あのね、守、新しいお父さんが出来るかもしれないの。 兄弟も出来るのよ。 嬉しいでしょ。 今日会えるから、仲良くしてね。 そう言って連れてこられた先にいたのは、元気そうな男の子。 俺よりも背が高くてがっしりとした体をしていた。 「はじめまして、守って言います」 「よろしく、守君。行儀のいい子だね」 「………」 母の言うことがどういう意味か分からなくないほど子供でもなかった。 昼も夜もなく働いていた母さんが楽になれるかもしれないチャンス。 母が取られるのは寂しくて嫌だったけれど、嬉しそうな母さんの邪魔は出来ない。 母を楽にしてあげたかった。 子供なりに気負って、なんとか大きな体をしたおじさんと、元気そうな男の子に気に入られようと頑張った。 「ほら、和樹。お前も挨拶しなさい」 「………」 「………」 けれど男の子はぶすくれた顔でそっぽを向いている。 俺は嫌われたのかと思って、段々怖くなってくる。 俺が和樹に嫌われたら、母さんは不幸になってしまうんじゃないかと思った。 これ以上母さんには辛い思いをさせたくないし、泣いて欲しくない。 「俺、外で遊んでくる」 「和樹!」 叱りつける自分の父に少しだけ怯えた顔をするけれど、和樹はすぐに家から出て行った。 哀しい顔をする母に、いてもたってもいられずソファから立ち上がる。 「あ、ぼ、僕、一緒に外行ってくる!」 「あ、ああ、頼んだよ、守君」 「うん!」 勢いよく頷いて、和樹の後を追いかける。 おじさんはほっとした顔をしていた。 俺をいい子たと思ってくれたようだと、子供ながらの打算で考えた。 「待って、和樹君!」 和樹は家のすぐ前で立っていた。 俺が追いかけると、やっぱりつまらなそうに俺を睨みつける。 「ねえ、えっと、和樹君?」 「………」 追いかけてきたものの何を言ったらいいのか分からなくて困ってしまう。 こういうタイプの子とはクラスでも違うグループだった。 でもこの子に好かれないと母が不幸になると、その時の俺はそう信じていた。 「………ごめんなさい、僕、なんかした?それなら、謝るね」 だから謝って、なんとか歓心を買おうとした。 幸い、和樹は決して俺に怒っていた訳じゃないらしく、口を尖らせながら拗ねたように口を開いてくれた。 「お前いいの?お前のお母さんと、俺の父さん、結婚するんだよ」 「う、うん」 話の内容よりも話してくれたことにほっとして、頷く。 和樹は険しい顔をして、声を荒げる。 「お前、嫌じゃないの?俺は嫌だ」 嫌か嫌じゃないかと言われれば、嫌だった。 母とずっと二人でいたかった。 お父さんがいなくなって寂しかったけれど、母がいればそれでよかった。 母と二人の生活はとてもとても楽しかった。 でも、母さんはどんどん痩せていって、いつでも辛そうだった。 そんな母さんを見ているのはとてもとても悲しかった。 「………」 「お前も嫌なんだろ!」 黙りこんだ俺に、和樹は俺の答えを知ったらしい。 けれど、頷く訳にもいかずに首を横に振る。 「でも、お母さんがお父さん欲しいなら、仕方ないかな」 「………ふーん」 俺の答えに、和樹はつまらなそうに眉を顰める。 どうにかして、二人の結婚を認めさせたかった。 そうじゃないと、母さんが哀しい思いをする。 「和樹君はそんなに嫌?」 「やだよ。俺の母さんは一人だし」 そう言った後に、少しだけ哀しい顔をして和樹は俯く。 「………て、言っても、覚えてないんだけどさ」 和樹は物心つく前に母を失って、祖母に育てられたと言っていた。 母へ対する思いは、人一倍あったのだろう。 「あのね、あの、僕のお母さんも、とっても優しいよ」 そんなこと分からないから、和樹の感情を逆撫でするようなことを言ってしまう。 俺は二人の結婚を認めて欲しい一心だったのだけれど。 「そんなの知らねーよ!」 そして怒ってまた背を向け駆け出してしまう。 俺は慌てて、その背を追いかける。 