見上げた空はいつだって灰色で、青い空なんて見えなかった。



***




「ねーねー、カン、見て、空が青いねえ」
「ああ、工場の煙で真っ黒で、本当に綺麗な空だな」
「ねえ、本当に綺麗。こんな日は星の国からのメッセージがよく届くんだあ」
「今日も受信機が快調で何よりだな」

うざったく纏わりついてくるヒサを適当にあしらいながら、今日も灰色の空の下、学校を目指す。
別に学校は嫌いじゃないけど、朝のこの一時だけは嫌いだ。

「うん、今日も空にミジンコ描いて、カーズ王子と競争だ」

今日もヒサの電波は絶好調だ。
隣を見ると女の子に未だに間違われるヒョロヒョロとした男がいる。
先生の頼まれてるから仕方なく一緒にいるけど、幼馴染ってだけで面倒みさせられるのは勘弁してほしい。
ふらふらと道の花を摘んだり、急に猫を追いかけて消えてたりして、一時も目を離せない。
何かあったら俺が怒られるってのも、リフジンだ。

「なんだろう、ほら、おおきな虫がいるよ」
「あ?」
「ほら、あそこで、車ぐらいおおきな虫がいるよ」

ヒサのあげた指につられて、そちらに視線を移す。
予想はしていたが、そこには何もない。
慣れてはいるが、いまだにこういうのは背筋が寒くなる。
ヒサはネコのように、何もない空間を大きな眼でじっと見ている。
頼むからやめてくれ。

「……おい、ヒサ」
「なあに?」
「そういうのはやめろ」
「そういうのって?」
「俺に見えないようなものの話はするな」
「ああ、あれ、カンには見えないんだ。でも、カンが見えないものって俺わかんないよ」
「変なものは見なかったことにしろ」
「ふーん?」
「いいな」
「うん、カンが言うならそうする」

電波すぎる奴だが、こういうところは素直だ。
昔から、俺の言うことはよく聞く。
トロくさくて電波で、ヒサは昔から友達がいなかった。
俺には見えない友達はいっぱいいたようだが。
軽く苛められていて、なんとなく放っておけなくて面倒みていたらいつのまにか飼育係になっていた。
ヒサも、誰にも懐かないが、俺にだけは懐く。

「あ、二匹いた」
「ヒサ!やめろって言ってんだろ!この馬鹿!」
「………でも」
「てめえ、いい加減にしろ!置いてくぞ!」
「ご、ごめん!怒らないでカン、ごめん」

いい加減ムカついて足を速めるとヒサは慌てて謝りながら付いてくる。
振り向かないでいると、ヒサは必死に追いかけてくる。

「カン、カン、ごめん、カン。ごめんね、カン。置いて行かないで」
「…………」
「カン………、ごめんね」

声が、鼻声になる。
ああ、もう、本当にうざってえ。

「怒ってねえよ」

足を止めて、後を振り向く。
すると半べそかいていたヒサは途端に顔を輝かせる。
小走りに近寄ってきて、俺のシャツの袖をつかむ。

「カン、ごめんね、ありがとう」
「はいはい」
「あのね、カーズ王子とミリンダ姫も、カンはいい人だって」
「はーいはい」
「俺もね、カンが好きだよ。大好きだよ」
「はいはい」

うざったくてムカつくけど、ここまで好意をむき出しにされると無碍にもできない。
まあ、手間のかかるペットとでも思うしかない。
なんで俺ばっかりこんな貧乏くじひいてるんだろ。

大きなため息をついて見上げた空は、相変わらず煙で覆われて灰色だった。



***




「カン!」

教室に響き渡る声で呼ばれた
途端に周りが、くすくすと笑って俺を見てくる。

「ほら、呼んでるぜ。ウチュウジン」
「………」
「お前よくあのウチュウジンと付き合えるよなあ」
「うっせえな!」

からかうように笑っているクラスメイトの机を蹴って、俺は馬鹿の元へ行く。
馬鹿はにこにこと笑って俺を待っていた。
顔だけはいいから、女子はちらちらとこちらを見ている。
とにかく誰も見えないように、腕をひっぱって影へ連れて行く。

