「下田のお嬢様は、相変わらずなのかい」 「ああ、気立てがよくてお綺麗なお嬢様だったのにねえ」 少女は一人、人形で遊んでいる。 人形と揃いの美しい着物を身にまとい、背に流れるはからすの濡れ羽色。 白いかんばせに椿のように色づく唇。 顔に浮かぶは穏やかな微笑み。 「あや」 一人お人形遊びをしていた美しい少女は、落ち着いた声に振り向いた。 そこには鷹揚とした余裕を感じされる壮年の男がいて、少女は顔を輝かせる。 「まあ、一郎兄様、ようこそおいでくださいました」 「いい子にしていたかい、あや」 「あやはいつでもいい子でしてよ。今日はなつのとお人形遊びをしましたの。兄様がくれたお人形よ。かわいいお人形をどうもありがとう」 幼くあどけない様子で首を傾げて兄を見上げる少女に、一郎と呼ばれた男は相好を崩す。 少女はもう二十に近いだろうに、その様子は幼子のようだった。 人形遊びをするような歳でもないだろうに、兄はそれを咎めることはない。 「そうかそうか。あやが喜んでくれて私も嬉しいよ」 「ええ、大好きよ、一郎兄様」 さらさらとこぼれる芳しい髪を弄びながら、一郎はあやを見下ろす。 それに応えてあやは嬉しそうににこにこと笑う。 脇の髪を軽く結った結び目には螺鈿の美しいかんざりが飾られていた。 「おや、この髪飾りは」 「これは二郎兄様がくださったの。綺麗でしょう?」 「………そうか。全くあいつは………」 自慢げに胸を張るあやとは裏腹に、一郎は一気に顔を曇らせる。 いつだって長男たる自分に反発する忌々しいすぐ下の弟を思い出して、苛立ちと怒りが浮かぶ。 あやが弟の贈り物を身につけているのは、心底気にいらない。 けれど取り上げれば、きっとあやは泣くだろう。 憎々しげに眉を顰める兄を、あやは不安そうに見上げた。 「一郎兄様?」 袖をひいて兄の気を引こうとするあやに、一郎はたまらない愛しさを感じる。 胸に浮かんだ憎悪がさっと消え去り、また穏やかな微笑みが顔に浮かぶ。 畳に膝をつくと、その広い胸に可愛い妹を引き寄せる。 「あや。あやは私のものだよ。それを忘れてはいけないよ」 「はい、兄様。あやは一郎兄様のものです。大好きです、兄様」 あやは微笑んで広い胸にその頬を擦り寄せた。 従順な言葉に一郎は満足げに微笑み、そっと息をつく。 「二度と、あんな使用人に近づけさせるものか」 憎悪の籠った言葉は、安心しきって目を閉じるあやには聞こえていないようだった。 「あや」 つぼみがほころび始めた庭の花を愛でていると、後ろから長身の男が現れた。 後ろを振り返り、あやはにっこりと微笑んだ。 「まあ、二郎兄様。来てくださったのね!最近お見えにならないから寂しかったのよ」 「悪いな。仕事が忙しくて」 「いくら忙しくても、あやを忘れてはいやよ」 拗ねた様子で頬を膨らませるあやの可愛らしさに、自然と二郎の目尻は下がる。 いつも険しい顔で部下に恐れられている男とは思えない、やにの下がった顔。 愛しい妹の前でしか見せない表情のまま、二郎は妹を抱き上げる。 「ああ、分かってるよ。俺のかわいいあや。あやは本当にかわいいな」 「うふふ、ありがとう」 兄弟の中で一番大きくたくましい兄に抱きあげられ、あやは朗らかな笑い声を上げる。 その声は、静かな邸内にさわやかな風のように響いた。 「あやは今日もかわいいな」 「あやはかわいいかしら?」 「ああ、勿論だ。今日の着物もよく似合っている」 そう言いながら、軽く顔を険しくする。 あやが身につけている着物は見たことがなく、新しく高価なものだった。 「この着物は、どうしたんだ?新しいよな」 「これは三郎兄様にいただいたの。猫柳がかわいいでしょう?」 「………ああ、そうだな」 調子がよく要領のいい三男の軽薄な顔が思い浮かび、苛立ちが浮かぶ。 自分の目を盗んでこそこそとあやに近づく三男は、まるで鼠だ。 