雨だからやめようかって話になったが、俺が強硬に主張して花見は決行した。
だが昨日までと打って変わって下がった気温は、容赦なく体温を奪っていく。
寒い。
冷たい。

せっかく弁当を作ってきたのに、これでは食べるところもない。
ピックニックシートで並んで食べようと思っていたのに。
かなりの力作の花見弁当だった。

「弁当、無駄になるな。重かったのに」
「帰ってから食べよう。お昼はどこかで何か温かいものを食べよう」
「くそ、美晴とラブラブランチだったのに」
「それは残念だ」

俺の言葉に、美晴は笑った。
なんか今日は表情が穏やかな気がする。
美晴の表情は子供のように発達していなくて、たまに感情が分からない時がある。
でも、最近はどんどん表情豊かになってきている気がする。
それがとても、嬉しい。

「帰りは温泉よってこっか」
「それはいいな」

この辺にはちょっと行くと日帰り温泉施設とやらがあるらしい。
美晴が調べたらしく、言っていた。

「でも、人が少なくていいな」
「ああ、例年ならかなりの人ごみのようだから」

さすがに雪が降るかもしれない気候の中、見物客は少ない。
それだけはよかったかもしれない。
まら薄暗い内に出てきたこともあり、桜を二人占めだ。

もう葉が混じりつつある早咲きの桜は、雨に打たれてその命を更に縮めている。
でも、はらはらと舞う桜吹雪が、とても綺麗だった。

「見て、超綺麗!」

一際大きな風が吹き、一斉に桜が舞い落ちる。
それがあまりにも見事で、俺は傘を放りだして、桜のシャワーの中にかけ出す。
霧雨だから、少しぐらい濡れても平気だ。

「美晴、ほら!」

興奮して美晴を振り返く。
そして、驚いて言葉を失った。

「な、どうしたんだ!?」

美晴の目から、一筋雫がこぼれた。
どうしたのかと思う暇なく、次から次へと溢れていく。
突っ立って、俺を見ながら、静かに泣いていた。
拭おうともしない、ただ涙が溢れるままに、泣いている。
綺麗に整った白い顔に流れるそれは、降りしきる雨なのではないかと思った。
でも、それは明らかに美晴の目から零れていた。

「美晴、どうしたの!?」

駆け寄って、美晴の傘の中に入り込む。
美晴は、ただ濡れた目で俺を見る。
深い黒の眼は、じっと見ていると吸い込まれそうになる。

「嫌だ」

美晴は俺を見て、それだけ言った。
一瞬何を言われているのか分からない。

「へ?」
「嫌だ」
「何が?」

なんで泣いてるんだ。
俺といるのが嫌なのか。
俺が子供みたいに傘放りだしてしまったからか。
常識なかったか。

「美晴?」

でも、どうやら違ったようだ。
美晴は俺を見下ろして、小さな声でぽつりと言った。

「君がいないのは、嫌だ」
「は?」

また、何を言われているのか分からない。
いないのは嫌だと言われても、ここに俺はいる。
一体どうしちゃったんだ。

「嫌だ、君が、僕の傍にいないのは嫌だ」
「美晴?」
「君が、僕ではない誰かを好きになるのは、嫌だ」

混乱する俺をおいてけぼりにして、美晴は続ける。
その間も子供のようにポロポロと涙を流し続ける。

「君が幸せで、笑っていられればいいと思った。でも、僕の前で笑っていないと嫌だ」

美晴は泣き続ける。
年上の男が、ひどく幼く、頼りなく感じる。

「君の一番好きな人が、僕でないと、嫌だ」

そしてひくっと少しだけしゃくりあげた。
嗚咽をもらすのを堪えるように、口元を手で抑える。
子供のように泣き続ける男に、苦笑がこぼれた。

「本当に馬鹿だなあ、お前」

本当にこいつ、どこまでも頭いいのに馬鹿。
大馬鹿。
とんでもない大馬鹿。

「ばーか」

美晴が怯えるように体を震わせる。
でも逸らさない視線に視線を合わせて、俺は笑った。
そして、美晴の頬に手を添える。

「何度も言ってるだろ。ちゃんと覚えておけよ。好きだよ。美晴が好き。一番好き。傍にいる。大好き」

美晴の口が小さく開く。
何かを言いたげに、かすかに震える。
けれど、そこから言葉が紡ぎだされることはない。

「美晴、雨に濡れて寒い」
「………あ」
「俺のお願い。あっためて」

手を広げて言うと、美晴も傘を放り出した。
そしてまるでケーキでも扱うかのように、優しく丁寧に俺を抱きしめる。
その弱い力が物足りなくて、俺は力を込めてその背中に腕を回した。
お互い濡れててちょっと気持ち悪い。
でも、温かかった。

