そこは、学校からほど近い閑静な住宅街の片隅にあった。 大きな家の多いその住宅街にあっても目立つ、古いが広い家。 長い白木塀と植木にぐるりと囲まれ、外から中は見ることが出来ない。 有川は大通りに面した立派な門ではなく、裏路地の勝手口から加奈を案内した。 中は外からのイメージ通り広かった。 しかし豪奢な家、というわけではない。 広く、日本庭園というよりは英国庭園を思い浮かべる、野趣あふれる庭。 もしかしたら手入れが行き届いていないだけかもしれないが、それがまた風情をかもし出している。 かたすみにある小さな稲荷と、小さな池。蓮が浮かび、どうやら鯉らしきものが泳いでいるのが伺える。 木々に囲まれているせいか、むしむしと暑いこの季節にも涼しい風がいきわたる。 そして勝手口から近いところには大きな古い、頑丈そうなつくりの建物が一つ。どうやらこちらが道場のようだ。高いところに設けられた窓から、中の喧騒が聞こえる。 そしてその奥には、道場よりは一回り小さい、二階建ての昔ながらの日本家屋が見えた。 木々に埋もれるように存在し、どこかもの寂しげな印象を受ける。 「うわー…」 思わず加奈は感嘆の声を漏らした。 加奈の家も十分広いが、ここまでではないし洋風だ。 立派な日本家屋というと神崎の実家を思い出すが、隅々まで手入れの行き届いたあの家とはまた違う風情がある。 どこか威圧感と息苦しさを感じさせる神崎の家と異なり、雑然さと穏やかさを与える、静かな家だった。 隣を行く有川は、そんな加奈に目尻を少し下げると、道場に向かって歩き始めた。 加奈はぼーっと辺りを見回しながらその後ろに続いた。 「おー!!ひーちゃんの女か!?」 道場に入った途端、加奈が珍しく感じていた情緒やら侘び寂びやらをふっとばすかのようなやかましい声が聞こえた。 ばたばたとこれまたやかましい足音を立てながら、声の持ち主が近づいてくる。 そちらを見ると、熊のような大男がいた。 体育会系という字をその体で表したような大柄でたくましい男だった。 美男子というわけではないが、精悍で無精ひげが男らしい。けれど笑った顔は優しそうな好感がもてる顔つきをしている。髪もまた男らしく短く刈られている。 中年というには若すぎて、青年というにはトウがたちすぎているような微妙な年代だ。 勢いよく近づいてこられて、加奈は一歩後ろに退く。 「若先生」 有川は穏やかな顔で近づいてきた人間をそう称した。 「よー、久しぶりだな、響!今日は親父がぎっくり腰で休み。だから俺が代わり。しっかしまたでっかくなったなあ、お前!彼女まで作っちゃってもう一人前だな!」 そうして男らしくがはがはと笑いながら、有川の背中をばんばんと叩いた。 そして今度は目線を加奈に移す。 「おー、美人だなー、こりゃ。ひーちゃんも隅に置けないなあ。こんなかわいらしい彼女いつのまにかこさえちゃって、お兄さん羨ましい!」 じろじろじろじろ、不躾に加奈を眺める。 いやらしい視線というのではないが、遠慮なく眺め回され加奈は不快になった。 最初の内はどうやら有川の先生らしいので、黙っていたが、そのうちイライラが頂点にたっする。 ごす。 鈍い音を立てて、加奈のパンチが大男の顔面に決まった。 遠慮なしに力をこめたので、結構な破壊力があるはずだ。 「いてー!!!すげー、いいパンチだなひーちゃんの彼女!」 殴られた左頬をさすりながらも、それほどダメージのないようにぴんぴんとしている。 「か、加奈?」 慌てて、加奈のほうを向く有川。 「初対面の女をじろじろ見てんじゃないわよ!礼儀のなってない男ね!自己紹介ぐらいしなさいよ!」 そんな有川の方を向くこともなく、仁王立ちで腕を組み、顎を上げての説教。 吉川がいたら、お前だけには言われたくない、とでも言ったことだろう。 しかし目の前の熊男は左頬をさすりながらもにこにこと笑っていた。 「あ、そうだね。ごめんごめん。俺が悪かった。失礼だった。俺はここの道場主の息子でね。師範代やってます。押上 馨(おうかみ かおり)。よろしくね」 そうして武道をやっている人間らしく、ぴしりと背筋の伸びた完璧なお辞儀をした。 しかし、その礼儀正しい態度も先ほどの無礼な態度も、加奈の中では吹っ飛んでいた。 「……かおり?」 「そう、かおり」 頬がひくひくと引き攣っている加奈に気づいているのかいないのか、押上は朗らかに笑ったままだ。 「ぶっ!か、かおりー!!」 そして加奈は、そのまま腹を抱えて大笑いを始めた。 