「絵が好きなのかい?」
「………好き」
「私も好きなんだ」

おじさんはそう言って優しく笑った。



- 色鉛筆 -




「ただいま」

ドアを開けると、玄関先には母さんがいた。
慌てて手に持ったものを後ろに隠す。
見つかったら怒られるかもしれない。
それにいつもより、遅くなってしまった。
けれど、俺の様子に気づくことなく、母さんは焦って靴を履くと慌てて俺の横をすり抜けて行く。

「ああ、守。和君を迎えに行ってくるから、お留守番しててね」
「うん」
「お義父さんも拾って、ご飯は多分食べてくるから、なんか食べておいて」
「分かった」

母はそう言ってパタパタと忙しなく家から出て行った。
手を洗ってうがいをして、お腹が空いたので台所に行く。
冷凍庫の中に沢山ストックされたレトルト食品を探る。
今日はドリアにすることにした。
パッケージを解いて、レンジに突っ込む。
週3の義弟の塾の日は、義父と母と義弟は三人で食事をとって帰る。
義弟が外でご飯を食べたいと望むからだ。

普段は少し寂しく感じるが、今日はいつもとはちょっと違った。
むしろ義父や母や、なによりも義弟がいなくてよかったと心から思った。
俺はテーブルに置いておいた新しい宝物を眺める。

いつも時間をつぶしている公園で、今日は見知らぬおじさんが絵を描いていた。
義父さんよりも年上そうな、けれどなんだかピシっとしていてかっこいいおじさん。
興味を惹かれて後ろからそっと覗き込むと、そこには今見ている景色とは思えないぐらい綺麗な世界が広がっていた。
びっくりしてそのままじっと眺めていると、優しげなおじさんは話しかけてきてくれた。

『絵が好きなのかい?』

俺は答えることを少しだけ躊躇う。
1年ほど前に出来た新しい義父は、絵を描いたり本を読むといった男らしくない行動を嫌っていた。
家で絵を描いて遊んでいた俺に、男らしくないなと母に苦言を呈した。
同い年の義弟も、暗い奴だと言って、からかう。
それを聞いて母も外で遊んできなさいと言うようになった。

だから俺は昼は図書館か公園でぼうっとしていることが増えた。
友達と遊ぶのは、疲れる。
野球や鬼ごっこをするのも疲れるし、TVゲームも持っていない。
欲しい、なんて言えるはずもない。
それにとりたてて興味もなかった。

『………好き』

ちょっと怖かったが、公園で綺麗な絵を描いているおじさんは、きっと怒ったりはしないだろう。
俺は恐る恐る絵を描くことが好きなことを告げる。
そうするとおじさんは嬉しそうに顔をくしゃりと綻ばせた。

『私も好きなんだ』

その顔と声が、とてもとても優しくて、俺は嬉しくなった。
久しぶりに自分の感情を肯定されて、勢い込む。

『あのね、俺、絵描くの、好きなんだ。でも、義父さんが、絵は男らしくないから外で遊んで来いって。だから公園にいるんだけど。ねえ、おじさん。おじさんの絵、見ていていい?おじさんの絵、すごく綺麗』
『ありがとう。勿論見ていていいよ。ああでも』

おじさんは傍らに置いたバッグをごそごそと探るとスケッチブックと色鉛筆を取りだした。
そしてにっこりと笑って俺に差し出す。

『この色鉛筆を使うかい?』
『………』
『君も絵を描くといい』

それは普段使っていた12色のクーピーよりもずっと沢山の色が入っていて、俺には光り輝く宝物のように見えた。
花屋の花のように色彩に溢れ、それを使って絵を描くと考えただけでドキドキしてくる。

『い、いいの?』
『勿論だよ。一緒に絵を描こう』
『う、うん!ありがとう!おじさん、ありがとう!』

俺はおじさんの隣に座りこんで、陽が暮れるまで一緒に絵を描くことを楽しんだ。
公園の池を描いた絵を、おじさんはにこにことしながら褒めてくれた。

『ああ、いいね。素直でのびのびとしたいい色だ』
『………でも、おじさんみたいに上手じゃないよ』

褒めてはくれたが、俺の絵はおじさんと比べて随分へたっぴだった。
柵なんか歪んでるし、木はまるで電柱のようにずんぐりむっくりしている。
けれどおじさんはゆっくりと首を振った。

『上手になんて、すぐになれるよ。でも、守君みたいに素直に色を描けるのは、すごいことなんだよ。そして楽しく描けるのが何より絵の上手な人だ』

言っていることはよく分からなかったけど、褒めてくれているのは分かった。
だから俺は嬉しくなって、もっともっと褒めて欲しくて、頑張って絵を描いた。

昔は、母さんも絵を描いたら褒めてくれた。
守は本当に絵が上手ね、って言ってくれた。
でも今は絵を描くと、怖い顔をするようになった。
どうして和君みたいに外で遊ばないのって言われるようになった。
義弟は野球がうまくて、友達がいっぱいいる。
義父さんも大人しい俺をどう扱ったらいいのか分からないようだ。
男らしくなって欲しいらしくて、色々注意されるようになった。

だから、絵を褒められるのが、すごく嬉しかった。
絵を描いていいのが、すごく嬉しかった。

日がとっぷりと暮れて、家に帰らなきゃいけない時間になった。
俺はこの時間が楽しくて楽しくて仕方なかったから、帰りたくなかった。
そうしたら優しいおじさんは、じゃあこの色鉛筆をあげようと言った。

『知らない人から、物もらっちゃいけないんだよ』
『じゃあ、あげるんじゃなくて、貸すよ。これで絵を描いてまた私に見せてくれないかい?』
『………』
『私は明後日にまたここに来る。君も暇だったら来てくれないか?そうしたらまた一緒にここで絵を描こう。そのために、その色鉛筆を持っていてくれないか?』
『う、うん!!また来る!』

そしてスケッチブックと色鉛筆を、優しいおじさんからもらった。
俺はそれを大切に抱きしめて家に帰った。

ドリアが出来るまでの時間、俺はその36色の細い鉛筆を眺め続けた。
この鉛筆で、今度はどんな絵を描こう。
沢山沢山、描きたい絵がある。

描いたら、おじさんはまた褒めてくれるかな。





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