「あ、待って!待って、和樹君!待って!」 けれど運動神経のあまりよろしくない子供は、足をもつれさせその場に転ぶ。 思い切りアスファルトにスライディングして、膝を打ちつける。 「わあ!」 「あ、馬鹿!」 しゃがみこんでじんじんと痛む膝を見ると、皮膚がめくれ血が滲んでいる。 その血を見るだけで痛みを増した気がして、怖くて涙が出てくる。 「おい、大丈夫か!?」 走り去ろうとしていた和樹が、戻ってきて座りこむ。 それにほっとしたのと痛いのと怖いので、更に目が潤む。 「………痛い」 「泣くなよ、男だろ!」 「う、うん!」 怒られて、なんとか涙を堪えるために目をつむる。 和樹はしばらく黙りこんでいたが、立ち上がって俺の腕を引っ張ってくれる。 「………家に帰って、消毒するぞ」 「うん」 腕をやや乱暴に引っ張られて、膝はジンジン痛むけれど、嬉しかった。 元気そうな男の子が俺に構ってくれたのが嬉しかった。 「あ、ねえ。あのさ、母さんと和樹君とお父さんが結婚したら、僕たち、兄弟になるの?」 「………そう、だな」 「僕ね、兄弟欲しかったんだ」 それは本当のこと。 兄弟の話をする友達を見るたびに、兄や弟が欲しいと思っていたのだ。 一緒に絵を描いたりして遊べたら、どんなに楽しいかと思っていた。 「あのね、和樹君がお兄ちゃんだったら、いいな」 「………」 それも本当に思った。 俺と違って頼もしくて強い男の子が、俺の兄だったらすごいと思った。 けれど少し打算はあった。 こうして機嫌をとっていたら、母さんの結婚を許してくれるんじゃないかとそんなことも思った。 「お前みたいなとろい弟は、いらない」 「………」 「………少しは、とろくなくなれよ。俺の弟になるなら」 背を向けたままにぶっきらぼうに言った和樹が嬉しくて、俺は痛みも忘れて飛び上がる。 そして、弾む声で勢いよく頷いた。 「うん!」 和樹はそのまま俺を引っ張って家に連れて帰ってくれた。 そして手当てをしてくれて、そんな俺たちを義父と母は微笑ましそうに見ていた。 ねえ、和樹。 俺はあの時確かに、お前と兄弟になれたら嬉しいって思ったんだ。 お前とだったら兄弟になれると思ったんだ。 どうして、嫌なだけの奴じゃなかったんだろう。 どうして、辛い思い出だけじゃないんだろう。 どうして、いまだにこんなことを覚えているのだろう。 期待なんてしたくなかった。 希望なんて持ちたくなかった。 いっそお前を憎むだけなら、こんなに苦しい思いはしなくてすんだ。 先輩が出て行ってから、どれくらいたっただろう。 時間の流れも、自分が何をしているのかも、よく分からない。 喉が渇いた。 トイレに行きたい。 そんな本能だけが、頭に浮かぶ。 どうしたらいいか分からない。 何をしたらいいのか分からない。 「………」 携帯がポケットの中でうるさく存在を主張する。 何も考えずに、惰性で取り出し通話を押した。 「………」 『守?俺。あのさ、実家帰る時、お前何で帰る?』 その声に、鳥肌が立つほど不快な気持ちになった。 疲れ果てた心は、もう動くことはないと思っていたのに、こいつはいとも簡単に俺の感情をコントロールする。 「………」 『守?おい、聞いてるの?』 少しだけしわがれた声は、人を引きつける魅力に満ちている。 ああ、こいつは昔から人気者だった。 元気で明るくて人を引っ張る力があって、少し自分本位だけどたまに優しくて、そのギャップがまた魅力的で、いつだって人の中心にいた。 男も女も、皆、和樹を好きになった。 俺はそんな和樹が義弟であることが誇らしくて、嬉しかった。 『守?おい?』 最初は、仲は悪くなかったはずだった。 学校でだって、俺の兄弟だと紹介してくれた。 いつからだったのだろう。 なぜだったのだろう。 きっと、ほんの些細なことだったのだろう。 徐々に徐々に、気付かないほど少しづつ壊れて行ったのだろう。 