げらげらと声を上げての下品な笑いだ。 熊のような大男と、その雅やかな美しい名前のギャップにツボを押されたらしい。 どうにか止めようとして焦る有川を尻目に、転がる勢いで笑っている。 「いやー、いままでもさ、この名前で結構笑われてきたけど、初対面でここまで大爆笑してくれたのはこの娘が初めてだよ。いい性格の娘だな」 腕組みをしながら興味深く加奈を見つめる押上。 押上より少し低い位置にある白い髪の持ち主は、気まずげに眼をそらした。 「……すいません」 「さっきは、すいませんでした。貴島加奈といいます。有川と同じ学校の同じく一年生」 「いや、別にいいよ。慣れてるし」 ようやく笑いが収まり、一応頭を下げる加奈。 有川に注意されたこもあるし、自分でもさすがに失礼だったとは思う。 けれど押上は朗らかに笑ったまま、大きく肉厚な右手をぱたぱたと振る。 見た目どおり、大らかな人間のようだ。 加奈は少し目の前の人物に好感を持った。 「じゃ、じゃあさ、かおりってよんでもいい?」 図々しく調子にのる加奈。よほどその響きが気に入ったようだ。 それでも押上は無精ひげをかいて苦笑いを浮かべ了解した。 有川は道着に着替えに行き、加奈と押上は壁際で二人で話をしている。 押上は突然の見学者にも気を悪くすることなく、付き合ってくれるようだ。 先ほどまで、騒ぎを遠巻きに見ていた道場内の人々も、練習に戻っている。 と言っても道場にいるのは加奈と押上を覗いて二人しかいない。 その練習風景を見るともなしに見ながら加奈が口を開く。 「結構人少ないのね。この時間なのに子供いないし」 まだ明るいから大人が少ないのはともかく、習いにきている小さな子供の姿がない。 「ああ、うちはもう新弟子とってないしね。親父がもう歳でねー。ひーちゃんが最後の弟子になるのかな」 「でも馨ちゃん、息子なんでしょ?」 「俺は別に仕事があるからね。つげないかも」 「ふーん」 自分で聞いたのに、気のない返事を返す。 「そういえばここ流派なんなの?よく分かんないんだけど」 「うちは超マイナーな古武術。押上新天流って言うの」 「うわ、微妙な名前」 「うるさいよ」 出合ってまだ少しなのに、加奈は失礼とも言える態度で気兼ねせず話している。 押上も別にその態度を気にすることもない。 その押上の大らかな態度が加奈をリラックスさせているのかも知れなかった。 もともと礼儀とかをそれほど気にする人間でもなかったが。 「ちょっと合気に似てるけど、それにしては攻撃的だよね」 「まあ源流は一緒かな。アレンジ加えた奴。そういえば加奈ちゃんもなんかやってるでしょ」 「あれ、分かる?」 「うん、さっきのパンチ、メチャメチャ体重乗ってて威力あったしね」 「それにしてはダメージ少ないじゃない」 頬を膨らませる加奈に、押上は顔をくしゃっとゆがませて笑う。 「そりゃあ、ちょっと体重逃がしたし、あれ直撃したら顔曲がるよ」 「けっ」 その余裕の態度に加奈は悔しさからちょっと腹を立てる。 師範代なんかやってるだけあって、さすがに目の前の男は強いようだ。 「で、何やってるの?」 「合気道」 「……パンチ関係ないじゃん」 「プロレスも好き」 「……パンチ関係ないじゃん」 「ボクシングも好き」 「………加奈ちゃんも参加する?道着あるよ」 「人の道着は臭いからヤダ」 「………」 しばらくして有川が道着を着て出てきた。 真面目な有川らしく丹念に体をほぐしている。 はだける道着から見える肌に、加奈は鼻を押さえる。 「本当おっきくなったなあ。ひーちゃんがここに始めてきた時まだ小学生でね。こーんなちっこかったぜ」 こーんな、のところで自分の太ももより下を指してみせる。 ちょっと大げさすぎる気もするが、この大男からしたらそれぐらいに見えたのかもしれない。 「へー、かわいかったんだろうなー…。見たかったー」 小さい頃の有川に思いをはせるようにうっとりと眼を閉じる加奈。 「あー、かわいかったよー。今でも変わらないけど素直で一生懸命でね。『大事な人を守るために強くなる』とか言っちゃって、もうぐりぐりしたくてしたくて」 「大事な人?」 なにやら気になる響きを聞きとがめ、聞きかえす。 有川の大事な人、とやらには興味がある。 押上は古く、少し汚れた天井を見上げて困ったように無精ひげをかいた。 「あの頃は響がお母さんを亡くした後だったからな」 「ああ……。ご病気だったんですっけ」 声をひそめる。 家族をなくした有川の想いは分からない。 