「私の大切な守君の世界が、色彩に溢れ輝かしいものであることを祈ります」 - 黒幡 -耕介さんが無事だったとようやく認識して、張り詰めていた心が一気に決壊した。 一回溢れだした気持ちは、もう止めることは出来ない。 情けなくボロボロと、涙は尽きることなく流れて行く。 鼻水と共に、溢れる涙で顔が濡れる。 「う、あああ、うあ、ひぅ、っく、ああ」 俺の大切な人。 一番大切な人。 この人がいなくなったら、そう考えるだけで足元が崩れ落ちていく気がした。 「守君、ごめんね、守君、大丈夫だから。私は何ともないよ」 「あ、ひぃ、う、あ、あああ」 「守君、ありがとう」 優しい声が困った色を滲ませながら、宥める。 いつだって俺を労わる大好きな大好きな手が、頭を撫でる。 懐かしくて、切なくなる、温かさ。 じんわりと、冷え切った心に熱がともっていく。 「こう、す、けさ、ん」 「私の大事な守君。もう、大丈夫だよ」 見上げるとそこには、俺を慈しむ穏やかな目。 懐かしくて、嬉しくて、胸がぎゅーっと締め付けられる。 それでようやく、耕介さんの元に帰ってきたのだと実感出来た。 「守がこんな泣くとはな」 俺の後ろにいた新堂さんが、呆れたような声を出す。 そういえば耕介さんの前で泣いたのなんて、あの時以来だ。 俺を助けてくれた、あの日、以来だ。 「誰のせいだと思ってるんだ」 「原因はあんた」 「君が余計なことを言わなきゃよかったんだろう」 「俺は言ったぜ。大したことないから気にするなって。笑い話だったんだけどな」 そういえば、そうだったかもしれない。 今思えば、新堂さんの声は笑っていた気がした。 『おっさん、木から落ちて怪我して病院行ってんだよ。ま、大したことないから気にするな』 そんなような言い方だったかもしれない。 怪我って聞いて頭が真っ白になって、何も考えられなかった。 「その後仕事で電話取れなかったのは悪かったけどな。何度かけ直しても出ねえし」 「え」 俺はポケットにつっこんだ携帯を取り出す。 すると画面は真っ黒で、なんの反応も示していなかった。 「あ、じゅうでん、きれてる」 「………お前な」 呆れた声と共に、軽く頭をぱしっと叩かれる。 全ては、俺の早とちりなのか。 そう考えると、途端に恥ずかしくなってくる。 「少しは成長したかと思ったのに、まだおっさんべったりなのか?」 「だって、こうすけさん、けがしたって」 からかうような声に、つい拗ねた声が出てしまう。 耕介さんは、俺の一番大切な人だ。 この人がいなかったら、俺は今頃どんなことになっていたか分からない。 俺の一番、根っこの部分を形作っているのは、耕介さんなのだと思う。 「なら、もういいな」 低く小さい、けれどよく通る声が響いた。 それと共にいきなり腰を掴まれ、浮遊感と共に景色が逆さまになる。 「へ、あれ?」 「帰るぞ」 気付けば、先輩の肩に荷物のように担ぎあげられていた。 いくら俺がガリガリだとは言え、背は結構あるのに。 知ってはいたが、先輩の筋肉は見かけ倒しじゃないらしい。 「おいおいおいおいおい、ちょっと待てよ」 よろめきもせずスタスタと歩いて廊下を目指す先輩を、新堂さんが呼びとめる。 俺はさっきまで泣いていたこともあって頭が痛くて何がなんだかよく分からない。 「なんだ?」 先輩がいつもの偉そうな態度で、首を傾げる。 ひやっとするが、対する新堂さんもいつも割と偉そうだから問題ないか。 ないのか? 「せっかく来たんだ、ゆっくりしていけよ」 「生憎こっちは学生でね。明日も学校なんだよ、おっさん」 「随分攻撃的なガキだな。一日ぐらいサボれんだろ。そんなに要領悪い単位の取り方してんのかよ」 なんで二人ともこんな喧嘩腰なんだって、先輩の態度が悪いからだが。 ああ、そういえば、新堂さんと先輩って、似ているかも。 いつでも自信満々で毒舌で女にモテるところとか。 新堂さんの方がずっと大人で優しいけど。 「二人とも、今日はもう遅い。危ないからゆっくりしていきなさい」 そこでやんわりと穏やかな声が割って入った。 