彼はとてもとても、優しい恋人だった。 告白したのは、私から。 同じ人間とは思えないほどに、なんでも出来る人だった。 頭が良くて運動も出来て顔も良くて、それなのに人当たりもよくて人望もあって。 うぬぼれかもしれないけれど、私には特別優しい気がしていた。 彼の周りにいる女の子の中で、誰よりも甘やかされている気がしていた。 だから、告白した。 自分はそれなりにかわいいとは思う。 けれど、彼の周りには可愛い子が沢山いる。 彼はすごくモテるし、誰にでも優しい。 でも、私には特別優しい気がする。 半分の自信と、半分の不安。 OKしてくれた時は、本当に世界が輝いた気がした。 馬鹿みたいだけど、本当にそう思ったのだ。 初めての彼氏。 優しくて完璧な彼氏。 周りの女の子たちの嫉妬も羨望も、気にならないほどの幸福。 私は浮かれていた。 彼は付き合ってからも優しく優しくて、その優しさに蕩けてしまいそうだった。 部活で忙しいのに遊びに連れていってくれるし、学校では人目もはばからず優しくしてくれた。 博識で色々なことを知っていて、話しているのも楽しかった。 自然に手を繋いで、自然に抱きしめられて、自然にキスをされた。 他の男の子みたいながっついた感じは全然しなかった。 その先だってしてもいいと思っていた。 ただ、自宅には絶対につれていってくれないのが、不満だったけど。 でも、それでも、そんなの些細なことだった。 彼は、本当に優しい、完璧な恋人だったのだ。 「あ………、しみ、ず」 下駄箱で会った彼は、私の顔を見てにっこりと笑った。 まるであの時のやりとりなんてなかったかのように。 冷たく酷い言葉で私を振り払ったのは、やっぱり別人だったのではないかと思ってしまう。 今目の前で優しく笑う彼は、いつも通りの優しい彼だったから。 「ああ、ゆり。いや、伊藤さん、おはよう」 しかしわざわざ苗字に言いなおしたところで、あれは現実だったのだと思い知る。 信じられなかった。 信じたくなかった。 私は、彼にふられたのだ。 週末に振られて、あんなことがあって、私は週明けに二日間休んでしまった。 人に悪意を向けてあんなことをしてしまったのが怖かった。 自分が信じられなかった。 何よりも、彼にふられたことが、信じられなかった。 怖くて怖くて、学校に来られなかった。 夢なんじゃないかと何度も何度も思って。 けれど携帯は電話どころかメールを受信したりもしない。 一日に一回は必ずメールをくれていたのに。 恐る恐る来た学校で、最初に出会ったのは彼。 思わず逃げ出したくなってしまう。 あんな風に冷たく私を切り捨てる彼は、もう見たくない。 けれど清水は以前と変わらず蕩けそうに優しく笑う。 「体は大丈夫?」 「え………」 「二日間も休んでだから」 そして穏やかな声で、私を気遣う。 「遅れちゃうよ」 明るく言って通り過ぎていく彼は、やっぱり先週見た彼とは全然違う。 あれは、夢だったんじゃないかと、思う。 けれどいつもなら一緒に教室に行く彼は、私を置いて立ち去った。 「ねえ、ゆり、あんた、清水と別れたんじゃないの?」 「………う、ん」 クラスの中でも仲のいいカリナが、そっと聞いてくる。 休んでいる間にメールがあったので、軽く事情を話しておいた。 あの非現実的な出来事は、言えなかったのだけれど。 「だけど、あいつ、普通だね。何あれ、ちょっと態度悪くない?」 「え………、いや、うん………」 「ちょっと私、言ってやろうか」 「あ、いいよ!いい!そんな!」 今にも清水に殴りかかりそうなカリナを慌てて止める。 そんなことはされたくない。 なぜされたくないのだろう。 彼を傷つけたくないのか。 ふられたことを直視したくないのか。 ふられてすがりつくような惨めな真似をしたくないのか。 分からない。 何も分からない。 「………ゆり」 「いいの。………うん、いい」 俯く私に、カリナの方が泣きそうに顔を歪める。 それで少しだけ冷たかった心がふわりとほどけたがした。 「だって、本当に理由分からないんでしょ?聞いた方がすっきりしない?」 「それは………、そう、だけど」 理由を聞いてみたくはある。 飽きたと言われても納得なんて出来ない。 前日まで、私達は確かに仲がよかった。 普通の恋人同士だった。 なぜ、こんなことになってしまったのか、分からない。 「でも、聞きたくない」 だって、それは聞きたくないことだと思うから。 人気のない旧校舎は、誰もいなくてしんとしている。 あの時と、同じだ。 あの時のことを思い出して、胃がキリキリと痛む。 「あのさ、清水。ゆりのことなんでふったの」 いくらいいと言ってもカリナは聞いてくれなくて、結局呼び出してこんなことになった。 