けれど1人で強く暮らしている有川を愛しいと思う。 守りたかった人とは、母親のことなのだろうか。 「……そうだね。病気で。だからかね。強くなりたい、て言ってたよ。それで俺の友人だったひーちゃんの叔父が連れてきた」 「叔父さん?」 「俺の学生時代の友人でね。すんごい性格悪いけど、ひーちゃんはかわいがってたみたいだ」 「そっか」 よかったと思った。 父親とはあまり話さないと言っていた。 だから家族縁が薄いのかとも思っていた。 けれど、やはり有川を大事に思っていてくれる人はいたのだ。 その事実が、加奈の胸をあったかくした。 武道がなくても、有川は強いと思った。 辛いことだってあっただろうに、前を向ける。 真面目に実直に不器用に、前を向いて歩いている。 「……その頃は、もう髪は白かったの?」 気になっていたことを恐る恐ると聞く。 本当は他人に聞くべきことではないのかもしれない。 でも、有川にはなんとなく聞きづらい。 余計なことを聞いて彼を傷つけたくない。でも有川を知りたい。 即断即決、思い立ったら即行動、な加奈には珍しい逡巡。 準備運動を終えた有川が、こちらを向いた。 目元を和ませ、加奈に手を振る。有川の髪は、薄暗い道場でもよく光っている。 加奈は満面の笑みを浮かべえて大きく手を振り替えした。 「白かったね。お母さんを亡くしてすぐ、事故にあったそうだから」 加奈の顔が、泣きそうにゆがんだ。 すでに有川は、他の人間との組み手に移っており、こちらを見ていない。 最初から決められた動きに添っての組み手らしく、流れもスムーズだ。 「……どんな」 どんな事故だったのか。 聞きたかった。髪の色を変えてしまうような恐怖、衝撃。 加奈には理解できない。 けれど少しでも理解したかった。 「いいや、やっぱり!」 しかし、加奈はそこで頭を振った。 パン、と音をたてて目の前で手を叩く。 「重要なのは今よ!昔のことなんてとりあえず関係ない!有川が話したかったら話すだろうし、話したくなかったら話さない!今の私がしなければいけない最重要任務は有川をどう落とすかよ!それ以外は後後!うん!」 1人納得したように頷く。そしてガッツポーズで目指せ彼女と叫んだ。 押上は、そんな加奈を一瞬驚いた表情で見つめ、その後小さく噴出した。 楽しそうに肩を震わせる。 「ははっ、そうだね。でも彼女じゃないの?てっきり付き合ってるのだとばかり」 「まだ落とし途中なのよ。でも絶対落として見せるわよ!見てなさい!」 握りこぶしで力説する加奈を、朗らかに見ている押上。 「頑張って。応援してるよ」 「おうよ!」 「でも、響より一つ年下だっていうのに、たくましいなあ、加奈ちゃん。……やっぱり女の子の方がたくましいのかな」 「は?私と有川、同い年よ?」 響と加奈は同じ学年のはずだ。 誕生日も8月だったはずなので、11月生まれの加奈とはたった3ヶ月差のはずだ。 そこで、今思いついた、というように押上がああ、と言った。 「ひーちゃんは君より一つ年上だよ。本当なら二年生。事故の後に一年間休学したからね」 「ええええ!!!」 「聞いてなかった?」 「聞いてないわよ!」 これまた衝撃の事実だった。 一年間の休学。それは本当に、どんな事故だったのだろう。 一度消え去った、もやもやとした重苦しい何かが胸のあたりに圧し掛かる。 事故は、本当にひどいものだったのだろうか。 命に関わるものだったのかもしれない。 有川の体に残る傷を、思い出して苦しくなる。 「……ひどい事故だったらしいからね」 「………」 眉をしかめて、はき捨てるように言う押上。 加奈は有川を思う時とは違うけれど、やはり苦しい心臓のあたりの制服をぎゅっと掴んだ。 有川と出会ってから、心臓に悪いことばかりだ。 「その頃のこと、聞きたい?」 うつむいてしまった加奈に、上から声がかかる。 首が痛くなるほどに見上げると、真摯な眼で問う熊男がいた。 軽い口調とは裏腹に、真剣で、怖い表情。 加奈は眼を伏せたが、すぐに顔を上げた。 「いらない。さっきも言っただけど、私に重要なのは今の有川。一つ年上だろうがなんだろうが、関係ないわよ!私が欲しいのはあの素晴らしい筋肉、かわいらしい性格、そしてプロ裸足の料理の腕!とりあえずそれがあれば十分!後のことはまた今度で良いわ!」 そう言って、けして上品とはいえない顔で笑った。 それに呼応するように、押上もにやりと笑った。 「いいね、加奈ちゃん。