さすが俺の耕介さん、やっぱり大人だ。 「ああ、君だけ帰ってもらってもいいんだ。悪かったね。ありがとう。守君はこちらで送るよ」 「おっさんの狂言に惑わされて夜中に車を飛ばしてかわいい守君を送ってきてやった恩人に、感謝の気持ちはそれだけか?」 「だからお茶の一つでも出したいのに、君が帰ろうとするんじゃないか。君とは話したいことが沢山あるんだけどね」 って、なんでこっちの二人も喧嘩腰なんだろう。 ていうか耕介さんどうしたんだろう。 いつも穏やかで優しくて懐広くて怒ることななんて滅多にない人なのに。 「はいはい、二人ともいい加減にしろ。子供かお前ら。とりあえず夜中だし、長時間連続の運転は危ない。池君も今日は泊まってけ。ほら守、今日ぐらいはおっさんと一緒にいたいだろう」 全員の視線が、先輩の肩に担がれたままの俺に集まる。 すぐ隣にある先輩は、すごく不機嫌そうだったが、さすがにここまできたら一泊ぐらいはしたい。 「うん」 先輩の眉が、不機嫌を示して皺を寄せる。 ああ、これは後が面倒そうだな。 なんとか機嫌をとっておこないと。 俺はぶらさがったまま、先輩を見上げる。 「あの、先輩も、泊まっていってください。危ないです。ここまで送ってくれて、本当にありがとうございます」 そして、そっと先輩の手に、自分の手を重ねる。 先輩は、俺から先輩に触れるのが、結構好きだってことは、知っている。 案の定、先輩の眉間の皺がちょっとだけ緩まる。 「先輩がいてくれて、よかったです」 でも、こう言ったのは、嘘じゃなくて本当。 先輩がいなければ、慌てふためいて座り込んでいるだけだっただろう。 俺を引っ張ってくれた力強い手を、俺は感謝の気持ちを込めてぎゅっと握った。 ソファに座った耕介さんの膝に顔を載せて座る。 この家に訪れるようになってから、ずっと変わらない定位置。 耕介さんの優しいお香の匂いがする、温かな、一番落ち着く場所。 「耕介さん」 「どうしたんだい?」 耕介さんは、優しく俺の頭を撫でてくれる。 その気持ちよさに、眠くなってくる。 先ほどまでの動揺と焦燥が過ぎ去って、泣き喚いたせいで疲れてもいる。 でも、約一年ぶりになる耕介さんに、聞いてもらいたいことが一杯あった。 先輩は新堂さんに任せて、俺は耕介さんと二人きりにしてもらった。 「耕介さんが、無事でよかった」 「心配かけて悪かった。本当にごめんね」 耕介さんの温かい手が、優しく優しく、俺の頭を撫でる。 気持ちよさにうっとりとして、俺は膝に頬を寄せる。 このままずっと、こうしていたくなる。 「そういえば私に電話をかけてきたんだって?なんの用事だったんだい」 「………」 「君が急にかけてくるなんてよほどのことだったんだろう?私に言ってくれないのかい?」 大学に行く時に、俺は耕介さんとの接触を制限された。 決めたのは新堂さんだけど、電話は基本的には週末のみ。 帰省は正月だけ。 耕介さんに、隠し事なんて、出来る訳がない。 それに、元々、耕介さんに聞いてほしくて、電話をかけたのだ。 「あの、あのね、耕介さん」 「うん?」 言いたいことがいっぱいある。 聞きたいことがいっぱいある。 どれから話したらいいか分からない。 「えっと」 「ゆっくり話しなさい。いつまでだって付き合うよ」 どこまでも俺を許容してくれる言葉に、俺は一つづつ、話すことにした。 筋道だった話なんて、出来ない。 でも、耕介さんなら呆れずに聞いてくれる。 「耕介さん、友達が、優しいんだ」 「うん」 「松戸と、大川って言って、すごい優しくて、俺によくしてくれるんだ。後、工藤とか。皆優しいんだ。俺みたいな奴の友達になってくれて、すごく、優しくしてくれる」 中学の頃も、高校の頃も、友達はいた。 けれどなぜか、その時よりもずっと、今の友人達は、近く感じる。 「そうか。それはよかった。君が素晴らしい友人に囲まれて、私はとても嬉しいよ」 「うん、俺も嬉しい」 「そう。よかった。でも、俺みたい、なんて言わないでくれ。