君が好きだよ。 低い声も、高い背も、骨だらけのやせっぽちな体も、切れ長な目も。 君の眠る顔も、君の泣き顔も、君の笑顔も、全部好き。 そして、俺を蔑むその目が、何よりも好き。 「こんばんはー、若先生」 勝手知ったる他人のお家。 俺は診療時間も大分過ぎた小さな木造の町医者に勝手に入り、診療室に忍び込む。 相変わらず無用心なことに鍵がかかっていなくて、あっさりと扉は開いた。 「要か?何だ、ってお前、どうしたんだ!」 昔から世話になってる初老の医者の息子は、俺を振り返って慌てて椅子から立ち上がる。 この時間だったらこの人がいると思っていた。 じいちゃんに見つかると面倒なことになりそうだったから、好都合だった。 「怪我しちゃった、手当てして」 「怪我したって…お前、どうしたんだ、それ」 俺は手当てもせずにそのまま来たから、相変わらず血が流れ続けてて淡いブルーのTシャツは真っ赤に染まっている。 傷はそこまで深くないんだけど、さすがに見ていると貧血を起こしそうな出血量だ。 「切られちゃった、すっぱり」 「…これは、刃物か…」 「そ、果物ナイフ。ちゃんと洗ってあったし、錆とかなかったから大丈夫だよ」 俺に近づいてその傷を検分する若先生。 俺の胸に一筋走った傷をみて、眉を寄せて大きくため息をつく。 何かに耐えるように目を伏せて、拳を握る。 しばらくして、やっぱり我慢できなかったように俺を平手で思い切り殴った。 「この、馬鹿がっ」 手加減なしの一発で、チビでガリな俺は後ろに2歩ほどよろめいた。 倒れこまなかっただけよしとする。 俺は殴られた左頬を押さえて、悪徳医者に口を尖らせる。 「いってー!怪我人になんてことすんだよ、おい!」 「うるさい、もう一発いくぞ!」 「え、うそ、わーい、もっと殴って殴って」 「この変態クソガキがっ、お前なんていっそこのまま死んじまえ!」 俺の茶化すような言葉に、怒りに拳を震わせる若先生。 昔から世話になっているこの医者には、お互い遠慮も何もない。 けれど、俺を心配して与えられる痛みは、残念ながら俺を喜ばせるだけ。 だからそんなこと言われても、俺はただ幸せを感じるだけ。 「ひっでー、それ医者の言うことかよ!この薮医者!横暴医者!」 「俺は内科だ、怪我の手当ては外科へいけ」 「そんなことしてる間に出血多量で死んじゃうよー、手当て手当てー」 若先生は悔しそうに口を歪めて、本気で嫌そうな顔をした。 でも優しいから、怒りをこらえるように医療道具のある棚に向かう。 俺が憎らしいし嫌いなんだけど、放っておけないんだよね。 俺の好きなタイプな人、損な人生だよね、若先生。 座るように促されると、俺は黙って机の前の患者用の椅子に腰掛ける。 派手な色になってしまったTシャツを脱ぐと、血が乾いていてパリパリとした。 傷口はまだ生々しい血が滲んでいて、ズキズキと痛みを訴える。 その痛みと赤が、俺に、喜びと安らぎを与える。 小児用に用意されている消毒液や包帯で、若先生は器用に俺の傷を手当していく。 怒りのせいか、少々動作が乱暴で傷が痛むが、それはまったく構わない。 むしろ心地いい。 不機嫌そうに黙り込む若先生と、にこにこと笑っている俺で診療室は静まり返った。 時折、外の路地を走る車のエンジン音が響く。 ブラインドを通して、ヘッドライトが忍び込む。 そんなことをどれくらい繰り返しただろうか。 しばらくして、若先生が重々しく口を開いた。 「…この前の、子か?」 「あれ、見てたの?いたっけ若先生」 「ちょうど、お前らが帰っていくところを見た」 「ああ、なるほどね。うん、そう、あの子」 まあ、別に見られていて不都合はない。 とぼける必要もないし、俺はあっさりと頷く。 若先生は今度は苦しげに眉を寄せる。 