私は同席は絶対嫌だと言うと、じゃあ聞きたかったら教室の外で聞いておけばいいと言われた。 結局それでここに来てしまう、私も私なのだけれど 盗み聞きなんて、いいことじゃない。 でも、知りたい。 理由を、知りたい。 友人に嫌な役をやらせて、自分だけ安全圏にいるなんて、なんて私は嫌な奴なんだろう。 こんな気持ちの悪いこと、したくなんてなかった。 自分にこんな感情があるなんて、知らなかった。 「そういうの、あまり他人には言いたくないんだけど」 扉越しに清水の、穏やかな声が聞こえてくる。 やっぱり落ち着いた、優しい声。 「だって、ゆり、泣いてた!本人は聞かなくていいって言うし!あの子のどこが悪かったのよ!あんなにいい子なのに」 「俺と、ゆりの問題なのに?」 カリナの息を飲む音。 けれどすぐに怒鳴りつけるように、響く声。 「だって、あの子は私の友達だもん!あの子が泣くの、見たくない!」 きゅうっと胸が痛くなった。 目頭が熱くなって、涙がこぼれる。 「優しいね、湯川さん」 「なっ!」 笑いを含んだ清水の声。 怒りに言葉を失うカリナに、けれどすぐにそれを制止する。 「馬鹿にしてる訳じゃない。いいなと思っただけ。ゆりには、何も問題なかったよ」 「じゃあ、なんで!」 「ゆりはかわいかった。いい子で、優しかった。でも、恋愛感情で見れなかったんだ」 まるで用意されていたかのように、すらすらと話す。 台本に書かれた台詞を読んでいるのかのようだ。 「すごくかわいくて好きだった。でも、妹みたいに思えた。告白されて、俺も好きだったから安易にOKしちゃったけど、するべきじゃなかったね」 「そんなの………」 「ゆりには悪いことした。俺が全面的に悪い。せめて早く次に好きな人見つけてくれるといいんだけど………」 「………そんなの」 苦しそうに声を震わせる、清水。 それはまるで私のことを本当に気遣って申し訳ないと思っているようだ。 なんて綺麗な台詞。 なんて完璧な態度。 なんて嘘くさい言葉。 「俺が言うことじゃないけど、湯川さん、ゆりのこと頼めるかな」 「それは、勿論だけど………」 「俺が悪いってことで、周りの人には言っておいてくれるかな。俺が勝手にふったって」 「………」 カリナの声に、さっきまでの怒気は含まれていない。 気持ちは分かる。 清水の穏やかな声は、聞いているだけで何もかもを信じてしまいそう。 彼の言っている言葉は、全て正しいのだと思ってしまいそうになる。 先週までの私が、そうだった。 ただ、盲目的なまでに彼を信じていた。 「本当に、ごめんね」 最後に、清水は泣き出しそうな声でそう言った。 「………嘘つき」 旧校舎から出ていくところを待ち伏せて、私は清水を捕まえた。 許せなかった。 ふられて初めて、彼への怒りが沸いた。 私が好きじゃないというなら、それでいい。 私をふるというのなら、哀しいけれど受け止めよう。 けれど、あんな嘘は許せない。 「伊藤さん」 清水は私を振り返り、困ったように眉を潜める。 それは本当に申し訳ないと思っているようで、余計に怒りで頭に血が上る。 「どうして、あんな、嘘つくの」 「嘘?」 「カリナに、どうして、あんなこと言ったの!」 何が妹だ。 何が好きだった、かわいかっただ。 何が自分が悪い、だ。 好きになれたら、よかった、だ。 「あれが、本心だよ。伊藤さんには、俺のことなんてさっさと忘れて幸せになってほしい」 「嘘つき!嘘つき!何が妹よ!何がかわいいよ!最初から私のことなんてなんとも思ってなかったくせに!」 そうだ、最初から私のことなんて、なんとも思ってなかったくせに。 だから私は理由を知りたくなかった。 これ以上清水の言葉を聞きたくなかった。 一緒に過ごした時間まで否定されたくなかった。 楽しかった時間を、汚されたくなかった。 「嘘つき!私のこと、好きでもなんでもなかったくせに!」 でも、カリナへ言った言葉で、分かった。 あんな優しくて綺麗な言葉、嘘だ。 先週までの私だったら信じたかもしれない。 でも私は知っている。 清水の冷たい目を、酷い言葉を、面倒くさそうな態度を。 きっとあれが、彼の本心。 「それは、誤解だ。伊藤さんはかわいかった。好きになれたらよかったって思ってた」 「嘘つき!」 けれどあの時の彼は幻だったように、あくまで目の前の清水は穏やかだ。 困ったように笑って、申し訳なさそうに眉を潜める。 「………伊藤さん」 ふられて、それが認められず駄々をこねる惨めな女を見るようにため息をつく。 屈辱に、お腹の中が熱くなる。 好きじゃないならそう言えばいい。 私以外が好きだというならそう言えばいい。 