私の大切な守君は、みたい、なんかじゃない」 「………うん」 自分を卑下するのは、やめなさいと、何度も言われた。 私の大事にしているものを、君は下らないものだと言うのか、と何度も怒られた。 それでも、どうしても消えない卑屈さ。 俺は耕介さんや友人達に、優しくされるほどの価値はあるのだろうか。 そう思うことも、きっと耕介さんは怒るのだろうけれど。 「この前ね、松戸と、大川に、火傷の痕見られたんだ。そしたらあいつら、こんなことする奴は最低だって言ったんだ」 「うん」 俺の傷を見て、怒りを露わにした松戸。 痛みをとってくれようとした大川。 どんなに忘れようとしても、あの頃を忘れさせてはくれない、傷。 「俺、和樹、嫌いだった。大嫌いだった」 「うん」 「でも、悪いって、思ってた。可哀そうなことした、って思った。あんな家に一人置いてきて、俺だけで逃げ出して、一人で幸せになった。あんな家で、和樹は、幸せになんて、きっとなれない。それなのに、俺一人だけこんなに幸せになれた」 暗くて息の詰まる家の中、和樹はあの後どうしたんだろう。 考えることすら怖くて、知ろうとはしなかった。 けれど時折、どうしてもふと浮かび上がる思い。 和樹は、一人、今でも苦しんでいるのではないだろうか。 義父の期待と失望。 母の過剰な気遣いと遠慮。 大人の勝手に振り回されて、あいつだって苦しんでいた。 俺はそんなあいつを一人置いて、逃げ出した。 自分の痛みと苦しみをこらえきれなくて、向かうことなく背中を向けた。 俺は、あいつと向き合うべきだったんじゃないか。 あいつだけ置き去りにしたのは、正しかったのか。 「だから、火傷の痕も、あの時の痛みも、仕方ないのかなって思った。和樹や母さんや義父さんを置いてきた、罰なのかと思った。あの人達だけ不幸なまま、置いてきた罰なのかと思ってた」 「………君はそんなことを思っていたのか」 「勿論大っ嫌いだったし、あのままだったら俺がいつかきっと壊れるか殺されてた。でも、和樹には、一番悪いと思ってた。あいつが、可哀そうだって、思ってた。あいつがあんなだったのは、義父さんと母さんのせいなのに」 火傷だけじゃなく、和樹に負わされた傷は体中に残っている。 けれど消えない傷は、自分の犯した罪への罰なのだと思った。 一人幸せになる俺に、決して罪を忘れるなと言う戒めなのだと思った。 「でも、松戸と大川が、最低って言ったんだ。最低って言ってくれた。そしたら、なんかすっきりしたんだ。俺、悪くない。どう考えても、俺は悪くない。あいつは最低だ。例え義父さんと母さんのせいでああなったにしても、あいつのやったことは、最低だ」 「………」 「もし、松戸や大川がこんなことされたら、俺はその相手を許さない。絶対に許さない。どんな理由があろうと許さない」 煙草の火を押し付けるなんてこと、あの二人がやられたら、俺はやりかえしてやりたい。 例えあの二人が仕方ないんだ、なんて言っても、絶対に許さない。 許していいことと、許してはいけないことがある。 あの二人は俺が傷つくことを、怒ってくれた。 耕介さんもずっと、俺が傷ついてたことを怒ってくれていた。 俺が傷つくことだって、いけないことなんだ。 「だから、俺は、和樹に悪いと思うことは、ない。俺は、俺を大事にしたい」 それが、ようやく分かった。 俺が傷つくことで、痛みを感じる人だって、いるんだ。 和樹のやったことは、最低なことだ。 俺が逃げ出しても、当然だった。 俺は俺を守る。 俺を大事に思ってくれる人のために、俺は、俺を大事にする。 俺をないがしろにすることは、俺を大事にしてくれる人達を、ないがしろにすること。 「全く君は」 耕介さんが深い深いため息をついた。 反応が気になって顔を上げると、耕介さんは怒ったような顔をしていた。 間違っていたのかと思って、ちょっとだけ怖くなる。 「当たり前だろう。ここに連れてきたのは私だ。君は何一つ悪くない。君は幸せになれる権利がある。