「…あの時追いかけても、お前から離れるように言っておけばよかったよ」 「あはは、そんなことしても駄目だよ。あの子、一人ぼっちだもん。俺のこと信じるに決まってるじゃん。だって選択肢が俺しかないんだもん」 俺の言葉にますます顔を歪める若先生。 怒っているのか、悲しんでいるのか、悔しがっているのか。 分からないけれど、それきり若先生は何も言わなかった。 また落ちる沈黙。 包帯が巻かれて隠れていく傷を見つめて、俺は気になっていたことを聞いた。 「ね?この傷治る?痕残る?」 「腕のいい整形外科にかかれば分からないくらい薄くなるだろうな。紹介するか」 「ううん、じゃあ腕に悪い内科医にかかったら痕残る?」 「本当に傷口えぐるぞこのクソガキ」 「いやーん、えぐってえぐってー」 頭を勢いよく殴られた。 椅子から転げ落ちそうになるのを必死にこらえる。 本当に医者とは思えない乱暴さだ、よくこれで医者になれたな。 「でさ、残る?」 「そうだな、このまま専門医にかからないなら残るだろうな」 「そっか、よかった」 残るんだ。 あの子がつけたこの傷は、残るのか。 見るたびにきっとあの子を思い出して、俺は安らげるだろう。 大好きなかわいいあの子がつけた傷。 ずっと一生残るといい。 包帯をなぞって笑ってしまったら、若先生が何度目かになる大きなため息をついた。 若先生は俺を前にすると、ため息が増える。 まったく、気にしなければいいのに苦労人だ。 だから、好きなんだけどね。 「…お前は、死にたいのか?死にたいなら、人に迷惑かけずに一人で死ね」 「若先生、さっきから医者の言う台詞じゃないってば、それ」 「お前は患者じゃないからな」 「ひどいなー俺、死にたくないってば。読みかけの漫画があるし、来月発売のゲームやりたいし、皆で海にいく約束してるし」 そう、死にたくない。 人生は楽しいことがいっぱいで、俺はまだまだ遊び足りない。 きっとこれからも楽しいことでいっぱいだろう。 明日は明るい日って書くって言われても別に笑ったりしないし。 いや、まあ試験の前日とかは、もう明日なんて来るなとか思うけどさ。 でも、概ね楽しく生きている。 だから死にたくはないんだ、きっと。 たぶん、きっと、おそらく。 「じゃあ、お前は、どうしたいんだ」 何もそんな苦しげな声を出さなくても。 可哀想な若先生。 後悔を引きずっている若先生。 そんな悲しそうな顔をされると、あなたの傷を抉りたくなるからやめて欲しい。 「んー、そこが俺も分からないところなんだよね」 「あんなか弱そうな子を追い詰めやがって」 「俺が追い詰めたんじゃないよー。俺、優しくしたもーん。俺、あの子が大好きなんだから」 俺は彼女に優しくした。 俺は彼女に癒しを与えた。 俺は彼女に居場所を与えた。 別に、この結末を積極的に望んだわけではない。 まあ、どちらかと言えばこうなると楽しいだろうな、とは思った。 それが予想以上にうまくいきすぎて、俺もさすが驚いた。 面白いように転がり落ちていったのは彼女、いや彼女達にも問題があるんじゃないかな。 「俺は彼女に優しくしたし、嘘もついてないし、悩み相談してあげただけだよ」 俺は彼女の行動に指示は与えてないし、むしろ前向きな助言をあげたと思う。 まあ、黙っていたこともいっぱいあったけれど、どの道を選ぶかは彼女の自由だ。 そして、見事に崩れ落ちた。 「あー、綺麗だったなあ、本当に、あの時のあの子」 焦り、怒り、哀しみ、傷つき、今の事態が信じられない、俺を信じたい。 様々な感情でぐちゃぐちゃで、最終的に絶望と恐怖へと集約された。 本当は憎しみ、がよかったんだけどな。 俺を怖がって逃げちゃった。 