続けざまに三回ジェットコースターに乗った後、鷹矢はどっかりとベンチに座りこんだ。 「ちょ、もう勘弁」 「疲れた?」 「もう、俺駄目!乗るなら一人で乗ってくれ!俺は死ぬ!」 子供のように口を尖らせて、ベンチに横になってしまう。 すごく大人っぽくて落ち着いていて頭がいいのに、こういうところ年下だと感じられて可愛い。 「はは」 なんだかとても楽しくなってきて、笑ってしまう。 ジェットコースターにシェイクされた脳みそが、変な風にハイになっている。 「あはは、はは、あははは」 「なんだよ、笑うなよ」 「ごめん、あっはは」 不貞腐れた鷹矢の抗議にも笑いが止まらなくて、腹を抱えて笑う。 涙が出てくるほど、おかしい。 鷹矢が憮然としているのがまたおかしくて、それが笑いを誘う。 「あっはは、は、はあ!」 ひとしきり笑って、鷹矢の隣に座りこむ。 笑って弾んでしまった呼吸を整えるために、大きく息を吸って、吐く。 空を仰ぐと、スカイブルーだった空はいつのまにかオレンジに変わりつつあった。 綺麗なオレンジのグラデーション。 オーロラ。 サンオレンジ。 スパニッシュオレンジ。 ゴーギャンオレンジ。 溢れた色が眩しくて、目を細める。 世界はなんて、鮮やかな色に満ちているんだろう。 世界はなんて綺麗なんだろう。 目が眩むほど、美しい。 胸を打つ色が、俺を包んでくれている。 耕介さんが10年かけて、教えてくれたこと。 世界は広くて、とても綺麗。 「落ちついた?」 「うん」 真っ暗な世界なんて、ほんの少しだけだった。 俺の周りはずっと温かい色で満ちていた。 黒く塗りつぶそうとしていたのは、俺自身。 「うん、ありがとう。鷹矢。ごめん」 さっきのごめん、と違うのは分かってもらえただろうか。 ひどく恥ずかしくて、顔を手で覆う。 こんな簡単で大事なことを忘れて、癇癪を起していた自分が恥ずかしかった。 ほんの些細なことで、これまでの幸せや優しさを全て忘れそうになっていた自分が情けなくて恥ずかしかった。 10年かけて教えてもらったことを、たった半月で失うところだった。 「何があったの?」 「………」 「言いたくないなら、いいけど」 鷹矢の、先輩に似た低い気持ちのいい声が耳に染み込む。 その声は心配と労わりが込められていて、心が温かくなっていく。 言うことは、鷹矢の負担にならないだろうか。 これまでも散々迷惑をかけて、今もこんなに優しくしてもらった。 これ以上甘えて、いいのだろうか。 「つまらない話なんだけど、言っていいの?」 「うん。聞きたい」 けれど、鷹矢はそう言ってくれたから、その優しさに甘えることにした。 俺は顔を覆ったまま、話す。 「実家に、帰るって言ってただろ」 「うん」 「それで、本当にそう言ってくれたのか、確かめたくて、母さんに電話したんだ」 あれは酒を飲んだ夜だった。 アルコールの力に押されて、長い間ずっと会っていなかった人に電話をかけた。 混乱しながらももう一度かけてくれると言ってくれたことが、嬉しくて。 俺のことを、覚えていてくれたのが、嬉しくて。 その時、拒絶されなかったのが、嬉しくて。 きっと俺のことを心配してくれていたんだ、なんて思いこんでしまった。 自分の都合のいいように考える、調子のいい出来が悪い頭。 「そうしたら、もううちには関わらないでくれって言われた。俺がまた出てきたら家族がバラバラになるかもしれないから、これ以上関わらないでくれ、って言われた」 「なんだ、よ、それ」 「俺がいなくなったせいで、苦労したんだって。噂にもなって持ち家売って、引っ越さなきゃいけなくなって。そういえば和樹がローンも大変だって言ってたな。それで苦労してようやくまとまってきたのに、めちゃくちゃにするなって、ことかな」 俺がいない間に三人で苦労したんだろう。 三人で力を合わせて、それで妹も生まれて本当に家族になれた。 なんて美しい話。 なんて素晴らしい家族の形。 俺は黒幡の家をめちゃくちゃにした化け物。 異分子を家族から遠ざけようとした母さんは、悪くない。 和樹にきっと知らされていなかったのだろう。 急に接近してきた俺が、本当に怖かったのだろう。 あの人は、自分の幸せを守ろうと必死だっただけだ。 お互いこのまま会わなければきっと幸せでいられただろうに。 