「全く、あの男がいなくなった途端、あいつらは」 「兄様?」 吐き捨てるように言うと、あやは抱きあげられたままきょとんとした顔で次兄を見下ろす。 二郎は苦笑すると、そのままぎゅっと愛してやまない妹を抱きしめた。 「あや。あやが気狂いになろうと、俺だけはお前を見捨てないからな」 「どうしたの、二郎兄様?」 「俺だけは、ずっとお前の傍にいる」 「ええ、二郎兄様。ずっとずっと、あやの傍にいてくださいませ。あやは二郎兄様がいなくては寂しいわ」 くすくすと笑って首にしがみついてくる妹に、任侠筋とよく間違えられる二郎の顔はだらしないほどにゆがむ。 そんな自分に苦笑しながらも、愛しい妹には適わない。 「あや」 そして可愛い可愛い妹を、その腕に抱きしめる。 「あやちゃん、ただいま」 書道をしている時に、ふすまがすっと開いて明るい声が響いた。 あやは振り向いて、満面の笑顔を浮かべて立ち上がった。 「三郎兄様!今日は早いのね!」 「ああ、あやちゃんに早く会いたくてね」 「嬉しいわ!」 すぐ上の兄は、部屋の中を明るくするような笑顔を浮かべて飛びついてきた妹を受け止めた。 軽い妹は、勢いよく飛びこんできても、痛くもかゆくもない。 ただただ、その重みが心地よいだけだ。 「ほら、お土産だよ。あやちゃんの好きな船橋屋の久寿餅だ」 「まあ、ありがとう。あやは久寿餅が大好きよ」 「ああ、今日は亀戸の方からお客様が見えてね。お土産にいただいたんだ」 「ありがとう、三郎兄様も大好きよ」 「久寿餅の次にかい?」 「久寿餅と同じぐらい」 悪戯っぽく兄を見上げる妹に、二人は同時に噴き出した。 くすくすと顔を見合わせて笑い合う。 三郎の手から久寿餅を受け取って、あやは裾を翻してくるりと廻って喜びを表現する。 その様子はまるで蝶々のようだった。 「嬉しいわ」 「よかった」 「でも、今日はお菓子がいっぱいだから、あや食べ過ぎてしまうわ」 「おや、そんなにいっぱいお菓子があるのかい」 三郎がからかうように言うと、あやはにっこりと笑った。 「ええ、一郎兄様も二郎兄様もいっぱい持ってきてくださったの」 「………」 すっと人好きのする笑顔を消して、三郎は冷たい光を目に宿す。 そして先ほどまでの朗らかな声ではなく低い声で憎々しげにつぶやく。 「排除しなければならないのは、あの男だけじゃなかったね」 その声に怯えたように、あやは顔を曇らせる。 そして三郎の頬にその白魚のように白い手でそっと触れる。 「どうしたの、兄様。怖い顔。あや、怖いわ」 「ああ、ごめんごめん、悪かったね。あやちゃんを怖がらせるなんて悪い兄だった。三郎兄様を許してくれるかい?」 「仕方ないわね。許して差し上げるわ」 「ふふ、ありがとう」 大人ぶって言う妹に、三郎はまたその明るい笑顔を取り戻した。 頬に触れる手の上から自分の手を重ねて、愛しい妹を目を細めて見つめる。 「あやちゃん。あやちゃんのためならなんでもしてあげるよ。美味しいものも綺麗なものも全部全部君にあげる」 「ありがとう、兄様」 「だから、あやちゃんは僕にちょうだいね」 「ええ、あやは三郎兄様にあげるわ」 にっこりと笑う妹を、三兄は優しく抱きしめた。 「一番はじめは一宮、二また日光東照宮」 鈴を転がすような声で歌いながら、美しい縮緬のお手玉を放る少女は、あどけない。 歳にそぐわない幼さが、どこか儚く痛々しかった。 「あや様………」 お茶の用意をしていた使用人のなつのが、仕えるお嬢様の変わり果てた姿に痛ましげに顔を歪める。 あやがこうなってずいぶん経つが、いまだに慣れることが出来ない。 下田のお嬢様は、朗らかで快活で賢く、音に聞こえた美しく聡明な自慢のお嬢様だった。 「どうしたの、なつの?」 振り向くあやは、子供のようにいとけなく、昔の賢明さはすっかり失われていた。 しかし、その様子が彼岸花のように毒々しく美しく、尚、魅力的に咲き誇るかのようだった。 