「おい、ヒサ。教室来るなって言っただろ」
「あ、ごめんね。あのね、見て見て、石、拾ったの」
「ああ?」
「緑の、石。カン、好きだったでしょ?」

泥だらけになってるヒサの手の中を見ると、そこには緑がかった石がいっぱいになっている。
頭が痛い。
確かに、こういう石を集めていた。
小学校の低学年の頃な。
こいつはたまにこういう突飛な行動をとる。
その度に迷惑を被るのは俺だ。

「………ヒサ、それ捨ててこい」
「え?」
「いいから捨ててこい」
「カン、嫌い?」
「昔は好きだったな」
「………そっか」
「先生に怒られる前に捨ててこい」
「うん、ごめんね、カン」

しゅんとして、悲しそうに肩を落とすのを見ていてもイライラする。
同情を買うような行動がムカつく。
それが俺の機嫌をとろうとしたゆえの行動であっても。
ていうかそれが余計にムカつく。

「ほら、授業に遅れるから、さっさと捨てて帰れ」
「………うん」

ヒサが、背を丸めたまま、後を向く。
その瞬間、シャツに隠れた腕にある痣が目に入る。

「ヒサ、それどうした?」
「え?」
「腕、怪我してる」

ヒサはもう一度振り返ると首をかしげて不思議そうに俺を見る。
そして自分の腕に目を移す。

「ああ、これね、お化けに捕まっちゃったんだ」

それで、またそんな電波なことを言い出した。
心配なんてするんじゃなかった。
どうせ、転びでもしたんだろ。
いつもこんなことしか言わねえ馬鹿が。

「お化けがね、逃げても逃げても追いかけてきて、捕まっちゃったんだ」
「そうか。わかった。じゃあ、さっさと帰れ」
「うん」

ヒサはこくんと素直に頷くと、今度こそ帰っていった。
ったく、面倒かけさせやがって。
溜息をついて教室に入ろうとすると、廊下にいた担任が近づいてくる。

「おい、カン。ちゃんとあいつの面倒みろよ」
「…………」

なんでセンコーにそんなの命令されなきゃいけないんだよ。
いっつもいっつもあいつの面倒、人に押しつけやがって。
俺だって自由にしたいんだよ。
あいつの面倒見るために生きてるんじゃねえんだよ。

「頼んだぞ、カン」
「………はい」

でもセンコーに何か言うのも面倒で、俺は黙って頷いた。



***




そしてそれは、家でも続く。
メシを食ってる最中、母さんがご飯をよそおいながらヒサについて聞いてきた。

「そういえば、ヒサ君元気?」
「相変わらず電波だよ」
「こら、そういうこと言わないの」
「だって、電波なんだもん。どっかおかしいんじゃねーの、あいつ」
「カン!」
「……………」

ああ、本当にどいつもこいつもウゼエ。
ヒサヒサ言いやがって。
俺の自由はどこにあんだよ。
行きも帰りも拘束されるのは息がつまる。

「あいつ、学校でも浮いてるし、友達俺しかいないし」
「まあ、ちょっと変わった子よね、悪い子じゃないんだけど……」
「ちょっとじゃねーよ、すごくだよ」

でも、そういえば、前はあんなに電波じゃなかった気がする。
見えないものを見ていたりはしたけど、星の国、とか、ナントカ王子、とかそんな話は昔はしていなかった。
いつからあんなに電波になってたんだろう。
中学校上がる、ちょっと前だっただろうか。

「カンは、優しくしてあげてね」
「先生も、母さんもなんなんだよ!あいつ面倒くせえんだよ!」
「だって、ヒサ君ね………」

無理矢理仲良くさせられることほど、ムカつくことはない。
意志を無視されて、行動を強要されるのは、虫唾が走る。
どいつもこいつもムカつく。

「あ、カン」

俺は椅子を蹴りあげて席を立つ。
メシがまずくなる。
どいつもこいつもうるさい。

ああ、ヒサなんてどっかいっちまえばいいのに。
俺の視界から、消えちまえ。



***




「おい、その顔どうしたんだ」

ヒサは頬を大きく腫らしてニコニコとしていた。
こいつは、俺の顔を見ているといつもニコニコしている。
他の人間には、見せない顔。
この、子供のような無邪気な笑顔が嫌いだ。

