池の豪邸から退出して車を走らせていると、見知った後姿が見えた。
俺はスピードを緩めて窓を開き、声をかける。

「やあ、鷹矢君」

友人の弟は、俺の声に振り返る。
あのどうしようもなく俺様な友人と同じ遺伝子を感じさせる面立ちに、しかし兄弟とは感じさせない柔和な表情を浮かべて笑う。

「あ、鳴海さん。うちに来てたんですか?」
「ああ、大奥様へのお目通りでね。どこに行くんだ?乗って行くといい」
「え、でも」
「いいから。どこに行くんだい?」
「はい、えっと、じゃあ駅までお願いできますか。峰兄の家に行くんです」

遠慮がちに頭を下げる謙虚さは、本当に峰矢には全くないものだ。
どうして同じ血をひいて、同じ環境で育ってここまで違うものなのか。
恐縮しながら助手席に乗り込む鷹矢君を見ていると、普段峰矢を見ている分、心が洗われるようだ。

「今日は峰矢は家にいるのか?」
「今日はいるみたいですよ」
「それなら家まで送っていくよ。俺も峰矢に用があったしな」
「いいんですか?」
「ああ」

まあ、峰矢には今度会う予定もあるからその時でもいいんだが、こうでも言わなきゃこの子は遠慮しっぱなしだろう。
用事があるのは嘘ではない。

「車はどうしたんだい?」
「あ、今日は泊まりの予定なんで、駐車場代勿体ないなあって」
「お兄さんと違って堅実でいいことだ」

金持ちのお坊ちゃんで小遣いも人並み以上に貰ってるだろうに、この子の感覚は至極まともだ。
大学に入ってから自立している兄に憧れている分、養われている自分にコンプレックスを感じてもいるのだろう。
あんな規格外に憧れても何の得にもならないのだが、無碍にされても兄の背中を追うこの子を見ていると哀れで涙が出そうになる。

「峰矢になんの用事?」
「あ、うーんと、守の方に」

峰矢が一人暮らしを始めてから中々会えないと言っていたから珍しいと思ったら、黒幡君の方だったらしい。
しかし、この二人に接点があったのか。

「あれ、黒幡君とそんなに親しくなったの?大奥様に連れられて会ったっていうのは聞いていたけれど」
「親しくっていうか、えっと、うーん、うん、友達になったのかな。うん」
「なんだそれ」

なんとも煮えきらない言葉に、笑ってしまう。
どういう仲なのか想像つかないが、まあ行けば分かるだろう。
鷹矢君は困ったように笑って、小さくため息をつく。

「あの二人って、変ですよね」
「変だな」

その言葉には、全く同意できるものだったので、俺は力強く頷く。
すると鷹矢君は助手席からシートベルトを引きちぎらんばかりに身を乗り出す。

「鳴海さんもそう思いますか!」
「どっからどう見ても変だろう」
「よかった。なんかあの二人といると、俺の方がおかしいのかって気になってきて………」

あの二人のどこにまともなところがあるのか、逆に聞いてみたい。
鷹矢君は安心したように、体を戻してため息をつく。
まあ、確かにあの二人と一緒にいると自分の常識が破壊されそうになるのは分かる。

「大丈夫。君はこれ以上にないほどに常識人だ。安心してくれ」
「まあ、それもなんか寂しいんですけど」

破天荒な兄に憧れる弟って図はありがちだが、そこだからこそ王道なのだろう。
昔から峰矢の真似をしようとしてできなくて落ち込んでいるのを見かけた。
あんな奴に憧れても、何一つに身になることはない。
この子の美徳はその素直さと真っ直ぐさにあると思う。
まあ本人も分かっているのだろうけど。

「まあ、あの二人の変人ぷりに引きずられないようにしたほうがいいよ」
「あはは。あの二人、お似合いですよね」
「まあね」

変人同士固まっていてくれたら、周りに被害が少なくて助かる。
峰矢をあれだけいなせるのは黒幡君だけだろうし、黒幡君もまたあの特殊性を受け止めてくれるのは峰矢ぐらいだろう。

