「朝倉、なんだか随分綺麗な髪の色してるな」 廊下で通りすがり様、長い髪を一つに束ねた化粧気のない長身の女性に、くいっと髪を引っ張られる。 その前をかけぬけようとしていた私は、前につんのめった。 その衝撃だけじゃなく、触れられたことに、私の心臓がびくりと跳ねる。 「あ、えっと」 「つい先週まで、もっと黒かった気がしたけど?」 「あ、塩素焼けですかねえ。ほら、最近は水道の塩素もきつくなってるし。よくないですよね。人体に悪影響です」 「そうだな。地球の未来が心配だ。そしてお前の未来も心配だな。後で理科実験室来い」 「う、うう」 クールに言いながら、葛城先生は私の頭をはたいて去っていった。 友達の前で泣きそうな顔を作りながらも、私は内心ほっとしていた。 ちゃんと気付いてもらってよかった。 もっと明るくしようかと思ったのだが、勇気が出なくて黒に限りなく近い茶色になってしまったのだ。 気付いてもらいたくてやったのに、気付いてもらえないんじゃ意味がない。 葛城先生が、気付いてくれてよかった。 安っぽいプラスチックのベージュ色の扉の前で深呼吸を二回、三回。 四回目はちょっとやりすぎな気がして、思い切ってノックをした。 「朝倉です」 「入れ」 女性にしてやややハスキーな掠れた声が響く。 掠れてるのはアルコールと煙草のせいだと、いつか笑っていた。 私は先生のこの声を聞くたびに、いつだってドキドキしてしまう。 「はーい、失礼しますー」 声が震えないように注意して、ゆっくりと扉を開く。 中では白衣を纏った葛城先生が実験台に腰掛けて待っていた。 「お前なー、教頭にバレてたぞ。すっごい怒られたんだからな」 「あ、えーと」 本当に怒った様子はなく、呆れたように肩をすくめる。 迷惑をかけてしまったと思うと、心が痛む。 でも、これしか思い浮かばなかったのだ。 遅刻もサボりも、これ以上は使えない。 小心者の私は一回怒られてしまうと、ビビってしまう。 お嬢様ばかりのこの学校で、そんなことする人もいないし。 葛城先生は口ごもる私にふっとため息をつく。 「そういうのは夏休みだけにしておけ」 「………夏休みならいいんですか」 「校則ってのは分からないように破るから楽しいんだよ。掻い潜れ」 「教育者としてどうなんですか、それ」 「とりあえず教育者として見つけてしまったからには、ほら反省文な」 「う、うう」 渡された反省文の記入用紙は欄がとても多い。 渋々実験台の前の丸い椅子に座って、反省文に向かい合う。 もう三度目になるので、慣れたものだが、そろそろ素行不良でまずいかもしれない。 上の大学いくためには、内申点も大事だ。 幸い小さな違反ばかりでそこまででもないようだが、続くのはまずいだろう。 でも、そうしたら、これからどうしたらいいのだろうか。 「朝倉」 「は、はい!」 反省文を前にぼーっとしていると、行儀悪く実験台に腰かけた先生が見下ろしてくる。 そしてからかう様子もなく、クールに言ってくる。 「お前な、いくら私と一緒にいたいからって、こういう真似はするんじゃない」 「な、な、な、何言ってるんですか!」 図星を刺されて、顔が一気に熱くなってくる。 ば、ばれてるのだろうか。 いや、ばれてないはずだ。 ばれるような行動していただろうか。 「私の評判を下げるな。教頭から私が怒られるからやめろ」 「そっちですか!?」 あまりに教育者としてどうかと思う発言に噛みつくと、先生は私の顔を見て軽く笑う。 そういう人を馬鹿にしたような笑い方がとても似合う人だ。 からかうような言葉と、馬鹿にしたような笑い方、いつだってふざけたような態度。 「いつでもここに来ていいから」 ぽんっと、白く長い指を持つ手で頭を叩かれる。 からかうような言葉と、馬鹿にしたような笑い方、いつだってふざけたような態度。 けれどその後に向けられるこの優しさに、私はどうしようもなくドキドキしてしまうのだ。 頭に意識が集中して、耳まで熱くなる。 「………」 「お、照れてるな」 「照れてないです!」 ただ、嬉しいだけだ。 ここに先生に会いに来る口実を貰って、嬉しいのだ。 ああ、顔が本当にあっつい、体もあっつい。 もしかして、バレバレだろうか。 「………い、いいんですか、来ても」 「これ以上教頭に怒られるよりマシだ」 「………」 その答えは、ちょっとさびしくて哀しい。 まあ、仕方ないんだけど。 確かに今までのやり方だと、先生に迷惑かけるだけだ。 本当に馬鹿だな、私。 「不満そうだな。なんだ、どう言ってほしいんだ?お前に来てほしい?」 「そ、そんなこと言ってないじゃないですか!」 「はいはい」 図星を刺されて噛みつく私に、先生は宥めるように頭を叩く。 子供やペットにするような態度が少しムカついて、でもやっぱり嬉しくなってしまう。 私単純だなあ。 そして馬鹿だなあ。 「あんまり親御さんを心配させるようなことするな」 「………うちは放任なんで」 全寮制な学校だからすぐに会うこともないけど、あっても退学になりさえしなければ何も言わないだろうなあ。 あんなのんきでいいのだろうか。 私がグレたらどうするつもりだ。 「髪が痛むしな。せっかく綺麗な髪なんだから」 ふっと笑って、朝にやられたように髪がつんつんと引っ張られる。 高校に入ってから、髪を伸ばし始めて、手入れもきっちりしている。 中々に自慢の髪だ。 目の前の人の、自然な栗色の長く綺麗な髪には適わないけれど。 「………その」 「ん?」 「ご、ごめんなさい」 いくら先生に会いたかったからといって、三度目の反省文は、さすがにちょっとやりすぎた。 とても、申し訳ないことをしてしまった。 葛城先生は意地悪そうに、にやりって感じで笑う。 「まあ、反省文5枚で許してやろう」 「5枚!?」 「自業自得だ」 まあ、そうなんだけどさ。 ああ、もう謝罪の言葉も尽きてきた。 なんて書けばいいんだろう。 「似合ってるけどな」 「………っ」 反省文を前にうなだれると、先生が私の髪に軽くキスを落とした。 髪に感覚なんてないはずなのに、そこから熱が溢れだす。 こういう外人みたいな仕草が、嫌に様になる人だ。 ああ、もう心臓がバクバク言って、痛い。 「ほら、書け書け」 「わ、分かってますよ!」 固まった私に、先生がくすくす笑いながら促す。 どこまで分かってやってるのだろう。 からかっているのだろうか。 それとも別の意味があるのだろうか。 ああ、この人を振り回したつもりで、今日も振り回される。 今夜はまた、眠れそうになかった。 |