けっして『知りたくない』といわないところが」 「後で必要になるかもしれないじゃない!『今は』いらないだけよ!」 その言葉に、押上はまた笑った。 それからしばらく二人並んで練習風景を眺める。 加奈が思っていたとおり実戦に即した武術らしく、形式的なものが少ない。 加奈の習っている精神面を大切にする合気道の技とは違った。 今も実戦形式で組み手を行っている。 有川の動きは無駄がなく、きれがあり、相手の少し年かさの男を押している。 動くたびに見える胸筋や腹筋に、ムラムラする加奈。 「いけ、そこだ!脱がせ!はだけろ!」 小さな声で相手を応援したりもする。 もちろん実力が有川の方が上だと分かっているから出来ることだ。 「そういえば、あいつは学校でうまいことやってる?」 そんな加奈を気にせず、横でのんびりと見ていた押上が問う。 視線を有川に固定したまま、加奈は答える。 「うーん…、生徒会ではうまくやってるわよ。メンバーと仲いいし。私の勘違いでなければ、有川も楽しんでると思う」 「そっか、そういえば生徒会入ったって聞いたな。そこで知り合ったの?」 「ていうか勧誘したの」 そうして有川に出会った経緯を話す。 押上は笑いながら聞いていた。 「いやー、強引だな、加奈ちゃん。でもそっか。そういう風に知り合ったのか。なるほどね」 1人納得したように何度も頷く。 「それで、クラスではどうなの?」 「クラスでは……1人みたい」 ちょっと申し訳なさそうに話す加奈。 そこで驚いたように押上が声を上げる。 「1人!?」 その声に、加奈のせいではないのだが、ますます申し訳なさげに眉を下げる。 「うん、いつもクラスでは1人でいるみたい。私や、慎二…生徒会のメンバーがいる時は誘うんだけど、それ以外は結構1人でいるみたい」 「………」 押上は口元に手をやると、なにやら黙り込んでしまった。 加奈は慌てて手をふって弁解する。 「あ、でもね。まだ学校始まってから2ヶ月かそこらじゃない!?うちエスカレータ多いし!だからまだ有川の魅力が分かってないだけよ!あいつ無口だし、外見多少怖いから!有川の魅力が分かればあっという間に友達だって増えるって!」 有川は不器用なだけで、とても魅力的な人間であることは加奈がよく知っている。 だから、けっして有川が嫌われているわけではない、と弁解したかった。 そんなことは、加奈より有川との付き合いが長い押上には分かっているだろうが。 それでも押上は黙り込んでいる。心なしか顔も険しい。 「ちょっと、馨ちゃん?聞いてるの?」 聞いているのかいないのか分からない押上に声を上げる。 それでようやく気づいたように顔を上げた。 「あ、ああ。聞いてる聞いてる。まあ確かにあいつは不器用だしな。それはしょうがない。今までだって友達少なかったし。ていうかほぼいなかったし。ただな、俺はてっきり……」 「てっきり?」 「いや、なんでもない」 一つ頭を振ると、にっこりと笑った。 そして加奈の頭をがしがしと撫でる。 「それにしても加奈ちゃんはいい奴だな!加奈ちゃんがいてくれたらひーちゃんも安心だ!頼んだぞ!」 痛いくらいに力の入った手を払いのけて、加奈は胸をどん、と叩く。 「任せてよ!絶対幸せにしてみせます!」 二人ははじけるように笑った。 その後、すっかり日が暮れ、道場内も明かりなしでは辛くなってきた頃。 有川が練習を一段落させ、加奈の元に駆けてきた。 押上はすでに指導に戻っている。 「……退屈じゃないか?」 「ううんー!ぜんっぜん!すっごい楽しかった!もー有川の筋肉とか筋肉とか筋肉とか!いつまで見てても飽きない!技決められて苦しそうにゆがんだ顔もセクシーだし、技きめて得意そうな顔もかわいいし!楽しかった!!」 興奮して感想をまくしたてる加奈。 有川も嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべていた。 「よかった」 「うん、楽しかったよ」 「ここに、友達連れてきたの、初めてだったから」 「初めて?」 「うん」 こっくりと頷く、子供のような仕草。 「私が最初?」 「そう」 ちょっと恥ずかしそうに目元を染めて、にっこりと笑う。 「………」 「加奈?」 「あー、ちくしょう!かわいいわよ!あんたがどんなだって好きだー!!」 道場内に響き渡る大声で絶叫した後、加奈は自分より一回り大きいその体を押し倒した。 慌てて受身を取る有川。 その後有川の貞操の危機は、呆れ顔の押上によって救われた。 |