「あれですね」
「ん?」
「えっとほら、なんていうか、比翼の鳥とか、連理の枝とか」

そのあまりに美しい例えに俺は呆れるより先に感心してしまった。
本当にこの子はいい子だ。

「君は本当に善良だなあ」
「え?」
「あれはそんないいもんじゃないだろう」

比翼連理なんて、美しいものじゃない。

「破れ鍋に綴じ蓋、牛は牛連れ馬は馬連れだな」



***




「鷹矢、いらっしゃい」
「ああ、こんにちは」
「今日は泊まっていけるんだよな」
「うん」

鷹矢君が扉を開けてすぐに、足音とこの家の同居人の声が響いた。
俺が知る彼の声より、随分と明るく弾んでいる。
平坦な中にも、喜びがにじみ出ている。

「夕メシ何食いたい?和食、洋食、中華?この前千代さんにタイ料理習ったんだ。だからタイ料理も出来るよ。あ、後で一緒に買物行こう」
「分かった。分かったからちょっと待て!」

鷹矢君がなんとか矢継ぎ早に繰り出される言葉を制して、俺を振り返る。

「鳴海さん」

俺は苦笑しながら、鷹矢君に続いて中に入る。
すると黒幡君は目を丸くして、首を傾げる。

「て、あ、鳴海さんもいらしたんですね、いらっしゃい」
「なんか来ちゃいけない感じだね」
「いえ。………鳴海さん、鷹矢と仲いいんですか?」
「え」

いつになく睨まれている気がして、少しだけ怯む。
そこで助け船に入ってくれたのはやっぱり鷹矢君だった。

「そういうのは後にしろ!」
「そうですね。先輩に用事ですよね。どうぞ二人ともおあがりください」

さっきのテンションとは打って変わって落ち着いた様子で、俺達にスリッパを進める。
鷹矢君をちらりと見ると、苦笑して肩をすくめていた。
なるほど、仲がいい、というか、なんでだか分からないが黒幡君が一方的に懐いているのか。

「ああ、ありがとう。これおみやげ」
「いつもありがとうございます」

俺が途中で買ったお茶菓子を差し出すと、ようやく黒幡君は表情を緩めた。
全くここの住人は家主も同居人も揃って現金だ。

「先輩、鳴海さんがいらっしゃいました」
「あ、典秀?」

居間で本を読んでいた峰矢が、怪訝そうに眉を顰めて顔を上げる。
歓迎の言葉なんて期待もしてないので、俺はさっさと用事を済ませる。

「大奥様からの預かり物と言伝だ。ほら」

頼まれていたものを渡すと、峰矢は黙ってそれを受け取った。

「で、楽しみにしてるわ、だそうだ」
「分かった」

なんのことだかは分からないが、二人には通じることなのだろう。
峰矢はやっぱり特に表情を変えずに頷いた。

「先輩、静子さん、なんて」

けれどいつもは全く峰矢のことなんて気にしない黒幡君が口をはさむ。
答える峰矢は冷たいものだった。

「お前には関係ない」
「………」

黒幡君はじっと峰矢を見つめるが、峰矢はそれ以上答えずに本に視線を戻す。
それで、黒幡君は諦めたようだった。

「………分かりました」

そのやりとりに少しだけ興味が沸いた。
今度大奥様にでも聞いてみようと思っていると、黒幡君はこちらに声をかけてくる。

「鳴海さんも、夕メシ食ってきませんか?」
「いいのかい?」
「勿論です。メシは大勢で食った方がうまいです」
「俺は歓迎されてないのかと思ったよ」
「鷹矢よりかは歓迎してませんけど、それなりに歓迎してますよ」
「君はその毒舌直さないと、就活苦労するよ」
「大丈夫です。人は選んでますから」