「だって、だって!あの、あいつ、お前の義理の弟が言ったんだろ!?帰ってこいって!待ってるって!」 「うん」 和樹が、何を考えているのか、分からない。 そんな嘘をついてまで俺を帰らせて、何がしたかったのだろう。 母と義父に、なんていうつもりだったのだろう。 家族になるため? あり得ないだろう。 「和樹からその後、電話があって、家に帰らないって言ったら、我儘言うなって言われた。今更何言ってるんだって。俺は金持ちの家に引き取られて悠々自適に暮らしてる間に、黒幡の家は大変だったんだって。でも、ようやく一つの家族になれたから、お前も家族になれるって。母さんも義父さんも、もう怒ってないから帰ろうって」 黒幡の家では、俺が悪者なのだと、もう一度思い知った。 俺は、黒幡の家こそ、俺を苦しめた悪者だと思っていた。 けれど、彼らにとっては、俺こそがモンスター。 俺たちはお互いにお互いの罪をなすりつけ、自分の罪を認めない。 「昔のことを根に持ってるなんて、しつこい。執念深い、女々しい、女みたい。先輩と付き合ってるの本当か?本当にお前ってオカマだったんだな。いい加減大人になれ」 あいつは本当に昔から、人の心を的確に抉る。 野球よりも勉強よりも、優れた和樹の才能だ。 「そんなこと言われた」 「ん、だよ、それ!」 鷹矢の怒っている声が、嬉しい。 俺のために怒ってくれているのが嬉しい。 松戸も大川も、俺のために怒ってくれた。 皆、とても優しい。 俺の周りにいる人達は、皆温かい人ばかり。 「俺、忘れられなかった。ずっとずっと、耕介さんの家で幸せに暮らしてる間も、忘れられなかった。ずっとずっと覚えてた。執念深く、黒幡の家のこと、覚えてた。和樹たちも同じように苦しんでるって信じてた。俺も苦しいけど、あいつらも苦しいって思ってた。だから、いつか分かり合えればって思ってた。ちょっと、間違っちゃっただけなんだって、信じてた。俺を傷つけたことを後悔してくれてるって思ってた」 謝ってくれるんじゃないかって思ったんだ。 悪いことをしたって思ってくれてるんじゃないかって思ったんだ。 「でも、俺、家族じゃなかった。みんな、俺のことなんて忘れてた。忘れられてた。俺だけしつこく、覚えてるだけだった。ていうか俺が悪者だった。俺が悪者なのに、あの人達が後悔するはずがない」 でも、俺の思い上がりだった。 もう、分からない。 俺も悪いところはあった。 でもあっちの方がより悪いって思ってた。 どっちが本当は、悪いんだろう。 「それで、ふてくされてるところに、鷹矢が来てくれて、連れ出してくれた」 顔を覆っていた手を、どける。 隣を見ると、鷹矢が泣きそうな顔で俺を見ていた。 どこまでも優しい人。 俺のためにそんな顔をしないでほしい。 「ごめん。八つ当たりして、子供みたいに我儘言った。本当にごめん」 だから俺は動かしにくい顔の筋肉を動かして笑う。 変なこともいっぱい言った。 困らせた。 憑き物が落ちたように落ち着いた今では、その全てが恥ずかしく申し訳ない。 鷹矢が視線を逸らして、何か口の中で呟く。 「鷹矢?」 どうしたのかと聞こうとすると、鷹矢は視線をもう一度こちらに戻す。 そして不快そうに眉をきっと吊り上げた。 「すごいすっごい、言いたいことあるんだけどさ。もう、お前の義弟も家族も殴りたいんだけどさ」 「ありがとう。ただ、俺の視点だから、俺の主観が入りまくりだと思う。だから俺が全面的に悲劇の主人公になってる。あっちにはあっちの言い分があると思う」 「いいんだよ、そんなの!」 鷹矢は俺の言葉を遮って、ベンチに拳を叩きつけた。 突然怒り始めた鷹矢に驚いて、びくりと震えてしまう。 「お前が悔しいなら、悔しいって言っていいんだよ!あいつらがムカつくならムカつくって言っていいんだよ!あっちの都合なんて考えるな!」 耕介さんも何度も何度も言ってくれた。 君はなんにも悪くない、君は何一つ悪くないんだ。 でも、本当にそうなのかな。 俺には分からない。 俺だけが悪い訳じゃない。 でもきっと、俺も悪いんだ。 「短い付き合いだし、全然お前のことなんて知らないけど、お前が自分勝手に人のせいにしたり、根拠もなく人のせいにしたりする奴じゃないって、思ってる。だから思う存分、怒っていいんだよ!」 