幼い頃から付き添った大切なお嬢様は、気が触れてからますます美しさを増したように感じる。 「あや様は、幸せですか」 「幸せよ、どうしたの、なつの?」 首をちょこんと傾げるあやは、美しい。 けれどその美しさが、より一層なつのの胸に突き刺さる。 「………あの時、仁助さんがお亡くなりにならなければ、こんなことには」 「仁助さん?どなたかしら?」 「………っ」 その名前になんの反応も返さないあやに、なつのは息を呑む。 誰よりも愛しいお嬢様の、誰よりも大切な人だった。 「仁助さんは、あなたが一番大切だった人です!」 「だあれ?物語に出てきた人かしら」 「………あや様」 見ていて、微笑ましくなるような清い恋愛だった。 それこそ、まるで物語のようだった。 下田の家の書生をしていた将来有望な、頼もしい青年だった。 身分違いとは言え、優しく敏くお嬢様にふさわしい青年だった。 いずれ二人が駆け落ちでもするのだったら、絶対に協力しようとなつのはずっとそう決めていたのだ。 「………なんて、おいたわしい」 美しく、優しいあや。 誰からも愛される身分の高いお嬢様は、しかしそれに奢ることなくただ謙虚に、誰でも等しく愛した。 使用人である仁助にもなつのにも、いつだって優しく、平等に接した。 だからこそより皆から愛された。 そして、実の兄達からも溢れんばかりの愛情を注がれていた。 「仁助さんは、お兄様達に殺されたんです、あなたを奪われたくないからっ」 ずっと堪えていた憎悪が、なつのの心を焼く。 目に涙を浮かべながら、なつのは悔しげに唇を噛みしめる。 仁助を失ったこと、そのことでお嬢様の気が触れてしまったこと。 その全ての原因は、この家の息子達にある。 実の妹であるあやに、歪んだ執着を向けてやまない、狂った息子達。 「あの人達が、殺したんだっ」 忌々しげに叫んだなつのの唇を、白い指がそっと抑えた。 そのひやりとした感触に、なつのは驚いて息をのむ。 「なつの」 「あや様………?」 じっとなつのを見つめるあやの目には、気のせいかいつかの賢明な光が宿っていた。 どこか切なげに目を細めて、なつのに笑いかける。 「なつの、さあ、お手玉をしましょう」 そしてあどけない顔でそう言うのだった。 三人揃ってあやの部屋を訪れると、あやは正装をして正座をして待っていた。 兄達の顔を見て、嬉しそうに微笑む。 「兄様方、来てくれてありがとうございます」 いつものようにあどけなく笑う妹に、兄達は揃って表情を緩めた。 下手な他人以上に忌々しい己の兄弟が横にいようとも、妹の愛らしさには敵わない。 「どうしんだ、あや。私たちを皆呼ぶなんて」 穏やかに笑ったまま、一郎が聞いた。 あやはまるで内緒話をするように小さく笑う。 「どうしても、皆様に聞いていただきたくて」 「どうしたんだいあやちゃん。何かびっくりするようなことがあるのかい?」 三郎が楽しそうに妹に問いかける。 昔から悪戯をしかけてくる時の妹は、こんな風に笑うのだ。 そのどれもが、周りを喜ばせようとする可愛らしい悪戯だったのだが。 「ええ、兄様方、喜んでくださいませ」 「なんだ、楽しみだな」 「うふふ」 二郎も妹の悪戯が楽しみで、その怖い顔を緩める。 あやは堪え切れないように笑いながら、高い位置で締めた帯の下の辺りを優しく撫でる。 そして言った。 「あやに、ややが出来ましてよ」 満面の笑みで兄達を見上げるあやは、美しくあどけない。 それだからこそ、何を言われたのか即時に理解できる人間はいなかった。 「え」 「何」 「………あや?」 あやはにこにこと笑いながら、三者三様に戸惑う兄達を見上げている。 そしてもう一度、付きつけるように言った。 その腹を愛おしげに撫でながら。 「天神様が、あやにややを授けてくださりましたの」 その言葉がじわじわと、男達の脳に染みわたる。 