まあ、確かに他の人間に対してはそこそこ礼儀正しいから問題ないのか。
この子はどうも、優しくしてくれる人には優しく、そうでない人間には心底どうでもいいという態度があからさまだ。
けれど一応は、俺は嫌われてる訳ではないらしい。

「あんまりこの家、人も来ないし、メシ食ってくれる人がいるなら嬉しいです。先輩は好き嫌いないけど好みとかもないから作り甲斐ないし」
「お前が人を連れてくるなって言ったんだろうが」
「人を、じゃないですよ。頭の悪い女連れ込むなって言ってるんです」

峰矢のつっこみに、黒幡君も不満そうに同居人を睨みつける。

「頭のいい女だったらいいですよ。アトリエ以外で。あんたの連れてくる女、頭が悪そうな女ばっかりなんですから」
「頭悪い方が面白いだろ」
「趣味悪いです。まあ、変なことしない女だったら連れ込もうがセックスしようがいいです。あ、台所もやめてください。メシ作れなくなるんで。前は後始末も大変だったし」
「ヒステリックな女みてえに愚痴愚痴うるせえな」
「分かりました、簡潔に。この家は俺の家でもあるんで、変な女は連れてこないでください」
「はいはい」

そのやりとりに俺と鷹矢君は思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。
本当に割れ鍋に綴じ蓋、合わぬ蓋あれば合う蓋あり。

「相変わらず君たちは変な関係だな」
「そうですか?」
「黒幡君は、やっぱり峰矢の女に嫉妬したりはしないのかい?」

俺の言葉に、黒幡君はその黒目の大きいガラス玉のような目を何度も瞬かせる。
どこか人形のような印象の青年は、しばらく考えて口を開いた。

「うーん、先輩のこと、確かに、えっと、その」

珍しく言いごもる黒幡君。
そして、その病的なまでに白い肌を、少しだけ赤らめた。

「大事です」

いつもはその手が大事だのその作品が大切だのぽろぽろと言う癖に、珍しく照れているようだ。
そういえば、峰矢自身が大事だというのは、もしかして初めてだっただろうか。

「でも、別に一人占めしたいとは思いません。だって、女好きじゃない先輩なんて、先輩じゃないし」
「なるほど」

確かに女と一緒にいない峰矢なんて、峰矢としての存在価値が問われるだろう。
そもそも、商業的にもこいつの女遊びは必要なところなので、二人のゴタゴタとかで揉められても困るのだが。
黒幡君が理解のある恋人でよかった。

「あ、そうだ、先輩」

黒幡君ははた、と思い出したように壁に寄りかかっている峰矢に視線を移した。
峰矢は視線を本からあげずに答える。

「なんだ?」
「お願いがあります。処女ください」

あまりにも率直なお願いに、俺と鷹矢君は二人で同時にお茶を吹きだした。
言われた本人は、特に動揺した様子は見せずに本から顔をあげる。

「どうした、急に」
「先輩のこと、もっと欲しいです。てことで先輩の処女欲しいです」
「意味が分からないけど、まあ、お前なら仕方ねえな」

なんでそんなに華麗に流せるのかがさっぱり分からない。
峰矢は、さらりとその言葉をスルーしてから拒絶した。

「無理だ」
「どうしてですか。俺のは無理矢理奪ったくせに。ずるいです」
「その分見返りはやってんだろうか」
「まあ、そうですけど」

それでも不満そうに口を尖らせる黒幡君。
峰矢は軽く肩をすくめて、あっさりと言った。

「そもそも、ないものはやれない」

一瞬、部屋の中が静まり返る。
当事者でもなんでもない俺も、峰矢が何を言っているのかよく分からなかった。

「え」
「え」
「え」

えっと、今、峰矢は何を言った。
えーと、黒幡君は峰矢の処女が欲しいと言っている。
けれど、峰矢はそれはないからやれないと言っている。
つまり峰矢は、処女ではない。