人を傷つけることでしか幸せになれない人間の犠牲になる義務なんてどこにもない」 「………うん、耕介さん、ずっと、そう言ってくれてたのに、俺、耕介さんは俺をかばってくれてるだけだと、思ってた」 「ずっと、信じてくれてなかったのかい?」 「ううん、そういう訳じゃない。でも、耕介さんは俺に甘いから」 俺が悪いのに、優しさから弾劾しないだけかと、思ってしまっていた。 でも事情を全く知らない人間からあんな風にきっぱり言われて、ようやく素直に受け止められた。 気づくまでにこんなに時間がかかってしまった。 全く俺は、本当に大馬鹿ものだ。 「私は正しくない人間に甘くするような優しさはないよ」 「………うん、そうだよね。ごめんなさい」 耕介さんの膝にぎゅっとしがみついて謝罪をする。 俺はきっと、この優しい人をずっと傷つけていた。 ただ、ひたすらに、謝りたい。 「それでね、皆、優しくて、大事なんだ。それで」 「うん」 「それで」 どうして、こんな風に、周りを見えるようになったのか。 どうして、こんなに、素直に何もかもを受け止められるようになったのか。 俺の中にあった最初の変化。 「俺、先輩に、多分、恋してる」 それが、始めの、大きな変化。 その感情の意味を知りたくて、自分の感情を見つめ直した。 周りの人に助けを求めた。 そして、気付いた、沢山のことに。 「………うん」 「最初、作品が、好きだった。あの人の作品だけが、大切だった」 ただ、あの人の作品に心奪われた。 あれさえあれば他に何もいらないと思うぐらいに、魅せられた。 今でも、あの人から作られるものには惹かれてやまない。 けれど、今はそれだけじゃなくなってしまった。 「俺、耕介さんがいなくて寂しかった。早く会いたかった」 勉強は楽しかった。 友人達と過ごすのも楽しかった。 でも、耕介さんに会いたくて、早く会いたくて、大学生活が早く終わることを祈っていた。 バイトに追われて、勉強に追われて、寂しさを紛らわした。 「でも、あの人と一緒に住んで、一緒にメシ食って、話して、優しくしてくれて、笑って」 自分勝手で傲慢で、俺のことなんて性欲処理も出来る小間使いぐらいにしか思ってない最低な人。 けれどあの人に振り回されて、あの人の作品を見ていれば、寂しさなんて感じなかった。 酷い人が時折見せる優しさと笑顔が、気付けばもっと見たくなった。 「そんなことが、楽しくて、嬉しくて、気が付いたら、寂しくなくなってた」 あの人なんて、どうでもよかったのに。 作品以外、興味なかったのに。 それなのに。 「あの人が、いなくなるのが、飽きられるのが、怖いんだ」 「うん」 耕介さんが、じっと俺の話を聞いていてくれる。 優しい目で、俺の頭を撫でながら、聞いていてくれる。 嘘をつけない人の前で、正直な心を白状する。 自分の考えを一つ一つ、見つめ直しながら、言葉にする。 驚くほどに、自分の中の感情が、整理されていく。 「俺、あの人の家に、帰りたいって思うんだ」 あの据えた油の匂いと、古い家の埃の匂いを嗅ぐと、ほっとする。 先輩のアトリエにいる間は、時間を忘れることが出来る。 古い台所で料理をして先輩を待つのが、自然になっていた。 「あの人の家は、俺の家じゃないのに。でも、ただいまって言いそうになるんだ」 おかえりって言われる度に、ただいまって言いそうになった。 家にいることを許されているようで、苦しくて苦しくて、たまらなかった。 「でも、でもね、耕介さんの家が、俺の家だ!俺が帰るところは、耕介さんのところだけなんだ!耕介さんが、俺の家なんだ!」 ここだけが、このお香の匂いがする膝が、俺の帰る場所。 ずっとそう思っていた。 大学を卒業したら何が何でもこっちに戻って就職して、ずっとずっと耕介さんの傍にいるんだって思っていた。 今度はどんなに反対されても、絶対に押し通すと決めていた。 「それなのに、こんなのおかしいんだ、おかしいっ」 俺は自分の感情に飲み込まれそうで、耕介さんに縋りつく。 耕介さんの匂いに包まれながら、必死に感情を抑えようとする。 「俺は、耕介さんがいれば、いいのにっ」 「………」 「でも、でも………」 耕介さんは、何も言わない。 