そして、一番最初に反応を示したのは、長男だった。 「………それは、まさか」 蒼白な顔で唇を震わせる長兄に向けて、あやはころころと笑う。 「まあ、一郎兄様、何を驚いていらっしゃるのです」 そして唇を歪めて、小さく首を傾げた。 「あんなに頼もしく抱きしめてくださったのは、偽りでしたの?」 「………っ」 言葉を失い、妹を見つめて立ちつくす。 その顔は青を通り越してもはや土気色だった。 「兄貴!?」 「兄さん、どういうこと!?」 両隣りの弟達が怒りに満ちた声で詰め寄る。 しかし次兄の拳が長兄を殴りつける前に、あやは先を続けた。 「ああ、でも二郎兄様のややかもしれません。二郎兄様はいつも荒々しくあやを求めてくださいましたね。体に痕が残って、他の兄様にばれないかとあやはいつもひやひやしておりましたわ」 「………あ、や」 その言葉の端々から、隠しきれない毒を感じて兄達は妹を見下ろす。 愛しい愛しい妹は変わらず朗らかに笑っていた。 そして今度は三兄を見上げる。 「三郎兄様は、いつも優しく、沢山愛の言葉をくれましたね。あやはいつも嬉しかった」 完全に言葉を失い立ちつくす兄達を見上げ、妹は楽しくてたまらないと言うようにくすくすと笑う。 それは悪戯を成功させた時に見せる、兄達も愛する妹の微笑みだった。 「あははっ、どなたのややかは、分かりませんわ。でも優しい兄様方は、この子をててなし子になさらないでしょう?」 愛しげに腹をさすりながら、あやは笑い続ける。 まるで見知らぬ女のように、兄達は一歩後ずさり妹を遠巻きに眺める。 そんな男達の滑稽な様を見て、あやは目を細めた。 「それともこの子もまで殺します?仁助さんのように?」 「あや、お前、覚えて………」 一郎の、恐怖に満ちた震えた声。 あやは何を今更というように、鼻で笑い飛ばした。 「勿論ですとも。あやはよく覚えておりましてよ。兄様方がおっしゃったんじゃないですか。あやは賢いって」 自慢げに胸を張る妹はいつもと変わらずいとけない。 それゆえに美しくて、そして毒々しかった。 「ね、一郎兄様が限界まで疲れ果てさせ、二郎兄様が真夜中に用事を言いつけ、三郎兄様が手入れのしていない車をお貸しになった」 そこでようやく顔に張り付いた微笑みを、取り払った。 能面のような白い顔で、兄達を見つめる。 「あの夜じゃなくても、きっと兄様方は繰り返したでしょうね。仁助さんが死ぬまで。何度も何度も」 そして、目を閉じて、俯いた。 再度顔を上げた時には、やはりあやは笑っていた。 幼子のようにあどけなく、無邪気に、美しく。 「さあ、あやは兄様方のものになりましたよ。皆様の望むとおりあやは兄様方のもの。あやは一郎兄様のものでございます。二郎兄様はあやの傍にずっといてくださるのですよね。三郎兄様はあやの望みを叶えてくださるのでしょう?」 鈴を転がすような声は、いつも邸内を明るくしてくれた愛しい声。 優しく兄達に示す言葉は、いつも兄達が求めていた愛しい妹の愛の言葉。 「ややは、どなたに似るのでしょう。兄様方は皆似ていらっしゃるから、きっと誰の子でも分からないでしょうね。兄様方全員に、可能性はありましてよ」 誰よりも憎い兄弟の子かもしれない。 けれど誰よりも愛しいあやと自分の子かもしれない。 全員血の通った兄弟は、趣は変われど似通っている。 自分に似ていると思った瞬間には、兄弟の子かもしれないと疑うことだろう。 「ねえ、兄様方。ずっとずっと、あやといてくださいませね。この子と一緒に」 あやは愛しげに腹をさすりながら、にっこりと微笑んだ。 「下田の家に、赤ん坊が生まれたってねえ」 「誰の子なんだろうね。あそこのお嬢様は気狂いだっただろう。家から出ることもなかっただろうに」 「気狂いなのは、あそこの息子達だね」 「あんまり変なことを言うと、この町にいられなくなるよ。くわばらくわばら」 |