「えー!!!!」

ようやく峰矢が何を言ったのか分かった瞬間、大きな声を上げたのは当事者の弟だった。
峰矢の方に身を乗り出して、顔を青くしたり赤くしたりしている。

「どういうこと、どういうこと、峰兄!」
「なんでお前が一番動揺してんだよ」
「え、だって、え、えー!!!!」

そりゃ実兄が実は処女じゃなかったと知ったら動揺もするだろう。
いや、ていうかそもそも兄が処女か処女じゃないかなんて考えもしない訳で。
いや、まず男と付き合うって時点で通常とは違う訳で。
だったらその衝撃は相当なものな訳で。
ああ、俺もかなり動揺しているな。
鷹矢君は焦ってきょろきょろしたり頭をかいたり意味のない行動を繰り返している。
峰矢はそれを興味深そうに眺めていた。

「えっと、だ、誰!誰が相手!」
「だからなんでお前が焦ってんだよ。とりあえず俺の脱バージンはお前も知ってる奴だよ」
「え、えー!」

そして鷹矢君はしばらく考えてこんでから、なぜか俺の方を見た。
青い顔をしながら、引き攣ったように笑う。

「………えっと、鳴海さん?」
「やめてくれ」
「ふざけんな」

俺と峰矢は同時に否定した。
考えるだけでもおぞましい。

「なんで俺が典秀と寝なきゃいけねえんだよ」
「だって、峰兄にそんなことして生きていられる人って、他に思いつかない………」

それは俺は褒められているのかなんなのか。
まあ、長年峰矢と友人をやってる俺を、鷹矢君はいたく尊敬していてはくれるらしい。
光栄なんだかそうじゃないのだか。
とりあえず肉体関係は想像だけでも嫌なのでやめてくれ。

「処女じゃないんですか」

鷹矢君の混乱とは打って変わって、黒幡君は静かで冷静だった。
峰矢は本に視線を戻して答える。

「ないんです」
「がっかりです」
「悪かったな」

ふうっとため息をついて、肩を落とす黒幡君はけれど至って冷静だ。
本人の言葉通り、がっかりだったらしいが、この衝撃の事実に対するリアクションはそれだけなのか。
もっと恋人として、別の反応があるんじゃないのか。

「じゃあ、俺洗濯物入れてきます」

そう言って、黒幡君は立ち上がり二階に向かう。
その背中を見守ってから、後ろで我関せずと本を読んでいた友人を振り向く。

「で、………本当か?」
「嘘ついてどうする」
「いや、お前なら俺達の反応を面白がって嘘つくとか」
「まあ、やるかもしれないが、今回は本当だ」

峰矢は特に焦る様子も面白がる様子もなく淡々と答える。
結構長い付き合いだが、そんな話は初耳だ。
パトロンから誘われたりした時もうまいこと断ってたし、本気で男に興味がないと思っていたのだが。
いやていうか男に興味があったとしても、こいつが女役をやることがあるとは思わなかった。

「お前、男に興味ないっていってなかったか?」
「ない」
「………なら」
「なくても、寝ることぐらいなら出来るだろ」
「………いや、うん」

俺なら出来ないが、こいつなら出来るかもしれない。
何しろ女の子の許容範囲も広すぎて果てが見えない。
まだ呆然としてる鷹矢君を見ると、鷹矢君もこちらをちらりと見た。
その憔悴した様子を見ていると、こっちはなんだか落ち着いてきてしまう。

「それにしても、黒幡君はやっぱり反応薄いな」
「そうですね」

俺の言葉にようやく表情を緩めて、鷹矢君が笑う。
と、その時。

ガタガタガタガタガタ!
ドドドドドドドド!
ガタン!

二階から人が転んだような、ものが転げ落ちたりしたような、洗濯物をベランダから放り投げたような盛大な音が聞こえた。

「ま、守!?」

鷹矢君が慌てて居間から飛び出して行く。
今度は鷹矢君の背中を見守ってから、煤けた天井を見上げる。

「………ショックだったらしいな」
「みたいだな」

峰矢も二階をちらりと見上げて、肩をすくめた。





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