なんて答えたらいいのか分からなくて、俺は曖昧に頷く。 鷹矢はなんだか怒ったように唇を噛む。 「鷹矢?」 「とにかく!お前には、大事にしてくれた保護者の人いるんだろ?その人のためにも、自分を傷つけるようなこと、するな」 松戸と大川が哀しむから、自分を傷つけるのはやめようと思った。 そう思ったんだ。 俺を大事にしてくれる人のために、俺は俺を大事にしようと決めた。 ついこの間のことだったのに、すっかり忘れていた。 本当に俺は馬鹿だ。 「………うん」 「絶対だぞ!」 鷹矢が子供に言い含めるように繰り返す。 どうしてこいつはここまで付き合ってくれるんだろう。 ここまで俺に優しくしてくれるんだろう。 「なんで、お前ってそんないい奴なんだろう」 「別に、いい奴でも、ないけど」 面喰ったように目を丸くして、もごもごと口の中で小さく反論する。 鷹矢がいい奴じゃないんだったら、この世は悪人しかいなくなってしまう。 先輩にこんなに似ているのに、先輩にこんなにも似ていない。 「なんで先輩みたいな兄を持って、あのお母さんみたいな人を親に持ってそんなに優しくなれるの?」 「あのお母さんみたいって」 「あ、ごめん。お母さんのこと悪く言うつもりはないんだけど」 先輩の家に行った時に、ちくちくと言われた言葉を思い出す。 先輩が美大に行っていることも、俺が彼女の言うことを聞かないのも気に入らなくて仕方ないようだった。 とっても女性らしくじっとりとした人だったけど、鷹矢にとってはお母さんだ。 そんな人を悪く言う訳にはいかない。 けれど鷹矢は苦笑して、首を横に振る。 「いや、結構癖のある人だからいいんだけどさ。気付いてたんだ。お前気付かないでかわしてるのかと思った」 「先輩に群がる女は俺を攻撃してくることも多いし、下手に何か言うと逆上されるから適当にかわす。それに似てる」 文句があるなら先輩に直接言えばいいし、先輩と寝たいなら誘えばいいのに、なぜか俺を攻撃してくる女が多い。 女性の考えることは、とっても複雑怪奇だ。 「なのに、どうして、そんなに優しく、なれるのかな」 「別に優しくないけどさ」 照れたようにそっぽをむくけど、その耳は夕日のせいだけじゃなく赤かった。 なんだか苦しくなるほどの愛おしさを感じる。 抱きしめたいけど、きっとやったら怒るよな。 冬風に体は冷たいけど、心はとっても温かい。 「ありがとう、鷹矢がいてくれてよかった。本当によかった」 「守」 「耕介さんが大事にしてくれたこと、俺を愛してくれたこと、愛したこと、友達が優しくしてくれたこと、友達が好きなこと、鷹矢が好きなこと、忘れるところだった。馬鹿だった。本当に馬鹿だった。俺、一人じゃなかった。俺、幸せだった。本当に馬鹿。俺、母さんと和樹の言葉聞いて、もう何もないって思った。でも、こんなにいっぱい、持ってる。俺、大事な人も大事なものもいっぱいいっぱい、持ってる」 そう、俺にはこんなにも大事な人がいて、大事にしてくれる人がいる。 それなのに、自暴自棄になるなんてなんて恩知らず。 「なんか、黒幡の家にいた頃に、心が戻ってたみたいだ。もう、あの頃じゃないのに。何も出来ない子供じゃない。俺は溢れるほど、大事なもの持ってる」 思い出させてくれたのは、鷹矢だ。 この短時間で、落ち着かせて、ゆっくりと大事なものを思い出させてくれた。 伝えきれない感謝を、どうしたら伝えられるだろう。 「ありがとう」 俺の言葉に鷹矢は肩をすくめて、軽く頷く。 それから、苦笑した。 「それ、峰兄にも言えよ」 「それ?先輩に?」 「ありがとう、って」 なんでここで先輩が出てくるのだろう。 俺に呆れて、出て行ってしまったのに。 首を傾げる俺に、鷹矢は悪戯をする子供のようににやりと笑った。 「俺にお前を連れ出せって言ったの、峰兄。今日の金の出どころもね」 「え」 「暇ならお前を連れ出してくれって電話してきたの」 あの人が? あの人がそんな面倒なことを、するのか? 利害が絡まなければ人のことなんて何一つ気にしない、あの人が。 「………ほんと、に?」 「ほんと!」 「………そっか。ごめん、鷹矢、迷惑かけた」 「俺も楽しかった」 そう言って笑ってくれるのは、嬉しい。 鷹矢が嘘をつくとは思わない。 でも、いまだに信じられない。 