「ごめんください」

カラカラと玄関が開く音がして、澄んだ女性の声が響いた。
俺はエプロンで手を拭きながら玄関先に向かう。

「はい」

女は呼ばないってことだったが、先輩はまた誰かに手を出したのだろうか。
そんなことを考えながら玄関に辿りつくと、しかし予想に反して立っていたのは老年の女性だった。
上品な淡いベージュのスーツを着た、姿勢のいい綺麗な女性だ。
その隣には俺と同じぐらいか、もしくは年下といった風情の背の高い青年もいた。
こちらも身なりが良く、容姿も優れている。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは、失礼ですが、どのような御用向きでしょうか」

セールスや宗教関係には見えない。
なんとなく、予想はつくが一応聞いておく。
すると女性は俺の顔を見て、楽しそうに顔を輝かせた。

「あなたが黒幡守君?」
「はあ」

頷くと、年老いてなお美しい女性は優雅な仕草で頭を下げた。
ふわりと花の匂いが玄関先を満たす。

「はじめまして、私は池峰矢の祖母の、池静子と申します」



***




「どうぞ」
「ありがとう」

先輩の不在は告げたが帰る様子はないので、家に上げた。
早々に帰す権利は、居候にはない。
とりあえずお茶など淹れて、出してみる。
しかし、先輩のお祖母さんなんて、何を話せばいいんだ。

「あら、美味しい」
「頂き物ですが」
「お茶もそうだけど、淹れ方が上手ね」
「ありがとうございます」

この前鳴海さんにいただいた玉露だが、口に合ったようだ。
本当に俺に家事全般を叩きこんでくれた千代さんに心から感謝する。
お茶やコーヒーを淹れるとおいしいと言ってもらえることが多い。
褒められるような特技が特にないので、素直に嬉しい。

「こっちの茶巾絞りは?」
「俺が作ったものなんでお口に合うかは分かりませんが」
「へえ、あなたが作ったの!」

この前スーパーでさつまいもが安かったので、つい買ってしまったのだ。
千代さんがよく作ってくれた茶巾絞りは、俺の大好きなおやつの一つ。
先輩も何も言わずに食べているので、俺の腕でもまずいってことはないのだろう。
まあ、あの人は基本的に食べ物に文句は言わないけど。
クロモジなんて置いてないのでフォークで出したが、静子さんは上品にフォークを使って口に運ぶ。

「まあ、美味しく出来てるわね」
「ありがとうございます」
「これはゴマが入っているの?」
「はい、ゴマとはちみつで」

千代さん特製の茶巾絞りのレシピだ。
黒ゴマの香ばしさとはちみつの柔らかな甘みが優しい味に仕上げている。
千代さんには遠く及ばない味だが、お菓子なんて置いてないこの家なので、ちょうどいいタイミングだった。

「この前来た時は人間の住む場所じゃなかったけど、綺麗になってるわねえ」
「はあ」
「あの子が掃除する訳ないから、あなたが掃除してるの?」
「まあ、ある程度は」

静子さんは辺りを軽く見回して聞く。
時折掃除をさせるために適当な人間を入れていたようだが、やっぱりそこまで行き届く訳じゃない。
先輩は、片付けるとか掃除するとかいう概念を持ち合わせていないのでたまの掃除じゃ追いつかない。
確かに俺が来た当時に比べれば、随分人の住む場所らしくなった。
ひとしきり見回して満足したのか、静子さんが改めて向かいに座る俺と目を合わせる。
背筋を伸ばして正坐をしているその姿は、本当に良家の奥様といった風情でこの家には似合わない。

「それにしても、あなた、私みたいな人間を勝手に家にあげてよかったの?」
「なんでですか?」
「もし私が泥棒だったどうするのよ」

予想外の言葉に、軽く驚く。
それは全く思いつかなかった。
静子さんと隣にいる鷹矢と名乗った先輩の弟らしい人を見て、そんな考えが浮かぶ人間は少ないんじゃないだろうか。

「間違いなく先輩の血縁者だとは思いましたから」
「あら、似てる?」
「ええ、先輩の容姿がいいのは、静子さんに似たんですね」

二重のアーモンド形の目も、高い鼻梁も、意志を感じる厚い唇も、その全てが、明らかな先輩との血のつながりを感じる。
隣に座る鷹矢さんも同様だ。
こっちは性別が同じだから、余計にはっきりと分かる。
鷹矢さんの方がだいぶ線は細いが。