「あのね、昨日、お化けが、襲ってきたんだ。だから俺、一生懸命逃げたんだけどね、捕まっちゃたんだ」
「………そうか」

真面目に聞いた俺が馬鹿だった。
何度も何度も思い知っているのに、また聞いてしまった。
どうして俺は、こいつを放っておけないんだろう。
もう、センコーがなんと言おうと、母さんがなんと言おうと無視しちまえばいいのに。

「昨日は、カーズ王子が来るのが遅くてね、俺、お化けから逃げられなかったんだ。カーズ王子は強いんだよ。カンみたい」
「…………」

自然とため息がこぼれる。
こいつの電波は毎日毎日、増してる気がする。
聞いているだけで、イライラしてくる。
なんで、こいつは、現実を見ないんだよ。
いつまでもこんなこと言ってるんだよ。

「ミリンダ姫は、優しいんだ。優しくてかわいいんだよ。いつもお化けにおっかけられた俺を慰めてくれるんだ」

ただ、自分の夢を見ているヒサ。

俺の人生邪魔して。
友達もできなくて。
誰も近づかなくて。
ただ、自分の世界だけを見ている。

それが、どうしようもなくイライラする。

「あのね、カン。今度二人に合わせてあげるね」
「ああ、もういい加減にしろ!!」

イライラして、ついに抑えきれなくなった。
胸につかえていたものが、こぼれてきてしまう。
ニコニコと笑うヒサが、ムカついてしょうがない。

「………え?」
「うぜえんだよ!お前!べらべらべらべら下らねえこといいやがって!何がなんたら王子だ、何が姫だ!いねーんだよ!そんなもん!電波受信してんなら、電波とだけ話してろよ!俺を巻き込むなよ!」
「か、カン………、カン、怒ってるの?」
「邪魔なんだよ!お前!俺に面倒かけんなよ!」

いつも、別にそこまで思っている訳じゃなかった。
ただ、俺の都合も何も考えずに、へらへらしている馬鹿を傷つけたかった。
少しは俺の気持ちを分からせたかった。

「いい加減、くだらねえこと言うのやめろ!」
「…………」

吐きだして、吐きだしきって、胸の中がからっぽになる。
それと同時に、頭が真っ白になる。
ヒサは、どんな顔をしているだろうか。

「………そっか」

顔を上げると、ヒサは傷ついた顔をしていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、何もない表情をしていた。
静かに、俺を見ていた。

「…………ヒサ」

急に、罪悪感が湧いてくる。
俺は悪くない。
全部悪いのは、ヒサだ。
俺はこいつのヒガイシャだ。
でも、ヒサの静かな顔に、急に叫びだしたくなるようないたたまれない気分に陥った。
ヒサは、かすかに笑う。
いつもの無邪気な顔とは違う、どこか大人びた笑い方。

「ごめんね、カン。俺、カンにめーわくかけてたね。ごめんね」
「…………」
「俺には、王子と、姫がいるから、平気だよ。もうカンに付きまとわないよ。ごめんね」

違う。
いや、違くない。
違くない。
確かに、迷惑だった。
確かにこいつがウザかった。
でも、

「ごめんね、カン。ばいばい」

そう言い残して、ヒサは背を向けてかけていった。



***




それから、ヒサは俺に近づいてこなくなった。
朝も帰りも、待ち合わせの場所に現れなくなった。

自分で突き放したくせに、焦りが生まれる。
なにかとんでもないことをしてしまったんじゃないかという、いたたまれなさが生まれる。
俺とヒサがケンカしたって分かっているだろうに、先生も母さんも何も言わない。
それがまた、落ち着かない。

