「ねんねこ、ねんねこ、ねんねこや」

懐かしい郷愁を感じさせる唄を歌いながら、あやは縫物をしている。
小さなそれは涎かけ。
膨らみ始めた腹を愛おしげに見つめながら、あやはただ歌う。

「………あや様」

傍に控えていたなつのは、そんなあやを痛ましげに見つめる。
全てを知らされた乳姉妹は刃物を持って兄達に襲いかかろうとすらした。
そんな唯一の理解者を、あやは愛しげに見上げた。

「なつの、そんな哀しそうな顔をしないで」
「だってっ」

自分の代わりに怒ってくれる存在を心から嬉しく思いながら、あやは目を伏せる。
そしてそっとその腹をさすった。

「最初はね、信じたくなかったのよ。それでも信じたくなかったの」

兄達が、仁助を死に追いやったなんて、信じたくなかった。
困ったところはあるけれど、それでも愛する兄弟だった。

少し自分本位だけれど、それでも包容力のある長兄。
乱暴なところはあるけれど、頼もしい次兄。
お調子もののところはあるけれど、明るく楽しい三兄。

自分を一番に愛してくれる、愛しい兄達。
父と母が留守がちの家では、彼らがあやにとっては家族だった。

信じたくはなかった。
けれど、仁助が死んだと言う知らせを受けて、まっさきに脳裏に浮かんだのは三人の兄達だった。
あやが抱いた淡い恋心を、常に妹を監視していた兄達が気付かぬ訳はない。

最初は些細な嫌がらせだった。
仕事を多く言いつける、してもいない失敗で叱りつける。
それに気づいたあやは、仁助に近づくのをやめようとした。
自分の好意が仁助に迷惑をかけていると気づいてしまった。

いずれ嫁に行くとしても、仁助の元へいけることはないだろう。
父と母が家柄と家の未来に相応しい嫁ぎ先を見つけるだろう。
自分の淡い想いは実ることはない。
それならば、そんな些末事で恋しい人に迷惑をかける訳にはいかない。

けれど、仁助は自分よりも明確な想いをもっていてくれたらしい。
余所余所しくなったあやに、あなたと離れたくないとそう告げた。
迷惑をかける訳にはいかないと拒むあやに仁助は言った。

いずれ認めさせてみせる。
強情な兄達も、家が第一の両親にも認めさせるだけの実績を作ってみせる。
それまでは耐えてみせる。
だから、あなたも耐えて、待っていてくれ、と。

若く一途で純粋な恋情。
性根の真っ直ぐな優しく強い男は、その情熱であやの心を溶かした。
あやは、その時淡い想いが、相手と同じ、いやそれ以上に強く激しい想いに代わるのを感じたのだった。

「………お嬢様、仁助さんが……」

そう告げたのは、なつのだった。
その血の気の失った顔を見て、何が起こったかは聡明なあやにはすぐに分かった。

兄達の仁助への扱いは日に日に苛烈になるばかりだった。
他の兄弟と争うように競って仁助を苛めぬいた。
あやは何度も仁助に逃げてくれと言った。
こんなところにいる必要はない。
私もいずれ逃げるから、それまで待っていてくれ、と言った。