それが怖くなって、顔が上げられない。 ずっと世話になった人をないがしろにする恩知らずを、この優しい人はどう思うだろうか。 失望されたり、しないだろうか。 「馬鹿だね」 ふってきたのは、心底呆れたようなため息交じりの声。 その言葉にびくりと自分の体が震えた。 この人に呆れられるのも、見捨てられるのも、失望されるのも、恐ろしい。 俺の根本を形作っている、人。 失うことのできない、人。 「君はいつも聡明なのに、どうしてたまにものすごい愚かになるんだろうね」 耕介さんが嫌がる俺の頬を挟み込み、持ち上げる。 怯えて震える俺を見下ろす耕介さんの目は、けれどやっぱり穏やかで慈しみに溢れていた。 困ったように、笑ってはいたけれど。 「私の大切な守君」 「………耕介さん」 それは昔から、俺を勇気づけ、強くしてきた呪文。 俺は、耕介さんの大切なものなのだと。 そう思うだけで、立っていられた。 「ねえ、私の手から離れて君が見た世界は、どうだった?」 「………」 耕介さんは、出会った時と変わらない優しい瞳で俺を見ている。 穏やかで柔らかい声は、昔と比べて少ししわがれたが、それでも心地よく響く。 「君に優しかったかい?」 「………皆優しかった。松戸も大川も工藤も教授も、皆優しかった」 「その世界は、綺麗だったかい?」 一度、真っ黒に塗りつぶされた、俺の世界。 ずっと傍にいて、俺の世界を癒してくれた人。 そしてそこから飛び出して見た世界は、温かい色に満ち溢れていた。 「綺麗、だった」 キラキラとして、鮮やかで、彩り豊かで。 世界は俺を魅了した。 「とても、綺麗だった、んだ」 胸が熱くなって、きゅうきゅうと締め付けられる。 その熱さが体全体に巡って、目頭が熱くなる。 いつ、俺は色を取り戻していたのだろう。 気が付けば、世界は色鮮やかだった。 「でも、でもね、耕介さん、俺、耕介さんが好きだよ。本当に好きなんだよ!」 皺の刻まれた手が、俺の頬を撫でる。 大好きな大好きな、優しい手。 ずっと守られていたかった、大きな手。 「分かってるよ、私だって君が大好きだ。君を愛しているよ」 「でも、俺、耕介さんの他にも大切なものが、いっぱい出来ちゃった」 耕介さんは悪戯っぽく笑う。 「忘れちゃったのかい?前にも言っただろう。帰るところは一つじゃなくてもいい。大切な人は増えて行く。世界は広がっていく」 ああ、そうだ、いつか言われた。 俺がこの家から、この温かな手から離れたくないと駄々をこねた日に、言われた。 いつだって俺を導いてくれたこの人が、教えてくれた。 「君の世界は、私だけじゃないんだ。君の世界はもっともっと広い」 やっぱり、耕介さんの言うことは、正しい。 いつだって正しい。 俺の世界は、とても広かった。 きっと、これからも広がっていく。 それはとても怖くて、けれど、僅かに期待する。 「俺が、大切なもの、いっぱい出来ちゃっても、耕介さんは、俺のこと、嫌いにならない?」 「何を言っているんだ。当たり前だろう。なんだい君は、それくらいで私が君を嫌いになると思っていたのか?それはとてもひどい侮辱だね」 拗ねたように眉を顰める耕介さん。 怒ったような口調は、それでも労わりが滲んでいる。 「だって、怖かった。俺、耕介さん大事なのに、耕介さんの他にも大事なもの出来ちゃった。だから」 「私は、君に広い世界を見ろって言っただろう。沢山の物と出会い、沢山の人に出会い、大切なものを増やし、色彩に溢れ輝かしい生を送る君の姿を見るのが、私のなによりの希望だよ」 じんわりと、目尻に涙が浮かぶのが分かる。 熱くて熱くて、胸が焼けつくされてしまいそうだ。 苦しい苦しい苦しい。 けれど、不快ではない、熱い苦しさ。 「じゃ、じゃあ、俺、先輩の家で、ただいまって言っても、ここに帰ってきてもいい?」 「君は彼の家を帰るところとしたら、もうここには帰って来てくれないのかい?」 思いっきり首を横に振る。 そんなことある訳がない。 