「今度は怖がるよりも、もっともっと俺を軽蔑して見下して、虫けらみたいに踏み潰してくれないかな」 俺がつけた傷よりも深く大きな傷をつけてくれればいい。 君は、君を追い詰めた家族よりも自分を責める。 妹に嫉妬して嫌う自分を恥じる。 そんな不器用で優しくて馬鹿馬鹿しい君だから。 今回は、どうなのかな。 俺を責めてくれるかな。 「自傷よりもタチが悪い」 若先生は包帯を巻き終わると眼鏡の位置を直す。 そして乱暴な言葉で自分の苦悩を飲み込んだ。 「自分で自分傷つけても楽しくないじゃん。痛いだけだし」 自分で自分を痛めつけるのなんて意味はない。 そんなのは何も楽しくない。 俺が欲しいのは、人が与えてくれる痛み。 「もう、あの子には手を出すな」 「うん、出さないよ。今手を出したら、完全に壊れちゃいそうだし」 壊れてしまっても困る。 彼女とはもっともっと遊びたい。 「ちょっと寂しいけど、俺は彼女を壊したいわけじゃないから。」 一緒に遊びたいだけなんだ。 彼女を笑わせて、安心させて、そして傷つけて憎まれて、俺に痛みを与えて欲しい。 だから今は手を出さない。 「それにね、彼女の妹もかわいいんだ。お姉ちゃんに似てない、フランス人形みたいなかわいい子でさ、素直で純粋で、性格よくてね」 俺の言うことなんて素直に聞いてしまうかわいい子。 愛に過剰なほどに浸っていて、飢えている人間がいるのにも気付かない。 純粋でまっすぐで、鈍感な子。 「真っ直ぐな純粋さって残酷だよね。知らずに人を傷つける。あの二人てさ、似てないのにそっくり」 あの子もそうだ。 結局は傷つくのを恐れてぶつかることをしようとしなかった。 さっさと家族に訴えるべきだった。 手遅れになる前に、逃げたりせずに訴えるべきだった。 一番の味方はすぐ傍にいたのに、プライドを守るために払いのけた。 欲しいものがあるなら、なりふり構わず無様に足掻けばよかったのに。 待っていても、何かが手に入るわけはない。 それは君に伝えたと思ったんだけどな。 臆病で健気で、そしてずるい。 「ああ、本当に楽しかったなあ」 ちょっとつついただけなのに、進んで自滅していった二人。 それはとてもいびつで醜くくて、儚くて綺麗だった。 迎える結末に、彼女が俺をどう思うのか、想像しただけで胸躍った。 結果は、ちょっとだけ物足りなかったけどね。 「まあいいや、しばらくは、妹ちゃんに遊んでもらおうっと」 「…要、もうやめておけ」 「ねえ、若先生、俺は別に2人に嘘ついたり、暴力を振るったりしてないよ?」 若先生は、今度は俺の目を見つめて再度繰り返す。 どこか諦めを含んだ小さな、けれど力強い声で。 その強い視線と強い声に、心の中に石を投げた水面のように波紋が広がる。 「……やめるんだ」 俺はやめたいのかな、やめたくないのかな。 分からないや。 彼女達を立ち直れないギリギリぐらいまで痛めつけたいと思っている。 でも傷つく可哀想な彼女達を想像して、心が痛むんだ。 這いつくばって泥にまみれて謝りたくなる。 だって本当に可哀想、俺なんかに目をつけられちゃって。 まあ、俺が手を出さなくても近いうちに壊れてたぽいけどね。 でも、可哀想。 どっちもたぶん、正直な気持ちな気がするんだよね。 よく分からないけど。 それでも。 「……ねえ、若先生、どうしたらとめられるのかな」 この抑え切れない衝動を。 君が好きだよ。 低い声も、高い背も、骨だらけのやせっぽちな体も、切れ長な目も。 君の眠る顔も、君の泣き顔も、君の笑顔も、全部好き。 そして、俺を蔑むその目が、何よりも好き。 だから痛みをちょうだい。 もっともっと痛みをちょうだい。 消えない傷を君に刻むから、膿んで癒えない痛みをちょうだい。 いつか忘れる優しさならば、いっそ一生忘れぬ痛みを。 |