「………聞いてる」 『だったら返事ぐらいしろよ。本当に、お前って昔からとろくさいよなあ』 「………」 俺がとろくさかったからいけなかったのだろうか。 打算的だったのがいけなかったのだろうか。 駄目なところは散々言われた。 きっと、その全部だったのだろう。 「俺は、帰らない」 『は?』 ああ、帰らないじゃなかった。 あそこは俺が帰る場所じゃない。 赤の他人が、帰るなんて言葉を使ってはいけない。 「黒幡の家には、行かない」 それなのに同じ名字なのが、なんだかおかしかった。 11年間使ってきた名字。 もう、これは俺の使っていい名字じゃないのかもしれない。 でもきっと、実の父の名前だって今更使えないだろう。 そうしたら俺はいったい、誰なんだろう。 『またかよ。お前今更何言ってんだよ。行くって言っただろ?ふざけんなよ』 和樹が苛立っているのが、伝わってくる。 今になってもこいつの苛立ちに、怯んでしまう自分が情けない。 「行かない」 『義父さんも母さんも待ってるんだぞ』 「………」 喉の奥で笑ってしまったのは、和樹には伝わらなかったらしい。 少しだけ優しい声で、俺を懐柔しようとする。 『愛もお兄ちゃんに会えるって喜んでる』 ああ、そういえば、お菓子も無駄になってしまった。 写真も消去しなければ。 あんな無邪気に笑う子の写真を俺が持っている訳にはいかない。 『愛のみやげ、一緒に買ってこうか?』 こいつは何がしたいんだろう。 俺を実家に連れて行って、どうしたいんだろう。 もしかして、俺が母と義父と、そして愛に、拒絶される姿を見て嗤いたかったのだろうか。 そこまで、したかったのだろうか。 「和樹さ」 『ん?』 もう、疲れた。 期待するのも、それを打ち砕かれるのも、一人で浮かれるのも、自分が馬鹿だと思い知るのも、全部全部疲れた。 もう、嫌だ。 「和樹さ、そんなに俺のことが、嫌い?憎い?」 『は?』 確かに俺は悪かった。 とろくて馬鹿で暗くて、和樹の義兄にはふさわしくなかった。 でも、もう、許してくれ。 「俺、なんで、ここまでお前に嫌われてるの?俺、お前に何かした?ここまでされること、何かした?そりゃ俺は暗くて馬鹿でどうしようもない奴だけどさ、確かに俺がいるだけで黒幡の家はめちゃくちゃだったけどさ、俺が悪いよ。ああ、俺が悪かったよ。俺がいなければよかったよ。そうだよ、分かってるよ」 俺がサンドバッグでいれば、幸せな家庭だと思っていた。 それが存在意義だと思っていた。 でも今思えば違った。 俺がいない今、黒幡の家は幸せらしい。 それなら、俺がいるから幸せじゃなかったのだ。 最初から俺がいなければ、みんなみんな、幸せだった。 「だったら、どうして近づいてきたんだよ。どうしてそっとしておいてくれなかったんだよ。どうして忘れさせたままでいさせてくれなかったんだよ。もう許してくれよ。俺が悪かったから」 どうして思い出させたんだ。 どうして期待なんてさせたんだ。 どうして俺の罪を突きつけるんだ。 「わざわざ7年ぶりに追いかけてきてまで、俺を嬲り物にしたいほど憎かった?そんなに俺が、憎かったの?」 7年経った今でも許されないぐらい、俺の罪は重かったのか。 この先もずっとずっと、許されないのか。 『お前、何言ってんの?』 「俺がどこまで追い詰められれば、お前は満足してくれる?まだ足りない?俺が生きてる限り、お前は満足しないの?」 『おい、守』 幸せだった。 こいつと再び会うまでは、確かに俺は幸せだったのに。 それなのに、俺は思いだしてしまった。 家族に愛されない、駄目な人間だったことを。 人に迷惑をかけてばかりな存在だってことを。 忘れていたかったのに。 思いだしたくなんて、なかったのに。 もう、許してくれ。 頼むから許してくれ。 それでも、許されないなら。 「だったらいっそ殺してくれよ。俺を殺してくれよ。