「はー、緊張したよ、本当に。でも、いいお父さんだな」 父の研究室から帰ってきてようやく緊張が解けたのか、和志がソファに倒れ込んで大きく息をつく。 その子供のような仕草が微笑ましくて、自然と笑ってしまう。 「父を気に入ってくれて嬉しい。父さんも和志のことを気に入ったようだ」 「あ、本当?ケーキもうまいって言ってくれたし、俺、印象よかったかな」 忙しい父だから滞在はわずかな間だったが、父は和志を何度も褒めていた。 帰り際もいい子だな、仲良くしなさいと僕に念押しするほどだ。 父は別に気難しい人ではないけれど、それでも少しだけ僕も緊張していたので、二人が打ち解けてくれて嬉しい。 「ああ、勿論だ。僕の父だ。和志を気に入らない訳がない」 「またお前はそういう恥ずかしいこと言う!」 クッションを抱え込んで、和志が顔を赤らめる。 照れる彼のことがとても好きだと言うことに気付いたのは、最近だ。 つい、彼が恥ずかしがってしまうようなことを言ってしまう。 「本当のことだ。だって僕はこんなに君が好きなんだから」 「あー、もう!」 和志はクッションを投げつけてくる。 それを笑いながら受け止めると、和志も笑いながら言った。 「でも、じゃあ、これなら俺も安心して美晴を嫁にもらえるな!」 「美晴が友達を連れてくるなんて初めてだな」 彼の作ったチョコレートケーキを手土産に訪れた父は、僕らの顔を見て相好を崩し、手放しで歓迎してくれた。 それを見て今日訪れてよかったと、心から思えた。 「ちょっと変わった子で付き合うのが大変だと思うが、どうか仲良くしてやってくれ」 挨拶をする和志に父が言うと、和志は緊張した面持ちでそれでも背筋を伸ばした。 そして少しだけ上ずる声で、父を真っ直ぐに見る。 「た、確かに美晴は変わってますけど、でも、いい奴です。すごく優しくて、すっごいいい奴です。俺に勉強教えてくれたり色々なところ連れて行ってくれたり、えっと、それで、えっと、とにかく、いい奴なんです!」 胸が温かく切ない気持ちでいっぱいになって、今すぐにでも和志を抱きしめたくなった。 どうして彼はこうも僕を嬉しい気持ちにしてくれるのだろう。 彼が僕に与える全ての感情が、愛しくて仕方がない。 「そうなんだよ」 最初和志の剣幕に驚いていた父も、一瞬してから、皺が刻まれた、一見厳しく近寄りがたい印象を与える顔に優しい笑顔を浮かべた。 そして大きく頷いた。 「美晴はとてもいい子なんだ。優しくて優しくて、優しすぎて少々ずれてるところや困るところもあるが、でも、とてもいい子なんだ。分かってくれて嬉しい。どうか、これからも美晴をよろしく頼む」 その言葉もまた嬉しくて、僕は泣きだしたくなってしまう。 ずっと近寄りがたかった。 父も母も、大切に思いながらもどこか遠い存在だった。 そんな僕に父も母も歩み寄ろうとしてくれていた。 けれどそれに気づかず、知らず拒絶していた。 しかし一歩近づいてみれば、父も母もこんなにも僕を愛してくれている。 和志がいなければ、気付くことは出来なかった。 こんなにも僕は、愛されている。 「勿論です!俺が美晴を大事にするんで、安心してください!」 父が和志の手を掴むと、その手を握り返して和志も大きく頷いた。 父が朗らかに声を上げて笑う。 「なんだか嫁に出すみたいだな」 そして僕らはその言葉を聞いて顔を見合わせて笑った。 「僕が嫁なのか?」 「嫌?」 「僕が君を嫁にもらいたい。家に帰ったら君がお帰りなさいって言ってくれて夕飯を作ってくれていたら嬉しいな」 小さい家でもいい、家に帰ったら彼がいて、彼の手料理と共に僕の帰りを待っていてくれる。 想像してみて、それは驚くほどに幸福な光景だった。 ソファの隣に座ると、和志は沈み込んでいた体を起こして身を乗り出してきた。 「俺のがやってほしい!美晴が帰ったらお帰りなさいって言ってくれて、キスしてくれるの」 「ああ、それは素敵だ。君を待って食事を用意するというのはとても楽しそうだ」 「だろ。でも、俺も美晴のために手の込んだ料理作って待つってのもいいな」 そんなの、どちらでもいい。 僕が待つのでも彼が待つのでも、お互いを迎え迎えられるのは、とても幸福なことだろう。 彼とずっと共にいられるのなら、何をしていてもきっと楽しいだろう。 「それなら交代で嫁をやればいい。どうせ僕らは共働きだろう。家事は折半でお互い料理も当番制だな」 「そっか。やっぱり美晴は頭がいいな!じゃあ、家事はそれで。あ、後、後ね、俺犬飼いたい!」 「それはいいな。毎日一緒に散歩しよう。そしてたまには一緒に旅行に行ったりもしたいな」 「うん!何年かに一度は海外にも行こう!お帰りとお休みといってらっしゃいのキスは毎日だからな!忘れるなよ!」 「君の方が心配だ。君は時折酷く忘れっぽいから」 「俺は忘れない!」 「いや、君が忘れることの方が多いだろう」 そんな益体もない事柄を笑いながら話していると、リビングの扉が開いた。 二人で見上げると、呆れた顔の聡さんが立っていた。 「おい、そこの馬鹿ども。人が来るからいい加減その寒い会話をやめろ」 「なんだよ、おっさん。妬くんじゃねえよ」 「そろそろ妬く以前の問題になってきたぞ。お前ら痛すぎる。