けれど若く真っ直ぐな男は、これくらい耐えてみせると笑った。
いつか強情な兄達にも認めさせてやるのだと自信に満ちた顔で笑った。

仁助は気付かなかった。
あやも気付かなかった。

兄達の想いは、可愛い妹を取られる嫉妬、家柄に釣り合わない恋への妨害。
そう言ったものだと思っていた。
だから本物の殺意を抱いているなんて、二人は気付けなかった。

そしてあやは、最大の失敗を犯してしまったのだ。

「ねえ、なつの。私は、信じたかったの」

それでも、兄達を信じたかった。
仁助をそこまで追い詰めたなんて、信じたくなかった。

優しい兄達だった。
愛しい兄達だった。
大切な兄達だった。

ただ、加減を知らなかっただけなのだと。
さすがに罪悪感を持って、罪を悔いてくれるのだと信じていた。

「あや、ようやくあの男がいなくなったよ」

けれど、仁助の死の知らせを受け気を失ったあやの横で、長兄はそう言った。
あやが聞いていないと思ってか、堪え切れない喜色を滲ませた声で言った。

「お前を奪おうなんて、思い上がりも甚だしい。使用人風情が全く生意気なものだ。これであの男も思い知ったことだろう。ああ、清々した」

全身が凍りつくようだった。
目を瞑りながら、指先まで血が冷え切っていくのを感じた。
彫刻のように動くことができないあやの唇に、そっと温かい何かが触れた。
小さく震えたのに、長兄は気付くことはなかったらしい。
そのまま衣擦れの音がして、部屋から気配が消えるまであやは動くことが出来なかった。

気配が消えたのを確かめてから、あやはようやく身を起こし、顔を覆う。
絶望を、身が苛む。

「嘘、嘘、嘘よ、嘘よっ」

信じたくなかった。
信じたくなかった。
いや、心のどこかで分かっていた。
だからこそ、信じたくなかった。

兄が、自分に恋情を抱いているなど。
おぞましい、畜生にも劣る想いを、この身に抱いているなど。

「ねえ、なつの。三人ともよ。三人とも。正気を失った私を抱こうとしたの」

くすくすと笑うあやを、なつのが泣きそうな顔で見ている。
幼い頃から一心に自分に仕えてくれて、仁助との恋を応援してくれた可愛く愛しい幼馴染。
いまやあやの心を癒してくれるのは、なつのだけだった。

あやは、それでも信じたくなくて、正気を失ったふりをした。
仁助を失った衝撃から、気が触れた女を演じた。
すると兄達は、それこそを喜んで受け入れた。
お人形を愛しむように、物を与え、あやを好きに扱った。
あやが少し甘えてみせれば、すぐにも忍耐を放り出した。

あやの純潔は、次兄が奪った。
長兄と三兄は、生娘ではないあやに、仁助への恨み事を口にした。
それを聞いて、滑稽すぎてあやは大笑いしてしまいそうだった。

仁助とは、接吻もすることがなかった。
ただ手が触れるのさえ精一杯の、恋だった。
身を焦がす想いを書にしたためて、交換することが唯一の交わりだった。
その書すらも、兄達によって奪われてしまったけれど。

「ただ一人でも、私に手を出さない人がいれば、私はその人に助けを求めようと思ったの。その人をただ信じようと思ったの」

けれどあやは賭けに負けた。
三人の兄達は狂った想いを、あやにぶつけてきた。
仁助への、そして他の兄弟への憎しみを口にしながら、あやを愛した。

「………でもね、私が悪かったのかもしれない」
「あや様!?」
「兄様達は、昔は仲のいい兄弟だったと聞いたわ」

あやが生まれるまでは、喧嘩をしながらも仲のいい兄弟だったと聞いた。
長兄は厳しくも優しく弟達を導き、次兄は長兄に反発しながらも尊敬し、三兄を守り、三兄は、兄達に憧れ後をついていった。
そんな、理想的な兄弟だったと、聞いた。

「私が、全ての元凶なのかもしれないわね」

あやが生まれたことで、壊れてしまった均衡。
三人はこぞってあやの歓心を買おうと、他の兄弟を出し抜こうと、年々お互いへの憎悪を募らせていった。
あやはそんな兄達を哀しく思いながらも、どうすることも出来なかった。

「仁助さんを殺したのも、結局私なんだわ」
「あや様、そんなことはっ」
「仁助さんが何を言おうと、こんな家からは逃げてもらうべきだったのよ。いえ、私が仁助さんから離れれば、それで済んだの。兄様達だけを見ていれば、きっとこんなことにならなかったわ」

