「はい、本年度の授業はこれで終わり。お疲れ様。ちゃんとレポート提出しろよ」 その声と、ガヤガヤと騒がしくなった教室で、ようやく授業が終わったことに気付いた。 どうやら上の空だったらしい。 ノートは前半部分だけは記載されているのだが、後半部分は真っ白だ。 せっかく好きなアメリカ現代美術史だったのに、勿体ない事をした。 後で先生に謝って、話を聞きに行こう。 「なあ、黒幡、今の授業のさ、ウォーホルのところのノート見せてくれない?俺意識飛んでたっぽい」 隣の席にいた松戸が、あくびを噛み殺しながら聞いてくる。 「あ、悪い、俺もちょっと意識飛んでた」 正直に告げると、松戸が目を丸くした。 「黒幡が寝てるなんて珍しいな」 「ああ、寝不足かな」 最近なんだか寝つきが悪くてあまり眠れないのだ。 眠っても、嫌な夢を見て飛び起きる。 あまり眠った気がしないまま、朝を迎える日々が続いていた。 「………」 松戸はなんだか顔を赤らめて視線を逸らしている。 どうしたんだろうと不思議に思って、思い至る。 「いや、先輩のせいじゃない」 「あー、そっか」 松戸が照れたように笑うのがなんだか微笑ましい。 いっそセックスでくたくたになってしまえばぐっすり眠れるだろうに。 何も考えられないぐらい、快感に溺れてしまいたい。 理性なんて吹っ飛ばして、ドロドロになるまで先輩の手に弄ばれたい。 「ノート、悪い」 「いや、ていうかお前も必要だよな。あ、なあ、須藤!ノート見せて」 ぞろぞろと教室を出て行こうとする集団の一人に、顔見知りを見つけて松戸が手を上げる。 俺も一緒に行った方がいいのだろうが、なんとなく立つ気にもなれなくて、騒がしい教室内を眺める。 「………」 周りの音がなんだか遠くなって、世界が映画の映像のようにリアリティが薄れて行く。 たまにある、自分がなんでここにいるのか、ふと分からなくなる瞬間。 周りから自分が取り残されているような、不思議な解放感と恐怖感。 「………っ」 ポケットに突っ込んであった携帯が、かすかに振動を伝える。 先輩かと思って取り出すと、そこには二度と見たくなかった名前が表示されていた。 少しだけ予想していたのか、思ったよりも動揺はなかった。 「………」 メールを開き、中身を確認する。 内容は簡潔なものだった。 『いつ会える?そっち行くよ』 ざわざわと、虫が背中を這うような、気色の悪い感触。 火傷の痕が、またじわりと熱を持った気がした。 「………」 「黒幡?ノート借りてきた」 「あ、ありがと」 ケータイを慌ててしまって、荷物をもって立ち上がる。 松戸は俺の顔を見て、ちょっと眉を顰める。 「なんか顔色悪いけど、平気?やっぱ寝不足なんじゃない?」 「かも。今日は早く寝るわ」 「そうしろそうしろ。ノートコピーしに行こうぜ」 「分かった」 心優しい松戸は、特にそれ以上追及することなく笑顔で軽く肩を叩いてくれた。 じんわりと心と、叩かれた肩が温かくなる。 大丈夫。 大丈夫。 大丈夫。 「………先輩」 アトリエに行くと、そこにはキャンパスの前に座りこみ、微動だにしない先輩。 呼びかけても返事は返ってこない。 今、先輩はただ自分の中の世界にいる。 俺なんかには一歩たりとも入れはしない、孤高の世界。 最近はアトリエにこもりっきりだ。 どうやらスランプらしくて、書いていた絵を破り捨てたり、唐突に暴れしたりもする。 苦しくて仕方ないみたいに、叫び出したり物を壊したり。 鳴海さんに相談したら、たまにあることだから放っておけばいいと言われた。 最近は少なくなったけど、以前は半年に一度ぐらいはあったということだった。 それで失われた作品も一つや二つではないらしい。 放っとけば治るって話だったが、作品だけは壊されたくないから、徐々に先輩の不在時に動かしているけど。 「………」 いつも感じる、寂寥感と、羨望と、高揚。 先輩の作品が作り出される行程に感激し、何よりも好きなその時間に俺は絶対に入れないことに絶望し、俺が先輩の作品になれないことに嫉妬する。 このぐちゃぐちゃな感情に苛まれる時間は、苦しいと共に、くらくらするほど魅力的だ。 生み出されていく作品。 俺の感情を暴力的に掻きまわす造形物。 圧倒的な力で捩じ伏せられる快感。 「先輩」 呼んでもやっぱり返事はない。 ああ、今先輩に抱かれたどんだけ気持ちがいいんだろう。 もう、どれくらい先輩とセックスしてないだろう。 最近は作品に向かってない時は外に出ている時が多い。 どこかで女は抱いているらしくて、時折甘い香りが先輩からしたりする。 その分、俺を抱いてくれればいいのに。 殴っても物みたいに扱ってもいいから、俺に吐きだして欲しい。 