私がかわいかったなんて嘘だけは、許せない。 何が妹のようだ。 何も思わなかったくせに。 そうだ、ただ利用していただけなくせに。 そう、私は、利用されたのだ。 何一つ不満を見せたりもしない、完璧な優しさ。 仮面のように取り繕ったような笑顔。 何でも聞いてくれて、何でもしてくれたけれど、外出を断られることも多かった。 自宅には絶対に呼ばない。 けれどあの日、呼ばれたのはなぜだった。 彼の最優先は、なんだった。 あの時、あの階段で、感じた感情は、なんだった。 私は清水の態度と、あの人の態度を見て、直感したのだ。 「清水が好きなのは………っ、本当に好きなのは、あの、あの人なんでしょ!」 清水が好きなのは、清水が引きとめておきたいのは、あの人なのだ。 あの、地味で暗い、みすぼらしい人なのだ。 だから私は、衝動的に、彼女を排除しようとした。 なんて醜い私。 「伊藤さん?」 「変だよ!そんなの変!そんなのおかしい!だって、実の姉弟でしょ!?」 逆上すると思った。 あの時のように、振り払われると思った。 冷たい目で見下されると思った。 それならそれでよかった。 せめて本心を見せてほしかった。 「何言ってるの、伊藤さん?」 けれど清水は困ったように首を傾げるだけ。 私が何か馬鹿なことを言っている、といった態度を崩さない。 今私達の姿を見たら、ふられた女と、その虚言を受け止めている可哀そうな男と思われるだろう。 「ごめんね、そんな変なこと言われても、やっぱり伊藤さんを恋愛感情で好きにはなれないんだ。俺のこと、早く忘れて」 悔しい。 悔しい悔しい。 自分の中にこんな激しい感情があると思わなかった。 「………言うよ」 「何を?」 「皆に言う!あの人が清水を縛っている訳じゃない!清水があの人をっ………」 くっと音が聞こえた。 その音に俯いていた顔を上げると、清水がくすくすと笑っている。 とても楽しそうに綺麗に笑っている。 「し、みず………」 「ねえ、伊藤さん。君を酷いふり方をしたことは、本当に謝る。ごめんね」 「………」 謝るところはご丁寧に眉を潜めてみせる。 前だったら、私はなんて優しい人だと思っただろう。 ふる人間すら気遣う、優しい人間だと思っただろう。 でも今は清水の仕草の一つ一つが、嘘くさくて仕方ない。 「でも、だからといってそんなデマを流すのは、自分のためにもならないよ」 「な………」 「仮にさ」 あくまでも私の馬鹿な虚言だと断定されて、思わず掴みかかりそうになる。 けれど清水は優しく優しく、にっこりと笑う。 「仮に、そのことを誰かに言って、信じてもらえると思う?」 清水は、完璧な人間だ。 頭が良くて運動も出来て顔も良くて、それなのに人当たりもよくて人望もあって。 誰もが、彼の言うことを信じる。 誰もが、彼のことを尊敬する。 誰もが、彼を疑わない。 「俺と伊藤さんの言葉、どっちをみんな信じるかな?」 そこで清水は困ったように首を傾げる。 心底、私を気遣っているというように、心配そうに。 「あまり自分を貶めるようなこと、しない方がいいよ」 私が何を言っても、ふられた女の虚言だとしか受け止められないだろう。 彼はそれは分かっている。 彼は完璧だ。 完璧に、嘘をつく。 「そう言えば、伊藤さん、姉を階段から落としたよね」 「………っ」 嫉妬にかられて、突き落とした。 あの時の感触が、手に残っている。 頭が真っ白だった。 けれど確かに私に悪意はあった。 あの人いなくなれば、清水が私のもとに戻ってくるとあの時は思ったのだ。 「別に責める気はないよ。でも、念のため診断書もとってあるし、目撃者もいるんだ」 あの場にいたのは、清水と、私と、あの人と、もう一人。 泣きわめく私に、優しくしてくれた人がいた。 あの二人には関わらない方がいいよ。 苦笑しながら、そんなことを言われた気がする。 そうだ、あの人は忠告してくれたのに。 「ああ、誤解しないで。だからって何をする訳じゃないから」 近づかないでいれば、こんな思いはしなかったのに。 違う、清水が別れようって言った時に承諾しておけば、私はあの優しい思い出を信じられたのに。 こんな風に傷つけられることはなかった。 彼の優しい嘘を、信じていられた。 「これからも君とは友達として付き合えたらいいなって思ってるよ」 涙が、溢れてくる。 もう言葉は出てこない。 彼は優しく笑っている。 先週までの彼と同じように笑っている。 「今までありがとう。ごめんね、さよなら、伊藤さん」 優しい優しい恋人は、穏やかに笑って別れを告げた。 彼はとてもとても、優しい恋人だった。 最後まで私のことなんて相手にしてくれない、優しく残酷な恋人だった。 |