あやが仁助に恋することがなければ、兄達はここまで狂わなかった。
あやが三人の兄達だけに心を許していれば、仁助が苛め抜かれることはなかった。
仁助が死ぬこともなければ、こんな畜生道に堕ちることもなかった。
いずれ両親の決めた相手に嫁ぎ、兄達は自分を諦めることが出来ただろう。

「だから、私は兄様達を狂わせた、責任を取らなければね」

兄達に抱かれるのは、きっと罰だったのだろう。
兄達の想いを無視し続けた、その報い。
そんなことを信じたくなくて、普通の兄妹でいたかった。
だからこそ見て見ぬふりをして、何もしなかった。
そして身の程知らずにも恋をした。
仁助を巻き込み、死に追いやった。

「こんな疵物の私を、父様も母様も、嫁に出す訳にはいかないでしょう」

父と母は、薄々事情に気付いているようだった。
あの人達はきっとずっと、兄達の歪んだ執着に気付いていた。
会社のある地でずっと暮らしている両親は、あやの知らせを聞いても帰ってこようとしなかった。
きっと現実を見たくはないのだろう。

「兄様達の望むとおり、私はずっとこの家にいることでしょう」

この腹の子を産み育て、この家に縛られるだろう。
箱にしまわれた人形のように、大事に大事に扱われ、愛でられ、意志を無視される。

「でもきっといずれ兄様達は、誰かを娶るのでしょうね」

それぞれに仕事を持っている兄達は、きっと嫁を娶ることだろう。
そして後継ぎを作ることだろう。
以前だったら、あや一人を愛することすら厭わなかったかもしれない。
でも、今ではもう無理だろう。
あの人達はいずれ、この家を出ることだろう。
あやを愛しながらも、あやから目を逸らしたいがため。
自分達がめちゃくちゃに壊した妹を、見たくはないから。

「でもね、忘れさせてなんてあげない。自由にしてなんてあげない。絶対にこの家には帰ってきてもらうわ。そしてあの人達はこの子の顔を見るたびに、自分の罪を思い出すわ。他の兄弟達の子かもしれない、自分の子かもしれない。愛するのかしら、憎むのかしら。でもきっと、苦しんでくれるでしょうね」

あやは兄達の言うことを聞いた。
兄達の望むとおりになった。
だから、あやにだってこれくらい望むことは許されるだろう。
一生罪に苛まれ、苦しむことを望むことぐらい、許されるだろう。

「一緒に苦しむことぐらいは、許されるでしょう?」

なつのは苦しげに、あやを見つめている。
あやはなつのを苦しめる自分が、いとわしいと感じた。
人を苦しめることしかできない自分の存在を、心底憎いと感じた。

「でもね、なつの」

あやは自分の腹をさすり、目立ち始めたふくらみに目を細める。
その顔色は先ほどと違って、憑き物が落ちたように穏やかだ。

「たとえ鬼にも劣る想いの末に出来た子であろうと、私はこの子が愛しいの。私はこの子を復讐の道具にした。それは絶対に許されないでしょう。私は更に罪を重ねたわ。きっと地獄に堕ちるでしょうね」

日々腹の中で育っていく、命。
罪にまみれ罰を受けた身に宿る、可哀そうな命。
憎く、愛しい兄達の子。
自分を煉獄へ堕とすことになるこの子が憎い。
生まれおちた瞬間に罪を受けるであろうこの儚い命が、愛しい。

「でもね、この子には、幸せになって欲しいとも思うの。虫のいい話でしょうけど」

思いは揺れる。
この子を復讐の道具として、兄達を苛むために扱おうという思い。
この子を無垢なまっさらな命として、自由に生きさせてやりたいという思い。

「ねえ、なつの。お願いがあるの」

あやは自分の唯一の理解者を見上げて、切なげに顔を歪めた。
すがるようになつのに、ただ一つの願いを口にする。

「あなただけは、この子の幸せを純粋に願って。そして、この子を愛してあげて」

大切な主人の言葉に、なつのは泣きながら崩れ落ちた。





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