「あらあらあらあら、うまいわねえ」
「よく似ています」

そこで静子さんは悪戯っぽく笑った。
それはひどく女性的で、若々しい。

「計算なのかしら、それとも天然なのかしら」

別に世辞を言うつもりはなかったが、計算と受け取られたのだろうか。
まあ、どちらでもいい。

「先ほども申し上げましたが、先輩、今日は多分帰らないと思うんですが」
「知ってるわ。だから来たんだもの」
「はあ」

それなら、何しに来たんだろう。
ちゃんと家が掃除されているか見に来たとか。
そんな暇な人なんだろうか。
しかし、本当に何を話したらいいのか分からない。
静子さんは悪戯っぽく笑ったまま首を傾げる。

「あの子、今日女と一緒にいるんでしょう?」
「ええ、パトロネスと食事なので帰りは明日になるって話でしたが」
「あら、知ってたの」
「はあ」

一緒に暮らし始めてしばらくしてから、夕飯の用意のため、一応スケジュールを聞くようになった。
まあ、予定を急に変更して帰ってきたり帰ってこなかったりすることが多いんだが。
静子さんはちょっと不満そうに眉を顰めた。

「あなた、あの子と付き合ってるのよね?」
「いえ」
「え?」
「別に付き合ってないんじゃないでしょうか」

そういえばこの前鳴海さんにも恋人って言われたな。
付き合ってるってことになるのだろうか。
どうなんだろう。

「あんた、峰兄と付き合ってないの?」
「はあ」

そこでじっと不機嫌そうな顔で押し黙っていた鷹矢さんが聞いてきた。
なぜだか睨まれている。

「あの子は本当に昔っから女の子にモテてねえ」
「でしょうね」

自慢げにほくそ笑む静子さん。
その自信に満ちた笑い方は、本当に先輩そっくりだ。

「あんなに性格が悪い子なのに」
「イケメンにとって性格が悪いのは欠点にならないらしいです。むしろ悪い男ってのは女の子にとって魅力でしかないそうです」
「あら、女心がよく分かっているわね」
「いえ、友人がそう言っていました」

悔しいけどいい男なのだと言ったのは大川だ。
悪い男ってのは、否応なく惹きつけられちゃうのよ!と握りこぶしで主張していた。
私のタイプじゃないけどね、と最後に付け加えていたが。

「まあ、容姿もいいし頭もいいし顔もいいし、育ちもいいからマナーも出来てるじゃない?そりゃ女も放っておかないわよね」
「そうですね」

むしろモテない要素が見つからない。
毛嫌いする人も多いが、同じぐらいに惹かれる人も多い。
俺が頷くと、静子さんはまたつまらなそうに鼻に皺を寄せた

「………つまらないわね」
「どうしました?」
「嫉妬ぐらいしないの?」
「特には」

ということは今のは俺に嫉妬させようとして言ったのか。
余りにも当たり前のことをなんで今更言うのか不思議だった。

「………どうして皆して俺を嫉妬させようとするんでしょうね」

思わず、疲れてつぶやいてしまった。
幸い二人には聞こえてなかったようだが。

「それだけあの子を信じてるってこと?」
「えーと」

信じるも何も、先輩の女関係についてとやかく言う権利も義務もない。
先輩がしてくれた約束は、信じているが。

「そもそも付き合ってないので、先輩の女関係に対してどうこうする権利もないし、する気もないし、あまり興味もないんです」

俺の答えに、静子さんは不可解そうに頬に手を当てて首を傾げる。

「………おかしいわね。鳴海君はあなたと峰矢が付き合ってるって言ってたんだけど」
「付き合うっていうか、まあ寝てはいますね」
「寝てるって!」

鷹矢さんが身を乗り出して声を荒げる。
その顔には驚愕に染まっていた。
セックスしてると言わなかったが、まだ言葉が汚かっただろうか。

「あ、えーと、肉体関係?」
「そ、そういう問題じゃない!」

俺の言葉に、顔を赤らめる鷹矢さん。
先輩と違って随分そういったことに免疫がなさそうだ。
なんか、基本は先輩と一緒なのに、線が細いせいか少年めいて見える。
俺よりも年下なのかもしれない。

「鷹矢は純情ね」
「お祖母様はもうちょっと動揺してください!」

確かに孫息子の男関係を聞いて、これほど飄々としているっていうのはあまりないのではないだろうか。
普通の家族の反応っていうのはよく分からないが、こういう感じじゃない気がする。
多分鷹矢さんの方がまともな反応だろう。
打ちのめされたように俯いて、掠れた声でつぶやく。

「峰兄、あんなに女好きだったのに………」
「あなたブラコンだったものねえ」
「そういう訳じゃありません!」

ああ、なるほど、この人は先輩が好きなのか。
顔を赤らめて祖母に食ってかかる様子はなんだか微笑ましい。

「鷹矢さん、でしたっけ」

俺が聞くと、鷹矢さんは嫌々ながらも視線を合わせてくれた。
それはなんだか子供が不貞腐れているようで、やっぱり微笑ましい。
それでも無視したりしないところを見ると、きっといい人なんだろうな。