俺が悪いんじゃない。
俺が悪いんじゃないはずだ。
電波なことを言いながら、ずっと付いてきたあいつが悪いんだ。

現実を見ないで。
いつまでも夢みたいなことばっかり言って。
一人だけ子供のままのようなヒサ。

そうだ、あいつは子供のまんまなんだ。
ただ無邪気に、夢だけ見ている。

大きな虫も。
緑の石も。
青い空も。

確かに、俺が小さい頃には見えていたかもしれない。
でも、もう俺には見えない。
いつからか見えなくなってしまった。

だから、余計にイラつく。
大人になれないヒサに。
ヒサとは一緒でいられない自分に。

そうだ、俺は少しだけヒサが羨ましかった。
ムカついて、ウザくて、面倒なやつだった。
けれど、少しだけ羨ましかった。

灰色の空の下、青い空が見えるヒサが羨ましかった。



***




「ねえ、カン、ヒサ君どこいるか知らない!?」
「は?しらねえよ」
「どこいるか分からない!?」

部屋にノックもしないで入ってきた母さんは、急にそんなことを言った。
その焦った顔に、寝ころんでいた体を起こす。

「どうしたんだよ?」
「なんかね、先生が家庭訪問いったらしいんだけど、ヒサ君がいないらしくて」
「は?おばさん分からねえの?」

当然の疑問に、母さんは黙り込む。
困ったように、俺から目をそらした。

「………」
「何、母さん?」
「………ヒサ君のお母さん、今、家にいないのよ」

なんだ、それ。
そんなのヒサからも誰からも聞いてない。

「は?」
「えっとね、ヒサ君のお父さん、今ちょっと、怒りっぽくなっててね………」

母さんが言葉を探すように、目をそらす。
こういう大人の態度は、何かを隠している時だ。
子供に知られたくない、隠しておきたい、そんなものを話す時の大人。
別にいつもはいいけど、今は騙されない。
母さんに近づくと、その眼をじっと覗く。

「母さん、ヒサ、どうしたんだよ!」
「あ、えっとね」

そういえば、なんで先生はいきなりあいつの家に家庭訪問なんて行ったんだ。
他の奴らにそんなことしたなんて聞いてない。
何を、見にいったんだ。

不安がこみ上げる。
バラバラだった疑問が急につながっていく。

ヒサはいつから、あんなに変になったっけ。
昔から変だったけど、あそこまで電波じゃなかった。

ヒサのおじさんは少し乱暴だった。
おばさんは気の弱そうな大人しい人だった。
二人とも、ヒサの変な言動を、困っていた。

豪快で、楽しいおじさんだった。
でも、酒を飲むとおばさんを叩くと、いつかヒサが言っていた。
たまに、おじさんは、ヒサも殴っていた。

なんで、ヒサのお母さんがいないんだ。
なんで、ヒサは怪我が増えたんだ。

「あ、カン!」

気がつくと、部屋から出ていた。
母さんの声も聞こえなかった。

ただ、ヒサのあの何もない無表情が、消えなかった。



***




「くそ!どこにいんだよ、あの馬鹿!」

心の中がぐちゃぐちゃとして、落ち着かない。
不安と、後悔と、怒りと、悔しさと、悲しさと。
何が一番強いのか分からない。

ただ、ぐちゃぐちゃとする。

誰よりもヒサを知っていると思っていた。
なんでも知っていると思っていた。
なんでも打ち明けられていると思っていた。

それなのに、何も知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
俺はヒサのことなんて何も見てなかった。

ウザくて、面倒で、話を聞いてなかった。
あいつの変化に気付いてやれなかった。
たぶん、あいつのことを気付いてやれたのは、俺だけだったのに。

あいつを助けてやれたのは、俺だけだったのに。

思いつく場所を、チャリで走り回った。
昔遊んだ河原。
公園。
あいつの家。
昔空地だったマンション。

でも、どこにもいない。

息が上がって苦しい。
足が悲鳴を上げている。

でも、今ヒサを探さないと取り返しがつかなくなりそうで、俺はチャリをこぎ続ける。
最後の心当たりは、裏山だ。
小さい頃、秘密基地を作って遊んだ。

ああ、そうだ。
それは珍しくヒサと二人で一緒に作ったんだ。
他の遊びと違って、他の奴らはいなくて。
ヒサは大喜びしていた。
俺と二人でいられることが、嬉しいと言った。
秘密基地が、楽しいと言った。