先輩が、そんなことを、したなんて。 「あのな、守。峰兄が、他人を気遣うのなんて、本当にレアなんだからな。ていうか俺が知る限り、損得関わってない状態では初めてだからな」 それから少しだけ眉を下げて哀しい顔をする。 大人っぽいのに、その顔は頼りなく子供のようだった。 「俺に物頼むのも多分初めてだし」 それからベンチから立ち上がって、俺を睨みつけた。 睨みつけたと言っても、小さい子が悔しさに駄々をこねているような顔だったが。 「お前、本当に、峰兄に大事にされてるんだからな!」 「………」 「俺なんていっつも、存在を認識されればいいくらいなんだから」 悔しそうに語尾を小さくしていく鷹矢が、微笑ましかった。 本当に、先輩が好きだということが伝わってくる。 しかし俺が言うことじゃないが、あの人のどこがいいんだろう。 「あ、でも、別に峰兄に頼まれたからって訳じゃないからな!俺だってお前が心配だったんだからな!」 「分かってる」 ヤキモチを焼きながらも、それでもフォローを忘れない鷹矢が好きだ。 いくら大好きな兄に頼まれたからって俺みたいな面倒くさい奴に、義務でこんなに付き合える訳がない。 「………先輩、が」 「峰兄のこと、好き?」 「好きだよ。あの人の作品も、才能も、それを生み出すあの手も」 あんなにも心を握りつぶされるような感情を覚えるのは、先輩の作品だけ。 耕介さんと一緒に穏やかな時間を過ごしていた俺の全てをめちゃくちゃにした。 今までの概念を叩き壊され、上書きされたような衝撃。 あの時のことは、今も生々しく覚えている。 「あの人といると感情が揺さぶられて、苦しくて、切なくて、痛くて、でも嬉しくて、温かくて、胸がいっぱいになる」 最初は、作品だけだった。 あの人の最低な性格は、嫌いだった。 今だって苦手だ。 「先輩は面倒くさい。最低な人だし、自分勝手だし、一緒にいるのは大変。でも、あの人といると、楽なんだ。すごく、楽なんだ。あの人の強さに振り回されているのが、楽なんだ。苦しいけど、でも楽なんだ」 それでも、あの強さに惹かれてやまない。 あの人自身に、惹きつけられて、離れられない。 あの人を失うことなんて、考えることも耐えられない。 こんな感情、他の何にも覚えることはない。 「難しいな。鷹矢のことは好き。すごい好き。大好き」 「………そういうことストレートに言うな」 「ごめん。でも好き」 「………」 優しい優しい一つ年下の友人。 抱きしめてキスしたいぐらい好きだ。 「耕介さんのことも好き。好きって言葉じゃ言い表せない。どうしたらいいか分からないぐらい好き。いっぱいっぱい好き。新堂さんも好き。千代さんも好き。松戸も好き。大川も好き。工藤も好き」 好きな人が沢山いる。 両手に余るほどの好きがある。 それはなんて幸せなこと。 「でも、先輩は、分からない。好きなんだけど、分からない」 けれど先輩は、温かい好き、のカテゴリには入れることができない。 好きなことは確か。 でも安心して、温かくて、嬉しくなる好きじゃない。 それもあるけれど、それだけじゃない。 「不思議な好き。耕介さんと同じぐらい大切な人。でも、耕介さんとは違う」 こんな激しい感情は、耕介さんには覚えない。 あの人が本当に俺を捨てるなら、きっと本気で手を奪うだろう。 腕を切り落として閉じ込めて、俺から離れられないようにする。 あの人が誰を見ていても、誰を抱いても構わない。 けれど俺を捨てることだけは、許せそうにない。 「心底惚れてる。多分、これが恋なんだと思うけど」 恋とはもっと温かくて楽しくてたまに大変で甘酸っぱいものだって思っていた。 嫉妬して、喧嘩して、支え合って、許し合って、慈しみ合って。 こんなグロテスクで醜悪な形のものが、本当に恋なのだろうか。 「ねえ、鷹矢」 「ん?」 俺もすっかり冷えた体をなんとか動かして、ベンチから立ち上がる。 辺りはオレンジからブルーのグラデーションに変わりつつある。 「まだ、時間平気?家でメシ食わない?」 帰りたい。 あの家に、帰りたい。 俺の大事なものがつまっているあの家に、帰りたい。 鷹矢は一瞬驚いてから、すぐに笑顔になった。 「うん、平気。帰ろう」 「うん」 先輩がまだおかえりと言ってくれるなら、俺の帰る場所はあそこなのだから。 |