃなくなった。
俺の体が弱いのは仕方ないこと。
こいつの方が強いのも仕方のないこと。
それでもいいから、そこから二人の関係を作りたい。

腕っ節では敵わないが、こいつに勝てるところが俺にだってある。
そういうところで、釣り合いをとっていけばいいんだ。

俺の方が頭がいいから、こいつに勉強を教えられる。
俺の方が色々なことを知っているから色々なところに連れていける。
そして、俺の方が情緒が発達しているから、我慢してやれる。
そう、たとえばこんな時。

「永人、好きな子とか彼女が出来たら言ってね。距離を取るから」
「は?」

なんて考えていると、玲子がいきなり馬鹿なことを言いだした。
一瞬、何を言われているのか分からない。

「出来れば、永人の体とか理解してくれるいい子がいいけど、あんたが選んだ子なら何も言わないよ」
「………」
「永人?」

不思議そうに首を傾げる玲子。
その顔は、俺が黙りこんだ理由も勿論分かっていない。
思わず、心の底から深い深いため息が出てくる。

「お前って、本当に馬鹿だよな」
「え」

腕っぷしは強いけど鈍感で朴念仁の馬鹿だ。
人の心の機微ってものを理解しない。
そう、最近気付いたけどこいつは体育会系馬鹿だ。
深く色々考えているようで、まったく考えていない。

「………そうだな。俺のことをよく理解している優しい、でもアホな女を見つけるよ」
「あれ、もしかして、もういるの?」

なんでそこで嬉しそうな顔してるんだよ。
こいつ、本当に馬鹿だ。

「大丈夫、芳人さんや旦那様には私からも口添えするから」

黙りこんだ俺が、別のことを心配しているのかと思ったのか握りこぶしで励ますように言われる。
思いきり脱力してしまう。

「………そう言えば、お前兄貴が好きなの?」
「芳人さん?」

少しだけ、不安になる。
もしかして本当に兄貴のことが好きなのだろうか。
恐る恐ると様子を窺うと、玲子は意志に満ちた目を光らせる。

「好きと言うか、目標かな」
「目標?」
「いつか、打ち負かして、一本取ってみたい」
「………兄貴に勝つつもりなのかよ」
「勝つよ」

その言葉は力強く迷いがなく、かっこいい。
いい顔しやがって。
この体育会系筋肉馬鹿。
脳内小学校低学年男子め。
こいつに腫れた惚れたは、まだまだ早いらしい。
情緒ってものが、まったく発達していない。
本当に女なのか、こいつは。

「誰よりも強くなってみせる」

そして頼もしく笑って見せる。

「永人を、ずっと守っていくんだから」

ああ、本当にこいつは。
どんだけかっこいいんだよ。
胸が、痛い。

「………玲子」
「え?」

手招きして呼びよせて、俺の声を聞くために身をかがめた玲子の手を思い切り引っ張る。
そして近づいてきたその頬に軽くキスをした。

「え、永人!?」

驚いて頬を抑えて飛び退く玲子。
一気に顔を真っ赤にしたその様子は、とても可愛らしかった。
思わずもっと抱きしめたくなってしまう。
動揺して慌てふためく玲子に、笑いかける。

「強くなれよ、俺の傍に一生にいるためにな」


***




俺には婚約者がいる。
強くて頼もしくてかっこいい、可愛い婚約者がいる。







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