あの夏みたいに、殴って首を絞めて水につっこんで殺せばいい」 そうしたら俺はもうこれ以上、痛い思いはしないで済む。 誰にも迷惑をかけないで済む。 耕介さんも先輩も、誰ももう煩わしい思いをしない。 耕介さんにも先輩にも、これ以上嫌われたくない。 これ以上俺はもう、自分がいらない存在だってことを知りたくない。 『おい、落ちつけよ』 「俺が、死ねば、お前は満足してくれる?なら、お願いだから俺を殺してよ。あの時殺し損ねたのを、もう一回やりとげてよ」 あの時俺が死んでいたなら、こんな思いはせずに済んだ。 誰にも迷惑かけないで済んだ。 『落ち着けって。お前まだあの時のこと根に持ってるのかよ』 宥めるような和樹の声。 何を言われたのか、よく理解できなかった。 ただ、ヒートアップしていた熱くなっていた感情が、冷水をかけられたように、 一瞬で冷たくなっていく。 『あの時のことは悪かったよ。謝る。でも、まだ覚えてたの?ちょっと執念深いよ。もうお前も大人だろ?いい加減昔のことは忘れろよ』 まだ、覚えていたのか。 いい加減昔のこと。 「………」 『本当にそういうところ、女々しいよな。しつこい女みたい』 俺は、ずっとずっと、忘れられなかった。 和樹の夢を見て、何度も声もあげずに飛び起きた。 煙草の火を腹に押し付けられる痛みも、目に押し込まれそうになる恐怖もいまだにしみついて、事あるごとに蘇る。 何より自分の体を見るたびに思いだしては、苦しかった。 『そういや、お前、池さんの恋人なんだっけ?学校で噂になってたけど、本当?』 「………」 『本当にオカマだったんだな。お前。はは』 一生、忘れられないと思っていた。 お互い、一生忘れない傷になると思っていた。 傷をつけられたほうも、つけたほうも、ずっと苦しんでるって思ってた。 あんな家にお前を置いてきたことを、後悔すらした。 苦しんでるんじゃないか、俺だけ楽になったんじゃないかと、罪悪感を持っていた。 『ああ、ごめん。でもさ、父さんも義母さんも俺も、あの時のことで苦労したんだよ。金持ちに引き取られて悠々自適に暮らしてたお前はいいけどさ。引っ越して、俺も学校転校して、一からやり直した。ずっと父さんと義母さんが支えてくれたから、なんとかやってこれた。愛も生まれて、ようやく一つの家族になれた。家から出てったお前には分からない苦労があったんだ』 苦労した。 ようやく一つの家族になれた。 ああ、母さんもそんなことを言っていたっけ。 『でもお前も家族だからさ、もう一回やり直そうよ。義父さんも母さんもお前のこと許すよ。な、変な意地張ってないで………』 「………」 携帯を切って、投げつけた。 もうこれ以上、誰の声も、何の言葉も、聞きたくない。 「あは、は」 お前も苦しんでると思ってたんだ。 義父の期待と母の過剰な気遣いに、お前も追い詰められていた。 だから耕介さんによって助け出された俺は、お前が心配なこともあった。 苦しんでいるんじゃないかと思った。 俺を傷つけたことを後悔して、一生苦しむと思っていた。 「はは………」 忘れられていた。 綺麗さっぱり、俺のことなんてなかったことになっていた。 覚えていたのは、俺だけだった。 忘れていなかったのは、俺だけだったのか。 俺が執念深くてしつこいだけだったのか。 俺なんて、覚えている価値もなかった。 本当に思いあがった、上から目線の馬鹿だ。 「は………」 笑う気力すら、出てこない。 美しい女性を描いた女流画家の言葉が浮かんでくる。 昔読んだ時は意味が分からなかった。 それを今、理解した。 ようやく、理解できた。 「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」 疲れた。 疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた。 もう、何も、考えたくない。 |