それは、小学校に上がってしばらくした頃。

私の日々は変わることはなかった。
学校へ行くことで知識は広がり、自分の家があまり一般的ではないことを理解した。
それでも私は何を感じることもなかった。
義務は増えたし、やることは沢山あった。
ただ、それをこなすだけだ。
私はそういう存在。
呼吸して、誰かが望むとおりに存在すればいい。

私はそれほど優秀な人間ではないようだから、課せられる課題には努力を必要とした。
けれどそれが与えられた指示なら、私はこなすように動く。
変わったことといえば出来ないものには、ペナルティが課されるようになった。
より一層の努力を求められ、時には罰を与えられる。

ただ、睡眠時間が減ることも、食事を抜かれることも、特に何も感じることがなかったから、私にはあまり効果はなかったけれど。

それだけ。
ただそれだけの毎日。



***




その日、『お父様』が家にいた。
たまに帰宅はしているが、私は会うこともなかったし、興味もなかった。
しかし、その日は珍しく私の部屋に訪れた。
そして私に「ついてこい」と指示をくだした。

他にもやることはあったが、『お父様』の指示は優先順位の頂点にあった。
『お父様』の言うことはなんでも聞くように指示されていた。
だから、私はいつものように何も考えることなく『お父様』の後を追う。

行き先は問わなかった。
聞く気もなかった。
訪れた先で私は何かをさせられ、そしてまた帰るだけの話だ。
ちょっとイレギュラーではあったが、いつもと変わらない私の義務だ。

車に乗せられ訪れたのは、無機質なコンクリートのマンションだった。
そこまで大きくはない、けれど新しく中々凝った作りをしていた。
車をマンションの前につけた『お父様』の目的はそのマンションらしく、待っているよう言いつけると、1人マンションに入っていった。

その時、指示もされていないのに、1人車を降りたのは、なぜなのか。
私にはいまだに分からない。
それが運命と名づけられるものなら、そうかもしれない。
ならば私はこの運命を与えた誰かに、殺してやりたいほどの憎悪と心からの感謝を捧げる。
それも、言い訳かもしれないが。

いつもの私だったら、車で大人しく待っていただろう。
運転手は止めなかった。
だから、降りた。
何も考えていなかった。
そのはずだ。
降りろなんて指示はなかった。

けれどその時、私は車を降りた。

マンションの横には、小さな公園が設置されていた。
私は何も考えずにそこに足を運ぶ。
別に誰かに呼ばれたような気がする、とかそこに何かを感じたなんてドラマチックなものはなかった。
いつものように、何も考えていなかった。
指示された以外のことをしたのは、初めてだったが。

小さな滑り台と小さなシーソー、そして小さな砂場。
その3つの遊具とベンチがぽつんとおかれた、みすぼらしい公園。
公園で遊べ、なんて指示はされたことがなかったので遊んだことはなかった。
また、興味もなかった。

私はただ、公園の入り口に佇んでいた。
何も考えていない。
父の、待っていろという指示に従っていた。
それしか、私にはないはずだった。

「あれ?」

後ろから、高い子供の声がした。
私が振り向くと、そこには私よりも少しだけ背の高い男の子がいた。
綺麗な大きな目をして、首をかしげている。
私が何かを言うより先に、男の子は不思議そうに口を開く。

「きみ、だあれ?」

舌足らずな甘えた声とともに向けられたその温かいもの。

私の心に、いまだ焼き付いている鮮烈な記憶。
私のすべて。
私の何よりも、この命よりも大切な記憶。

思い出すたびに温かなものが溢れ、そして同時に強烈な後悔に襲われる。
この時私が車を降りたりしなければ、公園に行ったりしなければ、出会ったりしなければ、何かが変わっただろうか。
この後に起きることを食い止めることが出来ただろうか。
出会うべきでは、なかったのだろうか。

けれど、その笑顔が私にすべてを与えた。
義務ではない、指示ではない、何かを私に与えた。

今までノイズとしか感じなかったものが、私の耳に声として入ってきた。
灰色だった景色が、色づいて意味のあるものへと変わっていく。
触れる風に温度を感じ、指先まで血が行き渡る。

無邪気に何のてらいもなく、与えられた笑顔。
始めて貰った、温かいもの。

それだけが、私の守りたかったもの。





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