「………はい」
「今、おいくつなんですか?」
「大学一年」
「そう。俺の一つ下なんですね」

やっぱり年下なのか。
普通の弟っていうのは、こういう感じなのかな。

「なんだよ」
「いや、茶巾絞り、もう一個いかがですか?」
「………いらないです」
「私はもうひとつ頂こうかしら」
「はい、どうぞ」

俺は真ん中に盛って合ったお菓子を、静子さんの皿に取り分ける。
静子さんは嬉しそうに口に運んでくれた。
自分が作った料理を食べてくれる人がいるというのは、嬉しい。

「そうそう、峰矢の婚約者が、そろそろ結婚を急いでいてね」
「はあ、そうなんですか」

静子さんは茶巾絞りを食べながらそんな話を始める。
婚約者か。
まあ、お金持ちだって言うし、そういうこともあるのかもしれない。

「気立てのいい、家柄も釣り合う美人なのよ。あの子には勿体ないわ」
「はあ」

お嬢様という奴か。
巨乳かな。
なんて考えていると、静子さんは俺の顔を窺うように覗き込んでくる。

「動揺しないの?」
「特には」
「つまらない子ね」
「すいません」
「峰矢が結婚したら、あなたどうするのよ」
「どうするって、考えたことなかったですね」

先輩が、結婚する、か。
本当に想像がつかない。

「俺が別にいいんですが、奥さん困りそうですね。先輩絶対浮気するでしょうし」
「まあね。あなたはどうなのよ」

言われてちょっと考える。
先輩が結婚する。
家庭を持って、妻一筋になる。

「俺は、そうですね。セックスがなくなるのは、まあ、あった方がいいですけどなくてもどうにかなりそうですね。結婚してこの家を出て行く。寂しいですが、別に構いませんね。たまに会えるんだったら。そうですね、作品が見れなくなるのは我慢できませんが、それ以外でしたら特に問題ないようです」

静子さんはまたつまらそうに口を尖らせる。
本当にそんな仕草一つ一つが若々しく愛らしい人だ。

「あなた峰矢が好きなんじゃないの?」
「多分惚れてます」
「………理解出来ないわ」
「俺も今ちょっと考えて、前と全く変わってなくて驚きました。おかしいな」

俺、先輩が好きなはずなんだけど。
惚れてるって自覚して、先輩も俺に惚れてるって自覚して、傍にいるって言った。
あれ、これ恋人なのかな。
付き合っているのだろうか。
でも、もう一度考え直しても、やっぱり結婚して構わないな。

「まあ、でも、嘘ですよね」
「なんでそう思うの?」
「あの人が、人から押し付けられた婚約者なんかで一生を縛られるとは思わないです。パトロンかなんかの利害関係が絡むならともかく」

一生一人の人間に縛られる、なんてことは我慢できない人だろうし、不可能だろう。
そもそも事業をやっているって聞いた家に帰る気があるのかすら疑わしい。
あの人が創作を捨てられる訳ないんだから。

「それと、鷹矢さんは嘘つけないですね。婚約者の話出た時、驚いた顔してました」

婚約者って言葉が出た時に、鷹矢さんは驚いて静子さんの顔を見ていた。
先輩とは違う意味で、とても素直な人のようだ。
静子さんは隣の孫を見て、呆れたようにため息をつく。

「全くもう」
「………すいません」
「まあ、そこがあなたのいい所なんだけどね」

そう言って笑って、頭を撫でる。
照れくさそうにしながらも、鷹矢さんはじっとしていた。
そこで若いアイドルの歌が流れると、バッグから静子さんが携帯を取り出す。

「失礼。ちょっと席を外すわ」
「はい」

そして携帯を耳に当てながら廊下に出てしまった。
残されたのは俺と鷹矢さん。
俺は飲みほしてある鷹矢さんの湯呑みに、お茶を再度注ぐ。
今回はいい加減な淹れ方だが、まあ、いいだろう。
鷹矢さんは相変わらず不貞腐れた顔をしている。
そんな様子はなんだかとても幼く感じる。