新婚夫婦もドンビキなレベルだぞ」 ため息をつきながら聡さんが体をずらすと、その後ろから見知った男性の姿が見えた。 反射的に緊張して体に力が入る。 それに気づいてか、隣の和志が不思議そうに僕を見たのが分かった。 「………冬兄さん。お帰りなさい」 「………」 父によく似た面差しの男性は、いつものように不機嫌そうな表情を貼り付け僕を見下していた。 兄の柔らかな表情を、僕は向けられた記憶がない。 千秋や祖母や父と母といるときは笑っているが、僕を前にするといつだってその表情を堅くする。 自然とさっきまで浮き立っていた心が、少しだけ重くなるのを感じる。 僕が悪いのだと分かっていても、やはり身内から嫌悪されているというのはいい気分がするものではない。 「えっと、美晴の、兄さん?」 隣にいた和志が冬兄さんの不機嫌そうな表情を見て困ったように聞いてくる。 人の感情に敏い彼は、僕たちの仲を想いやって心を痛めているのだろう。 和志にまで嫌な思いをさせるのは申し訳ない気分になる。 「ああ、冬磁兄さんだ。兄さんこちらは」 紹介しようとすると、いち早く和志は立ち上がり、人形のように勢いよく頭を下げた。 「あ、あの、お邪魔してます。初めまして、俺、えっと、篠原って言います」 「ああ、どうも。冬磁と言います」 冬兄さんも特に和志には何か言うことはなく、軽く会釈を返した。 とりあえず、和志が何か言われることがなくてほっとする。 「どうしたの、兄さん。お祖母さんに用事なのか?」 「お前、親父に会いに行ったんだって?」 「ああ。彼と一緒に」 僕の質問に答えることはなく、つっけんどん聞き返される。 いつものことなので特に気にすることもなく正直に答えた。 「親父と、話したのか?」 「ああ」 頷くと兄さんは苛立ちを露わに眉を吊り上げた。 「おっせーんだよ、お前は。どこまでトロいんだよ。ガキの頃からとろとろしやがって!本当に苛々するんだよ!」 トロ臭いや、苛々すると言ったことは、兄さんからよく言われていた。 どうも僕の行動は兄を苛立たせるものらしい。 気をつけてはいるものの、何が原因なのか暇一つ判明せず、いつも怒らせてばかりだ。 「………気を悪くしたなら、すまない」 「………っ」 千秋や父や母には優しい兄だから、僕に何か原因があるのは分かる。 だから少しでも怒りを納めて欲しくて頭を下げる。 「いつも兄さんには迷惑をかける」 「どうしてお前はいつもそうなんだよ!」 「すまない」 もう一度謝ると、兄はますます眉間にしわを寄せた。 具体的に僕のどのような行動が苛立たせるのか教えてくれれば改善もできるのだが、中々に難しい。 「ていうかなんで親父のところだけなんだよ!」 「母さんの所にも行ったが」 「ちげえ、そうじゃねえ!」 「聡さんのところには、今も定期的に行っている」 僕の答えは兄の期待に添うものではなかったらしい。 抑えきれない感情を発露するように、兄は自分の頭をぐしゃぐしゃとかきまわし、僕を睨みつける。 「あー、本当にお前はムカつくんだよ!この馬鹿が!言葉通じねえな!」 「すまない、悪かった」 「だからなんで謝るんだよ!」 「それは、僕の何かが兄さんを苛立たせているようだから」 そう言うと、兄は唇を悔しそうに噛みしめた。 それからくるりと背を向けてしまう。 「もういい!」 そしてどすどすと怒りをあらわにした足音を立てて、リビングから出ていってしまう。 その僕を拒絶する背中を見て、ふとため息をつく。 また、兄さんを怒らせてしまったようだ。 「………僕は、どうも兄さんを怒らせて嫌われてしまうな」 立ったままおろおろと僕と兄さんを見ていた和志がこちらを振り向く。 だからその手を握って、和志に謝罪を伝える。 「和志も、嫌な思いをさせていたらすまない」 「………えっと」 困ったように眉を下げる和志。 その時、何も言うことがなかった聡さんが、さも楽しそうに大きな声で笑い始める。 「あっはははは、あは」 「聡さん?」 「相変わらずあいつはガキだなあ。本当におもしれえ!」 何を言っているのか分からず真意をただそうとするが、その前にもう一つ笑い声が聞こえた。 「ははっ」 「和志?」 手を握ったままの和志が聡さんと同じように笑い始めた。 何がなんだか分からず、僕は和志と聡さんを交互に見つめる。 「和志、聡さん?どうしたんだ、突然」 涙すら浮かべて笑っていが和志が、僕の質問に声を震わせながら答えてくれる。 「俺、お兄さんの気持ち分かる」 「え?」 「俺も、美晴のそういうところに本当に本当に、苦労させられたしな!」 そして僕の隣に座って悪戯っぽく見上げてくる。 その表情はとても楽しそうで微笑ましいのだが、彼の言葉の意味するところが理解できない。 確かに彼には今も昔も、苦労をかけつづけている。 迷惑をかけられる気持ちが分かる、ということなのだろうか。 「僕が悪いことは、分かっているのだが………」 「ばーか」 「いたっ」 少し哀しい気持ちになりながら謝ると、額に衝撃を感じて目を瞑る。 どうやら和志に額を爪はじきされたようだった。 「そうじゃねーだろ!」 目を開けると、和志が少しだけ怒ったようにじっと僕を見ている。 そして僕の頬をその両手で包みこんで、言い聞かせるように言った。 「話が通じないってことは、話がしたいってことだよ、美晴」 |