「美晴の一番は俺がいい」

肩に顔を乗せているから、表情は見えない。
でも、美晴の心臓の音が、早くなっているのを感じる。

「美晴に傍にいて欲しい。美晴が笑うのは、俺の前がいい」

美晴が、深く息をつく。
頬に当たる体温が気持ちがいい。

「好きだ…」
「うん」
「好き、好きだ………っ」
「うん、俺も好きだよ」

まるで駄々をこねる子供のように、美晴は繰り返す。
一体どうしたのだろう。
でも、嬉しい。
好きだと言う言葉が、嬉しい。
縋りつくようにシャツにしがみつく手が、嬉しい。

「………君が、一番好きだ」

言い返そうとして、出来なかった。
喉が引き攣れて、言葉が出てこなかった。
初めて、ようやくもらった貰った言葉に、唇が震える。
声が震える。
体が震える。

美晴の一番になりたかった。
ずっとずっと、なりたかった。
強い感情を持つことのない彼に、強く想ってもらいたかった。

「………うん、俺も、好き」
「好き、好き、好きだ。君が好きだ。誰よりも何よりも好きだ」

ああ、駄目だ。
苦しい。
胸がいっぱいになる。
俺、こんな泣き虫じゃなかった。
もっと、しっかりとした人間だった。
でも、もっと弱い人間だった。

美晴と出会って、弱くなった。
美晴と出会って、強くなった。

「うん………、ありがとう、美晴。好き、大好き。美晴が好き。一番好き」
「傍にいて、僕を嫌わないで、僕は、我儘で馬鹿でつまらない人間だけど、それでも、傍にいて。駄目な人間だけど、僕を好きでいて」
「美晴は確かに鈍感でとろくてどうしようもない馬鹿だけど、でも好き。大好き。そんなところも好き。いいところも好き。頭よくて運動神経よくて、なんでも出来る美晴も好き」

駄目なところもいいところも、全部全部好き。
嫌いだって思うこともあるけど、殴りたくなることもあるけど、でも結局好きなんだ。
好きだから望むんだ。
もっともっとって望むんだ。
俺は、美晴が好きなんだ。

「君が我儘を言っていいって言ったんだ、君が教えたんだ、君が僕を我儘にした。だから、我儘な僕を嫌いにならないで。僕の傍にいて。ずっといて」
「うん、もっと言って。俺も言うから、もっともっと言って。もっと聞きたい。もっと我儘言って。俺を嫌いにならないで。俺を好きでいて」

美晴が、好きだと、傍にいてと、繰り返す。
きっと今まで何も強く望まなかった男が、懇願する。
怖がりながらも、望んでいる。
駄々をこねる子供のように、欲しがっている。
彼が何かを望むことが出来るのが、嬉しい。
そして彼が望むのが、俺であることが、嬉しい。

「君に会えて、よかった」

かすれるような消えてしまいそうな、美晴の声。
大好きな美晴の声。
美晴への想いで、胸がぎゅるぎゅるとする。

俺もそう思うよ、美晴。
お前に会えてよかった。

もうずぶぬれで分からないからいいや。
堪えていた涙が、どんどん溢れていく。
苦しくて、我慢できない。

人が少なくてよかった。
でももう、人がいてもいいや。

胸の中をぐるぐる渦巻く熱い感情が、溢れていく。
熱くて、重くて、苦しい。
でも、それはとても、気持ちがよくて、切なくて、嬉しくて。

美晴の肩越しに空を見上げる。
灰色の薄暗い空の中、桜のシャワーがはらはら落ちる。
雨と一緒にはらはら落ちる。
俺たちを埋め尽くすようにはらはら落ちる。

それがとても綺麗で、本当に綺麗で、俺は暗い空とピンクの雨をじっと見ていた。
とても冷たくて、とても寒い。

でも、美晴の体温が、温かかった。






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