俺はすぐに飽きて、行かなくなったけど。

いつからか、裏山は展望台が出来たらしい。
きちんと整備されて、階段が出来ていた。
チャリを乗り捨てて、階段を3段飛ばしで駆け上る。

階段を抜けた先、小汚い町が一望できる開けた場所がある。
その手すりの前に、誰かいた。

「ヒサ!」

女みたいにヒョロヒョロとした小さいな体。
見間違うはずがない。
俺の後ろにずっといた、電波。

「………カン?」

ゆっくりとふりかえって、不思議そうに首を傾げる。
ひとつだけある小さな街灯の下、ヒサはいつもよりも小さく見えた。
今にも消えてしまいそうなぐらい。

壊れそうな肺をなんとかなだめて、一歩近づく。
ヒサはびくりと体を震わせて後ろに下がった。
手すりの先は、急な斜面だ。
刺激しないように、足を止める。

「何、してんだよ、こんなところで」
「………あのね、カーズ王子とミリンダ姫が迎えに来てくれるんだ。俺ね星の国へ行くよ」

小さな明かりの中、ヒサはうっすらと笑う。
いつもの無邪気な笑顔。
子供のような、汚いものを知らない笑顔。

俺の嫌いな、笑顔。

「星の国ってどこだよ!」
「星の国は、星の国だよ。カン。そこは、お化けがいないんだ。それで、みんな優しんだ」

いつも、お化けに捕まっていたヒサ。
ずっと、逃げていたもの。
ヒサが見たくなかったもの。

「お化けって、なんのことだよ、ヒサ」
「………お化けは、怖い顔をしてるんだよ。それで、捕まると、叩かれるんだよ。いっぱいいっぱい叩くんだ。お化けは、怖いんだよ」

ぎゅっと、胸が引き絞られるように痛む。
痛い。
だめだ、ヒサ。
それじゃ、ダメなんだよ、ヒサ。
たぶん、それじゃダメなんだ。

だから、俺はお前にムカついてしょうがなかったんだ。

「ヒサ!」
「カーズ王子と、ミリンダ姫が、守ってくれるんだよ。慰めてくれるんだ。だからお化けも怖くないんだよ」

ヒサの手の中には、ゴミみたいな木でできた二つの犬の人形。
心臓が、刺されたように痛い。
熱いものがこみあげてきて、唇を噛んでこらえた。

それは、俺が何年か前に誕生日にあげた。
工作の時間に作ったできそこないの犬。
夜に、怖いものが見えると言って泣いたヒサに、お守りとしてあげた。
これを枕もとに置けば、守ってくれると。
泣くヒサが面倒で、適当な話をでっちあげた。
あの時のヒサの嬉しそうな顔が、はっきりと蘇る。

「………ひ、さ」
「カン。ありがとね。今までありがとね。俺ね、星の国に行くよ。俺はきっと、あっちで生まれたんだよ。カーズ王子が、迎えに来てくれるんだ」

いつまでも、子供のようなヒサ。
いつまでも無邪気で、夢を見ている。
俺の見なくなってしまったものを見ている。

そして、目の前にあるものが見えない、ヒサ。
そんなの、ダメだ。

「ヒサ!」
「………」
「ヒサ、そんなものない。星の国も、王子だの姫だのも何もない」

そんなもの、お前を守ってくれない。
そんなものに、逃げちゃダメなんだ。

「あるよ!」

ヒサの大きな声に、驚く。
ヒサが、声を荒げることなんて、ほとんどない。
何を言ったらいいか分からなくて、言葉を失う。

ヒサは大きな目に、涙をためていた。
その表情は怒り。
大事な場所に、踏み込まれた怒り。

ヒサは、俺に怒りの感情をぶつけている。
でも、それはずっとずっと、あの無邪気な笑顔よりも安心した。

「あるよ、あるんだよ。カン。だって、俺見えるもん。俺聞こえるもん。俺は知ってるよ。星の国はあるんだよ。だから、俺はそこに行くんだよ」
「そんなもんねーんだよ!!」
「あるよ。そこに行けばもう何も怖くないんだ。お化けもいないんだよ」
「………ねえっつってんだろ!この馬鹿!」