美しい世界を見るその目で俺を見て、誰をも寄せつかないものを作り出すその手で俺を触って、あなたのその力で俺を壊して作りなおして。 欲情して切望する。 けれど、先輩は絶対に俺を見ない。 それは当然のこと。 分かり切ったこと。 むしろここで俺を見る先輩なんて、失望してしまう。 手に入らないものだから、焦がれているのだろうか。 分からない。 ただ、俺は今、ひどく先輩に触れたかった。 「よ、遅かったな」 ファーストフード店には、すでに待ち合わせの相手が待っていた。 明るすぎる髪の色の男は、軽く手をあげて笑顔になる。 その子供のような無邪気な笑顔は、昔と全く変わらない。 さざ波立つ心を、深呼吸してやり過ごす。 「ごめん、授業が長引いて」 「ああ、いいっていいって。仕方ないよな」 なんか頼んでこいよと言うので、コーヒーを一つ頼み席に戻る。 俺の手元を見た和樹が、自分のポテトを齧りながら聞いてくる。 「なんか食わないの?」 「今腹減ってない」 「ふーん」 たいして意味のある質問でもなかったのだろう。 興味なさそうに、曖昧に頷いた。 「それで」 「ん?」 「それでなんか用、なのか?」 また会いに来るとは言っていたが、信じていなかった。 あれっきりだと思っていた。 いや、思いたかったのだろうか。 極力、考えないようにしていたのかもしれない。 「なんで?」 「だって、こんな突然」 なぜ、今更。 どうして、会いに来た。 俺に会って、こいつは何を得るんだ。 聞きたいことは山ほどあるけれど、和樹は苦笑して首を振った。 「いや、だから言ったじゃん。懐かしいから会いたくなったって」 「………」 「どうしてるのかって、ずっと気になってたんだよな」 なんでこいつは、こんな普通に接することが出来るんだ。 分からない。 なんでこんなに親しげなんだろう。 俺とこいつは、こんなフレンドリーに会話を交わすような仲だったか。 分からない分からない分からない。 こいつの行動が分からない。 けれど俺も殴ることも罵ることも逃げることも無視することも出来ずにずるずるとここにいる。 メールに返信したのは、和樹の行動の真意が知りたかったのか、それとも違うのか。 俺の行動すら、分からない。 「そう」 だから、言えることはこれだけだった。 こんな時はあまり動かないと言われる表情が助かる。 こいつに今の焦っている感情を見せるのは、絶対に嫌だった。 和樹がじっと俺を見ていて、鼓動が嫌な感じにスピードを速める。 「なんかお前、変わったな」 「そうか?」 「うん、なんか落ち着いたっていうか、なんかますます暗くなってない?友達とかいるの?大丈夫?」 「まあ、仲のいい人達が何人かいるし、大学は楽しいよ」 「ふーん」 大学に行けば、俺を受け入れて一緒に笑って、俺のために怒ってくれる友人達がいる。 そうだ、大学は楽しい。 優しい友達もいる。 信頼できる保護者だっている。 あの時とは、全く違うのだ。 「なんかお前、金持ちのおっさんに引き取られたんだっけ?」 「………」 耕介さんのことは、両親になんて伝わっているのか知らない。 こんなことなら新堂さんに聞いておけばよかった。 和樹はストローを噛みながら軽く肩をすくめる。 「いいよなあ。俺のところ、お前が出てってから引っ越ししてさ。親父もローンで大変そう」 その言葉に、軽く驚く。 確かのあの家は持ち家だったはずだ。 一般的サラリーマンにしてはかなり頑張ったであろう、注文住宅。 「………引っ越ししたのか?」 「うん」 和樹は軽く頷いた。 なんで、と聞く前に思いだしたように、義弟は笑顔になる。 「ああ、そうだ。親父と義母さんも会いたがってたよ。なんか、お前と会えないようになってったんだってな。その金持ちのおっさんって何考えてんの?親と子供引き離すとかさ」 「………」 心臓が、キリキリキリキリと痛む。 母の顔が脳裏に浮かぶ。 それは優しい笑顔ではなく、真っ赤に染まる目がつり上がって俺を罵る般若のような形相。 甲高い声が、泣き叫びながら俺を責める。 「親父と義母さん、お前の話したら、是非会いたいって」 和樹が笑っている。 嗤っている? どうして、嗤っているんだろう。 少年らしい無邪気な笑顔で、嗤っている。 俺を殴って罵りながら嗤っている。 「なあ、今度の春休みは一緒に家に帰らないか?」 火傷の跡が、痛い。 押しつけられた瞬間のように熱くなり、皮膚が焦げた匂いがする。 ああ、臭いな。 臭くて、汚い。 痛い、汚い、臭い。 汚い汚い汚い。 火傷が、痛い。 じくじくと、疼く。 じくじくじくじくじくじくじくじくじく、熱を持つ。 |