あの油の匂いのする家が帰るところとなろうとも、この家に帰りたいのだ。 この家を失うことなんて、考えたくない。 どちらも欲しい。 どちらも大切なんだ。 俺は、欲張りだ。 どちらも捨てられない。 どちらかなんて、選べない。 「私はいつでも待ってるよ。君が帰ってくるのを。君が彼だろうと、他の誰と結ばれようと、ここは間違いなく君の家だ。私は、君の帰る場所だ」 耕介さんが、悪戯っぽく笑う。 優しい手は、俺の涙を拭う。 「帰る場所は一つじゃなくてもいい、そうだろう?」 「耕介さんは、俺の帰る、場所、だよね?」 「だからずっとそう言っているだろう。全くもう、本当に馬鹿な子なんだから」 怒ったように肯定されて、俺は耕介さんの腰に抱きついた。 腹に顔を埋めて、その匂いを肺いっぱいに吸い込む。 この場所を失わなくて、いいのだ。 例え帰るところが増えようと、大事な人が増えようとも、この人はずっと待っていてくれるのだ。 「耕介さん!耕介さん耕介さん耕介さん!」 大好きな人。 俺の大好きな人。 誰よりも、大事な人。 けれど、もうこの人だけじゃ、満足出来ないのだ。 それが寂しくて、苦しくて、申し訳なくて、でも、嬉しい。 「全く、私はここまで信用されてなかったことがショックだよ」 「ごめんなさ、い、ごめ、な、ごめんなさい」 「これからはもっと信用してくれ。私が君の手を放すことなんて、絶対にあり得ないのだから」 「うん、うんっ、耕介さん、好き、大好きっ」 「私もだよ。愛しているよ、守君」 いつだってストレートに愛情を示してくれる耕介さん。 その愛情に、溺れるように浸るのは、何よりも嬉しいことだった。 「君が泣くのは、あの時以来だね」 腹に顔を押し付けて泣き続ける俺の髪を、耕介さんがゆったりと撫でる。 鼻水も出てきて、鼻が詰まって苦しい。 耕介さんの服も、汚してしまった。 「君と一緒に暮らし始めてからも、君は弱音を吐かないから、心配していたんだよ。もっと怒ったり泣いたりしてほしいと思っていたんだ」 「………」 「君がそんなに素直に泣けるようになったのは、彼のおかげなのかな?」 「………」 そういえば、耕介さんの前では、笑っていようと、思っていた。 泣いたりしたら、心配すると思った。 幸せだったから、泣くことなんて、いけないと思った。 それもまた、この人を苦しめていたのか。 俺は本当に、どこまでも馬鹿なんだ。 「あの、あのね」 顔を上げると、長い指が俺の頬を拭った。 「うん」 「耕介さんといると、落ち着くんだ。穏やかな気持ちで、ずっと、まどろんでいたくなる。ずっと、ここで寝ていたくなるんだ」 「うん」 大好きな匂い。 どこよりも落ち着く、俺の大切な場所。 痛いものからも怖いものからも守られている、絶対のゆりかご。 「先輩といると、怒って、人をなじって、泣いて、笑って、忙しいんだ。いつでも苦しくて、疲れるんだ」 いつだって落ち着かない気持ちにさせて、汚い感情すら剥き出しにさせる人。 俺を欲情させて淫乱な雌に貶める人。 振り回されて、振り回して、いつだって苦しくて、疲れる。 「でも、あの人がいないと、物足りなくて、落ち着かないんだ」 「うん」 一緒にいても、落ち着かない。 けれど、一緒にいないと落ち着かない。 「ねえ、耕介さん。これは、恋かな」 なんでも知っている人に問うと、けれどその人は首を横に振る。 馬鹿な養い子に、保護者はやんわりと諭す。 「それは私には分からないな。それは自分の心に問いかけなさい」 手を軽く引っ張られて、俺は耕介さんに上半身を預ける形になる。 そしてそっと優しく抱きしめられた。 「私の大切な守君」 耳元で響く、大好きな人の声。 これからもずっと大好きな人の声 例え誰に惹かれようと、好きになろうと、ずっとずっと大好きな人の声。 「君が大切な人を見つけられたことを、私は何より嬉しく思うよ」 帰るところは、一つではない。 大切な人は増えて行く。 俺の大切な世界は、これからもずっと広がっていく。 ああ、耕介さん。 世界はこんなにも、色彩に溢れ輝かしい。 |