頑なにそこにしがみつこうとするヒサ。
夢から抜け出そうとしない、ヒサ。

ああ、本当に馬鹿だ。
なんで、もっと早く俺に言わなかったんだ。
なんで、もっと早く俺は気付かなかったんだ。

叫ぶヒサに近づこうと、足を一歩踏み出す。

「くんなよ!」

ヒサが、手すりに手をかけ身を乗り出す。
これ以上近づけなくて、足を止める。

「………ヒサ」
「カン、俺、もういいんだよ。星の国にいくんだ」
「俺が、お前に嘘ついたことあったか?」

その言葉に、ヒサがくしゃりを顔を歪めた。
苦しそうに、眉をひそめて大きな目から涙がこぼれる。

「………ないよ」
「ああ、だから、そんなものはない」

ぼろぼろぼろぼろぼろと、大きな目から涙があふれてくる。
目がこぼれてしまいそうなぐらい、大きく見開いている。
ヒサが、怖がっている。
小さく震えて、唇をきゅっと噛む。

俺はまた一歩、足を踏み出す。
その白い顔が、はっきりと見える位置まで来た。
ヒサが、手すりから手を離す。
そして、肩の力を抜いた。

「でも、俺知ってるよ。本当はカン、俺のことずっと嫌いだった。俺のこと、面倒に思ってたでしょ。知ってたよ。本当は知ってたよ」
「………」
「だから、放っておけよ。もういいよ、カン。いままでありがとう。もう、いいよ。もう迷惑かけないよ。俺には、星の国があるんだから」

そう言って、俺を拒絶する。
現実を見せようとする俺を拒絶する。
そうだ、お前がウザかった。
お前がムカついた。

ずっと子供のままでいるお前に、イラついてしょうがなかった。
青い空が見えるお前が、羨ましかった。
だからこそ、そこにいることは許さない。

「………確かに、お前のこと、面倒に思ってる。ウザってえと思ってる」
「………うん」
「でも、お前のこと、嫌いだと思ったことはない」

そうだ、俺は、ヒサを嫌いだと思ったことはない。
面倒で、邪魔で、いなくなれ、と思ったことはある。
でも、嫌いじゃない。
嫌いじゃないんだ。
それに。

「…………それに」
「…………」
「………お前が、いなくなったら、さびしい」
「…………」
「星の国なんて、ない。お化けは、なくならない。俺が守ってやる。こっちにこい」

ずっと、一緒にいたヒサ。
ずっと、守ってやった。
面倒だった。
ウザかった。
何度も消えちまえって思った。

でも、俺にだけ懐くお前がかわいかった。
俺の後ろをついてくるお前が、嬉しかった。
俺を喜ばせようとするお前が、好きだった。

お前がいなくなるなんて、許さない。
星の国になんて、行かせない。

「………カン」
「こっちに、こい。ヒサ」

ヒサは、ぼろぼろと涙を流す。
迷うように、瞳が揺れる。
俺はまた、一歩踏み出す。
ヒサは頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「………やだ」
「ヒサ!」
「やだよ!もうやだよ!こんな世界いやだ!お母さんはいなくなった!お父さんもいなくなった!なんにもない!誰もいない!」

悲鳴のように、血を吐くように、叫ぶヒサ。
ずっと、抱えてきたのか。
この感情を、ずっと隠してきたのか。
あの無邪気な笑顔でごまかして、ずっと見ないようにしてきたのか。