「………あんた、峰兄の、恋人なのかよ」
「どうなんでしょう」
「………」

聞かれても、こっちだって分からないのだ。
先輩もどっちだっていいって言ってるし、どっちでもいい気がする。

「鷹矢さんは、お兄さんのこと好きなんですね。仲いいんだなあ」
「………」

そこでちょっと悔しそうに口を尖らせた。

「峰兄は、俺のことなんてどうも思ってないけどさ。あの人は誰のこともなんとも思ってない。だから自由で、格好良くて、皆、峰兄が好きになるんだ」

顔がよくて自分勝手な最低な人。
人のことを人とも思わない態度でも、イケメンだったらそれすら魅力になるらしい。

「頭も良くて、格好良くて、才能あって、行動力あって、峰兄は完璧なんだ」

完璧と言うには傷だらけな気がするが、まあ弟の兄への尊敬をうち砕く気はない。
俺としては、人間としては欠陥がありすぎていいところを見つける方が難しい気がする。
やっぱりあの人の性格は、好きになれそうにない。

「誰のことも、特別になんか、思わないのに。それがお前みたいな地味でパッとしない奴に」

じっと、また睨みつけられる。
特別。
まあ、特別ではあるんだろうな。

「………」
「なんだよ」
「いや、なんか新鮮でした」

兄を取られる弟の嫉妬、という奴なのだろうか。
仲のいい兄弟というのはこういうものなのだろうか。
先輩に酷く憧れているらしい。
本当に、微笑ましい人だ。
思わず、小さく笑ってしまう。

「おい!?」

それに気づいて鷹矢さんは顔を赤らめる。
一つ下なだけだが、もっと下に見えてしまう。

「大丈夫、あの人、特に変わってないですから」

いまだに自分勝手で傲慢で不遜な人だ。
全く変わらない。
あの人は、変わらないからこそ、あの人なのだ。

「あなたは、なんで峰矢と一緒にいるの?」

そこに通話を終え帰ってきた静子さんが立ったまま聞いてくる。
隙のない女性を見上げながら、俺は正直に答える。

「惚れてるからです」
「どの辺に?」

どの辺、と言われると、端的に言えばその才能なんだろうか。
でも、そんな言葉で片付けたくないぐらいの想いが、溢れている。
どうして皆、関係に名前をつけたがるのだろう。
俺と先輩はこういうもの。
それでいいと思うのだが。

「あの人といると、世界が色で溢れるんです」

だから俺は、自分でも明確なものだけを告げた。
先輩は俺の感情。
俺の色。

「ただ傍にいて、その作品が見れれば、俺はそれだけで充ち足りるんです」

セックスできないのも、触れられないのも寂しいだろう。
けれど、例え結婚したとしても、傍にいることが出来ればいい。
その作品を一番に見れる立場にいればいい。
本気で俺を捨てようとしないのだったら、それでいいのだ。

「うーん」

静子さんはどこか傲慢に顎をあげて、俺を見下ろす。
人を馬鹿にしたような態度は、先輩によく似ている。

「容姿はパッとしないけど、料理洗濯掃除は中々だし、礼儀は悪くないし、あの子を理解している。それに何よりあの子に惚れてるみたいだし」
「はあ」
「悪くはないかもしれないわね」
「どうも」

納得したようにうんうんと一人頷いている。
なんか納得したようだ。
そして静子さんはコートを取りあげ、羽織る。

「さて、長居しても申し訳ないわね。もう帰るわ」
「そうですか。おかまいもせず」
「おいしいお茶とお茶うけだったわ」
「光栄です」

お茶うけがある時でよかった。
たまに来る先輩の仕事関係の人用にお茶はあるのだが、お茶うけがあることはあまりない。
今後はお菓子も置いておく方がいいのだろうか。

「行くわよ、鷹矢」
「はい」

きびきびと孫を促して、背筋を伸ばして玄関先に向かう。
颯爽と身を翻すその姿は、小汚いこのボロ屋においても、まるで豪華なパーティー会場にいるようだ。

「今度はうちにいらっしゃい。おいしい紅茶をご馳走するわ」
「はあ」

見送りに玄関に出た俺に、静子さんはにっこり笑って誘ってくれる。
けれど正直全く惹かれないので、曖昧な返事を返す。
しかし静子さんはそんな俺の返事ににやりと笑った。

「あの子の初めての作品や、学生時代の作品が見れるわよ」
「行きます」

気が付けば即答していた。
仕方ない。
だって先輩の作品だから。

「ええ、いらっしゃい」

そう言ってメアドを半ば無理矢理交換させられる。
そして嵐のような女性はその香りと同じようにふわりと花のように笑う。

「それじゃあね」
「お邪魔しました」

ぺこりと鷹矢さんも礼儀正しく頭を下げる。
先輩に似ているけど、まったく似ていない。
育ちのいいお坊ちゃんって感じだ。
いいなあ、鷹矢さん。

「はい」

二人が見えなくなるまで見送って、俺は一つため息とついた。
辺りはすっかり暗くなっている。

「なんだったんだろう」

突然の来襲に、俺は首を傾げた。





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