「カンも置いて行く!カンに嫌われる!カンもいなくなる!もういやだ!そんなのやだ!俺、そんなのいやだ!こんな世界いらない!もう何も見たくない!」

膝を抱えて小さく蹲る。
自分を傷つけるものから、逃げるように。

「知ってたよ。俺知ってたよ。俺、変だってずっと知ってたよ。みんな、俺のこと嫌いって知ってたよ。母さんも父さんも、カンだって、俺のこと嫌いって、知ってたよ」

そうだ、もっと、言え。
あの無邪気な笑顔を見ているよりも、ずっと安心する。
泣いて叫んで、汚いものを見ているヒサに、安心する。

「もう、いいよ。いらない。いらないよ。俺なんていらない。こんな世界なんていらない!!!」
「ヒサ!」

強く呼ぶと、ヒサはのろのろと顔を上げる。
距離は、あと3歩ほど。
走れば、ヒサを捕まえられるだろう。
手を、ヒサに伸ばす。

「こっちにこい、ヒサ」
「………カン」
「トロトロしてると、本当に嫌いになるぞ」
「………っ」
「いいのか、嫌いになっても」
「………」
「早くこっちにこい!」

星の国になんて、行かせない。
絶対に俺を選ばせる。
だって、ヒサが好きなのは、俺なんだから。

「や、だ」
「ん?」
「やだ!」
「もっとはっきり言え」
「やだ!やだよ、やだよカン!嫌いにならないで!」

ヒサが、立ちあがる。
足をもつれさせて転ぶように、俺の体に倒れこむ。
その軽い体を、確かに受け止める。

「置いてかないで!嫌いにならないで!俺のそばにいて!お願い!」

強い力で、しがみつかれる。
爪が立っていて、痛い。
けれど、それも気にならない。
俺も、ヒサの細い体を抱きしめる。

逃げ出さないように。
もう、誤魔化されないように。

「カンが、大好きだよ。カンが一番好き」

胸に顔をうずめて、ヒサが体を震わせている。
湿った熱い息が、シャツにかかる。
俺は腕に、もっと力を込める。

「カーズ王子と、ミリンダ姫に会わせてくれたのも、カンだよ。面倒でも、俺の話聞いてくれたの、カンだよ。ちゃんと、話してくれたの、カンだけだった。ずっと、傍にいてくれたの、カンだけだった。カンがいなくちゃ、やだ」
「なら、逃げんな」

ヒサの、喉がひきつれるような声が漏れる。
シャツが濡れる感触がする。
小さな頭を、抱え込む。

「ひぃ、っく、う、ううううううあああ」
「………なんで、もっと早くいわねえんだよ、馬鹿」
「ああああ、カン、カン、カン」

俺の名前を繰り返すヒサに、胸が痛い。
心が熱くて、涙があふれてくる。

ごめん。
ごめんな、ヒサ。
気付いてやれなくて、ごめん。

きっと、ずっとお前は俺に訴えていたはずなのに。
俺は気づけたはずなのに。

でも、もう逃げないから。
俺も逃げないから。

だから、逃げないで。



***




「おはよ、カン」
「おはよう」

隣を見ると、相変わらず女子と間違えられるようなひょろい男。
けれど、どこか無邪気さをなくした顔で空を見上げる。

「空が、はいいろだね」
「………青くないのか?」
「うん、灰色」

寂しそうに、カンが笑う。
俺もつられて見上げる空は、いつもどおり灰色だった。

後から聞いた話だと、ヒサの親父さんの勤めてた工場が、閉鎖されたらしい。
それで、親父さんが荒れて、おばさんに暴力を振るうようになった。
おばさんが出てって、ヒサ一人が残った。
ヒザはずっと、おじさんの暴力に一人で耐えていたらしい。

今度ヒサは、遠くの親戚の家に行く。

「………今度行くところは、空が青いといいな」

結局、俺には何もできない。
守ってやるって言っても、俺の小さい手では何もできない。
ヒサをここに留めることも、おじさんから守ってやることもできない。
全ては大人たちによって、俺たちの世界は決められる。

守ってやるって言ったのに、俺は何もできない。
ずっと傍にいてやるって言ったのに、傍にいてやることもできない。

ヒサが振り返って、笑う。
どこか大人びた顔で。

「大丈夫だよ、俺には」

細い手が、俺の手を掴む。
ずっと守ってやっていた、頼りない手。
けれど確かに、血が通っていて、力強い。

「俺には、カンがいるから」

頼りない、手。
けれど、強い、手。

俺はヒサの顔が見てられなくて、空を見上げた。

「カン、大好きだよ」



***




見上げた空はいつだって灰色で、青い空なんて見えなかった。
この町もいつか黒い煙がなくなって、青い空が見えるようになるかもしれない。

けれど、きっと。
ヒサが見ていた青い空は、もう、見えない。





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